霧杳 -muyou- (四) 相川瑞枝は、行灯の灯が闇を薄くしている室の中ほどに、まるで咎を受ける罪人のように、硬く蒼ざめた面持ちで端座していた。 そして次の間には、山崎とあと一人、監察方に席を置く若い隊士が控えている。 が、突然、長い閑寂を破る足音が遠くに聞こえたかと思うや、それは瞬く間に近くなり、やがて無遠慮に開けられた襖から、一挙に雪崩れ込んできた明るさに、瑞枝は怯えたように振り向いた。 ――もう、全ては昨日の事になってしまったのか。 時の流れの中を悪戯にたゆとうていた身には、其れすら分からないが、視界が紅一色に覆われた刹那、伏したまま微動だにしない若者の名を叫び飛び込んできた男は、今背後を廻り目の前で足を止めると、静かに端座した。 「待たせた」 低い声は、確かに眼(まなこ)に刻んだ同じ人間から発せられているのにも関わらず、あの時のような激しい動揺の様は微塵も無く、向けられた双眸は鋭利に研ぎ澄まされ、対する者を緊張の縄手で縛り付けずにはおかない。 これが新撰組副長の真の姿なのだと、切れ長の、幾分寂しげな感を与える眸が土方を捉えた。 「・・沖田はんは・・」 無事だったのかと、その土方に問う語尾が、戻る言葉を憂慮して沈んだ。 「無事だ」 だがいらえは即座に返り、その迅速さが、この男にとって、あの若者の存在が如何に大切なものであるかを、瑞枝に知らしめる。 そして素っ気無い程に短い言葉は、まだあれから幾刻も経てはいない惨劇で受けた心の傷に触れまいとする、不器用な心配りなのだと察した時、土方を凝視していた瑞枝の面から強張りが解けた。 「相川平蔵について、そして松原忠司との関わりについて聞きたい。・・あんたの姉が、相川の兄正一郎の妻女であり、そしてその相川正一郎を斬ったのが、松原忠司だと云うのは本当か」 だが土方は、自分が相手の心裡にそんな感情の綾を起こしたなどとは知る由も無く、相変わらずの抑揚の無い声で、更なる問いを投げかける。 「・・ほんまです。・・姉の奈津とうちは、三つ違いの姉妹でした。うちらの父は若狭藩の足軽でした。けど藩から頂くお扶持だけでは、到底食べては行けませんでした。せやし、雪の無い時には舟を出し漁をし、畑を耕し、そうして親子四人がようやっと暮らしてました。けどうちが十の時、父と母が乗った舟が時化(しけ)で海に沈み、うちら姉妹は親なし子になってしもうたんです。・・・何処の親類かて食べるのが精一杯で、とてもうちらまで養う事はできず、見かねた父の知り合いが、相川の家の下働きの口を見つけて来てくれたんです。そして其処には、正一郎さまと平蔵さまと云う、うちらとあまり年の変わらないご兄弟がいました。・・・今思えばその時が、うちら姉妹の地獄の始まりやったんです・・・」 過ぎし時は、この女性(にょしょう)にとって、憤りも哀しみも、既にそう云う一切の感情を持てぬ程に過酷なものだったのか、語る声は淡々と己の来し方を振り返る。 「・・・相川の家のあった郷は、よう霧が立ちますのや。奉公のあまりの辛さに、夜霧に紛れ、姉ちゃんと二人、幾度お屋敷から逃げ出そうとしたことか分かりません。けどその度に捉まってしもうて・・、罰として、うちらは書物に書いてあった、薬草を調合したものを飲まされました。・・・けどそのほとんどを飲んだのは、うちを庇ってくれた姉ちゃんでした。三日三晩、いえ、時には十日経っても毒が抜けず苦しむ姉ちゃんを、あの兄弟は眉ひとつ動かさず、面白そうに観察してました」 自分の身代わりとなった姉の辛苦に触れた時、言葉を繋いていた平たい調子が、ふと先を急(せ)くように崩れた。 どんな風に過去を葬り去ろうとも、それだけは瑞枝の中に残る、堪え切れない怒りの塊なのだろう。 