櫻の森の物語 (下) 「目覚めたか」 問い掛けても、堅く結ばれた唇は、解かれようとはしない。 「・・・三年(みつとせ)、お前を待った。待つと云うのは初めての経験だったが、お陰で、時の長さ儚さと云うものは、心の有様で、幾らでも違(たが)うのだと知った。・・・この三年は、私には千歳にも思える長い時だった」 いらえの返らぬ独り語りは、それを途切れさた途端、たちまち元の閑寂が空(くう)を覆う。 「お前を見たのは、北での戦を終え、この吉野に帰る束の間を、江戸屋敷で過ごしていた時の事だった」 それを破って語る声は、淡々とした物言いを装いながらも、聞こうとしない相手への余憤が、次第に見え隠れするのを隠せない。 だが括り枕の上の面輪は、さながら物言わぬ人形の如く凍て、微動だにしない。 「髪を結わえていたものと同じ、この下げ緒・・・お前の、想う人間のものか」 が、傍らにあった組み紐と、その一部を解いて作ったと思われる細い紐を、ゆっくりとした所作で手に取り、決して此方を見ようとはしない者の瞳に強引に映し出させた時、端麗な面輪が、一瞬硬さを増した。 が、それも錯覚かと思える僅かの事で、若者の裡に隆起した感情の綾は、瞬く間に封じ込められ、唇は頑なに沈黙を貫く。 「・・・不思議な話を聞いた」 しかしその無言の抗いを厭う事無く、ぎやまんの作りものにも似た深い色の瞳を見下ろし、忠顕は続ける。 「嘗て、京でその名を轟かせ、後に北へ北へと転戦し、蝦夷で幕軍としての意地を見せ、新政府軍を酷く手こずらせた男の姿を、戦の始まったあの年の春、千駄ヶ谷界隈で幾度か見かけたと・・・」 語りを止めたのは、その一瞬、今度は隠しようの無い、否、逢ってから初めてと云って良い程の激しい反応が、細い面輪に表れたからだった。 「千駄ヶ谷には、藩の下屋敷があった。其れゆえ、あの周辺であれば、大方の話しは集める事が出来る。黒や、柄と同じ、目立たぬ色の下げ緒が多い中、その男の白い下げ緒は、ずいぶんと印象に残ったらしい。更に応えた人間は、それが誰であるのかをも、知っていた。・・・そしてこの下げ緒を見せた時、その者は、これは確かに新撰組副長土方歳三のものであると、はっきりと頷いた」 みるみる強張りを増す面輪を視野に捉えながら、それとは相反し、若者を見る忠顕の眼差しは冷ややかに研ぎ澄まされる。 「だが何故土方が、あのような処に姿を見せたのか・・・その先までは、教えた者にも分からなかった。いや、土方の極秘の行動の理由は、誰にも分らなかったろう。そう、今の私以外には・・」 立てた片肘を支えに、ゆっくりと起こされた華奢な身が、ただそれだけの動きで大儀そうな荒い息を繰り返しているのを見つめ、己の言葉が凶器となって相手の胸中を突き、更に深部を抉ろうとしているのを承知しても、忠顕の容赦の無い責めは止まる事を知らない。 「土方歳三は、お前に逢う為に、あの地を訪れていた」 その一瞬、くべられた薪が、一瞬天を舐めるかのように、焔を燃え立たせるにも似て、忠顕に向けた若者の双つの瞳が、激しい威嚇の色を湛えた。 「お前の髪を結わえていたこの紐と、そして探し求めて来た下げ緒は、土方から譲り受けたものなのか・・」 己の手にした二つの、幅こそ異なれど、元はひとつの組み紐に目を落としながら質す調子は、淡々と静かではあったが、その核には、全てを隈なく解き明かせと迫る強引さがある。 「そしてお前の想う相手とは、土方歳三か?」 ゆるりと視線を戻し問う声音の強さは、少しづつ、しかし確実に、無言の相手を崖淵へと追い詰める。 「違いは、無いようだな・・・が、そんな事はどうでも良い」 応えぬ者を見つめるの忠顕の眸に、次第に、狙い澄ました獲物に、獣が最後の一撃を加えるかの如き、獰猛な光りが宿った。 だがその刹那――。 忠顕の変貌を尋常では無いと察した若者も叉、限りの力を振絞り、囚われた視線から逃れんと白い袖を翻した。 しかしその左腕を、一瞬早く忠顕の手が掴んだ。 衣の上から鷲掴んだ二の腕は、あと僅かに力を強くすれば、難無く折れてしまうだろう程に細い。 