咬 傷   -kamikizu-   




「何故そんな処に行ったのだ」
「本人に聞いてくれ」

近藤の怒鳴るような問いかけにも背中で短く応えるだけで、土方は勝手口へと急ぐ。
昼間でも薄暗い台所の上がり框(かまち)に後ろをむいた人影がある。
「総司っ」
勢い込んでかけた声に、うずくまるようにしていた青い顔が振り向いた。
「土方先生」
名を呼ばれた本人よりも先に、その足元に屈んでいた島田魁が答えた。
「毒を、出せるだけ出しておかないと」
辿りつき、息を整える間もなく見れば、総司の右足のくるぶし近くから細く朱い血が滴っている。
その周りはひどく腫れて赤紫色にうっ血し、膝の少し上が白い晒(さらし)のようなもので縛られている。

「・・すみません」
申し訳無さそうに応えた小さな声が微かに震えた。
それは負った傷の痛みからではなく、何か他人に心配事を掛けてしまった時の総司の癖だ。
「咬まれたのはいつだ」
問いながらも、土方の目は島田が掴んでいる総司の足首を凝視している。
「・・ついさっきです。畦の道で子供達といて・・・油断をしました」
「相手が蝮(まむし)では仕方がないでしょう。刺客ならば沖田さんも負けはしませんでしょうが・・」
労りの言葉をかけて、傷口の上を血を押し出す為にきつく指で圧迫すると、総司の顔に苦痛の色が走った。
島田の人差し指と親指で輪を作れば、すっぽりと治まってしまいそうな細い足首である。
指に力を入れられる度に、痛みで体が自然に逃れようとするが、もう片方の手がしっかりと足を押さえているので、ただ唇を噛んで耐えるしかない。
白い皮膚が無残に腫れ、蝮が咬んだという二つの小さな孔から無理矢理血を滴らせる様は、見ていてあまりに痛ましい。
「今頃の蝮の雌というのは腹に子を抱えている事が多く、それを守る為に苛立って人に咬みつきやすいのです」
「毒は大丈夫だろうか」
「早くに出せば大したことは無く終わるはずです。ただ・・」
「ただ?」
土方の不審と不安の入り混じった問い掛けへ応えが戻るより先に、無遠慮な足音がそれを邪魔するように聞こえてきた。

「総司っ」
先ほどの土方と同じように余裕の欠片も無い声で呼んだのは近藤だった。
「大丈夫か」
総司を挟んで土方と反対側に来ると、やはり島田の手に捕らわれている足首の様を見て、これは正直に眉根を寄せた。
腫れは先ほどよりもひどくなってきている。
「蝮の毒は最初の手当てが肝心で、それによって簡単に治るものもあれば、あとで長いこと痛みや痺れが残る場合があるのです」
言葉を選んで説明する島田は、時には体に毒がまわって死に至ることもある、とは敢えてこの場で告げることを躊躇った。


少年時代を美濃の山間部で過ごした島田には、こういう経験は珍しいものではない。
山には蝮も山カガシという毒を持った蛇も多かったし、咬まれる者も後をたたなかった。
咬まれても平気で翌日には野良にでる者もいたが、稀にそれで命を落す者も叉いた。
今目の前で自分が毒を出してやっている若者の華奢な体つきが、島田の危惧するものだった。
血管の色をそのまま透かせるような皮膚の薄さは、脆弱な体力を物語っている。
心裡で不安を隠せぬ島田に、ふいに上から声が掛かった。

「島田さん、もう大丈夫です」
言葉は最後までしっかりとしていたが、見上げた顔色はすでに蒼白に近い。
咬まれた寸座の痺れが解け、その代わりに特有の激しい痛みが出てきたのだろう。
「横になった方が楽でしょう」
「奥に床を延べるように言ってあるが」
傷口を覗き込む近藤の顔つきも険しい。
「・・大丈夫です」
無理に笑い顔を作って立ち上がろうとして、一瞬着いた足に激痛が走ったのか身体が大きく均衡を崩してよろけた。
「ばか、無理だ」
咄嗟に支えた土方が後ろから鋭く叱った。
「動いてはいけません。動くと毒が回ります」
そういいながら島田は背を向けて、総司の前に屈みこんだ。
「負ぶさって下さい」
だが総司は躊躇して立ち竦んでいる。


蛇に咬まれた時に、一緒にいた子供の一人が屯所にしている前川家まで走って、丁度外に居た島田を連れてきてくれた。
背に負われて屯所まで帰って来たことすら恥ずべきことなのに、この上人目の多い屋内で醜態を晒すのは堪えられない。