そう判じつつも、土方は言葉を挟む事無く続きを促す。 「その相川の家に異変が起きたんは、奉公に上がって五年目の春の事でした。旦那さまがお城で刀を抜いてしもうたんです。そして直ぐに家に戻られはった旦那さまは、追手が掛からん内に、うちら姉妹を供につけ、正一郎さまと平蔵さまを逃がしはったんです」 「だがその事は、あんた達姉妹にとっても、逃げるに格好の機会だった筈だ」 それまで聞くに徹していた土方の疑問に、伏せがちにしていた瑞枝の目が上げられた。 「・・・確かに、云わはるとおり、それはただ一度、神さんがくれはった逃げ道でした。けどその前日、うちが平蔵さまに阿片を吸わされてたんです。・・・半ば正気も戻らず、足元も覚束ないうちを残して、姉ちゃんはひとり自分だけ逃げる事ができんかった・・」 悲惨な真実を語りながら、眸を潤ませるでもなく、声を震わせるでもなく、それどころか瑞枝はほんの微かに笑みを浮かべた。 しかしそれは頬に差す翳りを悪戯に濃くしただけの、酷く寂しげなものだった。 「逃げて、逃げて・・・、そして大坂に辿り着いて直ぐに、うちらは廓に売られました。元々、そうする為に、供にさせられましたのや。せやけど、あの兄弟から逃れられると思えば、どんなとこかて、うちらにとっては安息の場でした」 「だがそれが何故、相川正一郎は一旦売ったあんたの姉さんを、その後何年もして身請けした?」 「・・夫婦と云う形を、取り繕う為でした」 「取り繕う・・?」 訝しげな声に、瑞枝はつと視線を逸らせはしたが、直ぐにそれを戻すと、ゆっくり頷いた。 「元々、正一郎さまは女子(おなご)には興味があらへんお人でした。それが姉ちゃんを身請けせんようになったのは、弟の平蔵さまのお師匠はんが、外に作られはった赤子を引き取り、育てさせる為でした。・・・お師匠はんは、その子を大層可愛がっていたそうです。けどどうしても他所に知れては困る事情があって、其れを知った正一郎さまと平蔵さまは、その子を預かる事で、お師匠はんに貸しを作り、ゆくゆくは相川のお家再興の切欠にしようと・・・、そないに考えはったんです」 「ところが相川正一郎は松原に斬られ、その幼子もすぐに病死してしまった」 凡そ感情と云うものの見えない土方の語り口は、権謀術策を張り巡らし、挙句、何も得ずして敗北に終わった者達の空夢を、容赦無く切り捨てる。 「松原はんが、何で正一郎さまと斬り合いになったんか、それは誰にも分かりまへん。けどその夜、正一郎さまが出かけたのは、平蔵さまから預かった、人には云えん薬を、役座者に渡す為だったそうです。・・・もしかしたら、その場を不審と見咎めた松原はんが問い質したのが、争いの発端やったのかもしれんと、せやなければ、あの松原はんが理由無くして人を斬る筈が無いと、・・・姉ちゃんは、そないに云うてました」 真っ直ぐに向けられた視線は、姉の為に、自分こそがそう信じたいのだと訴えていた。 「けど亡骸になった正一郎さまを見た時、平蔵さまの事があった姉ちゃんは、どないにしたらええのか分からず、えらい動揺してしもうたそうです。そしてそんな様は、松原はんから、自分が斬ったとその場で云う切欠を失くさせてしもうた。けどそれは卑怯と違おて、あの時、正一郎さまの亡骸の前で言葉も無く震えるだけだった自分を、案じてくれた所為だったんやて、松原はんはそないな優しい人なんやて・・・そう、話してくれました」 優しい人なのだと告げた、その時の姉の様子を思い起こしたのか、瑞枝の双眸が穏やかに細められた。 それはこの女性も又、ようやっと土方に対する警戒と硬さを解いた証でもあった。 「・・それから直ぐに、預かっていた子も歿んでしもうて・・。松原はんはその時も自分の事のように、姉ちゃんの心配をしてくれはったんです。