『寒九の雨』をお読み下さったお客さまへ




 前回の事件簿が終わり、お詫び文を書きながら、『もう絶対事件簿はやめようっ!』と、誓ったにも関わらず、この体たらく・・・。
これも腐れ縁とお読み下さったお客さまの中には、『オンナジ事、いったい幾度聞かされたことやら・・』と、既に言葉も見つからず、呆れ果てておられる御方もいらっしゃるかと存じます。(自分が一等そうです)

さて恒例の補足ですが・・・
事件簿は、あくまで私の傍迷惑な妄想の上だけに成り立つお話です。
事実や史実は、好き放題に捻じ曲げております。
そう云う訳で、終わった後、どうしても『最小限の補足作業』が必要になるのであります。
(これでご勘弁願えるとは、到底思ってはおりませんが、一応『小心者の良心』として)


まず陰の主役、脇太一郎の国元豊岡藩ですが、兵庫県の日本海側、但馬地方に位置する、禄高一万五千石の小藩でした。外様で、歴代藩主は杉浦家を経て京極家。
この京極家筆頭家老の石束家の娘理玖(りく)が、忠臣蔵で有名な大石内蔵助の妻となっております。

 今回の話とは全く関係が無いのですが、以前、某国営放送で『夢千代日記』なるドラマがありました。
その時、主人公の女優さんが故郷へ帰る時、電車が渡る鉄橋(餘部鉄橋)がとても印象的で、豊岡・城崎・香住(現在は城崎は豊岡に合併、香住は香美と変名)と云う地名を知りました。
それをずぅーと頭の中で引き摺っておりまして、そんな単純な理由で、豊岡藩に関係するものを書いてみたくなりました。

それから、その豊岡藩よりも、話の中では押しの強い(?)三田(さんた)藩。
此方は宝塚参詣(笑)をしていた頃、良く『三田行』の電車にお世話になったので、とても身近に感じられました。
(あの頃、まさかその数年の後、こんな裏家業をやっていようとは、想像すらできませんでした。いやー、人生、奥が深い、深い)
五十石以上の藩士全員に、強制的にスナイドル銃を買わせたと記録にありますが、五十石と云っても内証はその半分位。
おいそれと出せる金額ではないとなぁ・・と、思った処で浮かんだのが、今回の話の始まりでした。
けれど藩主の九鬼隆義自身は、郷土の藩政改革と近代化に努めた名君でもありました。
(廃藩置県の後、神戸・三宮付近の土地を買いあさったと云う当りも、十分に時勢を見る目があったようです(笑))



 事件簿は、一応の筋書きをノートに書きます。(せいぜい、2.3ページですが)
けれど其れは生かされたためしが無く、いつもしっちゃかめっちゃかに筋が展開し、気がついた時には、恐ろしい結果になっています。
そーして、『もう絶対に作らない!』、になるワケです(笑)
(一応、最終話まで筋を作らないと、一話目をアップ出来無いと云う理由は、この辺りの、いい加減な事情から来ています)

また余談ですが、今回は作っている間中、藤沢周平先生の名作『蝉しぐれ』の中の、最後の方の一場面。
成人し、年を経、父助左衛門の名を受け継ぎ、郡奉行となった牧文四郎が、青い風に吹かれ、緑の稲田を見回る情景が、頭の中にずっとありました。それを、脇太一郎の今後と重ねていたような気がします。(恐れ多くてスミマセン!)


 最初の『茜』から、早いもので、事件簿も七話目の『寒九の雨』になりました。
時は経ちましたが、相変わらず、ヤマなし、オチなし、イミなしの、長いだけの話、もし最後までお読み頂けましたのならば、胸塞がる思いです。
この場を借りて、御礼申し上げます。
ありがとうございました。






                2007.2.17 

                いっぱいの、感謝をこめて    ももの木ちい









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