琴平物語 参
―残光―
不意に蝉時雨が止んだ。その不馴れなしじまを嫌うように、浩太は口を開いた。
「琴平に来てから、沖田様の心には孤独しかありませんでした」
「周りに、貴方達がいたではありませんか」
「いいえ、私達では駄目なのです」
寂しげに、浩太は首を振った。
「命を削っても、土方様の傍らに居ることを望んだ沖田様に、土方様以外の人間は必要ありません。沖田様には、土方様だけが唯一無二だったのです」
「…そんな。でも貴方達がいて、少なからず彼は救われたと僕は思いますよ」
目の前の老人に、陳腐な慰めの言葉しか浮かばない自分が、雄次にはもどかしい。
「ありがとう」
その若い心遣いをいとおしむように、浩太は目を細めた。
「琴平での沖田様は、とても良く笑われました。けれどそれは私達のためです。私達のために、あの方は有りの侭の自分を曝け出すことを封じたのです。そして私達は、そんな沖田様に騙される振りをし続けました。沖田様が胸に抱える計り知れない虚空を、見て見ぬ振りをしたのです。…真実の心に踏み込んでしまえば、側に居るのが辛くなりますからね」
卑怯な人間ですと、くぐもった笑い声が漏れた。
「あの…、沖田総司は、どの位この地に居たのですか?」
「…半年にも足らない日々でした」
差し込む陽のその先に時を手繰るように、浩太は遠くを見て云った。
「意識が混濁してきても、声をかければ微笑もうとしました。…あの方にとって、笑うことは慟哭だったのに」
「そうですか」
雄次は神妙に目を瞬いた。
――半年。
茫洋と果てしない時空から切り取られた半年と云う短い時が、雄次に、自分達と変わらぬ歳で世を去った若者を、急速にそして具体的に身近なものにする。
「それから十年を経て、彼に関わる事件が起こったのですね?金丸座に来ていた役者が突然死んだと云う、くだんの…」
「はい」
浩太は頷いた。
「事件の前の夜、村の者が、沖田様に似た若者が役者と一緒にいるところを見たと云うのは、先程お話した通りです。しかしそれだけではありませんでした。発見された亡骸の近くに落ちていた小さな紙の包み、それは土方様の御実家で作られている、石田散薬を包んだものだったのです。役者の遺品を見せて貰いその事実を知った時、私の頭の中を、やはりと云う思いが駆け巡りました。沖田様の魂は、まだ琴平を離れられずにいたのです」
細い息を吐いた時、頑強な肩が小さく落ちた。しかし己の裡に兆した感傷を、浩太は即座に切り捨て、目に鋭い色を宿した。
「雄次さん、小川屋さんにゆかりある尚吾さんなら、石田散薬を持っている可能性は十分にあります。いえ、きっとそうなのでしょう。だからこそ、沖田様の魂は彼に向けられた」
「そう云えば…」
寸の間、雄次は視線を宙に彷徨わせたが、
「尚吾が小さな薬の包みを持っているのを見たことがあります」
浩太を見ると急いで云った。
「確か、お守り代わりだと云っていました」
「それです、間違いありません。行きましょう」
「どこへ?」
「沖田様と尚吾さんの居る処です」
語尾を待たずして浩太は立ち上がると、俊敏な身ごなしで廊下に出た。
「待って下さいっ」
その後を、雄次は慌てて追った。
――琴平物語――
「宗次郎」
尚吾は静かに語りかけた。宗次郎は冷たい表情を崩さない。だがそれは、そうする事でやっと、危うい感情を閉じ込めている宗次郎の必死のように、尚吾には見える。
「役者を殺したのは、君だね?」
「土方さんが死んだなどと云ったからだ」
「そうか…」
尚吾は軽く息を吐いた。
「みんな嘘つきだ」
宗次郎の瞳の奥に、瞋恚の色が走った。その硝子のような硬質さを、尚吾は儚いと思った。手を離した途端、鋭い音を立てて砕け散る硝子が持つ、美しさ故の儚さだ。
「でも彼は、君の手に掛かって本望だったと思う」
「息を止められたと云うのに?」
薄い笑みが、形の良い唇辺に浮かんだ。
