於ひな語り あたしは、元は遠州の生まれなんですよ。そう、箱根のお山の向こう。江戸には、髪結いをしていた伯母の貰われっ子として、十の時に来ました。だから生粋の江戸っ子じゃありませんよ。でもね、長いこと江戸の水に浸かっていれば、徳川さまの肩を持っちまうのは仕方の無い事なんですよ。そんな訳で、お宅さまがどう云うお仕事の方か存じませんが、もし官軍贔屓なら、話の途中で腹が立つ事もございましょう。その時は、どうかご勘弁くださいよ。 そうですねぇ・・。 ああなるのは時代の流れで仕方が無かっただなんて、今じゃご一新の事を、猫も杓子も訳有りな顔して云いますけれどね、それが心底良かったと云い切れる人間は、ごくごく少ないんじゃないんですか。何故だって?そりゃ、江戸が変わって行く様を、この目で、つぶさに見てきたからですよ。 徳川さまが負けたってのは、今までお禄を頂戴していたお旗本、お大名の皆さんが、喰いぶちを失くしちまったって事ですよ?それだけじゃない、そう云う殿さま方相手に商売をして来た商人(あきんど)も、その又下で働いていた町のもんも、その翌日から、仕事にあぶれちまったんです。天地をひっくり返したような日々がやって来るのに、そう時はかかりゃしませんでしたよ。 千代田のお城の明け渡しには、一滴の血も流れなかったらしいですけどね、確かにその場で血は見なかったでしょうよ。けど、清水に垂らした墨のように、ご一新と云うのは、誰の暮らしにも、多少の苦労を塗りつけちまったんですよ。 官軍ってのが、西から流れ込んできて、徳川さまが千代田のお城を明け渡しちまってから、えっと・・、そう十年も経つかしら。 閏年でね、季節は青葉に代わる頃だった。 うちの亭主なんざ、その日一日飯も食べず、ひと言の物も云わず、お城の方角を睨みつけていたっけ。あたしは、この人は石になっちまったのかと思いましたよ。 うちの亭主は、猿若町で岡っ引きをやっていましてね。お上(かみ)の裾野の、又その裾野位の仕事をしていましたから辛かったんでしょうねぇ。そう、亭主は、世間さまで云う「髪結いの亭主」だったんですよ。あら御免なさい、つい声が湿っちまって。ご一新の事に触れると、あたしは死んだ亭主の気持ちが可哀相でならなくて・・。頭ではとっくに終わったつもりでも、心はまだ昔話には出来ないんでしょうねぇ。 そうそう、お宅さまが聞きたいのは、宗次郎ちゃんの事でしたね。 本当はね、話したく無いんですよ、あの子の事は。亭主の事は、時折、誰かに話したくてたまらなくなるのに、あの子の事は、もう十年にもなるのに、まだ話したく無いんです。可哀相とか、寂しいとか、そう云うのとは少し違うんですよ。言葉にするのは難しいんだけれど、ひっそりと、胸の奥に仕舞っておいてやるのが、あの子が一番喜ぶような気がしましてね。・・まぁそう云う曖昧な気持ちがひとつくらいあってもいいんじゃないかって、思うんですよ。 でも松前屋さんからのご紹介じゃ、話さない訳には行きませんね。ああ、そんなに頭を下げないで下さいよ、大した話はできませんから。そうですね・・、何から話したら良いんでしょうねぇ。 昔の、事ですよ。 猿若町に、腕の良い大工で、松吉さんと云うお人がいましてね。その連れ合いのおゆきさん。この人が又、心根の良い優しい人で、年はあたしの方が上だけれど、仲良くさせて貰っていました。その松吉おゆきさん夫婦が、妙な縁で、一晩、迷子を泊める事になりましてね。それが宗次郎ちゃん。その時九つで、牛込柳町にある、やっとうの道場の内弟子でした。翌日、捜し回っていた兄弟子さんが町に来て、それであの子は無事に帰ったんだけれど、その後も時々遊びに来るようになったんですよ。 おゆきさんもあたしも子供がいないから、年に幾度か来る日を心待ちにしていました。それが十年も続いたかしらね。今思えば、あの頃が一番幸せだった。 ある年の暮れ、いつものようにやって来た宗次郎ちゃんが帰り間際になって、道場の皆さんと、京に行くと上ると云いだしたんですよ。しかも出立は、年が明けたらもうすぐだって云うじゃありませんか。