流れゆく風の昔に、遠く(参)




 月は、暈の中から、暫く蛇の鱗のような青白い光を放っていた。しかしそれも雲が厚くなると、天蓋は濁った闇に覆われた。

 雨が催おっているのかもしれない。廊下に端座しながら、伊都はちらりと空を見上げた。そしてその視線を、今度は障子へ向けた。微かな灯がともるだけの暗い部屋の中には、俊輔がいる。


 俊輔と伊都、そして義母の和と下男の作治の四人が裏口を出た直後、幾多の足音が聞こえて来た。閉ざした門を叩く音は乱暴で遠慮が無く、それが、杉浦家は咎を受ける立場の家になったのだと教えていた。
 藩邸との境になる合い引き橋の手前で、導くように伊都が先に立った。
 夜道を、闇に落ちている影を拾うようにして四人は歩き、やがて着いたのは、大川に架かる新大橋を渡って直ぐ、深川元町にある伊都の乳母富(とみ)の実家だった。
 実家と云っても既に富は六十を超えており、身寄りも無い独り暮らしで、近くの子供たちを集めて読み書きを教えている。気性のしっかりとした老女だった。
 鈴木正膳から話は伝わっていたらしく、富は万事心得た素早さで、俊輔を奥の納戸へ、和と作治は、裏手にある納屋の二階に隠した。
 客を迎えた家は、束の間、密やかにざわめいたが、四半刻もせず灯が落とされると、闇の中に、息を殺すように埋もれた。


 俊輔がこの部屋に入ってから、伊都はまるで見張りのように、障子を隔てた廊下に端座している。それももうどの程になるのだろうか…。膝に置いた手の平に、汗が滲む。その時、九ツ(深夜十二時)の鐘の音がした。伊都ははっと顔を上げた。
 謀反を起こした者達の処罰、を日付の変わらぬ内に終わらせるとの知らせが来た時、父正膳が早すぎると呟いた、苦渋に満ちた顔を思い出したのだ。
 棚引き遠くなる響きが、まるで兵馬を連れ去るような慄きに捉われて、思わず、
「俊輔さま…」
 伊都は小さく呼んだ。震えるような声に、俊輔は僅かに目を上げた。しかし、それきり声は続かない。
「伊都殿?」
 促しても、伊都の影は俯くばかりで、声をかけた事を後悔しているようにも見えた。
「もしや…、兄上の事を、案じてくれているのか?」
「……」 
「兄上は、もう違う世に旅立たれたかもしれないな…」
 伊都の影が、ぴくりと動いた。
「気遣ってくれなくとも良い。私は大丈夫だ」
「いいえっ」
 伊都が振り絞るように、叫んだ。
「…いいえ、大丈夫ではございませぬ。…俊輔さまは、兵馬さまの後を追うおつもりなのです。ご家名の為でも無く、お父上が遺されたお言葉の為でも無く、ただただ兵馬さまへの恋心の為に、死に急がれているのです…」
 激しい心の吐露の最後は、啜り泣くような嗚咽になり、その忍ぶような泣き声は、暫く続いた。