「大丈夫です。島田さん、大丈夫ですから・・」
かぶりを振るが、島田は大きな背を見せたまま頑として動かない。
「島田さん、私は歩けます。だから・・・」
最後まで抗いの言葉を言い終えぬうちに、ふわりと身体が浮いた。
一体それがどういう事なのか、納得するまでに暫し時間が要った。

「土方さんっ」
抱き上げられたのだと知った時には、一瞬にして全身の血が顔に集まった。
「島田君、悪いが井戸の水を盥(たらい)に汲んで持って来てくれ」
「すぐにお持ちします。ですが医者に見せた方が良いかもしれません」
たかが蛇に咬まれたくらいで、そんな大げさな事をされたらたまらない。
「おろして下さい、土方さん。島田さんも・・、医者などは要りません」
何とか土方の腕から身体を下ろそうと身を捩りながら訴える総司だったが、土方にも島田にも、横に立っている近藤にすら、今はそんな懇願は届かない。

「大人しくしていろ」
必死に逃れようとする抗いを、低い声で一喝するように叱咤したのは、拘束している腕の持ち主だった。
「近藤さん、前川さんに聞いて縫合のできる医者を呼んでくれ。それから、島田君、酒と晒(さらし)も頼む」
一時の間も惜しむように言いおいて、土方は奥に向かって大股で歩き始めた。
先ほどの厳しい顔が封印となったのか、総司はもうなされるままに大人しく運ばれている。
諦めつつも、せめて行く先に人影が無いことを祈って、土方の腕の中で身を縮ませた。



夏の終わりのこの時期が、暑さの一番厳しい時なのかもしれない。
これを限りと鳴く蝉の声が、それに余計に拍車をかける。

奥の間に用意されていた夜具に横たえられると、総司はさすがに目を閉じてしまった。
顔色は先ほどよりも血の気を失くし、唇にも色というものが無い。
強がってはいたが、傷口からの痛みはずいぶんと身体に負担を掛けているのだろう。
「大丈夫か?」
問い掛けにうっすらと瞳を開けて、微かに笑みを作るが声を出す気力は失われつつあるようだった。
「もう少し毒を出さねばならなが、医者が来るのを待ってはいられない。少し痛いが我慢できるな?」
「大丈夫です」
今度は土方の目を見て、しっかりと頷いた。

「土方先生、言われたものを用意できましたが」
片手に水を張った盥(たらい)と、もう片手に白い晒しと酒を持って島田が入って来た。
「島田君、総司を押さえていてはくれないか」
「押さえるとは?」
不審そうに問う島田の視界に入ったのは、土方が脇差を抜く姿だった。
「土方先生っ」
咄嗟の判断ができず放った低い叫びに土方は応える事無く、口に含んだ酒を刃に向かって一気に吹きかけた。
これから何を土方がしようとしているのかは、すぐに知れた。
傷口をもう少し裂いて、そこからさらに血と共に毒を流そうとしているのだ。
「押さえていろっ」
未だどうするべきか迷って土方を凝視している島田に、有無を言わせぬ厳しい声が飛んだ。

「舌を噛まぬように総司に何か噛ませてやってくれ」
土方はすでに島田がそうするものと疑わず、更に次なる指示を下す。
もう言われる通りにする他はなかった。
島田は懐から手拭を取り出すと、それを下から自分を見上げている蒼白な顔の口元に持って行った。
「すみません・・」
これから自分の身に起こる事を予想して、総司の面は緊張で強張っていたが、それでも気丈に礼を言うとそれを口に含んだ。

「歳、何をやっているっ」
医者の手配をして遅れてやってきた近藤の一声はそれだった。
「医者が来るまでは待てん。近藤さん、あんたは左の脚を押さえていてくれ」
「だが・・」
総司を見ればきつく閉じて開けようとしない瞳が、すでに覚悟を決めているようだった。
土方が掴んでいる右の足首は、くるぶしの遥か上まで鬱血が進んでいる。
「早くしてくれっ」
鬼気迫る声に、慌てて近藤が総司の左の脚の自由を奪った。


土方が今一度口に含んだ酒を傷口に吹きかけた瞬間、総司の身体が跳ね上がろうとした。
が、それを近藤と島田二人の力が許さなかった。
息つく暇も無く、次に走ったのは焼け火箸を当てられたような灼熱の痛みだった。
その衝撃に、唯一自由の利く白い喉首が仰け反り、唇からは声にならない呻き声が漏れた。
「もう少しだ」
遠くなる意識を辛うじて呼び止めたのは土方の声だった。