宗次郎ちゃんを知っている町のもんは、慌てた慌てた。 その頃の京は物騒だと聞いていましたからね。それにあの子は幾ら鍛えても肉が付かない、いつまで経っても頼りない身体つきで、それどころか、本当はそう云う激しい動きはご法度の質だと、佐古先生が云ってましたから。あ、佐古先生ってのは、町のお医者さん。お年は寄りましたけど、まだお元気なんですよ。ちょっとお耳が遠いかしら。 まぁ、ともかくそう云う事情で、みなで止めに掛ったんだけれど、本人は出立前の挨拶で来た位だから、それで引き止められる筈も無くて、結局あの子は京へ行ったんです。 松吉さんもおゆきさんも、大層心配してねぇ。でもその年の秋頃だったかしら・・・。宗次郎ちゃんから、文と一緒に、松吉さんには煙管(きせる)、おゆきさんには簪が届いたんですよ。 ふたりとも、そりゃもう大騒ぎ。すぐに寺子屋のお師匠さん処に駆けこんで、それを読んで貰ったの。町の者は、みな、字なんか読めやしませんからね。 中には、会津のお殿さまが後ろ盾になってくれて、京の町を守る仕事についたってな事が書いてありましたよ、確か・・。それを聞きながら、みなで、あの子にそんな大役が出来るのかと案じたり、偉くなったと鼻すすったり、それで又大騒ぎ。 何度も何度も読み返せって云われて、最後にゃ、お師匠さんが喉を枯らしちまったっけ。ほんと、思い出すと今でも可笑しい。 そんな風にして、何年経ったんでしょうねぇ。 便りは忘れた頃に、でも滞る事無く、ふたりの元に届いていたんですよ。松吉さんもおゆきさんも、それを宝物のように、大事にしていました。けどそう云う幸せな時は、長くは続かなかったんです。 宗次郎ちゃんが京へ行って、五年も経った頃かしら。 江戸にも落ち着かない風が吹き始めましてね。実はその前から一年ほど、あの子からの便りが無くなっていたんですよ。だから松吉さんもおゆきさんも、ずいぶんと案じていました。 そんな町のもんの心配をよそに、開けたお正月。西でいよいよ、徳川さまの軍と薩長の軍が、戦を始めました。 おゆきさんは、浅草の観音さまへお百度を踏み始めました。松吉さんも、煙草を止めましたっけ。二人とも、宗次郎ちゃんが無事に帰って来ますようにって、願をかけていたんですよ。 それでも、あの子から便りは来ませんでした。 それが、雪が解けて桜が咲いて、それも散りかけたある日のことでした。 もう寝ようと、行燈の灯の始末をしかけた時、戸口が小さく叩かれたんですよ。亭主が誰だって聞くと、何とおゆきさんだったんですよ。 何事かと、慌てて家の中に入れたあたしに、おゆきさんは、明日一日、暇を作ってはくれないかと云うんです。それも見ているこっちが、どうしたのかと、思わず聞きたくなるような真剣な顔で。おゆきさんは、髪を結って欲しい人がいるんだと云うばかりで、それ以上は何も話そうとはしません。でもその話を、あたしは引き受けました。だってあんな顔を見ちまったら、嫌と云えるのは鬼だけですよ。それ位、あの時のおゆきさんは必死でした。 翌日、まだお天道さんも昇ったばかりだってのに、おゆきさんは、約束の刻限よりも小半刻も早く迎えに来ました。 寝ていなかったのは、すぐに分かりましたよ。目の下に薄く隈ができていたし、それに目も赤かった。でも驚いたのは、家、・・と云っても、あたしは廻りの髪結いだったから、亭主と二人、裏店住まいでしたけどね、その裏店の木戸に、駕籠が待っていた事ですよ。おゆきさんの分と、二挺。しかも法仙寺駕籠ですよ。吃驚しましたとも。そりゃぁ、大店の女将さんが、急に髪を結わなくちゃならない用事が出来たとか、そんな時には駕籠を回して貰った事もありますよ。でもあたしらには、やっぱり縁のない贅沢ですよ。 それを見て、あたしは、こう、体の中にピンと一本、糸を張りました。尋常じゃない事が待っているんだと、そう思いました。 あの頃の江戸の町は、物騒を絵に描いたようなものでした。 やれ戦が始まる、火が放たれると、そんな噂ばかり。お大名はお国元へ帰られちまうし、江戸を捨てて、一早く逃げてしまった大店もありましたよ。