それでも忠顕は、籠めた力を緩めない。 「お前を待っていた・・お前が何処の誰であろうが、例え現のもので無い魔性であろうが、何を構うものではない・・・私は、お前を待っていた」 細い線に縁取られた面輪が、捉えられた二の腕の、骨にまで喰いこみそうな痛みに歪む。 だが忠顕のもう片方の手が、握り締めていた白い下げ緒を投げ放った瞬間、苦痛から逃れるように閉じかけられた瞳が、大きく見開かれた。 「あの下げ緒は、それ程までに、大事な代物か・・・」 ぱさりと乾いた音を立て、畳に落ちた下げ緒から、決して目を逸らさぬ相手に、忠顕の声が震える。 「土方歳三は、お前にとってそれ程大切な者かっ」 堰を切って迸ったのは、最早憤怒と化した、嫉妬以外の何ものでもない。 捉えていた腕を、残忍とも思える強さで捻り、無理矢理此方に振り向かせるや、両の手で、まるで切り裂くかのように、襟元を左右に剥いた瞬間、若者の面輪に、驚愕と慄きの色が走った。 「三年・・・。待った月日に散った花が、どれ程かは知らん。だがお前の土方への想いは、私が散らせてやる・・・」 この者を己の掌中にするのだと、ただそれだけの想いが、怒涛の如く、忠顕を狂気へと駆らせる。 しかし唇を塞ぐ手を除けんともがき、自由の利く片腕を唯一の盾に、謂れの無い無体に瞋恚の瞳を向ける若者の抗いも叉、苛烈なものだった。 その激しさに一瞬怯んだ隙をつき、華奢な身が、風と見紛う素早さで拘束する手から逃れかけた寸座、揉み合う衣擦れの音しか許さなかった静謐を破ったのは、白い頬を、鞭打つような鋭い響きだった。 「この三年、お前だけを待っていたっ」 弾き飛ばされるようにして、夜具の上に倒れた身に覆い被さる忠顕の、恋情地獄の業火が、一気に燃え盛る。 それでも千切られた袖から細い手を伸ばし、若者は渾身の力で忠顕を拒む。 だがその必死の動きを、己の下に組み伏し封じ、素を見せている胸の、浮き出た鎖骨の辺りに唇を這わせるや、腕に抱く身に、あぶく立つ様な震えが走った。 そのごく微かな変化を、忠顕の五感は逃さない。 白い花弁の冷たさを、そのまま人のものにすり替えたような肌に、更に執拗に指を滑らせ、仄かに色の違う、二つの花芯の片方に触れるや、今度こそ、隠しようも無く薄い背が撓った。 しかしそれと同時に、忠顕の衣を握り締めていた細い手指からも力が抜け、音も無く褥に落ちた。 ――激しい抵抗の名残の、荒い息に薄い胸を上下させながら、若者は瞳を閉じ、陵辱者の動きに、もう何一つ逆らう事は無い。 だが其れこそが、己を拒む最たる抗いなのだと知った瞬間、報われぬと突きつけられた恋情は、嫉妬を糧に愛しさから憎しみに、そして憎しみから残虐な情欲へと変り行く。 この者は、例え櫻彩に肌を染め、切ない吐息を漏らしても、決して自分と魂を分かち合う事は無いのだと。 どんなに深く互いを結びあっても、ふたつ身が、ひとつ心に溶け合う事は無いのだと。 今忠顕の狂恋が、歪な音を立てて崩れ行く。 「心を持たぬ抜け殻を、抱いて見るも、叉一興」 「・・・好きなように、すればいい」 忠顕に向けられた深い色の瞳は、全ての感情と云うものを葬り去ってしまったかのように凍て、まだ整わぬ息の下、端麗な流線を描く唇は、硬く掠れた声音で言葉を紡ぐ。 「何処までも抗うのならば、それでも良い。お前を抱くに、少しの変わりも無い。・・・だがひとつ、教えてやろう」 決して自分を受け容れぬこの者を、身も心も、とことんまで痛めつけても、まだ足りぬ容赦の無さは一体何処から来るのか・・・ もう忠顕自身にも分からなかった。 「あの下げ緒の持ち主は、何時まで待っても、お前の元に帰って来る事は無い」 それまで虚空の作り出した形代のように動きを止めいた面輪に、一瞬、感情が漣(さざなみ)立ったのを、忠顕は冷酷な眼差しで捉え、続ける。 「土方歳三は、私がお前と遇った年の、あの櫻の季節の後、蝦夷で戦死した」 「・・・戦死?」 