「彼自身がそう願ったんだ、君の手に掛かりたいと。…僕と同じようにね」
「つまらない事を云う人だ」
宗次郎は立ち上がり、侮るように見下ろした。その視線を跳ね返し、尚吾も立ち上がった。
「嘘じゃない、僕には分かるんだ。君への恋心を募らせながら、彼は、この恋が尋常在らざるものと感じていた。それでも想いは断ち切れなかった。君に恋焦がれ、やがて永久に君が自分のものにならないと知った時、彼は決めたのだろう。…君の手に掛かかり、この恋を終らせる事を」
宗次郎は月牙のような青白い頬をし、尚吾を見上げている。
「彼は激しい言葉で君を追い詰め、そして怒らせたんだね。酷い言葉を繰り返しながら、一時でも長く君の顔を目に焼き付けて置こうと、彼は瞬きすらしなかった筈だ。そして激昂した君は、ついに彼に手を掛けた。その時、彼は幸福だった筈だ」
「何も知らないくせに」
宗次郎の唇が、皮肉に歪んだ。
「知っているさ、彼の気持ちは。君よりもずっと。彼も石田散薬を持っていたのかい?それとも、もっと土方歳三に近しいものだったのかい?その交換に、君を欲したのだろう?そして最後のひとつを渡した時に云ったんだね、土方歳三は死んだのだと…」
「それ以上は聞かない」
「いや、聞いて貰う」
尚吾は壁まで宗次郎を追い詰め、肩を掴んだ。
「土方歳三は、とっくに死んでいるんだ」
尚吾を凝視したまま微かにも動かぬ表情が、宗次郎の激しい抗いだった。
「明治維新のあった翌年、即ち明治二年五月十一日、彼は函館戦争で戦死している」
「あの役者もそう云ったよ」
冷笑が漏れた。
「真実だ。後、東京の故郷に、市村鉄之助と云う少年によって遺品が届けられた」
宗次郎がはっと瞳を瞠り、薄ら氷(ひ)を張ったようだった面輪に、一瞬、感情と云うものが兆した。
「市村少年は二年ほど土方家に滞在した後、再び京都へ戻ってきた。その滞在先が僕の祖父の家だった」
「貴方が小川屋さんの身内ならば、市村君の名を知るのは容易い事です。作り話など、幾らでもできる」
「どこまでも信じないのだな…」
寂しげに、尚吾は笑った。
「信じるのは、置いて行かれたと認める事になるからかい?…総司」
宗次郎は頬を強張らせた。そのまま暫し息を止めたように尚吾を見詰めていたが、やがて微かな笑みを浮かべた。
「それも小川屋さんが?」
乾いた声に促され、尚吾は頷いた。
「祖父は後悔を良しとしない人だったが、ひとつだけ、己の人生で心残りがあった。それは、土方歳三に頼まれ、沖田総司に服用させる、麻酔にも似た強い眠り薬を調達した事だ。危険が大きい薬の使用に、当初祖父は反対したそうだ。しかし土方の、敵に、いや、他の誰にも、君に触れさせたく無いと云う必死の懇願の前に折れてしまった」
宗次郎は薄い笑みを浮かべたままだ。無表情にも近いその笑みの中に、どのような感情が渦巻いているのか、尚吾には分らない。
「祖父はずっと苦しんでいた。土方歳三の望みを叶えた事で、沖田総司の願いを断ち切ってしまったのでは無いのかと…。最後まで土方歳三について生死を共にする事、それこそが君の生きる希だったからだ」
「小川屋さんが苦しむ事は無い。私は足手まといだったのだから」
自棄するように、宗次郎は呟いた。
「繰り返し、祖父から聞かされた話は、幼い僕にも鮮明な印象を与えたよ。あの祖父が敬愛した男に、そこまで想われた人間がどんな人物だったのか…、知りたいと思った。逢いたいと思った」
「捨てられた人間に?」
微かに笑った顔が、ぞくりとするほど美しかった。その顔をいとおしむように、尚吾は目を細めた。そして肩に置いていた手を、宗次郎の背中に廻した。抱きしめると、身体中で否定するように、薄い背が強張った。
「…ようやく逢えた、宗次郎」
「愚かな人だ」
腕の中で、宗次郎が笑ったのが分った。その一瞬だった。尚吾は、宗次郎の髪を束ねていた白い紐に指を掛けると、素早くそれを解き放った。