でもあたしは、江戸が江戸じゃなくなるなんて信じられない思いで、駕籠の引き戸を少しだけ開けて、流れて行く景色を見てました。 そうして、どの位揺られていたんでしょうねぇ。 途中、千代田のお城が見えて来たんです。その時でしたよ。ふと、おゆきさんが連れて行こうとしているのは、宗次郎ちゃんのところじゃないのかと思ったんです。もちろん、思いつきでしたけどね、でも思いつきだって、心のどこかにそう云う抽斗(ひきだし)がなけりゃ、辿りつかないものでしょ?ああ、行くのは宗次郎ちゃんの処だ、きっとそうだ、そうに違いないと、お城が見えなくなる頃には、あたしはすっかり決めていました。あの子は無事だったんだと、ほっとしました。けどすぐに、おゆきさんの憂い顔を思い出しましてね。もしやあの子に何かあったんじゃないのかと、今度は心の臓がどきどきして来ました。そうなると、駕籠の速さがじれったくってねぇ。何度声を荒げそうになったか分かりませんよ。短気なんですよ。いやですよ、笑わないで下さいよ。 ようやく駕籠が止まったのは、焦れて焦れて、焦れ疲れちまった頃。農家のような、広い囲いを持つ家の前でした。 辺りも田畠ばっかり。ざっと見まわしても、一番近い家は、田圃の向こうに、屋根の形ばかり見せていただけですからね。ずいぶんな田舎でしたよ。ただその家が農家じゃないのは、垣根の造りで分かりました。綺麗に人の手が入っていましたからね。最初はどこかの大店の寮かと思いましたよ。 あたしたちを待っていたように出迎えてくれたのは、年は五十絡みの、頑固そうな顔をした男の人でした。 その人が松五郎さんと云って、この家の主で植木職人だとは、当のご本人が、先に立ちながら話してくれました。でもその間もあたしは、宗次郎ちゃんの事をおゆきさんに聞きたくて、もどかしいばかり。 その内に、目の前がぱっと開けたんです。母屋の裏手の、畠と一緒になっている庭に出たんですよ。 軒の下を通って来た目には急な日差しが眩しくて、あたしは寸の間目を細めましたが、その細めた目に、離れのような建物が見えました。 松五郎さんは、ちょっと待っていて欲しいと云うと、おゆきさんとあたしに足止めさせて、自分だけ小走りに、その建物へ続く枝折戸を開けて入って行きました。 そこは低い生垣で囲われていましてね、一見しただけでは、一軒の家のようにも見えました。 後で、宗次郎ちゃんを匿う為に、大身のお旗本さんの伝手で、松五郎さんの家の庭を借りて、それから松前屋さんが材料を手配して、松吉さんと他の大工さんが昼夜かけて仕事をしたって聞きました。 松五郎さんは離れの縁先で、男の人・・、ずいぶん背の高い人でしたが、その人と何か話していました。 でも、兎にも角にも、あたしは焦れったくてねぇ。 いっそ枝折戸に手を掛けようかと思った時、その男の人が、おゆきさんとあたしの方へ顔を向けて笑い掛けたんです。それを見たおゆきさんの横顔から、強張りが解けたのが分かりました。ああ、知った顔なんだな、と思いました。そうしたら、あたしも何だかほっとしちゃって、気が緩んだ、その時でした。 縁にもうひとつ影が差したかと思ったら、おばさんっ、て声が・・。 ・・・ごめんなさい。少しだけ待って下さいな、こらえ性の無い泪で。 あの時の声が、耳から離れないんですよ。優しい、ちょっと恥ずかしげに呼ぶ癖は、ちっとも変わっちゃいなかった。 人ってのは、おかしなものですね。 あの子の顔を見たら、きっとあたしは、一目散に駆け寄ると思っていたんですよ。それから手を取って、息災だったかい?って聞いて・・・。でも足が動きゃしないんですよ。木偶の坊みたいに、突っ立っているだけ。それで泪ばかりが頬を伝って・・、莫迦みたいでしょ? そうしたら、待ち切れないように、宗次郎ちゃんの方が先に、沓脱ぎ石の上にあった下駄に足を入れようとしたんです。それを見て、ようやくあたしは、頭と体がひとつになったんですよ。慌てて足を踏み出しました。 枝折戸から縁までは、ほんの数間(すうけん)だったけれど、もどかしくてねぇ。