「そうだ、だからもうお前の元に、現われる事は無い」 語りながら、驚愕に見開かれた瞳を見下ろす忠顕の片頬に刻まれた笑みは、しかし相手を打ちのめして得た満足では無く、この残忍な真実を告げてしまった事で、何かが大きく壊れ行く漠然とした予感と、そしてそうなる事を承知しながら、尚も告げずにはいられなかった己への自嘲だった。 「お前は、二度と土方歳三と巡り逢う事は無い」 だが端整な面を僅かに歪ませた忠顕の指先が、若者の頬に掛かる乱れ髪を、いとおしげに梳こうとしたその瞬間、透けた色の唇が、櫻花が綻ぶにも似て、嫣然と笑みを浮かべた。 が、呆然と、凍てた面差しからの豹変も、一瞬とも足りぬ刹那の事で、すぐさま若者の視線は、何かを求めて忠顕から逸らされた。 それが何を探しているのか――。 問わずとも、答えは明瞭だった。 「土方は、死んだのだっ、お前の元になど帰らないっ」 声を激しくして責めても、それすら耳に入らぬのか、若者は唯一自由になる喉首を仰け反らせ、必死に下げ緒を探す。 やがて室の片隅に、金色(こんじき)の陽を受け、輪郭を朧にしている白い組紐を視界に捉えるや、己の上に重なる者を押し退けんと、唯一の盾にしていた腕に、渾身の力を込めた。 「何故聞かないっ」 だが抗いは叉も難無く封じられ、閑寂を裂くかのような怒声が迸った。 「・・・土方さんが・・探している」 しかし若者の呟きは、憤怒に色を失くしている忠顕に返ったいらえでは無く、己の胸中に激しく湧き立つ焦燥が、堪えられず零れ出たような、あまりに急(せ)いたものだった。 「お前を探している者など、もう居はしないっ」 細い頤を掴み、強引に自分へと向かせても、若者の瞳は、下げ緒を凝視したまま忠顕を見ようとはしない。 「土方は死んだのだっ」 「早く・・早くしなければ・・・きっと、探している・・」 どんなに声を荒げても、どんなに惨酷な言葉を投げつけても、もう若者には届かない。 それどころか、ようよう出た右手を、白い下げ緒に向けて必死に伸ばそうとする。 「此方を向けっ」 其れを阻まんと、薄い肩を鷲掴んで振り向かせ、馬乗りになろうとした刹那、一瞬の隙をついた身が、転がるようにして忠顕の下から逃れた。 そのまま、立ち上がるのももどかしげに、若者は這うようにし、下げ緒へと向かう。 そうして細い指の先が、下げ緒の端に届こうとした寸座、しかしそれは、一瞬早く達した忠顕の手により、今度こそ、開け放たれた障子の彼方へと、弾き跳ばされた。 その瞬間、下げ緒を追う深い色の瞳が見開かれ、若者は、身に通う血までも凍らせてしまったように動きを止めた。 ――何もかもが、金色に染め上げられた夕景の中。 中庭に一本だけある、櫻の大樹に当った下げ緒が、音も無く地に落ちると、折から起った一陣の風が、櫻の枝を揺らせた。 その天の戯れに遊ぶかのように、ひとひらふたひら、花弁が舞い散り・・・ しかしそれは時を置かずして、視界すら遮る花吹雪となった。 やがて渦巻くような、花の狂宴が鎮まりを見せた時。 瞳を見開いたまま、下げ緒の行方を凝視していた若者と、そして忠顕の視界に映し出されたのは、ゆっくりと己の足元に落ちた下げ緒を拾い上げる、人の影だった。 そしてその者の姿を捉えた刹那――。 「・・・土方さん・・」 呆然と零れ落ちたのは、震えを隠せない、微かな呟きだった。 「お前は、どれ程俺を案じさせれば、気が済む」 若者に向け、端正が際立つ面の主が叱咤する口調は、強く厳しい。 だがそう咎めながらも、見つめる眼差しは、漸く得られた安堵と尽きぬ愛しさに満ち、限りなく柔らかい。 「待っていろと、そう云った筈だ」 「・・・下げ緒を、・・失くしてしまったのです」 掠れた声音で応え、ゆらりと立ち上がった身が、まるで其処に惹かれ行くように歩みを刻み始めたのを、忠顕は、息を詰め、凝視している。 「必ず迎えに来ると、云ったぞ」 「・・失くしてしまったら、見つけては貰えないと思った・・だから・・・」 「下げ緒ひとつ如きで、俺がお前を見つける事が出来ないと思ったのか?」 