宗ちゃんのシアワセ
金魚すくいでシアワセ、なの


児太のシアワセ
(ぶらっく!宗次郎)


 俺の名前は児太(こた)。この春、十三になった。同い年の奴らより、体は大きいし、頭の回転も速い。むろん、顔だっていい。婆ちゃんなんて、こんなに三拍子揃っている子供は見たことが無い、お釈迦様の生まれ変わりに違いないと、毎日惚れ惚れ俺を見る。俺もそう思う。云い忘れたが、家は内藤新宿で一番大きな旅籠だ。その名実ともにお坊ちゃんの俺が、何故、日陰も無いこんな炎天下に立ち続けているかと云えば…。それはひとえに、俺の美しい純情が故なのだ。
 そう、あれは一年前の丁度今頃――。


 俺は近くの女風呂を覗きに、こっそり裏口から忍び出た。しめしめ、誰も気づかなかったぜ、と胸を撫で下ろしたのも束の間、俺の足がぎょっと竦んだ。子供がひとり、目の前に蹲っていたんだ。危うくつまずくところだったぜ。行く手を邪魔された俺は、腹立ちまぎれに、おいっ、と声を荒げた。すると子供は、ぴくりと薄い背を震わせ、そしてのろのろ顔を上げた。だがその青白い顔を見た瞬間、俺は雷に打たれたような衝撃に、呆然と立ち竦んだ。
 お玉どころじゃねぇ…。
 俺は呟いた。あ、お玉ってぇのは、宿場で一番の美人って評判の遊女だ。そのお玉なんか足元にも及ばねえ顔を、子供はしていたんだ。
 言葉も忘れている俺の様子に、叱られるのかと誤解したか、子供は、
「あの…」
 怯えるように云った。声も儚い。
 ああ、そんな目で見るな。どんどん高鳴る胸の鼓動が、耳からも鼻からも口からも飛び出しそうだ。
「なっ、なっ、なっ…」
 名前はと、聞くはずが、焦って口がぱくぱくするだけだ。と、その時。
「待たせたな」
 突然後ろでした声に、俺は仰天して振り向いた。するとそこに、俺の見知った、いや、この世で一番嫌いな男が立っていた。
 土方歳三――。
 俺は歪むかと思うくらいに、顔を顰めた。
 歳三は、宿場じゃ有名な遊び人だ。泣かされた女は数知れない。俺がいいと思った女も、みんな歳三に熱い眼差しを送る。こいつのどこがそんなに良いのか、俺には分からない。無論、お釈迦様にも分からないだろう。
 俺は歳三を睨みつけた。ところが歳三は、俺には視線もくれず、子供の前に屈むと背中を向けた。寸座、俺は目を疑った。青かった子供の頬が、ぽっと赤みを帯び、輝きを取り戻した瞳が、うっとりと歳三の背を見詰めたんだ。そして促されると、子供は嬉しそうに、か細い腕を歳三の首に巻き付けた。俺は慌てた。歳三のやつ、この子も毒牙にかけようとしているっ。
「おいっ、歳三っ」
 震える足を踏ん張って、俺は歳三の前を封じた。
 だが歳三は…。
 子供を背負うと、黙って俺の横を通り過ぎた。一瞥もくれずに、だ。
 …あれ?
 俺は振り返った。すると、背負われた子供が、ちらりと俺を見た。そして恥ずかしそうに笑いかけた。途端、俺の顔は、熟した柿より真っ赤になった。頭はぼうっとして、熱があるみたいにふわふわしている。世の中が、蓮色に見える。歳三に無視されても、女を取られても、今なら笑っていられる。
 シアワセって、こう云うもんなんだろうか…。ぼんやり、俺は思った。
 ああ、俺の初恋。
 思い出すだけでも、切ない夏の出逢い。
 それから俺は、寝る間も惜しんで、子供が宗次郎と云う名で俺よりひとつ下だと云うことや、市谷の試衛館に内弟子として暮らしていることを調べ上げた。更に偶然を装い宗次郎の周辺に出没し、今では、会えば挨拶を交わすまでの間柄になった。
 そんなこんなで、瞬く間に日は過ぎ、今日は神田の夏祭りに出張っている。そう、今日こそ、俺は宗次郎にとって特別の人に昇格するんだ。その手筈に半年もかけた。万事抜かりはない。ちくしょう、頬が緩むぜ。
 

