香  華




 一番高い処から少しばかり傾きかけた天道の陽は、早苗に照り、視野の端までをも青ませ、畦を抜ける風は、むせ返りそうな草息吹を乗せて肌をなぶる。
時折、歩みを緩めるのは、確かに後ろを気に掛けている証しなのだろうが、だからと云って振り向く様子の無い広い背を、小走りに追う宗次郎の額に薄っすらと汗が滲む。

「あそこだ」
が、前を行っていた足が不意に止まり、そして漸く後ろを見て伸ばした手の先に、翠に覆われた榧(かや)の大樹があった。
だが土方は一言告げるやくるりと背を向け、宗次郎が何を云う間もなく又歩き出してしまった。
それでもただ長いばかりだった道の仕舞いを教えられ、淡い色の唇から、小さな安堵の息が漏れた。



――宗次郎が内弟子として試衛館に入門してから、既に一年が過ぎていた。
この日、若い師である島崎勝太の供で、夜も明けぬ暗い内に柳町の道場を発ち日野の佐藤彦五郎宅に着いたのは、まだ昼前の事だった。
だが玄関先で出迎えてくれた彦五郎の労いの言葉を耳に素通させ、宗次郎の心の臓をどくりと高鳴らせたのは、瞳に映った一対の草履だった。


 昨日、今日の日野行きを告げられるや、即座に脳裏を過ぎったのは、このところすっかり姿を見せない土方の顔(かんばせ)だった。
何故なのかと、意を決して問うた宗次郎に、この時期田植やら家業としている薬草の葉を剪定する作業やらで、流石に土方とて遊び回ってはいられないのだろうと勝太は笑った。
だが若い師の笑い顔を見ながら、実家の手伝いで忙しいのだと云う言葉には寂しさを覚え、しかし遊び回る訳には行かないのだと云う一言には、何故かひどく安堵した自分の心の不可思議を、宗次郎は持て余さずにはいられなかった。
その時生じた、相反するふたつの思いが何処から来るのか。
分からぬままに夜具の中で身を縮め過ごす夜は、まどろい程にゆっくりと時を刻んだ。

早く夜が明ければいいと・・・
そして行く先にはもしかしたらと・・・
密やかに抱いた希(のぞみ)は、闇の中で苦しい程に膨らんで行き、やがてそれは遂に唇を震わせ言葉になって零れ落ちた。
土方に、会いたいと――。
が、小さく声にしてしまった寸座、何かしら恐ろしい禁忌に触れてしまった思いに捉われ、宗次郎は慌てて夜具の中から両の手指を取り出すと、月華の蒼に染められた其れできつく口元を覆った。




「いたのか」
土方がいる、その証だけに釘付けられていた宗次郎の耳に、勝太の嬉しそうな声が響いた。
「生憎と、な」
何時の間にか奥から現われた主の物言いは、いつもと変わらぬ横柄なものだった。
その土方を咄嗟に見上げた宗次郎にちらりと視線を流したものの、別段声を掛けるでも無く、土方は土間へ降り立つと、くだんの草履を突っかけた。
「何処へ行く」
久方ぶりで会ったにしてはつれない友の素振りを、勝太の声が咎める。
「墓参りだ」
「墓参り?お前がか?」
が、戻ったいらえは、武張った造りが年よりも幾分老けて見えさせる面を困惑に染めた。
「何処ぞで遊んでおったか知らんが、東雲時に漸く帰って来たのが分かって又のぶに責められんうちに、せめて殊勝な振りで誤魔化すつもりだろう」
彦五郎の、苦笑まじりの揶揄はどうやら図星を突いていたらしく、無言の背は、高い筈の敷居を軽く跨ぎ外へと出て行った。

「私もっ・・」
しかし彦五郎と勝太を驚かせたのは、その土方の態度では無く、宗次郎の突然の叫び声だった。
「私も、お墓参りに行きますっ」
「宗次郎っ?」
告げた時にはもう土方を追って走り出していた少年の背を、太い声が呼び止める。
「おいっ、宗次郎っ」
「もう遅いよ、勝太さん」
広い玄関の土間の、内と外とを隔てる敷居際で、思いの外早く遠ざかって行く友の後姿と、其れを追う小さな背に向かい、今一度困惑の声を大きくした時、豊かな質の笑いが勝太の直ぐ横で起こった。
「歳三も、まさか子供連れでは布田宿へ戻れまい」
「布田宿?」
又も訳の分からぬ言葉に、黒々とした量の眉根が怪訝に寄せられる。
「おのぶが帰って来ない内に、又出かけるつもりだったのだろうが、とんだ処で瓢箪から駒が出た。宗次郎のお陰で、歳三の奴もさぞかし良い供養が出来るだろうよ」
語る声には堪えきれぬ笑いが孕まれ、その分、言葉の韻が軽くくぐもる。
その彦五郎の横顔を、勝太はまだ合点の行かぬ面持ちでぼんやりと見ていたが、やがてもう何処にも探す事の出来ない二人の影を追うように、視線を遠くに投げかけた。