渾身の力で、宗次郎は尚吾の胸を押し返した。その背を、黒髪が、生き物のように滑り落ちた。
「返せっ」
「君の手に掛かれば本望だと云ったろう?」
尚吾に鋭い視線をくれたまま、宗次郎はじりっと床の間に移動し、刀掛けにあった一振りの刀を取った。そして音もさせず鞘を抜くと、その鞘を転がした。表われた刀身が、障子を越した白い陽を巻き、海の底のように冷たい光を放っている。
尚吾は、穏やかな眼差しを向けた。
「本望だ」
そして静かに目を閉じた。
幼い頃、祖父から聞いた麗人の物語は、いつも胸の片隅で息づき、いつしか憧憬となっていた。叶うことの無い恋に吐息した、早熟な少年の日々――。だが今、時空を越えて過去は現実となり、自分は恋に落ち、その恋は終焉を迎えようとしている。恐怖は無い。幸福感だけが、尚吾の胸を満たしている。
構えも見せず静かに佇む尚吾を、宗次郎は無言で見詰めていた。しかしその眉根が微かに動いた。気配を察し尚吾も目を開けると、障子に、此方に走り来る人影が映った。それがみるみる大きくなって、縁の下に蹲るや、
「宗次郎さま」
と、呼んだ。蜥也だった。
「浩太さまが、来られます」
「浩太さんが?」
宗次郎の横顔が強張った。
「お隠れ下さい」
初めて聞く、蜥也の急いた声だった。宗次郎は思案するように沈黙した。そして射し込む陽に眩しげに目を細めると、尚吾を振り返った。
「もう、行くといい。貴方が姿を見せれば浩太さんは安心する」
突き放した声の中に、寂しさがあった。
「それで君はどうするのだい?又土方歳三を待つのか?幾十年も、幾百年もずっとひとりで…。でも彼は現れない、二度と現れないんだっ」
「貴方には関係の無い事だ」
「僕じゃ駄目なのか?僕は君を孤独になどしない、君を置いて行ったりはしない、だから宗次郎っ…」
伸ばした手を振り払うと、宗次郎は切っ先を尚吾の喉元に突きつけた。
「土方さんも同じ事を云ったよ。置いて行かないと、きっと連れて行くと…。でもみんな嘘だった。目覚めた時、私は見知らぬ土地に居た。置いて行かれると分っていたなら、役に立たないこの身など、とっくに始末したのに…」
宗次郎が切っ先を上げた。しかし尚吾は動かなかった。喉の膚が微かに破れ、赤い血が滲んだ。
「貴方は知らない。人を想うと云う事が、どんなに醜く浅ましい事なのか…。身はあんなにも他愛無く滅びたのに、土方さんを想う心は今もこうしてあの人を待っている。土方さんを想い続けた果てに残ったのは、無様な執着だけだった」
白い面輪を歪ませ、
「私は、こんなにも卑しく、浅ましい。…私は、鬼だ」
自嘲するように宗次郎は笑った。尚吾は言葉を失くした。
硝子玉のような瞳の奥にあったのは、寂しさなど遠く及ばぬ虚空だったのだ。この虚空を抱えて、宗次郎の魂は琴平の地を彷徨っているのだ。
土方の残り香を、必死になって求めた宗次郎が哀れだった。哀れで、哀れで、心が鷲掴まれたように痛い。しかしそれを遥かに超えて、宗次郎が愛おしい。愛おしくて、愛おしくて、胸が張り裂けそうだった。
「鬼は…、土方歳三だったんだよ」
戦慄くような呟きを拾った宗次郎が、訝しげに尚吾を見た。
云っては駄目だと云う自分と、云わなくてはならないと云う自分が、頭の中で葛藤している。しかし言葉は、もっと心の奥深く、己の核(さね)から繰り出される。
「祖父から聞いたんだ…。祖父は、何も教えず琴平にやるのは君があまりに可哀想だと、土方に云ったそうだ。それに、土方は…」
これ以上を云ったら、宗次郎は消える。黙れと、心が警鐘を鳴らす。だが尚吾は続けた。
「目覚めた時、置き去りにした自分を、総司は恨むだろう。怒り、苦しみ、哀しみの日々を送るだろう。だがそんな事は、自分が総司を失うことを思えば、取るに足らない。恨みも怒りも、それが激しく深いほど、総司は自分に縛り付けられ、そして忘れない。…そう、土方歳三は云ったそうだ」