「児太ちゃんじゃない?」
 不意に呼ばれて振り返ると、宿場で飲み屋をやっている、お中が立っていた。
「やっぱり児太ちゃんだわ、どうしたのよ、こんなところまで」
 目を丸くし興味ありげに見るお中を、俺はしっしと手で払った。するとお中は嫌な顔をしたがすぐに、
「うふふ、あの子ね、釜屋さんのぼんぼん。もういっぱしの遊び人気取りなのよ」
 と、商家の若旦那風の連れを、媚を含んだ目で見上げた。
「何を企んでいるのか知らないけれど、悪さをすると女将さんに云いつけちゃうわよ」
 そして説教たれて俺に背を向けた。
 大きなお世話だ。俺はちっと舌打ちをした。だがその時っ。俺は裂けんばかりに、目を見開いた。人に揉みくちゃにされながら走ってくる、頼りない姿。
 宗次郎だ――。
 か細い手が、誰かの手を掴んでいる。
「おいおい宗次郎、何処へ行こうってんだ」
 宗次郎に手を引っ張られ、たたらを踏んでいるのは、試衛館の居候原田佐之助だ。
 最初の餌食はこいつか…。
 これから始まる佐之助の不幸を、俺は腹の底で笑った。
 金魚すくいの盥の前に佐之助を連れて行くと、宗次郎は、ある一点を指差した。佐之助は、ふんふんと頷いて盥の前に屈み込み、早速金魚をすくい始めた。その傍らで、じっと盥の中を見詰めている宗次郎の薄い肩が、まだ荒々しく上下している。きっと必死に走ってきたんだろう。水の一杯も飲ませてやれよ、と、俺は佐之助の気の利かなさに腹が立った。


 そうこうする内、早四半刻――。
 相変わらず、佐之助の格闘は続いている。
 時々、宗次郎の瞳がはっと見開かれるが、直ぐに、ああっ…と、悲鳴にも似た小さな声があがり、そして肩が落ちる。佐之助は、すばしっこヤツだなっ、と金魚に毒づいている。俺は不敵な笑みを浮かべた。あの金魚が、そうそう容易く落ちてなるものか。そう、佐之助の狙っている金魚こそ、俺が特注で配合させ生まれた、天下一品目付きの悪い、前代未聞に可愛げの無い金魚なのだ。
 宗次郎に纏わりつくようになって、俺は宗次郎に変わった趣味がある事を知った。それは、目つきの悪い小動物をこよなく愛すると云う、一風変わったものだった。まぁ、無くて七癖と云う位だから、宗次郎のように飛び切りの容姿にもなれば、多少の欠点は当たり前だ。が、その目つきの悪さが、どうにも歳三に似ている…、と思うのは気のせいだろうか?…気のせいだろう。
 ともあれ。
 俺の人並み外れて賢いのは、その宗次郎の趣味を最大限に利用しようと思ったところだ。俺はある企てを思い立った。その時、俺の脳裏には、揃いの浴衣姿で夏祭りを楽しむ俺と宗次郎の図が浮かんでいた。俺は早速、副業で金魚の養殖をしている侍に、二度とお目にかかりたく無いような、目付きの悪い黒金魚を作らせた。そしてそう云う金魚が今日の祭りに出るらしいと、あらかじめ宗次郎の耳に入れた。予想どおり宗次郎は祭りに現れ、金魚を見、魅了された。ところが金魚は中々すくえない。恐ろしい程すばしっこく調教されているかな。誰がやってもすくえる筈はない。宗次郎は落胆するだろう。その時こそが、俺の出番だ。俺は颯爽と現れ、宗次郎に金魚を掬ってやる。金魚屋の親爺には、俺が出て行ったら金魚を眠らせる薬を入れるよう手筈を整えてある。
 俺は目を閉じた。
 うっとりと俺を見詰める宗次郎の顔が、瞼の向うに浮かぶぜ。
 ああ、俺は今、シアワセだ。
「ちくしょうっ、すばしっこいヤツっ」
 突然、佐之助が、苛立たしげな声を上げた。俺は舌打ちをし、目を開けた。ちくしょうはお前だ、俺のいい気分を邪魔しやがって。宗次郎に目を戻すと、さっきと同じように盥の中を凝視している。あっと、佐之助が叫んだ。力任せに腕を振り回していた拍子に、網がどこかに当たって切れたらしい。単細胞は嫌だね。ふりふりと、俺は頭を振った。ところが、その時…。
 …え?
 俺の視線は、宗次郎に釘付けになった。
 えっ…?
 俺は目を擦った。
 え…、えっ…?
 けれどやっぱり見間違いじゃない。
 宗次郎が…。
 宗次郎が、凍てつくような冷ややかな眼差しで、佐之助を見下ろしている。
 俺はもう一度目を擦った。けれどやっぱり宗次郎は、人形のような冷たい横顔を見せいている。
 俺は呆けたように、幾度も目を瞬いた。
 佐之助はと云えば…。
 凝りもせず、新しい網で金魚を追い始めた。
 俺は空を見上げた。そうして十数えて、もう一度宗次郎に目を戻した。すると宗次郎は、今度はさっきと同じように、思いつめたような眼差しで金魚を見ている。
 …あれは、錯覚だったんだな。
 俺は胸をなでおろした。
 が…。
 心の片隅で、あの、お姫様のように近付きがたい宗次郎もいいな、とほくそ笑んだ。そんな想いなど知らず、宗次郎の瞳は、一心に金魚を追っている。その真摯な横顔を、俺はぼうっと見詰めた。
 
