| お詫びのあとがき 毎回毎回、『お詫び』のあと書きをつけなければならないのは、いつもながらに恐縮の限りですが・・・ 腐女子の邪な視点から歴史を見、更に其処から膨らませた妄想ともなると、どうしても『あとがき』なるもので、『なるべく正しい補足』をしないわけには行かず・・ 本当に申し訳ありません。。。。 『なんとなく』、そーゆー話しを作ってみたいなぁ・・と、又もいい加減に思って書き出した切欠は、『丁稚とお嬢さんの恋』でした。 但し、それに関しては、書き始めて5行目くらいで『パス』でした。(反省の出来ない、見切り発車のツケです。。) でもま、いちおー商人(あきんど)と言う事で、すぐに頭に閃いたのは、『近江商人』。 近江の国で生まれ育ちながら、他国へ出て店を開き商売をしたのが、近江商人の特徴と云う事でした。 又その歴史を調べてみると、近江商人と云う語源は、時代時代によって近江近辺の、ごく限られた地から出た商人の事を指すのだと分かりました。あい。 江戸後期においては、幕藩体制の崩壊によって、一気に彦根藩から出た商人の事を云ったようです。 そーゆー訳で、必然的にターゲットは『彦根藩』(笑ひ) そしてそうなると、俄かに自分の中で浮上したのが、『桜田門外の変』 しかもこの事件によって彦根藩は、禄高削減、そして短期間での復石。 それには藩を挙げて、相当必死だったのだろうなぁ・・と、ぼんやり思っていたところに、又も『何の連脈も無く浮かんだ』のが、かの名刀菊一文字則宗。 (流石に自分でも呆れました(−−)) で、菊一文字の存在が一番有りそうな、福岡一文字派の祖、則宗の故郷備前を調べてみたら、何と、当時の岡山藩藩主は、あの安政の大獄から、桜田門外の変に至り、彦根藩とは仇敵となった水戸徳川家出身で、後の十五代将軍徳川慶喜の実弟。 その岡山藩主に関して言えば、かなりの勤皇倒幕思考の持ち主だったらしいのですが、その人となりまでは分かりません。勉強不足で、ごみんなさい。。。 そんなこんなの繋がりに、腐女子ならではの邪な妄想を逞しくして、今回の話しが出来ました。 (『ヤマなし、オチなし、イミなし』の結果は、この際もう棚に上げて下ろしません) ところで。 何かと悪者にされる井伊直弼ですが、彼は第11代藩主直中の14男として生まれたのです。 無論部屋住み。お兄さんたちが、あっちこっちに養子の口を得て出て行っても、彼にはその声すら掛からず、長く不遇の時代を送り、12第藩主の兄が病死したことで、一気に運が開け、13代藩主となったそうです。(その前に養子口が見つかっていれば、藩主になれなかったと云う、稀に見る強運の持ち主!) 直弼は禅を極め、居合術と槍術では達人であったといわれています。 そして強い攘夷思想の持ち主であったとも。 ですがその自分の思想を抑え、彼は日本全体の為にと言う、当時ではとても大きな視野で物事を判断し、開国へと門戸を開きました。 一説によれば、既に大老に就任した時から、自分の身の行く末の覚悟は決めていたとも。 井伊直弼と云えば、つい敵役のイメージが先行してしまいましたが、今回色々知ることで、彼への認識は180度転換し、改めて歴史って面白いな・・と、思いました。あい。(いえ、腐女子としての観点を除けても・・) ただ、彦根藩に関しては、大政奉還後、朝廷からの呼び出しに、殆どの藩が日和見的な立場に居た中、直ちに藩主直憲が上洛、その後も新政府軍への恭順を示し、鳥羽伏見から会津戦争まで、反幕軍として積極的に戦いました。 近藤勇が流山で大久保大和と云う偽名で投降した際、それが新撰組局長であると見破ったのも、彦根藩士でした。 譜代筆頭である彦根藩のそういった協力的な行動は、薩長軍をも驚かせたようですが、それを『裏切り』ととるのか、それとも『抜け目がない』と取るのか・・色々な考え方があったのでしょうが、ワタシは、『それも生き延びる術だったのだろうな』と思いました。 (それで家老の外木さんのような人物が、出来てしまいました。ありゃ。。。。) 藩がひとつの国だった時代、それぞれの藩が、時代の奔流に如何に流されまいか試行錯誤を繰り返し、国を、故郷を護ってきたのだなぁと、そんな風に思いました。 そんなこんなで、今回も見事に『や・お・い』に徹して、強引に終結と云う事で、此処までお付き合い下さいました皆様には、本当にお詫びの言葉もございません。 こんな好き勝手な話でも『読んだよ』と仰って頂けたその一言で、幾度か途中でパスしようかな・・と悩みながらも、無理矢理ではありますが、取り合えずお終いにする事が出来ました。 気がつけば、ひたすら無駄に長い話になってしまいましたが、読んでくださいました皆様に、心から感謝し、御礼申し上げます。 本当に、ありがとうございました。 2004.12.24 ももの木ちい |