正一郎さまが亡うなった後、うちに会いに来てくれた時、まるで飯事(ままごと)のような暮らしや云うて、姉ちゃんは恥ずかしそうに笑おてました。けどあないに仕合せそうな姉ちゃんを見たんは、初めてでした」 「松原が当屯所内で切腹騒ぎを起こしたのは、知っていたか」 だが新撰組にとっては不名誉な心中事件に触れ、その真相を問い質す声は、些かも相手の感傷に流される事は無い。 そしてそれに、瑞枝はゆっくりと頷いた。 「これから先は、姉ちゃんが、最後に会いに来てくれた時に聞いた話です・・・」 再び語りだした声が、俄かに緊張を孕み硬くなった。 「ひと月近くも来ん日が続いて・・・、それで居ても立ってもおられんようになって、遂に新撰組にまで足を運んだ姉ちゃんは、近くで遊んでいた童に託を頼んだのやそうです。そうして待っていた場に現れた松原はんは、えろう痩せてしもうていて・・・。吃驚した姉ちゃんがわけを聞いても、大丈夫や、大丈夫や云うてただ笑うだけで、決して訳を教えはくれへんかったそうです」 ――何故、松原が腹を切ったのか。 確かにあの時屯所内では、夫を亡くした妻女と懇(ねんご)ろになるのが目的なのではと、世話を焼く松原に、好奇と侮蔑の言葉を口にする者もいた。 そして切腹自体も、それが未遂に終わったが故に、所詮は形づけに過ぎなかったのだと、大方が批判の目を向けた。 だがもしかしたら松原は、奈津と云う女への想いが深くなればなるほど、己のしでかした事への苦悩と、そしてそれを隠し続けている事への贖罪に苛まれ、あの事件を起こしたのではなかったのかと・・・ 今瑞枝の口から紡ぎ出される新たな真実を聞きながら、改めて松原と云う男の、裏表の無い、ある種不器用とも思える人柄を、土方は思い浮かべていた。 「それから松原はんは、又姉ちゃんの処に来てくれはるようになって・・・。姉ちゃんは、お腹にあった傷跡を見て息を呑んだけれど、松原はんはやはり何も云わんかったそうです。そして姉ちゃんも聞かなかんかった。・・聞いたら、松原はんがもう来てくれんようになってしまう気がしたんやと、寂しそうに云うてました。・・・そんな時やったそうです。平蔵さまが、姉ちゃんの前に現れたのは・・」 土方を見上げる瑞枝の眼差しが、一瞬、愛しい者を何処までも過酷に翻弄する天を怒り、勝気な色を湛えた。 「平蔵さまは正一郎さまを殺した松原はんと、そしてその松原はんを想い、尚且つ、お師匠さまからお預かりした子を歿なせてしもうた姉ちゃんが、許せんかったのです。平蔵さまは姉ちゃんに、正一郎さまを斬ったのは松原はんやと教え、その仇を討つのに手を貸すのは当たり前やと迫ったそうです。そしてもしもそうせなんだら、松原はんのした事を新撰組に洗いざらい話すと、そうなれば斬首は免れないと脅したのやそうです。けどそれを聞いた時、初めて姉ちゃんは、松原はんのお腹の傷の原因が、自分の所為やて知ったと云いました。松原はんは、正一郎さまを斬ったのを黙っているのが堪えられんようになって、自分のお腹を切ったんや、ほんまは何も隠す事は無かった、けど最初の時に、うちに伝え損なってしまったばかりに、新撰組の中で立場が悪くなってしもうたんや。あの人は優しゅうて、そんで阿呆や・・・、そう云うて、泣きながら笑ってました。・・・最後にうちに会いに来てくれた時、姉ちゃんは、松原はんの邪魔にはなりとうないと、覚悟を決めてたんですやろなぁ。 ・・・けど姉ちゃん、仕合せそうやった・・。今なら自分の身で、松原はんを助ける事が出来る・・・きっとそう信じてたんやと思います」 長い顛末を語り終えた瑞枝が眸を伏せた時、菜種油の中の灯芯が、短い音を立てた。 