ようやく間近まで行くと、あの子は嬉しそうに笑って、お久しぶりですって頭を下げるの。でもね、その時初めてあたしは、昨日からの、お雪さんの尋常じゃない様子の訳を知ったんですよ。 ――五年。 五年も経てば、人は年をとって、面変わりします。でもあの子の上からは、歳月(としつき)ってものが、ふつりと消えてました。 ・・・どう云えばいいんでしょうかね。 元々細い体つきだったけれど、もっと細くなっちまって・・。膚は抜けるように白くて、それが生きているって感じを与えずに、人形のように年を分からせなくしていたんです。 あたしはからからの喉に、息が絡むのが分かりました。素人眼にも、重い病いなんだと、そう思いました。いえ本当は、もっと強い言葉が頭を過りました、でもその言葉をはっきり形にした途端、あの子がいなくなっちまいそうで、必死でそれを打ち消しました。 そんなぎこちない様子に気づいたんでしょうねぇ、上がって貰えよと、さっきの背の高い男の人が云ってくれましてね、あたしはどうにか恐ろしい呪縛から解き放たれたんです。 後から、その人が田坂さんと云うお医者さんで、京に居た頃から、ずっとあの子を診てくれているんだと教えて貰いました。 そうそう、今丁度来ているんですよ、田坂さん。 毎年、桜の頃からふた月程、こっちへ来るんですよ。あら、ご存じですか、田坂さんを?あらま、残念。どんなにいい男振りか教えてあげようと思ったのに。冗談ですよ、でも嬉しいわね、まるで身内がひとり増えたみたい。又話が飛んじまったわね、ごめんなさい。 声に促されて、あの子も、上がれ上がれって、あたしの袖を引っ張るんですよ。千切れちゃうっって、それが五年ぶりに会った、最初の言葉。 可笑しいでしょう?あんなに会いたくて、会ったら何を云おうかって、色々言葉を用意していたのに、いざとなったらそんなもんですよ。おまけに又目の奥が熱くなっちゃって・・。嫌ですねぇ。 離れって云っても、ちょっとした、しもた家くらいの広さはありました。まだ木の香りが鼻にぷんとついて、畳も青かった。その青い畳の上に落ち着くと、松五郎さんの御新造さんが、お茶を持って来てくれました。この人も良い人でね、年はあたしやお雪さんと同じ位じゃなかったかしらね。 積もる話もあったんですよ、そりゃもう、どれから話そうか迷う位に。元気な姿を見たら、それも出来たかもしれない。でもあたしはあの子の姿を前にして、胸が詰まるばかりで・・。あの子の目は、ほんとかどうかなんてすぐに見抜いちゃう。昔からそうなんです。そんな深い色をしていました。だから嘘なんか云えやしない。それに人間ってのは、相手の真剣な目に向かいあったら、生半可な嘘はひっこんじまうもんですよ。あたしは、あの子の話に、うんうんと頷いてやる他なかった。神さまも仏さまも、どこ行っちまったんだいって、心の中で泣きながらね・・。 だからあの子が、「縁に腰かけた方が良いのかな」って、ぽつりと云った時、あたしは上の空でした。えっ、て聞き返したら、笑われちゃいましたよ。それからもう一度、今度は真顔になって、髪を切って貰うのに、部屋の中の方が良いのか、それとも縁に腰かけての方が切りやすいかって聞くんです。あたしは思わず、切る?って、聞き返しましたよ。 その時あの子は髪を下ろして、襟足あたりで、白い紐で結わえていました。綺麗な髪でね。身体があんなに細くなっちまっても、髪だけはお天道さまの陽を浴びて、別物みたいに艶めいていました。それが何だかひどく残酷なように思えたのを覚えていますよ。 寸の間、ぼんやりしてしまったあたしに、後ろからおゆきさんが、おとつい、急に宗次郎ちゃんが髪を切って欲しいって云いだして、それであたしを連れて来たんだって、困ったように云うんですよ。これには、あたしも驚きました。だって、こんな云い方をしちゃ可哀相だけれど、ああみえても、あの子は一応は二本差し。それが髪を切るなんて云い出したら、誰だって驚きますよ。 言葉を失くしていたあたしを余所に、田坂さんまで、縁の方が座っているのに足が疲れないだろうなんて云う始末。