 さらに四半刻が経った。
 そろそろ俺も苛々して来た。辛抱強さにかけては右に出るものは無いこの俺を怒らせるとは、いい根性しているな、佐之助。そんなことを思っていると、突然、宗次郎がくるりと佐之助に背を向けた。そして濡れたような黒い瞳が、俺を捉えた。
 えっ?
 俺は慌てた。心の臓が、どくんと高鳴る。心の準備も出来ていないのに、宗次郎が、俺に向かって駆け出した。
 シアワセが束になってやって来るっ。
 そのシアワセを、一つも漏らさず受け止めるために、俺は両手を一杯に広げ、目を閉じた。
 ちくしょうっ、胸の鼓動がうるさいぜ。  
 さぁ来いっ、宗次郎、俺のこの腕の中に!
 「宗次郎っっっ」
 叫んだ声が天に散った、っと、その時。
 ふっと、一陣の風が通り過ぎた。
 あれ…?
 振り返ると、宗次郎の背が小さくなっている。
 ……シャイだぜ、宗次郎。
 
 しばらく―。
 俺は呆然と宗次郎の消えた方向を見ていた。が、挫けかかった心を立て直す間もなく、すぐに宗次郎は戻って来た。さっきと同じように、誰かの手を引っ張っている。目を凝らすと、やはり試衛館の居候、永倉だ。ちっと、俺は舌打ちをした。宗次郎があんなに息を乱しているじゃないか、背負う位の気を利かせろ。まったく、どいつもこいつも大歩危野郎だぜ。