 疾うに見透かされていた忌々しさを思えば、舌打ちのひとつもしたくなる苛立ちを覚えていたのは、僅かばかりの道のりだった。
否、それよりも、後ろを小走りについて来る小さな影に、気を乱され始めたと云う方が当っていたか・・・
 佐藤家から、土方家の菩提寺である石田寺まで。
途中、追って来る足に疲れが見え始めたのを気配で察し、その都度歩みを緩めてやりはした。
が、其処まで分かっていながら、振り向く素振りすら見せなかったのは、優しさなどには慣れていない不器用に他ならなかった。
そしてそんな己を自嘲する足は、土方の歩みを必要以上に早くした。

――渋面を作らねばならない事情を抱え前を行く者と、それを知らず後を追う者の道連れが、どれ程畦を行った頃か。
己の癇症にもいい加減に愛想を尽かせ始めた頃、折り良く見えてきた榧(かや)の大樹は、其処が目当てとする先だと教えられた宗次郎よりも、告げた土方自身を安堵させた。

 道中、土方の裡に隆起していた感情の綾など知る筈も無く、宗次郎は額に汗を滲ませ、息を弾ませたまま、榧(かや)の木を見上げている。
「行くぞ」
視線を高い位置に置いた深い色の瞳が、まるで天の蒼さを貼り付けてしまうかのように大きく見開かれている様に、冷たい程に際立った端整な線の口元が、初めて笑った。



「どうした」
柄杓で水を掛ける手を止めて問う無愛想な声は、とても子供相手のものとは思えない。
が、宗次郎は土方を見上げるだけで、一度動きかけた唇は、直ぐに躊躇うように閉ざされてしまった。
だがその瞳の中に、微かな困惑があるのを土方は見逃さなかった。
そして更に其れが何を云わんとしているのかを察するのは、案外に容易な事だった。

――何処から流れてくるのか、微かに鼻腔をくすぐる香がある。
自分達の前に墓参した他家の線香が、まだ尽きていないのだろう。
そして視線を動かした先の、そう遠くない墓の花活けに、あまり行儀が良いとは云えないながらも、溢れんばかりに季節の花が詰め込まれている。
其れを見て、宗次郎は香華の無い寂しさを告げたかったのであろう。
確かに、世辞にも丁寧とは云えない所作で水を掛けるばかりの墓参りでは、少年の心に違和感は拭えないのかもしれない。
だが土方にしてみれば、布田宿に向かう足を墓参りに変えざるを得なかった事情だけでも腹立たしいと云うに、この上香華まで手向ける気を起こせと云うのは到底無理な話だった。

「墓参りなんて云うのは、手を合わせておけば十分だ」
其れを罰当たりと云うのだとは胸に仕舞い柄杓を桶に戻した横顔を、宗次郎はまだ戸惑いの中で見詰めている。
だが土方が片膝をつくと、同じように慌てて墓前に膝まづいた。
が、共に手を合わせかけたその刹那、つと横を見上げた眼差しに気付き、土方も怪訝に振り向いた。
「何だ」
強く促しても、宗次郎は暫し口にする事を思いあぐねていたようだったが、土方の双眸に見据えられ、やがて小さく声を震わせた。
「・・・土方さんの父上さまと母上さまは、私が手を合わせるだけでも許して下さるでしょうか?」
閉ざされていた唇から零れ落ちたのは、何とも真剣な声音だった。
だが土方には問われた言葉の意図するものが理解出来ず、無言で宗次郎を見詰める。
そしてその土方を、宗次郎は相変わらず硬い面持ちで見上げている。