その、身を焼き尽くして火に変える様が、自らを楯に、大切な者を護ろうとした女の哀れと重なり合ったのは、闇を彷徨っていた想い人の魂魄が、己の腕(かいな)に還って来た刹那の温もりを、改めて思い起こしたが故の、感傷がさせるものなのか・・・ そんならしくも無い自分を、今だけは敢えて否定せず、土方は瑞枝に視線を戻した。 「松原が心中を図った時の記録書によれば、女が胸をついた後、止めに首筋を切られるまで、ほぼ半日のずれがあったらしい。其れは周囲に付着した血痕の乾き具合で分かった。そのような状況から察するに、松原が行った時には、あんたの姉さんは既に胸をついており、あやつがその介錯として喉元を切り、そして返す刃で今度は己の腹を切った・・・、そう考えるのが自然だと、現場を見た監察の者も云っている」 事実だけを告げる声が余韻も残さず空(くう)に消えた時、土方を凝視し、結ばれたままだった唇が、再び動きかけた。 「・・松原はんと姉ちゃんの事件は、平蔵さまの怒りに火をつけただけでした。・・・そして収まらないその怒りは、ふたりの命日の一のつく日に、時折、松原はんのお墓参りをしてはった沖田はんに向けられたんです・・正一郎さまを殺され、自分も希を絶たれはった平蔵さまの無念の矛先は、もうどこでも、誰でも良かったんです」 「あんたが身請けされたのも、それが為か」 「松原はんと親しい間柄やったら、もしかしたら姉ちゃんの顔かて知っているかもしれへん。せやし、似ているうちの顔を見ればきっと誘いにのると、平蔵さまは月日をかけ、周到に計画を立てられたのです。・・・けどその日は、うちにとっても、ひとつの覚悟の時でした」 「あんたの姉を自害まで追い詰めた相川への、仇を討つと決めたからか」 「・・それもあります。・・けど平蔵さまがいる限り、うちは一生あの人、いえこの定めから、解き放たれる事はありませんのや。・・其れが束の間でもええ、松原はんに出会おうた姉ちゃんのように、嬉しそうに笑ってみたい・・・そう思うた時、うちは平蔵さまを殺(あや)めようと、鬼になりました。・・・沖田はんの心の隙を突くために、平蔵さまは、家の中に薬草と、少しの阿片を焚き染めました。そしてそれは沖田はんだけではなく、匂いに敏感な筈の平蔵さまの嗅覚をも、同じように鈍らせると思うたんです。・・・それを信じ、うちは刻み煙草に毒を仕込みました」 秘めるには、あまりに重過ぎる真実を吐露し終えた後、紅も差さない乾いた唇が、静かに、そして堅く結ばれた。 其れは己の為した事を正義と捉えるよりも、未だ贖罪に震える瑞枝の慄きを物語っていた。 「・・・姉ちゃんに手を引かれて、正一郎さまと平蔵さまの後について郷を出た朝、先も分からんような深い霧が立ちこめてました。足元も見えんその中で、うちは姉ちゃんの手の温もりを離すまいと必死でした。・・・けどうちはあれからずっと、霧の中から抜け出せずに彷徨っている気がします」 やがて遠くに視線を投げ、無理やり浮かべようとした笑みはひどく哀しげで、それを隠すように、面は伏せられた。 土蔵の、湿り気を帯びた黒土の上に安置された松原の亡骸の前に膝まづき、筵(むしろ)から出ていた手を、身じろぎもせず握り締めていた薄い背を、土方は未だ鮮明に覚えている。 あの時自分は、確かに云った。 生きて安らぎを得られなかった者が、その逃げ道として選び取った死で、安息など得られる筈が無いと――。 あれはまだ総司の想いに気付いてやれず、そしてそれ以上に、自らの総司への想いを、己自身に知らぬ振りをしていた時だった。 だが仮に、愛しい者が、この身の為に自らを挺し苦悶している姿を目の当たりにしても、自分は松原のような行動に移せるのか。 即座に苦痛を消し去ってやり、自分も又共に浄土へ旅立つ、それが出来ると云うか。 