 部屋の片隅にある蝋燭の火が、時折、じり、じりっと芯を焼く音をさせる。その灯が映し出す伊都の影が、懐紙で涙を拭った。

「伊都どの…」
 俊輔は、静かに呼んだ。
「伊都殿に、隠し事は出来ないな。…確かに、私は兄上を好いていた。長い片恋に苦しんでいた。そしてある日、私は兄上に想いを告げた」
 伊都は微かにも動かず、俊輔の言葉を聞いている。
「だが兄上は、私の想いには応えてやれぬと、突っぱねた」
「……」
「私の恋は終わったのさ」
「…兵馬さまを、諦めになられたのでございますか?」
「仕方が無かろう」
 紙を通してのやり取りでは、互いの面に表れる機微までは分からない。だが俊輔の受け答えは、淡々と澱みが無かった。伊都は俯き暫く黙っていたが、やがて
「嘘ばかり…」
 揶揄するように、小さく笑った。
「俊輔さまが、それで引き下がる訳がございませぬ。諦めないと、そう仰ったのでございましょう?」
「……」
「…仰ったので、ございましょう?」
 柔らかな声音が、いらえを迫る。
「私に隠し事は出来ないと、先ほど仰いました」
 観念が、俊輔の口元に苦い笑いを浮かべた。
「云った」
「ではそうなさいませ」
「……」
「生きて、生きて、生き抜いて…、どこまでもご自分の想いを貫きなさいませ。兵馬さまをお好きだと、その想いを胸に、お父上さま、兵馬さまのご無念をお晴らしなさいませ。兵馬さまは、あの世までご自分を追ってくる意気地なしの俊輔さまなど、お嫌いでございます」
 手厳しい言葉を浴びせながら、伊都の声は、いつの間にか泣き笑いになっていた。だがその声には、乾いた土に滲み入る慈雨のような優しさがあった。
「諦めてはなりませぬ」
 もう一度、伊都は小さく繰り返した。しかし兄への想いを諦めるなと云うそれは、もしかしたら、伊都が、伊都自身に己の想いを断ち切らせる為の言葉だったのかもしれないと、俊輔は思った。
「…伊都殿」
 俊輔は障子の向こうの影に向き直った。そして、
「すまん」
 低く頭(こうべ)を下げた。伊都は身じろぎ、戸惑うようにかぶりを振った。
「いいえ、いいえ…、謝られる事は何もございませぬ。兵馬さまへの想いを、辛さ故に諦めてしまう俊輔さまならば、私はきっと貴方さまを好きにはならなかったでしょう。…伊都の好きな俊輔さまは、ただただ真っ直ぐに、兵馬さまを追うお方です。…でも」
 伊都はふと言葉を止め、
「自分の想うお方が、他のお方に寄せる想いの後押しをするなんて…」
 おかしゅうございますね、と、矛盾する己の心を、湿った声で笑った。
 俊輔の脳裏に、合い引き橋を振り向かずに渡り走り去った小さな背が蘇る。伊都の想いを受け入れてやれなかった事が、今更ながらに胸を締め付けた。
「すまん」
「いいえ」
 伊都はすぐにいらえを返した。その声は、もう泣いてはいなかった。




 
 夜を重くしている晩夏の熱(いき)れに沈むように、ぎしりと板の鳴る音がした。咄嗟に、俊輔は顔を上げた。廊下に飛び出すと、大股で近づいて来る鳴滝の姿があった。
 凝視する俊輔の真正面で、鳴滝は足を止めた。
「残す思いは無いと、それが兵馬の今際の言葉だ」
 短い言葉だったが、己の背丈を越えた俊輔を見上げ、立ちはだかるように告げた姿には、若い魂の暴走を許さない威圧感がある。
「俊輔」
 強張った青い顔に、鳴滝は云った。
「お前は俺と、今から江戸を発つ」
 俊介は目を見開いた。
「鳴滝さま、大丈夫でございます、此処は誰も知りませぬ故…」
 俊輔の影に隠れるようにしていた伊都が、鳴滝を見上げた。
「いや、これ以上鈴木殿にご迷惑はかけられぬ。…内野の腹の底に在るのは、杉浦高継殿への私怨だ。高継殿に繋がる者は徹底的に息の根を止める、それがあやつの真の目的だ」
「ですが今外に出るのは危のうございます。それに江戸を発つと申されても、一体何処に行かれると…?」
「膳所に行く」
「膳所…」
 俊輔は、茫然と呟いた。
 それは兄兵馬から聞かされた、まだ見ぬ国元だった。一瞬、俊輔の胸に、云い難い高揚感が湧き上がった。其処に行けばまだ兄はおり、眩しげな眼差しを向け、健やかに笑いかけてくれるのではと…、有り得ぬと承知しながら思わずにはいられない幻影が、俊輔を惑わす。
「俊輔」
 しかし幻は、刹那に砕かれた。
「夜の明けぬ内に品川まで舟で下り、そのまま東海道を行く。東海道の方が人が多く、紛れやすい。まさか国元に潜むとは、内野達も思うまい。和殿と作治は、暫し俺の縁の有る寺に預ける」
 鳴滝の厳しい顔(かんばせ)は、起こった出来事は、二度と還れぬ過去になってしまったのだと告げていた。