「金魚すくいだぁ?仕様がねぇなぁ」
 佐之助を押しのけると、永倉は盥の前に陣取った。宗次郎が目当ての黒金魚を指差す。
「俺に任せておけ」
 永倉は頷きながら、袖を襷がけにすると金魚を追い始めた。宗次郎は、瞬きもせず金魚を見詰めている。横で佐之助が野次を飛ばす。うるさい奴だ。
 そしてそう云う景色が、かれこれ四半刻続いた。
 あっと、永倉が大声を上げた。そしてすぐに、こいつっ、と悔しげな呟きが漏れた。もう何度目だよ、新八。げんなりと、俺は溜息を吐いた。
「任されたんじゃねぇのか?」
 佐之助が皮肉に笑った。
「黙っとけっ」
 永倉が叫んだ。相当熱くなっていやがる。どんなにしても、お前には釣れやしないよ。俺はせせら笑った。
「新八さんよ、金魚に足元掬われちゃ目も当てられないぜ」
「うるせぇっ」
 永倉は益々ムキになって、網を振り回している。莫迦な奴だ。もう少し大人になれよ。俺はふりふり頭を振った。
 俺の呆れた視線にも気付かず、永倉は闇雲に網を振り回す。あっと云う間に、三本目の網も壊れた。新しい網をよこせと、永倉が騒いだ。と、その時――。すっと、宗次郎が盥から身を引いた。寸座、俺は目が点になった。そして思わず後ずさった。
 宗次郎が…。
 宗次郎が、冷ややかな視線で、永倉と佐之助を見下ろしている。その視線の冷たさたるや、真冬に張る氷だって敵わない。俺の汗は一気に引き、背筋が凍りつくように震えた。そして思った。…恐いっ。
 いや…、だが…。
 俺は凍りかけた頭をようよう溶かし、思った。
 これは何かの見間違いかもしれない。
 目の玉が奥に引っ込むかと思うくらいに強く目を擦ると、俺は佐之助と永倉を見た。やつらと来たら…。相も変わらず賑やかに金魚を追っている。俺は慌てて宗次郎をに目を移した。
 あれ…?
 元の場所で、じっと盥の中を見詰めているじゃねぇか。
 やっぱり、見間違いだったんだな。
 俺はふっと息を吐くと、もう一度宗次郎を見た。すると、金魚を見ていた宗次郎の横顔に、それはそれは哀しげな色が浮かんだ。途端、俺の胸が張り裂けそうに痛む。ああ、そんな顔をするな。走りよって抱きしめたくなるのを、止められないじゃねぇか。もう少し、もう少しだ、宗次郎。俺がお前の手に金魚を渡してやるからな。
 ……に、しても暑いぜ。
 ちっとも勢いを無くさない天道を、俺は恨めしげに見上げた。と、その時。突然、宗次郎が振り返った。そして今度こそ、俺と目が合ったっ、…はず。
 俺は息をするのも忘れて、直立不動になった。宗次郎は、少し訝しそうに首を傾げたが、俺だと気付くと、はにかむように笑った。ああ、神さま、今だけはあんたに手を合わせる。ちくしょうっ、可愛いすぎるぜ。俺はうっとり宗次郎に見とれた。そして空に目をやり、大急ぎで気の利いた挨拶を探し、宗次郎に視線を戻した。が…、いつの間にか宗次郎の姿が無い。
 忽然と、消えた…。
 俺は慌てて、原田と永倉に駆け寄った。
 
「誰だ?お前」
 原田の奴が、怪訝に俺を見た。お前から名乗れっ、と俺は睨みつけてやった。すると金魚を追っていた永倉が、
「釜屋の遣り手ばばぁ、於たつの孫だ」
 と、ちらりと見上げ、またすぐに金魚を追い始めた。どこまでも失礼な奴だな。
「ああ、あの、寝小便たれていたガキかぁ。大きくなったなぁ、お前」
 俄然親しげに、原田は目を細めた。うるせぇ。お前らに俺の繊細さを分かってたまるかっ。俺が鼻息を荒くした時、ふと後ろから小さな足音がした。宗次郎だっ、俺は急いで振り向いた。
 宗次郎は前髪を乱し、息を弾ませながら走ってくる。細い肩が大きく揺れて、いじらしい。そしてその後ろから、宗次郎を追って来たのは……。
 島崎勝太だ。
 金魚すくいに掬われる三人目は、こいつか。
 勝太の奴は不器用なくせに、粘り強い。また出番が遅れる。ちっ、と俺は舌打ちをした。
 
 鉢巻までし、やる気満々で永倉に場所を譲らせた勝太を、宗次郎は必死の眼差しで見詰めている。その宗次郎に、任せておけとばかりに優しく微笑むと、厳つい顔を更に厳つくして、勝太は盥の金魚を見据えた。そして…。
 突然、空を割るような甲高い声が、辺りに響き渡った。
 人の足が止まる。手の団扇も止まる。屋台の上の芸人達が踊りを止める。猿回しの猿も二本の足で突っ立っている。 みんなぽかんと口を開け、声をした方を見ている。  
 俺は……。
 俺は、後ろの木に背中をへばり付け、勝太を凝視した。
 そんな周りなど気にもとめず、勝太は、気組っ、気組っ、と吼えながら、金魚を追い回している。
 ……勝太、なんて迷惑な奴。
 その勝太を、永倉と原田は面白そうに見下ろしている。
 宗次郎は――。
 必死の面持ちで、勝太の手の行方を見詰めている。俺は溜息をついた。あの勝太を嫌な顔ひとつせず師と仰ぐ宗次郎は、何て崇高な心の持ち主だ。勝太、お前はお前の過分なシアワセを、少しは思い知れっ!
 俺の弁天さま、宗次郎……。
 走ってきた余韻を、乱れた前髪に残している横顔を、俺はぼうっと見詰めた。
 