それを聞くと宗次郎ちゃんも頷いて、どんどん縁に行ってしまって・・。あたしはそれを目で追いながら、でも途中からはそっとその目を反らせました。見ちゃいられなかったんですよ。 単の後ろ姿は、女だってこんなに薄くはならないだろうと思う程に痩せていました。座っている時はともかく、立ち上がるとそれが目立ってね、あたしはもう一回、現実ってものを見せつけられた気がしました。計る事が出来ない先、生きているからこその、残酷ってものをね。 縁側は、普通よりも広く幅をとってありました。 一軒近くあったんじゃないかしら・・。何でも松吉さんが、お天道さまの陽が、沢山木に籠るように造ったって云ってました。 その温もりを膝に感じながら、あたしは本当に良いのかって、念を押しました。それにあの子は、お願しますって笑うだけ。それであたしも覚悟がつきました。 あたしは結わえを解いて、背中にかかった髪をひと房とると、襟足辺りで少し斜めに剃刀を当てて、ゆっくり力を入れました。 髪は何の閊(つか)えもなく、水を滑るように、すっとふたつになりました。その寸座、うしろで見ていたお雪さんが、息を詰めたのが分かりました。あたしは咄嗟に、宗次郎ちゃんの顔を見ました。 長い事、あたしは髪結いをしてきました。色々な人の髪を梳いて、結って、その間に、お客さんの話に相槌を打ったり、愚痴を聞いてきました。でもね、それが本当かどうかは、その人のうなじから横顔を見ていれば、大方は分かるんですよ。正面きっての事ならば、嘘で取り繕う事ができます。けれど斜め後から見る顔には、嘘は隠しきれません。人ってのは、そんなとこまで気を張り詰めませんからね。 でもあの子の横顔には、何のいろも浮かびませんでした。 真実、動揺が無かったのか、それとも、それを隠してしまう程の靭さが、あの子の中にあったのか・・。 ・・・それがあとの方だって分かったのは、それから小半刻もしない内でした。 切り終わると、あたしは持って来た手鏡を仕事箱から取り出しました。見る?って聞くと、あの子は、はにかんだように笑って頷きました。それから鏡をのぞき込んで、変かなって聞くんですよ。とんでもない、この於ひなの仕事だよ、おかしな事なんてあるもんかいっ、て、あたしはむきになって答えました。 事実、本当に、可愛らしかったんですよ。あの子に聞こえたら又怒られそうだけれど、まるでお人形さんのようでね。でもそれが余計に、生きている人間との距離を置いてしまったようで、あたしは不安で落ち着かなくなりました。 その胸の裡を見透かせた訳じゃ無いんでしょうが、田坂さんが間合い良く、「見たら驚くぜ」って明るい声で云ったんですよ。それに宗次郎ちゃんも、「そうかな」って、今度は声を立てて笑いだして・・。 あたしには誰が驚くのかさっぱり分からず、さっきまでの萎みようは何処へやら、目を白黒させてしまいましたよ。でもあの子の屈託のない笑い顔を見ている内に、段々に心の湿り気も取れてきました。 片付けも終えて、御新造さんが替えてくれたお茶を頂きながら、ひとしきり昔話に花が咲きました。その途中で、あの子は幾度も首を傾げる仕草をするんですよ。そうなの、切った髪が邪魔になるんですよ。そりゃ、今じゃ皆断髪ばっかりですけど、当時はまだ、男の人は髪を結っていましたからね。頬にかかるって云うのが、気になって仕方がなかったんでしょうね。あたしは思わず笑ってしまいましたよ。それに気付いたあの子も、早く慣れないかなって、照れくさそうに云い訳しましたっけ。自分から云いだしたんですからね、文句も云えなかったんでしょうよ。その時の、悪戯を見つけられたような笑い顔は、今もはっきりと覚えていますよ。 昔、迷子になって、松吉さんに手を引かれてうちの亭主のとこに連れてこられた時、大きな瞳ばかりを一杯に見開いていたあの子に、丁度あった金平糖を上げたんですよ。それまでひと言も喋らなかったのに、嬉しそうに笑った。それが可愛くてねぇ。その時と寸分も変わらない笑い顔でした。 そんな風に話をしていて、もう昼近くになった頃でした。 話の途中で、不意にあの子が庭に顔を向けたんですよ。