応えは、即座に否と返せる。 もしも。 もしも総司が己の身に刃を立て終(つい)を迎え得ず、苦しみに悶えている姿をこの眼(まなこ)に映しても、自分は決して安楽を許しはしない。 その息が絹糸よりも細くなり、やがていだく身から人としての温もりの一切が消え去っても、掴んだ手を離しはしない。 握り締めている手指が、屍のそれになろうとも、この身から離れる事を、自分は総司に許しはしない。 松原が人として、想う者とあの世に渡ったのならば、自分は現世(うつしよ)で修羅となり、愛しい者を離しはしない。 改めて己の残酷さを垣間見、しかしそれを良しとして揺ぎ無い冷酷さを見据えつつ、土方の視線が瑞枝を捉えた。 「松原の心中が発覚したあの日、その片割れであった女の亡骸は、光縁寺の前の綾小路通を、少しばかり東に行った処にある瑛泉寺で供養して貰ったと、後を任せた家作の主が律儀に云ってきたそうだ」 話の流れを継ぐでも無い語りの意図するものが何であるのか――。 あまりに唐突な言葉に、切れ長の目が少しばかり不安げに土方を見上げた。 「其処の住職に聞けば、あんたの姉さんを葬った墓が分かるだろう」 感情と云うものは一切表に出ない、平坦な物云いだったが、その瞬間、土方を映し出していた瑞枝の眸が見開かれ、そしてそれは間を置かず透けた水の膜に覆われた。 「・・沖田の命脈、救って貰った」 その一筋が頬を伝わった刹那、瑞枝の耳に、それまでよりも少しだけ柔らかな声音が届いた。 「礼を云う」 ぼんやりと霞む目の前で、ゆっくりと下げられた頭(こうべ)に、翳りを濃くした面差しが小さく首を振った。 「起こしてしまったか」 この鋭すぎる勘の持ち主が、人の気配を感じ取らずにいない訳は無いと思いつつ、それでも敢えて問う過ぎた杞憂を、土方は苦笑した。 「寝てなどいなかった」 案の定、間を置かずして、手習いのさらいのようないらえが戻った。 ――相川平蔵の一件から、既に五日が経っていた。 総司の身は、田坂の的確な判断と処置により、今一歩の処で事なきを得た。 だが嚥下した毒は元々の宿痾を直截に刺激し、床についたまま、高熱に魘される日が続いた。 その間、昼夜の境も無く、時を定める事も無く、時折、瞼は薄っすらと開かれるが、又直ぐに闇に引きずられるようにして眠りにつくと云う繰り返しだった。 そんな総司の傍らで土方は、握る手に力を籠める他、苦しげな息のひとつも和らげてはやれぬ己の無力に、苛立ちを募らせる他無かった。 が、案じられた容態もどうやら落ち着きを見せ始め、周り者の愁眉を開かせたのは、ようよう一昨日当たりからの事だった。 行儀悪く胡坐をかいた土方を、括り枕の上の面輪が、衒いの無い笑みを浮かべて見上げた。 「松原さんと一緒に亡くなった女の人が葬られた寺、光縁寺の近くだと、山崎さんが教えてくれたけれど・・・」 土方が落ち着くのを待っていたかのように、まだ色と云うものの無い唇が、少しばかり躊躇いがちに、問いかけの言葉を紡いだ。 「山崎が云ったのならば、そうだろう。俺は知らん。他人の色恋沙汰にまで首を突っ込む暇はない」 が、土方は、今こうして総司が床に臥さねばならなくなった、あのおぞましい一件を再び思い起こす事を厭うのか、端正な面を歪め、これ見よがしに不機嫌を露わにした。 「その女の人、松原さんの事を本当に好いていたからこそ、邪魔にはなりたくなかったのではないのかな・・・」 が、土方の怒りに遠慮するように、声は幾分頼りなくなったものの、総司は執拗に食い下がる。 「松原さんの事が、自分よりも大切な人になってしまったから、その松原さんにとって、自分が苦しむばかりの存在であるのならばと、あんな風に追い詰められてしまったのだと思う・・・」 遂には苛立ちすら宿した視線に射竦められ、流石に瞳は伏せられたが、伝えたいと念じる思いだけは、最後まで途切れる事は無かった。 