言葉を交わしながら、華奢な背が、一歩一歩、櫻の大樹の下に立つ男へと近づくのを眼(まなこ)に捉えながら、忠顕は身じろぎ出来ない。 「土方さんに、見つけて欲しかった・・・。少しも早く、見つけて欲しかった。だから・・・下げ緒を探していた・・ずっとずっと、探していた・・」 若者の声が途切れ途切れになるのは、見開かれた瞳から零れ落ち、頬につたわるものの所為なのだと、まるで棘の縄手に縛られたかのように動かぬ身と思考の中、忠顕にも、それだけは分かり得た。 「莫迦が。どれ程、探した事か・・」 言葉で責めながら、しかし若者を見る男の双眸が、緩やかに細められた。 「来いっ」 もう言葉にするその一瞬すら焦れるように伸ばされた両の腕に向かい、櫻の花弁を踏みしめていた白い素足が、遂に地を蹴り走り出した。 「・・行くな・・」 遠くなり行く背に向かい、ようよう唇から零れ出た言葉は、始め戦慄くように小さなものだった。 だがその己の声が、見えぬ縄手から忠顕を解き放ち、同時に、全身全霊を、うねるように揺り動かした。 「行くなっ」 ――迸る叫びは、空(くう)を震わせるだけで、何一つ視界の中の光景は変わらない。 千切れた片袖から伸ばされた細い腕が、手指が、迎える腕に触れたと思った瞬間、それはしかと掴まれ、華奢な身が、男の胸の内に浚い込まれるように、強く抱(いだ)かれた。 それを忠顕は、呆然と見詰めている。 やがて茜色の光華の中で、二つの像はひとつとなり、その輪郭すら朧にする。 「・・・行くな・・」 求める声音は、もう何処にも届かず、恋情に胸焦がした、昂ぶりと焦燥の日々は、束の間の幻となって夕景に溶け行く。 だが全てが消え行きても、尚其処を動かず――。 忠顕の双眸は一度も瞬かれる事無く、現の幻を刻んでいた。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 硝子窓と云うものは、内と外とを隔てながらも、視界を邪魔せず、しかも触れれば外気と同じように冷たく身を震わせる。 だが瀬能忠顕は、その感触を好んでいた。 硝子は、まるで櫻の花弁ようにひんやりと儚げで、それでいて全てを透けさせるような凍てた瞳を持った、決して忘れ得ぬ者の面影を、忠顕に思い起こさせる。 花の季節は近い。 しかしもう二度と、あの者は自分の前には現れぬのだと・・・ そう知りながら、叶わぬ邂逅を求め、蕾が綻び花を結ぶのを待つ日々を、どれ程送った事か。 それでも今年も又、花の時を切望する我が身の愚かさを思い、透けた硝子に、鼻梁の通った横顔を映しながら、忠顕は自嘲の笑みを浮かべた。 「瀬能」 だがその一時の感傷をも邪魔する、遠慮の無い声が掛かるや、形ばかり叩かれた扉は、いらえを返す間も無く開けられた。 「何だ、いたのか」 「返事を待たずに入ってくるのは、中戸川、お前だけだな」 ちらりと視線を動かしただけで咎める声には、相手への親しさがある。 「瀬能教授は、気難しい子爵様だったな」 だがそんな皮肉にも然して堪える様子も無く、中戸川と呼ばれた男、は勝手知ったる風に、狭い室の隅にあった椅子に腰を下ろした。 「御上が、情けで寄越した形ばかりの爵位など、何の役にも立たんさ。其れ故貧乏子爵は、こうして教壇に立ち、日々の糧を稼がねばならない」 「貧乏子爵が、櫻花を愛でる為などとふざけた理由で、毎年ひと月の余も休みを得られるものか」 棚へと手を伸ばした忠顕の指先が、布張りの厚い書物に触れるのを見ながら、あまりに素っ気無い物言いに、中戸川の、面白半分の揶揄は止まらない。 「そう云う約束で、教壇に立った」 「さても、豪気なものだな、子爵様は・・・で、今年も行くのか?東京の、その櫻の森とかへ」 「行く」 棚から取り出した書物に目を落としたまま、振り向きもせず、淡々と嘯く姿に、これ見よがしの大仰な吐息を漏らし、肩をすぼめた中戸川の顔は呆れた色を隠さない。 「が、京都から東京まで鉄道が開通すれば、お前の旅も楽になろう?