一緒に田坂さんも。あたしは何かと、同じように目を遣ったんですけど、何にもありゃしない。で、おゆきさんを見たら、あの人も不思議そうにしている。それでも二人とも、庭を見ている。だからもう一回そっちを向いたら・・・。 枝折戸の小さく軋む音がして、人が入って来ました。 その人は、南に背を向けていましたから、建物の中にいたあたし達には、丁度逆光になりましてね、それが眩しくて、始め貌形(かおかたち)が分かりませんでした。でもそれよりも、それが誰か分からなくしていたのは、見慣れない洋装と断髪の所為だったんです。 「土方さんっ」って呼ぶあの子の声で、あたしはやっとその人が、宗次郎ちゃんの兄さん代りだった歳三さんだと知りました。 歳三さんてのはね、薬売りだったんだけれど、役者を見慣れている町の人間ですら目を止める、そりゃいい男ぶりでした。あら、歳三さんの事も知ってなさる?だったら話は早いわね。元々がそう云う形の良い人だったから、洋装も良く似合っていた。だからその姿を見た時、あたしは、宗次郎ちゃんが髪を切った理由が分かった気がしました。ああ、この子は歳三さんと同じにしたかったんだって・・・。 でも違ったんですよ。あの子の思いは、そんな浅いもんじゃなかった。 それは誰も踏み込めやしない程、重くて、深くて、息が詰まる程切ないものだったんですよ。それをあの子は、自分から背負ったんですよ。 その事には、後で気づかされたんですけれどね・・。 宗次郎ちゃんを見た歳三さんは、一瞬、言葉に詰まったように立ち止りました。 そりゃぁ、そうでしょうよ。ずっと見慣れていた長い髪が、すっかり無いんですからね。でも後ろに居たあたしたちに気づくと、ゆっくり此方にやって来ました。けれど今思えば、その一歩一歩を踏みしめている短い間に、歳三さんは、必死に自分を立て直していたんです。 あの子はすぐさま、縁を下りて迎えに行きました。 宗次郎ちゃんが目の前に立つと、髪はどうした?って歳三さんは聞きました。そうしたらあの子は、煩わしいから切ったと、笑いながら応えました。それを聞いて歳三さんは、短くなった髪に手をやると、そうか、と一言だけ云いました。 それから黙ったまま、遣った手で、髪を撫でました。 慈しむようにって云うんでしょうかね、時をかけて丁寧に。 その間、あの子も黙って、されるがままになっていました。 誰も声を出す者はいませんでした。何だか、そうしちゃいけないような気がしたんですよ。 でも宗次郎ちゃんは、その幾度目かに、髪にあった歳三さんの手に自分の手を重ねると、動きを止めました。それからあたしたちの方を向いて、土方さんですって、嬉しそうに云ったんです。あたしは、頷くばかり。だって目から熱いものが零れちまいそうで、声なんて出せませんでした。 これは、ずっと後から教えて貰ったんですけどね。 その時歳三さんは、丸の内の大名小路にある御屋敷から、向島に渡る途中だったんです。 宗次郎ちゃんのお師匠さんの近藤さん。あの人が、官軍に捕まっちまってね、それを助け出す為に、歳三さんは、江戸中を走り回っていたそうです。でも最後の望みだった、幕府の勝さんって云う偉い人の力も借りられなくなってしまった。しかも先に北へ向かわせた兵隊さん達を、これ以上放っておく訳にはいかない。歳三さんは、辛い決心をしなけりゃならなかったんですよ。近藤さんを助け出す事を諦めて、兵隊さんを率いるってね。 そう云う事情で、あの日は、歳三さんが江戸を出立する日でした。その間際に、あの人は、宗次郎ちゃんを見舞ったんですよ。これが最後と。 あの時の歳三さんの辛さは、到底、他人には計り知れないものだったでしょう。病気の弟を残して戦場に行くんだ。しかもその病気は、素人眼にも軽く無いと分かるもんですよ。それに戦に行く自分だって、明日をも知れない身。おまけに、近藤さんの事だってあるんですよ。それらをみんな隠して、あの人は宗次郎ちゃんに、似合うじゃないかって、笑いかけたんです。 胸に迫るような、優しい目をして。 歳三さんに、暇(いとま)は無かった。