一寸半程に切開された傷口は、出血させることが目的だったから、そこそこに深い。
滴る血が下に敷かれた晒をみるみる朱に染めてゆく。
その傷口に唇をつけて、土方は更に血を吸い取っては吐き出す。
その度に薄い胸が、覆うように押さえつけている島田の下で、せめてもの抗いのように上下する。

幾たび目かに、島田の腕で拘束されていた総司の身体からふと力が抜けた。
同時にそれまで首をしならせ、額に冷たい汗を一杯に浮かべた蒼白な顔がぐったりと夜具に沈んだ。
その様子を見て、島田はひとつ息をついた。
意識を失ってくれた方がいい。
声を堪(こら)え、力の限りを籠め、全身を硬直させて痛みに耐えている姿は、傍で見ている者の方が辛い。

「気を失ったか」
「はい」
「その方がいい」
土方の声音にも安堵の色がある。
「歳、大丈夫だろうか」
不安気に見る近藤の視線の先に、おびただしい朱の色の中で、未だ新たな血を噴出させながら、ぴくりとも動かない細く白い足首がある。
それが酷く痛々しい。
「大丈夫にきまっている」
己の唇に残った総司の血の跡を拭いもせずに、土方は最後の毒消しに、今一度口に含んだ酒を傷口に吹きかけた。
力抜けた身体に、今度は何の反応も起こらなかった。



湿り気の無い風が髪を悪戯して頬にかかった。
その微かな感触が意識を連れ戻したのか、総司が少しだけ瞳を開いた。
視線だけを動かして映る視界に、隅に重ねられた障子の白が茜に染まっている。

「目が覚めたか・・」
覗き込んでいる顔は土方だった。
「・・・・もう夕方・・」
自分の置かれている状況が今ひとつ分からないまま、総司は小さく問うた。
「痛むか?」
だが、土方は訳の分からない事を言う。
暫くぼんやりとその顔を見上げていて、身体を少し動かした拍子に足に強い痛みが走り、思わず顔をしかめた。

「動くな。幾つか縫ったから傷口が攣(つ)るのだ」
「・・・縫った・・?」
「毒を出すために切ったからな。場所が骨に近い肉の薄い処だったから痛みが余計に強いのだ」
毒という言葉で、あやふやな記憶がおぼろげに蘇った。
「・・・蛇」
呟く総司の額に手をやって、土方は熱の具合をみている。
「毒はもう大丈夫だと医者も言っていた」
腫れは酷かったが、夜までに様態が急変しなければ大丈夫だろうと医者は言った。
傷口の炎症で、身体全体が少しばかり高い熱に侵されてはいるが、医者に言われたような急激な悪化は今のところ無い。
更に意識が戻った事で、土方の危惧は少しづつ薄れ行く。
その安堵感が、ついひとつ深い息をつかせた。

「蛇・・子供が生まれるので苛立っていたって・・」
そんな心を知らないのは分かるが、突然何を言い出すのか、総司の言葉は時折土方には判じかねる。
「ああ、島田君が言っていたな」
それでも相槌を打ってやりながら、土方が訝しげに見下ろした。
「・・・私が踏んでしまったから」
「だから何だ」
「無事に子供が生まれるかな・・」
見上げてくる瞳が不安そうに揺らいでいた。
「馬鹿か。お前は」
「・・どうして?」
「咬まれてこんな思いをしているのはお前なのだぞ。蛇の心配をする暇があったらさっさと治せ」
呆れたような物言いに、総司が笑った。



木綿のざらざらした感触が傷に触れて、無意識に足を引いてしまったらしい。
「すみません、痛みますか?」
傷口を洗っていてくれた島田が申し訳なさそうに総司の顔を伺った。
「大丈夫です。私の方こそすみません・・・」
これしきの痛みで慄(おのの)いた己の意気地の無さを、総司は恥じた。
「まだこんなに腫れているのです。痛くて当たり前でしょう」

触れる総司の肌は足先でも熱い。
身体の熱も完全には引いていないのだろう。
半身を起こしているのも辛そうだった。
「すぐに終わらせますので、そうしたら横になって下さい」
「本当に、大丈夫です。それより島田さんにこんなことをさせてしまって・・」
詫びる声は心底すまなそうに、小さかった。