更に一瞬できた気まずい沈黙もそう長くは続かず、再び見上げた瞳は、今度は怯む事無く土方を捉えた。 「・・・薬を飲まされた後、色々なものが、色々に見えたのです。伸ばして掴んだ筈の刀が、いつの間にか大きな蛇に変わっていたり、沢山の蜘蛛が、指先から腕に這い上がってきたり・・・あまり良くは覚えていないけれど、最初はそんな風だった」 厭夢の残像を語り始めた調子は、淡々と、乱れる事は無い。 だが言い替えればそれは、その先に在る記憶の方が、総司にとって、遥かに辛く苦しいものだからなのだろう。 そう判じた土方の双眸は、無言で想い人の蒼い面輪を見つめる。 「そのうちに、外の音は何もかも聞こえなくなって・・・。気がついたら、辺りは、少しの先も見えない深い霧の中だった。どの位その中を彷徨っていたのか分からない・・・けれどふと遠くから、土方さんの声が聞こえて来たのです」 聞いて欲しい相手を少しでも間近に捉えようと、細い喉首がしなるように反り返り、その分、深い色の瞳が鋭角に土方を見上げた。 「私は土方さんの呼ぶ声に、必死に応えた。けれど声は段々に遠のいて行き、私は焦るばかりだった。そうしているうちに、今度は土方さんの姿が霧の中に浮かんだのです。土方さんだと、私は直ぐに走り出そうとしました。でもその途端、誰かに足首を強く掴まれ、勢いのまま倒れてしまったのです」 土方を凝視しながら語る総司の声が、幼子が、懸命にその時の情景を言葉にしようするが叶わず、そのもどかしさに苛立つにも似て上ずる。 「邪魔をするのが何か、咄嗟に後ろを向いた私の目に映ったのは、私自身だったのです」 「お前自身?」 眉根を寄せた土方に、見上げていた面輪が、一瞬の躊躇の後、寂しげな笑みを湛えて頷いた。 「・・・地から這いいずるようにして上半身だけを出し、足首を掴んでいたもうひとりの私は、私を土方さんの処には行かせはしないと、憎憎しげに膚に爪を喰い込ませたのです。・・そしてその指を解こうと上げた手を、今度は又別の誰かに掴まれて・・・。驚いて振り返った其処には、又も違う自分がいたのです・・・足を掴む自分も、手を掴む自分も、私を土方さんにの元には決して行かせはしない、触れはさせない、そう云って笑っていた・・・」 「とんだ化け物にあったものだな」 全ては飲まされた毒が見せた夢幻だったのだと、強引に引導を渡しかけた声に、しかし総司は小さく首を振った。 「・・・あれは、みんな私だった」 「顔だけは、だろう」 「姿形じゃない、・・・本当に私だったのは、その心だった・・」 「心?」 不審を露にしながらも、総司の言葉が孕む真実を見極めようと、土方の双眸が、直ぐに視線を逸らせてしまった主を鋭く見据えた。 曖昧な筈の記憶の中で、何故其れだけを克明に覚えているのか。 今も総司の口を重くしているものの正体が、一体何なのか・・・ 「どう云う事だ」 其れを知りたいと、否、知っておかねばならないと、土方は、想い人が心の裡を明かす次の言葉を促す。 それは労わりも、柔らかさも無い物言いではあったが、だが総司が胸に抱える闇を強引に引き出し、囚われている呪縛から解き放ってやりたいと願う、土方なりの優しさだった。 そしてその優しさは、総司から逃げ道を奪う。 やがてぎこちない無言の時に堪えかねたのか、伏せていた瞳が宙に向けられ、小さく息を飲み込むと、細いが、形の良い流線を描く唇が今一度動いた。 「・・誰にも土方さんを触れさせたくはない、誰にも土方さんに近寄らせたくはない、誰かが語りかけることも、笑いかけることも嫌だ。