 そんなこんなで。
 あれから一刻ほど経った。
 さすがの天道も、傾きを変えた。
 で、肝心の金魚すくいはと云えば――。
 案の定、勝太の網は、目当ての金魚には掠りもしない。しかもこいつは途中から、金魚屋の親爺と世間話を始めやがった。勝太は歳三のように性格は悪くないから、直ぐに誰とでも打ち解ける。しかも妙に爺むさい所があって、年寄りの相手が上手い。どうやら金魚すくいは諦めたようだ。永倉も原田もしかり。みんな金魚すくいを放り出し、屋台を冷やかしに出かけてしまった。どいつもこいつも、役に立たないやつらばかりだ。
 そろそろ、俺の出番か。
 ま、俺じゃなけりゃ、出来ない仕事だからな。
 仕様がねぇな…と、俺はふりふり頭を振った。
 宗次郎、待っていろよ、今俺が行く。
 俺は華奢な背中に向かって、踏み出した。
 と、その時――。
 宗次郎の形のよい唇が、ぽつりと何かを云った。
 えっ…?
 えっ?
 ……つかえない?
 俺は呆けたように立ち止まった。
 つかえない…、そう、宗次郎の唇は云った。あの、人形のように綺麗な顔で、つかえない、そう云った。
 俺は両手で目を擦った。そして幾度も目を瞬いて宗次郎を見た。だが宗次郎の表情は変わらない。凍てつくような冷たい横顔。でもぞくぞくする位に綺麗だ…。俺は息すら忘れて、ぼうっと宗次郎に魅入った。と、その時、頭の中で突如として閃いたものがあった。
 宗次郎を俺のものにすれば、あの可愛い宗次郎も、この綺麗な宗次郎も、両方ついてくる……。
 と云うことは、あんなことも、こんなことも、二度楽しめるわけだ。
 俄然、俺の胸は高鳴った。
 こんなシアワセ、誰に譲るかっ!
 俺は両手で頬を叩いて気合を入れると、今度こそ宗次郎に向かって、そう、シアワセへの一歩を踏み出した。
 すぐそこに、シアワセがあるっ。
 手を伸ばせば掴める、すぐそこに!
 ところが。
 「金魚すくいかえ?」
 俺のシアワセは、するりと掛かった声に、足踏みを余儀なくされた。
 伊庭八郎――。
 俺がこの世で、歳三の次に嫌いな奴だ。何故二番目かと云うと、こいつはまだ宗次郎に、うっとりと見られたことが無いからだ。
 俺は聞こえるように、大きく舌打ちをした。だがその俺の横を、視線もくれず伊庭は通り過ぎた。
 ……無視かよ。
 
「おお、伊庭くん」
 金魚屋の親爺と話し込んでいた勝太が振り向いた。
 勝太に軽く手を上げると、伊庭は、
「どうした宗次郎、難しい顔をして?」
 宗次郎に笑いかけた。すると宗次郎は寂しそうに顔を曇らせ、
「…あの、大きな黒い金魚がすくえないのです」
 くだんの金魚を指差した。どれどれと、伊庭が盥を覗き込んだ。
 お前になんざ、掬えないよ。俺はせせら笑った。
「これは…、尋常じゃねぇ目つきだな」
 伊庭は盥を覗き込み、少し眉根を寄せた。が、すぐに金魚屋の親爺に視線を移した。そして訊いた。
「幾らだえ?」
「へぇ、一回一文で…」
 また良い鴨が来たと、親爺の顔が綻ぶ。ところが伊庭は、
「いや、盥ごとだ」
 あっさり云って、涼やかに笑いかけた。親爺の目が点になった。俺の目も点になった。そんな親爺には頓着無く、
「後で御徒町の伊庭道場へ届けてくれろ」
 伊庭は小判を一枚置いた。釣りはとっときな、と決まり台詞を忘れず。
「宗次郎、俺の家に来な。朝から晩まで、いや夜中だって、心置きなく金魚すくいをやるといいぜ」
 鷹揚に笑う伊庭を、宗次郎は、うっとりと見詰めている。その視線を心地良さそうに受け止めながら、伊庭は、
「さぁ、金魚が家に着くまで、祭り見物でもするかえ?」
 はらりと扇子を広げ、宗次郎の肩に手を回した。

 ………。
 俺は今、伊庭が、世の中で一番嫌いになった。
 ちくしょうっ。
 覚えておけよっ!
 婆ちゃんに云いつけるからなっ!




瑠璃色