 十五年の歳月を過ごした家に戻っても、名ばかり知る国元に行っても、兄はもういないのだ。
 膚には汗が滲むのに、足は砂に取られているように心許ない。すぐ近くで語る鳴滝の声が、作り物のように遠い。
 胸を貫く空(から)の筒が、虚しい音を響かせる。

「俊輔さま」
 伊都が、後ろからそっと袖に触れた。乾ききった魂を、包み込むような優しい仕草に、目の奥が熱くなった。その伊都の温もりに縋りかけた卑怯な己を振り切るように、俊輔は鳴滝を見た。
「叔父上」
 見詰めた眸に、迷いは無かった。
「膳所に、参ります」
 苦しみと悲憤の中から、今己の足で這い上がろうとしている少年に、鳴滝は慈しみを込めて頷いた。






 人がどれ程の苦悶にのたうち回ろうが、悲嘆にくれようが、時は残酷に刻みを続け、瞬時に今を過去に変える。その理(ことわり)に抗うこと無く、大川は夜の闇にひっそりと沈んでいた。
 伊都の乳母の家がある深川元町の隣は、紀伊家下屋敷の塀が連なる。そこを通り過ぎると、大川にぶつかる手前の小名木川に架けられた、万年橋がある。その袂にどう工面して来たのか、鳴滝は一艘の猪牙舟(ちょぎふね)を用意していた。吉原通いの遊客が使う猪牙舟ならば、夜更け、大川を下っていても不審には思われないだろうとの策だった。

「お元気で」
 舟に乗り込もうとした俊輔に、伊都が囁いた。
 月も無い闇夜では、伊都がどんな表情をしているのか分からない。だが伊都の望む答えを、生涯自分は返す事は出来ない。
「伊都殿も」
 有る丈の想いを籠めて、俊輔は闇に浮かぶ白い面を見詰めた。そして伊都から目を逸らすと、先に舟に乗りこんでいた鳴滝に向かい頷いた。それが出立の合図だった。
 
 櫓が川底を押し水を漕ぎ始めると、舟は舳先を川中に向けゆっくりと岸を離れ、程なく大川に出た。
 俊輔は闇を映した川面を見詰めた。そして光の一筋も無い其処に、初めての恋が終わった事を知った。






「やっぱり、気になる」
 不意に耳に届いた声に、田坂が八郎を見た。寸の間、ぼんやりしていたらしい。
「何がだ?」
 隙とあらば見逃さない恋敵の鋭さを、田坂は警戒した。
「今、ぼんやりしていただろう?」
「誰だってするだろう」
「そうかねぇ」
 顎に手を当てた八郎に、
「伊庭、やめておけ、切ない懐古を邪魔しちゃ悪い」
 土方が意地悪く口の端を上げた。
「ああ、師曰くの、初恋の相手を思い出していた訳か」
 それは悪かったと、詫びた笑い顔がわざとらしい。
「ま、勝手に思っているんだな。手あたり次第の、あんた達の昔と一緒にされちゃ困るがな」
「俺達とは違う、清らかな初恋って訳か」
 それでも八郎は、にやにやと田坂を見ていたが、ふとその視線が先に流れた。
「ぼんやりが、来たぜ」
 八郎に云われるまでもなく、田坂も気づいていた。人混みの中、探し物をするように、時折、四方に目を向けながら、坂を上って来る姿を。
「どうやら、終えたようだな」
 土方も目ざとく見つけていたらしい。憮然と呟いた。
「しかし…、何で気付かないかね、あいつは。これだけいい男が歩いているんだぜ。きょろきょろしなくとも、自然に目が行くだろう」
「確かに、鈍いと思う時はあるな」
 八郎のぼやきには、田坂も同感だったらしい。まだ気付かない総司に、声が不機嫌になった。だが自分を肴に勝手な遣り取りがされているなどつゆ知らず、漸く男達を見つけた総司が足を止めた。見上げた面輪に、みるみる安堵の笑みが広がる。

