さくら(十壱)
「生きて、頂きます」
土方は、譲らぬ視線を向けた。
「聞けぬ、と申したら?」
その視線を跳ね返した穏やかな目元が、強か細められた。
「御宗家に、利同様暗殺の企てを進言致します。首謀者は御国家老笛木喜十郎殿、そして富山の反加賀派の藩士全員が、この密謀に関わっていたと、添えて…」
「何を証拠にっ…」
利聲の面から笑みが引き、声に厳しく咎める響きが差した。
「証は此処におります、島崎音人殿。いえ、証など必要はございませぬ。加賀藩は何の調べもせず、新撰組副長であるそれがしの話を信じるでしょう。…富山を完全に統治下に置く事のできる、格好の機会ですからな」
「余を脅すのか?」
「脅しまする」
「何ゆえに?」
「ある者とした、約束の為に」
「約束?…聞かせてみよ」
眉を寄せ繰り返した声に、訝しさと、そして警戒が交互した。その利聲の裡をかき巡る思索を窺うように、土方はひたと双眸を据え口を開いた。
「島崎殿の身の安全を確約して頂く事、そして利保様の御心を利聲様におくみ頂く事、それを約束して参りました」
「その二つならば、既に果たされた。父の心は、余も承知するところであった。そして島崎に咎は無い。島崎を新撰組へと欲したそちの願いも許すと申した」
「いえ、もうひとつ」
「まだあると申すか」
利聲はうんざりと吐息したが、土方は続けた。
「それがしに約束を強いた者、こたびの一件が、よもや利聲様が御自らの御命を犠牲になさる御覚悟で立てた偽の企みとは、露程も知りませぬ。まして、利聲様が描かれた結末など望んではおりませぬ。それは島崎殿とて、同じはず」
ちらりと見た視線の先に、利聲を凝視している音人の硬い横顔があった。
「もし利聲様の御身に災いあらば、何故真実を見逃したと、それがしは生涯責め続けられる事でしょう。生憎、その責めに堪えうる神経を、それがし、持ち合わせてはおりませぬ」
利聲を見る目の鋭さは変わらなかったが、声に、ふと柔らかさが忍んだ。それを利聲も察したようだった。片頬に苦い笑いが浮かんだ。
「そちに勝ちを譲らぬとは、中々に剛の者のようだの」
「どうにも、負けが続いております」
「余には勝っても、その者には勝てぬと申すか?」
「さて…?」
「もう良い」
首を傾げた土方の耳に、静かな笑い声が聞こえて来た。
「土方、もしその脅しに屈すれば、余の姦計に騙された島崎を始め、関わった者達全ての命、確かに守ってくれると誓うか?」
「しかと、お約束申しあげます」
垂れた頭(こうべ)の低さを契りの深さと結び眸に刻むと、利聲は音人に視線を移した。
「島崎、そちには辛い思いをさせた」
「辛い思いは利聲様こそ…。真実を知らず、利聲様だけに罪を負わせてしまえば、私は再び悔いの残る道を歩まねばなりませんでした」
「許せ」
詫びる眼差しを慈悲の色に彩り、利聲は音人を見詰めた。
「そちに一つ願いがある」
「私に、願い…?」
音人は訝しげに利聲を見上げた。
「その書状にある、父が余を語ったと云うくだり、それをこの手で写させてはくれぬか」
利聲の目は、縁(へり)が捲れた書状に注がれている。
「父は余が生まれた時、遠い京、大坂にまで、乳母となる者を探したそうじゃ。体健やかで、心根の優しい者。その目がねに適ったのが、この家の娘である乳母だった。余が隠居を申しつけられた時、乳母は初めてその経緯を教えてくれた。宗家に訴えた父を恨んではならぬ、子の親であらばこその、苦渋の決断だったのだと、乳母は泣いた。余は乳母の言葉を信じたいと思った。が、胸の片隅で一点、偽りか真(まこと)かの思いも捨てきれずにいた。しかしその疑心を、そちの父は解いてくれた」
「利聲様…」
「蟄居に及んで十年…。長くも有り、短くも有った。だが今漸く、父の心は本当だったのだと、そちのお陰で知る事が出来た。礼を云う」
「勿体のうございます。私こそ今回の件が無ければ、父の心を生涯知らずにいた事でしょう」
そう利聲に応えながら、己の声の余韻を遡るように、音人の耳に懐かしい声が重なる。
――音人、と。
父の声が、蘇る。