その時土方歳三と云う男の見せた、恍惚と幸福に満ちた顔が忘れられないのだと語った祖父の声を、尚吾は忘れ得ない。
凍りついたように、宗次郎は尚吾を凝視している。
「土方歳三は、君を置いていったんじゃない。目の前で君を失うのが恐ろしかったんだ。此処に来れば君が待っていると、自分の息が絶えるその時まで、信じていたかったんだ。君を自分に縛り付けておきたかったんだ。なんて冷酷で、自分勝手で残酷な…、けれど凄まじい愛だ」
宗次郎は瞬きもせず尚吾を見ていた。が、やがて瞳を伏せると、静かに刀を下ろした。
「どうしてそれを私に聞かせたのです?」
「分らない」
「おかしな人だ」
「きっと君を愛しいと思う心が、君を欲しいと思う心より強かったんだろう…」
宗次郎は微笑んだ。そしてぽつりと呟いた。
「どうして私は、もっと強くなれなかったんだろう…」
誰に問うでもなく小さく首を傾げた姿が、儚げだった。
「宗次郎さま」
再び声がした。
「お隠れ下さい、浩太さまがいらっしゃいます」
「もういいんだ、蜥也」
障子の向こうへ労わるような声で応えると、宗次郎は刀を鞘に戻し、尚吾に向き直った。
「私は、怖かった」
少しだけ笑ったその笑い顔が、後ろから射す陽に透けてしまいそうで、尚吾は思わず手を伸ばした。その手から逃れるように、宗次郎は後ずさり、後ろ手で障子を開いた。
たん、と障子の跳ね返る軽い木の音が響き、旦昼の陽が、堰を切ったように部屋中に溢れ込んだ。目くらましのような眩しさに、思わず尚吾は手を翳した。その指の隙から、白い光に包まれた宗次郎の輪郭が微かに見える。しかし次の瞬間、尚吾の顔が驚愕に歪んだ。
「宗次郎っ」
見開いた目の中で、結わえを解いた黒髪が光に溶ける様に消える。
そして美しい面輪からも白い手足からも、忽ちのうちに皮膚が剥がれ、肉が削げ、やがて現れたのは骨の骸だった。
その骸も、半ば光に消え去ろうとしている。
「うわあぁっ」
声を迸らせながら、尚吾は宗次郎に向かって走り出した。
そして光に透けたしゃれこうべを胸に抱きしめ蹲った。
その時、風が起こった。
風は、まるで浚うように林を吹き抜け、思わず、尚吾は腕に力を籠めた。
その刹那――。
しゃらっと、微かな音がした。
尚吾は目を見開いたまま、息を詰めた。
畏怖していた時が来たのだ。
凝然と手を見ると、そこに宗次郎の痕跡は僅かにも無い。
不意に、何かが頬を滑り落ちた。その熱さに目を瞑った。
網膜は、焦ぐような赤い色を映し出している。だがどこを探しても宗次郎の姿は無い。目を開けると、今度はどうしようも無く、泪が溢れ出した。苦しい嗚咽が止まらない。
「ばかやろう…」
それが行ってしまった宗次郎への恨みなのか、止めるとこの出来なかった自分への情けなさなのか分らない。
「ばかやろうっ、ばかやろうっ…」
土を叩き背中を震わせ、尚吾は泣いた。
―恋歌―
虫の鳴き声が、季節の終わりを告げる。昼、炎陽に息むれた村も、今は深閑と眠りについている。
「一度、ご祖父様と一緒におられるところを見た事があるのですよ」
穏やかな目を向けられ、ぼんやりと、尚吾は浩太を見た。その横顔が、たった一日でやつれたと勇次は思った。
「鴨川に架かる、五条の橋の袂で」
「…すみません、覚えていないのです」
尚吾は目を伏せた。
体が鉛のように重い。しかしその体よりも、胸に出来た暗い穴が、彼を空ろにさせていた。独りになりたかった。
「それはそうです、私が一方的に見ていたのですから」
その若い心の傷を労わるように、浩太は柔らかく笑った。
「私は今、東山の麓にある寺で下働きをしています。そこに私のお世話になった方々の墓があり、それを護る為です。その中には、沖田様の遺髪もあります」
微かに、尚吾の目に光が宿った。