「何処に行ってしまったのかと、探しました」
 文句を云いながら、総司は機嫌良く坂を上って来る。
「雛祭は、終わったのかえ?」
「とても賑やかでした。子供達も喜んで…。でも芝さんが一番はしゃいでいたかな?」
「芝さんは、キヨさんに評判がいいからな」
 八郎が、ごちるように顔を顰めた。その途端、弾けるように総司が笑った。
 
 雛の節句の今日、診療所に患者として来る子供や近所の子供達と、雛祭をやろうと云いだしたのはキヨだった。家で寝ていて、往診を必要とする子供は、芝と田坂、そして八郎と土方が駆り出され背負って診療所まで連れて来た。皆、雛人形など持たない、貧しい家の子供達だった。今日は総司も非番を貰い、朝早くからキヨの手伝いに奮闘していた。そして皆が揃った処で、田坂と八郎、そして土方は外に追い出され、芝と総司だけが手伝いと云う事で残された。

「そろそろ風が冷たなるから、子供たちを送って欲しいって、キヨさんが」
「その為に、呼びに来たのか?」
 呆れた声に、
「その為に、寄ばれたのでしょう?」
 悪びれた風も無く総司は云う。
「俺達は忙しい」
「何が忙しいのです?」
 子供の送り迎えに使われるその事が不満なのは分かっているから、総司は悪戯げに八郎を見ている。
「名医の初恋を、拝聴していたのさ」
 その横から、今度は土方が、意地の悪い半畳を入れた。
「田坂さんの初恋?」
 驚いたように向けられた瞳に見詰められ、葉を滑り落ちた朝露が水面に輪を広げるように、田坂の裡に、もがき苦しんだ日々が蘇る。
 兄と同じ面輪。兄と同じ、射干玉(ぬばたま)の瞳。深い、漆黒の色。
 二度目の恋は、時を遡り、突然、目の前に現れた。

「どのような人だったのです?」
 好奇心を隠せない瞳に、
「さぁな」
 田坂は苦笑した。それは、自分自身への自嘲の笑いだった。
 先に差す光の欠片も見いだせなかったあの夜。もう人を想う事はないだろうと、初めての恋を終わらせた目に映った、闇の川。だが今自分は、再び人を想い、また片恋に煩悶している。
 
「田坂さん?」
 黙ってしまった田坂を、総司が不思議そうに見上げた。
「何でも無い」
 想い人の視線を振り切って、田坂は前を見た。
 好いていると、云ってしまえば、胸を締め付けるこの苦しみから、一度は解放されるだろう。だがそこから又新たな苦しみが始まる。ならば、告げても告げずとも同じか…と、吐息した時、
 俊輔さまの、意気地なし――。
 ふと声が、聞こえた。
 視線を巡らすと、邪気の無い笑みを浮かべた想い人が見詰めている。その横顔に麗らかな光が射し、散る。聞き違いかと思った時、
 ――諦めてはなりませぬ。
 今度ははっきりと、伊都の声が、からかっているように囁いた。
 それは、春信を乗せた風の悪戯だったのかもしれない。
 だが俊輔は眸を細め、遠くを見た。
 そして、
「そうだな…」
 口の動きだけで、懐かしい声に応えた。





短 編