何しろ座って眠っている間には、もう東京だ」 「鉄道が敷かれようが、海を渡ろうが、京都が東京になる訳では無いさ」 身も蓋も無いいらえに、中戸川の口から、遂に堪えきれない笑い声が漏れた。 「世の中がどう動きどう変わろうが、興味は無いか、・・本当にお前はつまらん奴だな」 だが相手の沈黙に、もうこれ以上、この話題に対するいらえは返って来ないと知るや、手持ち無沙汰のように、机の上に開かれたままのノオトへと、中戸川は視線を移した。 「・・こもよ みこもち ふくしもよ みふくし持ち・・・何だ、万葉集か?」 書かれた文字を、大して興もなさそうに繋げて読む声に、漸く忠顕が相手を顧みた。 「講義の内容か?」 「日々の、糧さ」 「・・・この岳に 菜摘ます子 家のらせ 名のらさね そらみつ倭の国は おしなべて われこそをれ 敷きなべて われこそませ・・」 手にしていた本に目を戻してしまった忠顕には構わず、読み上げる声は続く。 「我をこそ 背とはのらめ 家をも名をも・・・。自分だけには云え、お前が何処の誰かとを・・・か。貴族が、どこぞの誰かに一目惚れした、恋の歌か。瀬能、お前もこう云う相手を、早いとこ見つける事だな」 「大きなお世話だ」 「まぁ、そう云うな。これで妻子を持つと云うのも、そう悪い事では無い。・・・尤も、今俺が云った事に、同じように応えた人間は、お前で二人目だ。あの人も、独りが気侭だと笑っていたな」 あまりに不意に変わった話題に、流石に訝しげな視線を向けられ、中戸川が苦笑した。 「五条に診療所を持つ医者なのだが・・。歳は俺達とそう変わらないだろう。だが腕は確かだ。去年の暮、酷い風邪を引いて、それが中々抜けずに難儀していた処を、知人から紹介された。お前も何かあったら行くといい」 風邪が治っても、どうやら出来た縁が続いているらしい語り口には、相手への信頼と、慕わしさがある。 「生憎、今のところ、医者は無用だ」 「そうとばかりも云えまい、俺達とて、もう若いとは云い難い」 「お前と一緒にするな」 云うや否や、話を切り上げてしまった友の、相変わらずの辛辣さに、中戸川の顔に再び苦笑が広がる。 「・・そう云えば」 ふと何かを思い出したのか、ふくよかな二重の顎の面が、今度は愉快そうな笑みを浮かべた。 「あの人も、確か毎年ふた月ほど、東京に行くので診療所を留守にすると云っていた。櫻の頃から夏近くまでだと云う事だったが、櫻など何処にでも咲くに、世の中にはお前のような物好きが、二人もいるとは思わなかった」 「ぬかせ」 相手の揶揄に素知らぬ体を決め込み、手にしていた本を元のように棚に戻しながらも、もしも――。 もしもこの友に、有り得る筈の無い邂逅を求め、自分は櫻花の季節に東京へ下るのだと、真実を話したら、どんな顔をするのか。 ふと過ったそんな埒も無い思いを悟られぬよう、苦く笑った片頬に射す陽が、何時の間にか金色(こんじき)を帯びて眩しい。 肌を刺す冷気には、凍てる季節の名残が未だ籠もるが、確かに伸び行く日の長さ強さは、もう既に次の季節が間近に来ているのだと教える。 あの時――。 行くなと、迸る想いの限りに叫んだ声にも振り返らず、迎える腕に抱かれて消えた、あの者が誰であったのか・・・ それは今でも分からない。 否、知ろうとも思わない。 だから今年も又、櫻の森へと足を運び、花が散るまであても無く、自分は探す。 ・・・家のらせ 名のらさね 次にまみえた時、そう問えば、あの者はいらえを寄越すのだろうか。 それとも、深い色の瞳で見詰めたまま、沈黙に唇を結び続けるのだろうか。 それでもこの歌と同じように、返る言葉を求め、自分は問い続けるのだろう。 現身である限り、想いは叶う事が無いのだと知りながら・・・ 「・・・我をこそ 背とはのらめ・・家をも名をも・・」 愛しい者を求め続ける恋情は、静かに揺らめく蒼い焔となり、もう生涯に渡り自分を解き放つことは無いのだと・・・ 観念と、そして想い起こせば未だ褪せぬ昂ぶりとを、呟きの吐息に紛らせ、忠顕は、硝子窓の向こうに広がる茜色の夕景に、眩しげに目を細めた。 |