それは人を殺めようとした者が、人の命を助ける事ができるのかと懊悩に身を沈めた時、光ある場へ背を押してくれた、強く優しい響きだった。
「私は、利聲様が御命を大切になさる事が、利保様の唯一の御希(のぞみ)であられたと思います」
前についた手の上を、陽が越える。伸び行く光のその眩さが、利聲の道標になる事を願い、音人は静かに目を伏せた。
「土方」
「はっ…」
「脅されて、又隠居暮らしに戻ると云うも詰まらぬ。都の土産に、そちが負け続けと云うその者に、会わせよ」
「御目通りさせたいのはやまやまですが、その御望みを、かの者に、それがしが承知させられるかどうか…」
「情けない事よの、一度位勝てぬのか」
それまでとうって変った曖昧な調子を逆手に、ふくみ笑いが責め立てた。
「そうですな」
土方は思案するように端整な顔を難しげに顰めたが、
「では利聲様の御為にも、一日も早く勝ちを取るよう努めましょう」
やがて大真面目に応えた。
智慧者のいらえはずるい。
惚れた己に、どこまでも勝ちなどありはしない。
果たされぬ約束を眉ひとつ動かさず、土方は目の前の貴人と契った。
「では早々に勝て」
嘘を見透かせた利聲の声が、高く笑った。
鴨川に架かる五条大橋の西詰に、薬種問屋小川屋はある。手堅い商いと評判の老舗は、山科街道筋に、諸国から運ばれてきた薬草を貯蔵して置く蔵と、寮を持っていた。
その瀟洒な造りの一室に、男が向かい合っている。だが長い事、二人の間に言葉は無い。伊庭八郎は、富山藩国家老笛木喜十郎の厳つい顔をむっつりと見ているし、その笛木は眉間に皺を寄せ、苦しげな形相で沈黙している。
黙りこんでいる相手の顔を見るのも飽き、八郎は外へ視線を遣った。中庭の植え込みの向こうに、蔵が見える。その土壁の白が、急速に勢いを増してきた陽の煌きに負け、建物の輪郭を朧げにしている。そろそろ昼が近い。一瞬、もう片方の者達の首尾はどうだったろうかと、頭をよぎった。が、それもすぐに打ち捨てた。土方が仕損じると云う事はまず無い。
舌打ちしたいような忌々しさを腹の底に沈め、涼しげな双眸が、庭に影を躍らせる春の陽の戯れを、面白くもなさそうに見詰めた。
「伊庭殿」
不意に呼ばれて視線を戻すと、そこに強張った顔があった。五十に手が届こうとしている笛木の目尻には、深い皺が刻まれている。
「こたびの事、秘して漏らさぬとの確約…」
「すると、申した筈」
幾分声に棘のような苛立ちが混じったが、それもこれもこの男の疑い深さの所為だと、八郎は、己の癇癪を相手になすりつけた。
実際、笛木は四半刻も押し黙ったままだった。尤も、お前達の陰謀を黙っていてやるから島崎音人に手を出すなと云った処で、そうそう容易く信じる訳にも行かないだろう。そう云う意味では、笛木は常人だった。
「事実、利同様は生きておられます。しかも加賀の御家中はおろか、富山の中ですら毒殺の噂など一切聞かれませぬ。何より、全てを承知している新撰組副長の土方殿が、他所へは漏らさぬ為に、生き証人である島崎殿をお預りするべく、今利聲様とお会いしております。これ以上、確かな約束は無い筈」
「……」
「それに…」
一段と低く、辺りを憚るように、八郎は声を落とした。
「この一件は、幕府としても、闇に葬らなければならぬ事情があるのです」
笛木の目に訝しげな色が浮かんだ。
「もし利同様毒殺の企てがあったと知れば、加賀はすぐさま行動を起こすでしょう。これで富山を完全に支配下における、…加賀としては待ち望んでいた展開ですな。しかしそれでは幕府は困るのです」
「…幕府が、困る?」
「左様、困るのです。加賀百万石に、これ以上大きくなってもらっては困るのです」
「……」
「笛木殿も、加賀前田家の御世継慶寧(よしやす)様の、禁門の変の折の行動はお聞き及びでしょうぞ」
まだ意味を判じかねている笛木は、戸惑うように八郎を見ている。
「あの時慶寧様は、朝廷と幕府に長州を許して欲しいと嘆願し、聞き届けられず戦が避けられないと見るや、今度は長州との一戦を避け早々に撤退されてしまわれました。その慶寧様に、幕府は激怒。お父上の藩主斉泰が慌て慶寧様を謹慎させ、幕府に陳謝し、加賀藩は何とか事無きを得ました。それは、笛木殿とてまだ御記憶に新しい筈」