でもどうしても、宗次郎ちゃんの顔を見たかったんでしょうねぇ。大体が、丸の内から向島に渡るに、千駄ヶ谷は逆方向ですよ。だから宗次郎ちゃんの処に居たのは、小半刻も無かったんじゃないのかしらね。 もう行くと云う歳三さんを、宗次郎ちゃんは、縁に端座したまま見上げていました。どんな顔をしていたのか、それは後ろにいたあたし達には分かりません。でも宗次郎ちゃんに顔を向けていた歳三さんは良く見えました。だから分かりました。あの子は、決して湿った顔をしちゃいなかった。それが証(あかし)に、歳三さんの目は、最後まで笑みを絶やさず優しかった。 縁から立ち上がった歳三さんが、洋装の帯に刀を挟んだ時、宗次郎ちゃんの、「ご武運を」と云う声が聞こえてきました。凛と張った、よく透る声でしたよ。歳三さんは、それに黙って頷くと、今度は田坂さんに視線を移して頭を下げました。頼むと、そう云いたかったんでしょうね。それからあたし達にも・・。あたしなんて何の役にも立たないのに、あの時の歳三さんは、藁にも縋る思いだったんだと思いますよ。大切な人間を、一人でも多くの者に託したいと、そんな気持ちだったんですよ。 歳三さんが、いよいよ枝折戸を閉める時、体を此方に向けました。その時です。ほんの一瞬、あたしと目が合ったんですよ。その目が、強い光を宿して、あたしを呼んだんです。 いえ、錯覚じゃありませんでした。歳三さんは、確かにあたしに来て欲しいと、目で云ったんですよ。 あたしはそっと、はばかりを借りる風を装って立ち上がりました。ええ、心の裡は誰にも気づかれないように。 あたしは離れの裏から、急いで母屋の方へ回りました。途中からは駆けだしました。そうして門のが見えてくると、やっぱり歳三さんはそこに立っていました。あたしは、自分の勘は外れていなかったと思いました。 歳三さんは、あたしの姿を見てほっとしたようでした。合図が通じたと思ったんでしょうね。息を切らせているあたしに、すまなかったと早口で詫びると、焦る調子のまま、「総司の髪が欲しい」と続けたんです。必死の形相でした。咄嗟にあたしは、昔、あの子がかどわかしに合った時の事を思い出しました。歳三さんの顔は、あの時と同じでした。あの時も歳三さんは、なりふりかまわず、恐ろしい程の形相で、宗次郎ちゃんを探しまわっていましたっけ。 切った髪は、まだ油紙に包んだままでした。 でもその時、詰め寄る歳三さんに、あたしは首を振りました。そうして云いました。 あの子は、歳三さんを待っているんだと。 だから連れて行くんじゃなくて、帰って来てやって欲しいと――。 そう、云ったんです。 決して、意地悪で云ったんじゃありません。 もしもあの子が、その前に、髪の結わえにしていた白い紐が、歳三さんの刀の下げ緒を解いて編みなおしたものだと話してくれなければ、あたしはあの子の髪を歳三さんに渡したでしょう。 けれど歳三さんがあの子の髪を欲しいと云ったその時、あたしは宗次郎ちゃんの心を見てしまったんですよ。 あの子は、置いて行かれる事を哀しむより、自分が、戦に行く歳三さんの気持ちの中で、重荷になってしまう事を恐れたんです。自分の先を知っているからこそ、歳三さんに忘れて欲しかったんです。歳三さんの足を引っ張りたく無かったんですよ。 離れ離れになってからは、あの子には、髪を結わえている白い紐が、歳三さんとの唯一の絆だった。細い細い絆ですよ。・・でもあの子には、何より確かな繋がりだった。それを、もう要らないと、あの子は歳三さんに見せつけたんです。 髪を切ったのは、心の中から自分を捨てろって、そう、歳三さんに云いたかったんですよ。 「ご武運を」って、一言に込めてね。 あたしはその事を歳三さんに話しました。 いえ、歳三さん自身が、それは一番良く分かっていた筈なんですよ。でももう最後だと云う思いが一息に噴出して、そんな理性など越えさせてしまったんでしょうね。 あたしは俯いたまま、泪を堪えるのに必死でした。 黙っていたのは、ほんの少しの間でした。でもあたしには、ひどく長い時に思えました。 