五条坂鐘鋳町
田坂診療所のキヨのつく溜息は・・・
「ふぅ・・」
軽く溜息を吐きながら、見ていた瓦版を横にやって、
キヨは申し訳程度にある中庭に視線を送った。
秋が近いような、目に痛いくらいの青い空がのぞいている。
「空ばっかりがええ色やわ・・」
それが忌々しいような気もするが、
とりあえずキヨはぼんやりとその青さに見とれていた。
「ほんまにうちの若先生、どうするつもりなんやろ・・」
ふと呟きながら先程まで見ていた瓦版にもう一度目を落とす。
瓦版には帝がこの京に都を制定された時から続く
由緒正しき然る公卿に嫁いだ今時気質の若い嫁と、
その姑の過熱気味の確執が面白おかしく書かれている。
姑は『本家ご法度五箇条書』という禁止事項を突きつけ
これに従わねば即刻三行半と言う条件をつけて
家柄の気に入らない嫁を迎えたそうだが、
若い嫁もなかなかどうしたもので、ことごとくこの姑に逆らって、
遂にはその一日の嫁姑のやりとりが瓦版になる始末だった。
人は良いが少々口の軽い隣家のお内儀がくれた
この瓦版の中の嫁のような女子(おなご)でも困るが、
それでも若先生には人並みな嫁を娶って欲しいと、キヨは思う。
だがキヨの憂鬱の原因は若先生に嫁が来ないということ以前にあった
若先生田坂俊輔は、長年側で世話をしているキヨの目からみても
贔屓目無しに、その辺りを歩いただけで若い娘達の羨望を集める。
キヨの若先生は、きりりとした精悍ないい男である。
おまけに上背もあるし、昔武芸で鍛えた体はしなやかな筋肉に覆われ、
すっきりとした立ち姿が思わず見惚れるほど凛々しい。
今は市井(しせい)にいるとはいえ元は膳所藩の御殿医だった田坂家の養子、
見立ても腕も確かと評判の医者だった。
キヨの若先生は、巷の娘達が騒ぐいわゆる『三高』というヤツである。
だが、本来ならば引く手もあまた、
断りきれない縁談の数々・・・のはずが、
若先生は今一途に惚れた相手に夢中で、そんなものに見向きもしない。
その人物の顔をぼんやりと思い浮かべて、叉キヨは溜息をついた。
若先生心をただただ独り占めしている相手は、
控えめ言動や素直な気立ての良さで仮に嫁いできても
瓦版のような嫁姑の確執などとは無縁だろうとキヨに思わせる。
青みかかった白すぎる程の、ほっそりとした指で針を持ち、
若先生の着物を一針、一針丁寧に縫ってくれるだろう。
問い掛ければ、柔らかな声で微笑みながら応えてくれるだろう。
秋に漬ける蕪(かぶら)の大きさを見せれば、
その黒曜石のような深い色の瞳を大きく瞠って驚くだろう。
だがあの白い指があかぎれするのはなんだか酷く可哀想な気がして、
キヨは思わず自分の事のように眉を寄せて辛そうな顔をする。
恥ずかしそうに少し俯いて微笑むその仕草が何とも可憐で
見る者の心にいとおしさを覚えさせずにはいられない。
屈託なく楽しげに笑う顔に、つい釣られて微笑んでしまう。
華奢な骨組みの体は、やや子を産むに耐えられるかと心配に思うが、
その芯の強さには驚くものがあるから、案外に心配は要らないかもしれない。
(・・・何しろ若先生はお医者さんなんやし・・・)
・・・そこまで思ってキヨはハタと現実にもどされた。
若先生の想い人は、どんなに可憐でどんなに気立てが良くても
やや子を生めないのである。
そう、若先生の一途に惚れている相手は『男』なのだから。
相手が『男』というのに気付いた時は、
嫁を選ぶに恵まれすぎたこの若先生が、何が悲しくて男なのかと
いっそその首を絞めて問いただしてやろうかと憤慨した。
だがそれができない事情に気付いて思わず口に手を当てた。
若先生は自分の思いが恋という事に、まだ気付いていないのである。
キヨの自慢の若先生は、自分の恋には呆れるほどに鈍感だったのである。
例え傍から見れば間違えようの無い恋煩いといえど、
本人が気付いていないものを、責め立てることもできない。
「ふぅ・・」
何度吐いても吐き足りない溜息をまた吐いて、
キヨは若先生の想い人のはにかむ様な笑い顔を思い浮かべた。
(せやけどなぁ・・・、)
想い人といる時の若先生は最近良く笑う。
昔からその笑顔が好きだったキヨには
今の若先生がどんなに満ち足りているのか良く分かる。
キヨは若先生が決して平坦な道を歩んできたのでは無いことを知っている。
辛い思いは人の何倍もして来たはずである。