島田は日に何回か傷口を洗いに来てくれる。
自分でできるからと言っても笑って聞かない。

「私ほどこういう事に慣れている人間は、隊の中に他にはいないのです」
「こういう事?」
「蛇や毒を持った虫に咬まれたあとの始末です」
「島田さんはお医者さんの経験があるのですか?」
不思議そうに問う若者の瞳の中に、消せぬ好奇心の色があるのを見止めて、島田魁は遂にその大きな背を震わせて低い笑い声を立てた。
「田舎育ちなのです。私の生まれ育ったところは美濃の山奥です。山と、あとは川しかありません」
「私の生まれたところも・・・江戸の、ずっと外れです」
「いえ、私の生まれ故郷はきっとその比ではありません」
「ずっと山の中なのですか?」
「蝮(まむし)や、やまかがし・・・そんなものはそこら中に居ました」
笑った島田の目が細められた。
その視線の捉える先がどこなのか、総司には分からない。

「咬まれる事も、刺される事も、その数を一日の内では覚えていられない日も侭ありました」
「そんなに・・・」
大きく瞠られた黒曜石の深い色に似た瞳に、やっと島田が視線を戻した。
「特にこの夏から秋にかけての蝮(まむし)の雌というのは、腹に子を持っていることが多く、人に咬み付きやすいのです」
「一昨日、島田さんがそう言っていました・・・」
「どうして咬みたがるか知っていますか?」
「苛立っているからだって・・、そう島田さんは言っていたけれど・・」
分からない、というように少し首を傾(かし)げた総司に、島田は笑いかけた。
「蝮という蛇は子を卵では産まないのですよ。子はすでに蛇の形をして生まれてくるのです」
「もう生まれたときから?」
「そうです。自分と同じ形をした子を生むのです。蝮の雌の子を生む有様は人のそれと良く似ている。だから他の蛇と違って、子をいとおしむ気持ちが強いのだと、私の母は良くそう言っていました」
「・・・それでは私はその母親の蛇を傷つけてしまったかもしれません」
知らずに踏んでしまったからこそ、あの蝮は自分に威嚇の牙を向けたのだろう。
聞いていた総司の顔が曇った。

「蝮の子は例え母親が死んでも、腹から出て来るほどに命の強い生き物です」
その蛇の強さを少しばかりおどろおどろしいものと思うのは、人と生まれた者の傲慢なのかもしれない。
総司の憂慮を否定してやろうとしながら、島田はそんな事をも又思った。

「・・・でも」
ふいに掛けた総司の声音がくぐもった。
何かを言いかけて、だが躊躇うように口をつぐんでしまった総司の次の言葉を、島田は黙って待っている。
「でもやはり母親は子供を残して死んでしまったら、心が残るのものなのではないでしょうか・・」
思い切ったように言い切って島田を見た瞳に、その言葉に是と頷いてほしいと、縋るような色があった。

もうずいぶんと前に、総司が幼い時に母親を亡くし、父親は顔すら覚えぬうちに死んだと聞いたことがある。
母親が子を残して死んだのなら、きっとあの世で我が子の事を案じている、そう総司は信じていたいのであろう。
それがこの若者の母親への憧憬なのかもしれない。

「沖田さんが踏んだのは尻尾の僅かな部分でしょう。だからこそ、こうして咬まれたのですよ。それにあの場からすぐに蛇はどこかに行ってしまった。きっと無事に子を生んでいます。心配せずとも生き物というものは、これで存外に強(したた)かなものです」
瞳を見ていれば流されてしまいそうな、この若者の母親への切ない感情を哀れと思う己の感傷を振り切るように、島田は巻いていた晒しに目を落し端を結び終えた。

「さあ、終わりました。そろそろ副長が戻られる頃でしょう」
「また変な薬を買ってくるのかな」
背に手を添えて横になるように促しながら、そのうんざりとした呟きに島田は思わず笑った。
「副長は沖田さんを心配しているのですよ」
「けれど土方さんの買ってくる薬って・・、滋養が付くようにって蝮の粉とか・・・」
枕に頭を乗せて、思い出したように小さく声を立てて笑い始めた総司に、島田もつられて苦笑した。


季節の変わりを告げる乾いた風が、頬に心地よかった。
「ほんとうに、あの蛇、ちゃんと子供を生んだかな・・・」
ふいに思い出して、もう一度問い掛けて上げた視線の先で、島田が確かに頷いた。
それを見て笑いかけようとした時、遠慮の無い足音が聞えてきた。

その主の帰りを待ち望んでいた心が、思わず面に出てしまうのを総司は咄嗟に隠した。
ささやかな秘め事を島田が悟らぬように、そっと伏せた瞳の間際まで、掛けた薄い布団を引き上げた。


蝮の母親の話をしたら叉土方は不機嫌になるのだろうか・・・
そんな思いも近づく足音と呼応するように高鳴る胸の鼓動に、すぐにかき消された。






                      咬 傷    了






        短編の部屋