暮れの夏
台所で微かに物音がしたとおもったが、それはどうやら錯覚だったらしい。にも拘わらず、まだ未練がましく気配を求めて動かない足に、歳三は忌々しく舌打ちした。今日の自分は、らしくも無く拘りが強い。そんな苛立ちを断ち切るように踵を返そうとしたその時、ふと、勝手口から差し込んでいる陽が視界の端に入った。改めて目を向けると、まだ昼八ツ(午後二時頃)を回ったばかりと云うに、日の傾き方が、ずいぶん鋭くなっている。暑いばかりと思っていた日々も、気づかぬ内に、少しずつ次の季節へ移ろい始めていたのだ。
歳三は暫くその陽を見ていたが、やがて上り框まで行くと其処に腰を下ろした。しかし目線の位置が低くなった途端、今度は入れ替わるように、この土間に立っていた勝太の姿が脳裏に浮かんだ。研ぎ澄まされた端正な容貌が、苦く顰められた。
――試衛館には、明日来るつもりでいた。それを今日にしたのは、或る気まぐれな思いつきからだった。
降りかかる蝉しぐれの坂を上りきり、笠の紐も解かずに勝手口に回ると、台所には勝太がいた。突然姿を見せた歳三に、勝太は、厳つい顔に笑窪を刻み片手を上げ出迎えた。しかし歳三は、眉をひそめた。当然、居ると思った者の姿が無かったのだ。
宗次郎はと問うと、周斉の使いで飯田町まで出ていると答えが返った。宗次郎が周斉の使いをするのは、珍しい事ではない。しかし勝太の笑い顔を見る歳三の胸に忽然と湧いたのは、己でも云い様の無い不快な感情だった。
行った先は義父(ちち)上の碁の相手で…と始めた勝太を、遊びの使いならば自分で行け、と吐き捨てるように遮った時、勝太は唖然と目を瞠った。何が歳三の怒気に触れたのか分からず、小さな眼を一杯に広げている。その顔に、更に苛立ちをぶつけるように、歳三は荒々しく背を向けた。
それが、一刻ほど前の事だ。
勝太はさぞ驚いた事だろうと、板敷の熱を敷きながら、歳三は苦笑した。だがあの時の感情は、己にすら判じかねるものだったのだ。それでもこうして季節の狭間を感ずる程に心の余裕が生まれれば、多少の罰の悪さも覚えないではない。
…勝太に、酒でも買って来るか。
そう思った時だった。遠くで声がした。声変わり前の少年の澄んだそれは、終わりの夏の陽のように、何処と無い儚さを秘めている。
ああそうだ、と、歳三は思った。
自分は、今宵神田で催される小さな神社の夏祭りに、宗次郎を連れて行ってやろうと思ったのだ。祭りがあるのに気づいたのが昨日の事だから、無論、宗次郎はまだ知らない。知ったら、さぞ喜ぶだろう。そんな、らしくも無い親切に苦笑しながら着いた試衛館に、だが宗次郎は居なかった。待っていれば帰って来るのは分かっている。それでも、出迎えた最初の人間が宗次郎で無かった事に、己は無性に腹が立ったのだ。そしてその苛立ちを、勝太が蒙った。
土方さんが?と問うている声が弾んでいる。教えているのは勝太だろう。勝太への気まずさが、少しばかり増す。
人の好い友には、不機嫌の理由を女で揉めたと云う他ない。それで十分納得する勝太だった。だが夜通しの付き合いは、覚悟せねばならない。酒が過ぎると、勝太は、あれで中々絡み泣き上戸なのだ。
胡坐の上に頬杖をついている背が、憂鬱そうに溜息をついた。だがそう思う間もなく、走り来る下駄の音は近くなる。
歳三は、ゆっくり目を上げた。
勝手口から差し込む陽は、いつの間にか竈まで届いている。それは、行く夏に名残を告げるかのように、やさし色を帯び、ぼんやりと、あたりを白い光でつつんでいた。

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