「沖田様が亡くなってから、私はずっと考えていました。沖田様は哀しいだけだったのか、寂しいだけだったのかと…。お側にいる時は心安らかにいて欲しいと必死で、そこまで考えられなかったのです」
苦しげに、浩太は頬を歪めた。
「しかし今日、尚吾さんから話を聞き、沖田さんの本当の心を知ることができました。沖田さんは、置いて行かれた哀しさ寂しさ、恨みや怒りよりも、土方さんに嫌われ捨てられたのでは無いかと、その疑心に苦しんでいたのです。だから土方さんに逢うのが恐ろしかったのです。…生きている時にその事を知れば、土方さんの真実の心を伝えることが出来たのに…」
可哀想な事をしてしまったと、浩太は深い息を吐き目頭を押さえた。
尚吾は庭に視線を移した。
部屋の灯も届かぬ其処は、木の影が幾重にも闇を深くしている。そのずっと先に目を凝らした。しかし風もそよがぬ闇にあるのは、行きとし行ける物全てが息を殺してしまったような夜の底だけだった。
恋が、終ったのだ。
―大正十五年、夏―
蝉時雨の中、小川尚吾は、急峻な坂道を登っていた。額に滲む汗が、みるみる顎に滑り落ちる。
足を休ませずに歩き続け、笹に隠れた細い脇道の前で来ると、漸く尚吾は立ち止まった。目の前の森は、木漏れ日すら遮るほど深い。尚吾は息を整えた。そして躊躇い無く、腰まで伸びた草を掻き分け竹林に踏み入った。
目指す場所には、案外容易に辿り着いた。しかしそれは尚吾の記憶にある瀟洒な屋敷では無く、朽ちた果てた建物の残骸だった。
屋根は無く、壁は土を落として藁をむき出しにし、剥がれた板敷の間からは草が伸びている。名残をとどめているのは、今踏んでいる、離れへの飛び石だけだ。
「十年、か…」
吐息し、縁側だった板に腰を下ろしてぐるりと辺りを見渡すと、止まっていた時が動き出すようだった。
「宗次郎」
尚吾は呼んだ。
「僕だよ。尚吾だ。先月、日本に帰ってきたんだ。あの次の年、ドイツへ留学したんだ。…本当は、君に失恋して日本に居たくなかったと云う訳さ」
苦笑が漏れた。思い返せば苦しいだけの恋は、時を経て、自嘲の笑みを浮かべられる程には、自分を成長させてくれたらしい。
「東京も震災のあと、すっかり町並みが変わっていたよ。帰国して驚いた。が、人も物も町も変わったと云うのに、僕は君を忘れられずにいる」
微かな風が葉を揺らし、不意に覗いた空から陽が射した。その強い陽に、尚吾は目を細めた。
「ねぇ宗次郎?僕も少しばかり君の気持ちが分るようになった。…僕は今、死ぬことが不安だ。肉体の消滅は当然だし、それは自然な事だ。でも僕が憂えるのは、それから後、僕は君に逢えるのかと云う事なんだ」
意気地の無い話だろう?と、尚吾は光の向うに笑いかけた。
「もうじき、結核は不治の病では無くなる。もう少し、君が遅くに生まれてきてくれたらと、僕は思う。或いは、君が土方歳三と同じ時を生きていなかったら、僕と同じ、今この時を生きてくれていたら…と、そんなありえない事を、僕は思って来た。…ずっと、思って来たんだよ、宗次郎」
尚吾はゆっくり立ち上がった。そして人の丈ほどに伸びた草を払って踏み出した時、視線が前方の低い一点で止まった。
一匹の蜥蜴が、飛び石の上にいたのだ。思わず目を瞠った。
瑠璃色に光る、美しい背を持ったこの蜥蜴を覚えている。
「…蜥也、なのか?」
呟いた声が掠れた。その声も終らぬうちに、蜥蜴は藪に消えた。
尚吾は天に喉を突き出した。
あの時と同じ、強烈な夏の陽が膚を刺す。
紅い焔のような恋情を抱き続けながら、唯一無二の人の心変わりを怯え、瑠璃色の蜥蜴だけを僕に孤独に時を委ねた宗次郎。
愛しい、宗次郎。
激しく、そして哀しい麗人――。
空に向けていた目を、尚吾は静かに閉じた。
風に、竹林が鳴る。
刹那、しゃらっと、微かな音が起こった。
その音を、両の掌で、尚吾はそっと救い上げた。
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