何を云いだしたのか――。
流石に瞬時には判じかねたものの、しかし宗次郎を怯えさせていたものの正体は、そう時を置かずして土方にその姿を見せた。
初めての墓参に香華を手向けられなかった事に、宗次郎は畏怖に近い申し訳なさを覚えているのだろう。
だがそんな事かと笑って済ませるつもりが、瞬きもせずに凝視している瞳に捉えられた刹那、不意に土方の胸の裡を波立たせる何かがあった。
其れは決して不快なものでは無く、むしろ自分には似つわぬ、面映い程に優しく切ない感情だった。
しかしその曖昧な何かを咄嗟に切り捨て、土方は見上げている瞳から視線を逸らせた。

訳の分からぬものに翻弄されるのは、本意では無い。
しかしそれだけで仕舞いにするにするのも、本意では無い。
ならばその二つの勝手を、今は両天秤にかける他無いと、又ひとつ自ら厄介を背負い込んだ憂鬱に、土方の横顔が面倒そうに口を開いた。

「今度はお前の処の墓参りに、俺が手ぶらで行ってやる。それで相子だろう」
「・・私の?」
「嫌か?」
見開かれた瞳は、面輪の半ばを占めてしまいそうに更に大きく瞠られ、そして次には千切れんばかりに細い首が振られた。
「ならばさっさと手を合わせろ、終わったら帰るぞ」
そんな少年の様が何故かひどく愛しいと、素直に思う事すら許さぬ己の稚気に呆れて促す声が、せめて不機嫌を装う。
しかし土方の胸に有る事情など知らず、宗次郎はまだ竹刀だこも痛々しい小さな手を合わせ、大きな瞳を瞼の内に隠す。
そして土方も又、その横で形ばかりの殊勝を作る。
が、間に合わせの信心は、呆気ない程に仕舞いになる。
だが隣の宗次郎は、まるで心を其方に持っていかれてしまったかのように、まだ祈りの中に居る。
他人の先祖に何をそれ程熱心に告げる事があるのかと・・、苦く笑って歪めた方頬を、宗次郎は知らない。


 瞼を閉じた白い額には、まだ薄っすらと汗が滲んでいる。
それが一度も足を止めず、休む事すらさせてやらずに此処まで連れてきた己の意地の悪さの名残だと思えば、土方の裡に云い様の無い苦さが走る。
その思いのまま、額につと伸ばしかけた指が、しかし寸での処で止まった。
そして其れと前後するように、ようやく瞼を開けた宗次郎が土方を振り仰いだ。

「不動尊の前に、出店が出ていたな」
触れかけた指を掌に包(くる)んで告げた声に、まだ両の手を合わせたままの宗次郎が、不思議そうに土方を見上げる。
「帰りに、砂糖水を買ってやる」
が、続けられた言葉に、結ばれていた唇が小さく開かれた。
だが出すべき声は驚きに呑み込まれ、深い色の瞳だけが、ただただ土方を見詰める。
「行くぞ」
そしてその眼差しを振り切るように立ち上がった長身が、乱暴に踵を返す様を眼(まなこ)に刻むや、漸く我に返った宗次郎が急いで立ち上がった。



 来る時と同じように、土方は振り向いてはくれない。
だが追う背は、今度は確かに自分が後ろにいる事を知っていてくれる。
それが宗次郎を、安堵させる。
手を合わせて祈ったのは、どうか土方が傍らにいてくれますようにと――。
そんな勝手な願いだった。
けれど香華も手向けぬ罰当たりな自分に、永久(とこしえ)に眠る人達は、怒りもせず希(のぞみ)を聞いてくれた。
こんなにも心の臓を高鳴らせるのは、その人達への感謝の念か、それとも先を行く人の所為なのか。
分からぬままに駆ける足が、少しでも早く傍らに辿り着きたい心に追いつかず、もどかしい。



――寺の門の脇には、榧(かや)の大樹がある。
四方に伸ばされた枝は、早苗月の陽を直截に浴び、その裏葉は優しい木陰を作っている。

 其処まで来て立ち止まり、今一度手を合わせた墓の方角に向かい頭を下げた刹那、一陣の風が起こった。
それは榧の木全部をざわめく様に揺らし、宗次郎の前髪をも乱した。
その戯れに、一瞬瞑ってしまった瞼を開けた時、しかし再び瞳に映ったのは、先程まで見ていた広い背では無く、自分を待ち、此方を向いて佇む土方の姿だった。
その寸座、止まっていた宗次郎の足が、天道の熱が籠もる地を強く蹴った。










                                       香華    了








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