暫くして、「無理を云った」と、静かな声が聞こえました。 目を上げると、歳三さんは、もう笑っていました。 それから、総司を、どうか寂しくさせないでやって欲しいと、頭を下げました。深く深く、まるで自分の思いの丈を寸座の時に籠めるように、下げたまま、じっと動きませんでした。 あたしは、帰って来てやって下さいと云うのが精一杯でした。 それに歳三さんが頷くのが、霞んだ目に、ぼんやり映りました。 あたしはとんでもないお節介をしてしまったのかと、身が震えました。 でもどうしても知って欲しかったんですよ、笑い顔の中に封じ込めてしまった、あの子の心を――。 帰ってきてやって下さいと、もう零れ落ちる泪を拭きもせず、あたしは幾度も繰り返しました。 その翌日の事でした。 千代田のお城が、明け渡されたのは。 最初に云ったように、その日、うちの亭主はお城の方角を一日中睨みつけていました。ええ、ひと言も物云わずに。 あたしは、宗次郎ちゃんには誰かこの事を教えたのかと思って、落ち着かなく過ごしました。もうあの子には、そう云う世間の騒ぎとは切り離して、穏やかな日を過ごさせてやりたいと思ってましたからね。 それから後の短い間に、色々な事が起こりました。 その月の二十五日、近藤さんが、板橋で殺されました。処刑なんて云っていますがね、あたしから云わせれば、あれは殺されたんですよ。 五月には、上野のお山に立て篭もっていたお旗本達と薩長軍の間に戦が始まって、あっと云う間に焼け野原になりました。 しとしと雨が続いてね。その雨の中を、松五郎さんは、お世話になったお旗本の亡骸を探して、丸二日も帰って来ませんでした。 そのお旗本は、宗次郎ちゃんにとっても大切な人だそうで、だからその事は、あの子には誰も伝えませんでした。 でもそう云う事は、何となく分かるものなんでしょうね・・。 歳三さんと別れて、張っていた気が緩んだように元気が無くなっていったあの子でしたが、それが目に見えて悪くなったのは、その頃からでした。 ・・・あとは、お宅さまも知るとおり。 次の季節を知ること無く、あの子は逝ってしまいました。 結わえにしていた白い紐が、枕の下から出てきましたっけ・・・。 その日は、抜けるような、青い空でしたよ。 でもその空の青を、何て残酷な色なんだろうと思ったのは、初めてでした。 さぁ、あたしの話はお仕舞い。 これ以上湿っぽい顔をすると、あの子が困りますからね。ずいぶんと、あちこち余分な方へ話が飛んじまってごめんなさいね。 あの、今度はこっちから、ひとつ聞いてもいいかしら? 間違っていたら堪忍して下さいよ。 お宅さま、もしかしたら、一さんって云う人じゃありませんか? ああ、やっぱりそうだった。話の途中から、もしかしたら、って思ったんですよ。 あの子から聞いていたんですよ。ええ、聞いていましたとも。 あんな風に大人ばかりの中で育った子でしょう?同じ位の年の友達を作るのにどうしていいのか分からない風で、それが不憫だって、お姉さんのお光さんが云っていたんですよ。そんな話を聞いていただけに、あの子の口から同い年の友達が居るって聞いた時には、自分の事のように嬉しくってねぇ。だからあたしは、あの子が吃驚するくらい熱心に聞きだしたんですよ、お宅さまの事を。 そうですか、お宅さまが、一さん。 ありがとう、あの子の事を聞きに来てくれて・・・。 せっかく湿っぽくはなるまいと、粋に切り上げたのに、これじゃ何にもならない。やだわね、年を取ると泪もろくなっちまって。 これからどちらへ? 千駄ヶ谷? あらま、じゃぁ田坂さんがいるかもしれませんよ。 会ったら、帰りに寄るように云って下さいな。ずっと御無沙汰なんだから。 於ひなが怒っているって、そう云って下さい。 あら、雨だ。 あんまり静かに降るから、ちっとも分からなかった。 傘を持って行って下さいな。 でも、返しに来て下さいよ。 その時、今度は、宗次郎ちゃんの話を聞かせて下さい。 約束ですよ、きっと待っていますからね。 ああ、柔らかな雨だこと・・・ そっと、つつみ込んでしまうみたい。 ――五月雨ですよ。 |