だからこそ、今若先生が見せる心から嬉しそうな笑い顔は
ずっとこのままにしておいてやりたい。
それは若先生が十五で養子に来た時から面倒を見てきたキヨの親心である。
だが・・・
(あかん、あかん・・・絶対にあかん)
思わず若先生の幸せそうな笑顔を思い浮かべ、
それに流されそうになってキヨは頭を振った。
(やや子がでけへんお人は嫁にはでけへん・・)
可哀想だがここは断固として自分は若先生の恋慕を断ち切らせねばならない。
例え鬼と言われようが、それが大恩ある先代の大先生、奥様への御恩返しである。
そして突き詰めれば大切な若先生自身の将来(さき)のためにもなるのだ。
キヨは憤然と立ち上がると、田坂の診察室に向かった。
そこで田坂は今想い人を診察しているはずである。
(諦めさせなあかん、邪魔せなあかん)
自分の意気を奮い立たせる様に、ずんずんと大またで廊下を行くと、
診察室に届く前に、楽しげな声が聞こえてきた。
悪いことをしている訳でも無いのに思わず開いている部屋に身を隠す。
「それでは又十日後に、忘れてはいけないよ」
「はい」
その言葉に素直に頷く、信頼しきっている若者の瞳がいじらしい。
それを見る若先生の目が得もいえぬ優しさに和む。
障子をほんの少し開けてその様子を垣間見ながら、キヨはやっぱり溜息をつく。
(意地悪せんといてあげられたら・・・)
ふとそんな弱気になる心に再び鞭打つ。
(あかん、ダメゆうたらダメや)
ここは鬼になって二人の間に割って入り邪魔をしなければと
一歩足を廊下に踏み出した時、
「御免」
玄関先で低いが良く通る声がした。
「土方さんっ」
若先生の想い人はそこに陽が射したような明るい笑顔を見せると
弾けるようにその声に向かって廊下を駆け出した。
玄関にはすらりと長身の、若先生よりも少し年上の武士が立っていた。
思わずキヨが見惚れるいい男ぶりである。
「なんだ総司、廊下を走るなど行儀の悪い」
「土方さん、どうしたのです?」
小言を言われても嬉しそうに総司と呼ばれた若先生の想い人は問いかける。
「近くに来たので、もしやまだこちらにお邪魔しているかと思って寄ってみた」
言った途端に総司の顔に満面の笑みが広がった。
その様子を田坂は表面は穏やかなそうな様子で見ている。
だがキヨにはその顔が何だか酷く寂しげに思えた。
丁寧に頭をさげ礼を言って、土方と総司は診療所の門を二人揃って出て行った。
「はぁ・・」
その姿を見送ってすっかり二人が見えなくなると、田坂は深い溜息をついた。
その途端に、
「いっ・・」
キヨが精悍と自慢する端正な顔を思い切り歪めた。
後ろでキヨが力任せに田坂の背をつねったのである。
驚いて振り向くと怖い顔をしたキヨの目が睨みあげている。
「若せんせ、キヨは若せんせをそんな諦めのいい人間に
お育てした覚えはありませんえ」
仏頂面のままそれだけ言うと、くるりと田坂に背を向けて
怒った様にずんずんと廊下を歩いて行った。
「何なんだ・・・一体・・」
何が何なのかわからないまま、田坂はどこまでも青い空をちらりと目をやって
もう一度吐きたくも無い溜息を吐いた。
キヨはそのまま仏間の大先生と奥様を祭る仏壇の前に座ると、
八つ当たりのようにリンを叩いた。
「大せんせ、奥様、どうぞ若先生の思いを叶えてやって下さい。
あんな優男(やさおとこ)に負けんように、見守ってやって下さい。
そりゃ、沖田はんはやや子を生めまへん。そこが玉に疵ですけど・・・
せやけど、なんとかなりますやろ。ええ、このキヨがして見せます。
ほんま、このとおりです。若先生が沖田はんと添い遂げられますように
あの世から見守ってやって下さい」
必死で経文を唱え始めたキヨにはすでに『やや子』を生む以前に
若先生の想い人が男であるという現実はどうでも良いことだった。
大事な若先生の想い人が他の男に取られてしまう、
それがキヨには絶対に許せないことだった。
奥から聞こえてくる経文が一段と大きくなった。
相変わらず田坂俊輔は何が何だかさっぱり分からず首を傾げた。
「女子というものは、歳をとっても取らなくても不可解なものだ・・」
幾ら考えても出そうにない結論に、もう考えるのも止めて、
ひたすら薬にする根を轢き始めた。
了
追記 羽野晶ちゃん、好きだぁ〜〜!早く舞台にもどってくれぇ。
(・・・・これは『追記』なのかぁ?・・・ああ?)