京都の旅(四) -嵯峨野へ-
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二日目になりました(いいね、文章ってのは楽に明日になれて♪)
前日とはうって代わって朝6時頃目が覚めたときには雨
どーするべ・・・と迷っていたら、晴れた
ああ、神さまご馳走様です・・・???
←起きた時、ホテルの部屋から見た四条大宮の辻
雨降って濡れてます
写真の↑方面に行けば東山、下方面が西、左が北で右が南
・・・・・意味無く撮ってみました♪朝だもん♪(それこそ意味ナイ!) |
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嵯峨野ってのは、本当に久しぶりに行きました
だって最近混んでいるんだもん(ワガママ全開)それにね、人力車のおにーさん達のお誘いを断るのがイヤなのですぢゃ
で、そんぢゃ、何で行ったかというと、今やっているしょーもない話の地理的位置の確認
(本音・超いい加減に作っているので、どの位外れているか、自分で笑いたかった・・救いようのナイ・・)
←天竜寺の庭です
小倉山の借景で広々♪おまけに朝9時頃だったから、人いないし、雨上がってすごく緑が綺麗でした(^・^)ああ、アタシの人徳ね・・・(言ってろっ!) |
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天竜寺まめまめ知識(くれぐれも、信じてはイケマセン)
ガイドブックによると・・・・
天竜寺は失意のウチにみまかった後醍醐天皇の御霊の供養のために、追い詰めた当の本人の足利尊氏が建立した、
つーことですですが、8回の兵火にあい、現在の建物は明治期のものとか・・・
そんでその最後の兵火というのが、蛤御門襲撃の時、敗れて、この寺から国許へと逃れた長州兵が去った後、
薩摩の村田新八が伽藍に火を放ったのがそれということです
元々嵯峨の総年寄、材木商福田理兵衛がスポンサーになった関係で、長州藩はこの寺に本陣を置いたそうです
その後理兵衛は一兵卒として、息子と共に蛤御門の戦に参戦敗戦後長州に逃亡。長州にて没
・・・・幕末には300余の諸藩があり、その数だけ幕末があり、又、武士だけではなく、
そこに生きたそれぞれの人の数だけ幕末があったのだなぁ・・と、
この政商福田理兵衛にはとても興味があります
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←天竜寺の裏口から竹林の道に出て・・・
大河内山荘へ
大河内山荘→
銀幕の大スター大河内伝次郎が私費を投げ打って
30年掛けて作り上げた山荘
嵯峨野の一番のお気に入りです
ゆったりとくつろげるので♪
嵯峨野に行けば必ず寄ります
庭園にある東屋からは眼下に京都市街
反対側には保津峡の峻厳な景色を見る事ができます(^・^)オススメ! |
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どうでもいーことですが・・・
『雪時雨』という話では総ちゃんと清一郎と例の三人は舟を使って川を下り、西本願寺の屯所へと戻ります
(・・・・あ、まだソコまで行ってないや。・・(−−;)ま、いいや)
んで、天竜寺の南側にある亀山公園を散策しながら、桂川まで歩いてみました
途中、尊攘思想の持ち主・近衛家老女村岡の局の像があって
嵯峨野と云うトコロは、幕末においては勤皇色が強い土地なのだと改めて知りました。あい
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近衛家老女山岡の局の像
晩年は嵯峨の地に隠居し
『嵯峨の母』と呼ばれたと
案内の札には書かれていました
後に嵯峨野の奥に直指庵を
再建してそこの庵主さまになったそうです |
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桂川に浮かぶ舟一艘
伝吉さんが見張り(^・^)
桂川はこの辺りでは大堰川と、
又保津渓谷あたりでは
保津川と呼ばれるそうです
昔は今とは考えられないくらいに
川は重要な交通手段だったのですねぇ・・
イヤ昔の人でなくってホントよかった・・
舟キライだもん(^・^) |
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