私はそんな人間なのだと・・・、あの時、幾つもの自分になって現れたのは、強欲で自分勝手な本当の私だった。そしてそんな自分自身を見せ付けられた時、私はいつか土方さんを、自分の想いで雁字搦めにしてしまうと恐怖した。・・・あの女の人は、その事を知っていたのです。だからこそ、松原さんの邪魔にはなりたくなかった。自分の想いの強さ故に、松原さんを縛り、先まで閉ざしてしまうのを、見ていられなかったのです」 一度も息を継ぐ事無く一気に語り終えたのは、もし僅かでもそうすれば、悲鳴をあげ砕け散ってしまう総司の心がさせた、せめてもの砦なのだろうと・・・ 硬質な横顔を見詰めつつ、土方は思いを馳せる。 しかし必死で築き上げているその囲いを、今土方の裡で猛烈な勢いで湧きいずるいとおしさが、一瞬にも満たずに蹴破ろうとしているのを、宙に視線を定めたままの総司は知らない。 何と応えて良いのか、どうすればこの胸の裡を語り尽くせるのか、土方はその術を知らない。 どうしてこの者は、こんなにも残酷に、これほどに愛しくそして恋しく、自分を追い詰めてくれるものか――。 その全てを教えてやる術を、知らない。 それが土方を苛立たせる。 いらえの貰えぬ沈黙は、総司には針の莚にも値する。 こんな自分は、きっと土方の邪魔になる。 土方が恋しくて、あまりに恋しくて、だからきっとこの想いはいつか土方を縛りつけ、動けなくしてしまう。 己の業の深さ浅ましさに、再び瞳を伏せ唇をかみ締めたその寸座、無防備に晒していた左の手指が温(ぬく)い何かに包まれた。 其れが人の掌だと知った瞬間、慄きで途惑う瞳が、躊躇いながら土方へ向けられた。 だが土方は無言のまま、今度は更にもうひとつの掌を上に重ねた。 そしてその刹那、総司の裡に、ひどく懐かしい、そして何よりも深い安寧の瞬間が蘇った。 更に来し方を静かに手繰り寄せる波は、忘れ得ない記憶を運んでくる。 還って来いと・・・ それは彷徨う霧杳の中で聞いた、現世(うつしよ)へ導く強い声だった。 呆然と見上げる者と、其れを受けて見下ろす者の、温もりだけを分かち合う時は、どれ程続いたのか・・・ やがて土方の堪え性が、先に根を上げた。 「お前が動けるようになったら・・」 云い掛けて、ふと言葉を止めたのは、傾いた天道の陽が、見上げている面輪の線を曖昧にする所為か、それとも、らしくも無い優しさを、言葉にするに憚る所為なのか・・・ 「・・墓参りに行くか?」 それは紛れも無く後者なのだと知る物言いは、掛ける言葉を短くし、誰のとも、共にとも、敢えて云わずに告げる声は、慣れぬ情を隠すが故に、愛想の無さだけを先走らせる。 だがいらえの寄越さぬ不満に目線を戻せば、其処には、息をも止めてしまったかのように身じろぎせず、見開いている深い色の瞳があった。 が、短気な双眸に捉えられるや、其れは慌てて逸らされかけたが、次の瞬間、その動きは突然に止まり、そして自由の利く右の指が、咄嗟に瞼を覆った。 そのまま総司は片手の甲を目に押し当て動かずにいたが、やがて其れにも堪え切れなくなったのか、とうとう薄い背を砦にするように、土方に後ろを向けてしまった。 「総司」 叱っても、いらえが戻らない事は承知している。 それでも今は、この愛しい者を責め続けてみたいと駄々を捏ねる己の癇症を、土方も堪えはしない。 「・・総司」 呆気ないほど簡単に落ちる初秋の陽は、酷な暑さの仕舞いを教える安堵と、そして何故かそれを寂しいと思う勝手の両方を、人の心に忍ばせる。 振り向いてはくれぬつれなさと、包み込んでいる指が、掌の中で、離れまいと必死に力を籠めている切なさを、そんな他愛も無い感傷に紛らせて、土方は、又しても己の負けに遣る瀬無い息をついた。 霧杳 了 |