息を呑むように、笛木は頷き返した。
「世に流れる風の強さ、向きが定まらぬ今、幕府は諸藩が力を付ける事を警戒しております。ましてそのような事情があった加賀藩。弱体化を望みはすれど、その逆を、幕府は望んではおりませぬ」
笛木の傍らに回り込み、八郎はゆっくりと、説くように語った。
「では…」
「左様、加賀藩は元より何処へも漏らさぬと云う約束は、云わば幕府が後ろ盾」
笛木の喉仏が、ごくりと上下した。
「幕府は全てご承知で、そのような御情けを…」
声を湿らせた笛木を見る八郎の双眸が、緩く細められた。口辺には薄い笑みが乗っている。その笑みを、笛木は是と受け取ったらしい。
「…伊庭殿」
堅牢な砦が崩れ落ちるように、がくりと猪首が垂れた。
「かたじけない…」
握りしめられた厳つい手の甲に、八郎は己の手を重ねた。
「御家中から御宗家の力を一掃させたいと願う笛木殿を始め、富山の方々の御心中は、この伊庭にも良く分かります。しかし今はまだ時期尚早」
「……」
「尚早で、ござる」
見上げた笛木にしかと視線を据え、八郎は頷いた。
笛木は慟哭している。やがてそれは太い啜り泣きになり、肉厚の肩が小刻みに揺れる。その震える拳に置いた手を離す事もできず、八郎は、知らせを待ち、気もそぞろでいるだろう想い人に心を馳せていた。この上々の首尾を、恋敵より僅かでも早く伝えてやりたい。だが笛木は、一向顔を上げようとしない。「幕府の情け」がちと効き過ぎたかと悔やんでみたところでもう遅い。富山藩国家老笛木喜十郎は、存外に涙脆い男だった。
庭に遊ぶ小鳥のさえずりに、時折、懐紙で鼻をかむ音が混じる。麗らかさとは遠くかけ離れたその響きを聞きながら、八郎は憂鬱の息を吐いた。
日が落ちる頃から、風が出て来た。手元まで手繰り寄せた春が、不意に知らぬ顔を見せたような急な冷え込みは、病人には良くない。激しい寒暖の差は、病にとって、新しい棲家を見つける千載一遇の機会だ。だがそんな杞憂など、あの想い人は、露程も感じてはいないだろう。そう思って廊下を曲がった寸座、土方の足が止まった。
開けた障子から、廊下へ低く溢れ出た灯りの中に立ち、総司は嬉しそうに笑っている。何も羽織らず、足袋も履かず、逸る思いのまま蒲団から飛び出したと云う風情だった。
自分を待っていた、それは愛しい。だが胸に兆した愛しさと幸福感は一瞬にも足らず、猛烈な勢いで湧き上がって来た怒りにたちまち押遣られた。
憤然と、土方は足を踏み出した。
床を軋ませるように音を鳴らし近づくと、土方は総司の二の腕を掴んだ。
「土方さんっ…」
抗いの声にも応えず、土方は総司を引き摺るように部屋に入れるや、ぴしゃりと鋭い音を立てて障子を閉めた。
どうしたのかと、問うも憚られる機嫌の悪さに、総司は障子際に立ち竦んだ。
「お前は風邪を引きたいのかっ」
尖った怒り声に、突っ立ったままの身がびくりと震えた。
「さっさと横になれっ」
恐る恐ると云った体で総司は土方を見、そして怒りがまだ少しも和らいでいない事が分かると、急いで夜具に入った。が、入れたのは足だけで、上半身は起こしている。
「俺は、横になれと云ったつもりだが?」
土方の声が一段と低くなった。しかも何故それ程怒るのだと云わんばかりに不思議そうな顔をされれば、堪忍袋も底ごと抜ける。
「お前は…」
詰め込み過ぎた怒りが、とうとう堰を切りかけた寸座、
「土方さん、ありがとう」
柔らかな声音が、それを押しとどめた。
「利聲様が誰にも秘めていた御覚悟を、土方さんが見破って止めてくれたのだと、島崎さんから聞きました」
その事かと、土方はつまらぬ顔をした。他藩の事情より、今はお前が蒲団に潜ってくれる方がありがたいと、喉まで出かかった言葉を、しかし土方は堪えた。そうさせる程に、真摯な眼差しが見詰めていた。
もどかしさの当たり所のように、土方は荒々しく己の羽織を脱ぎ、総司の肩に掛けた。無言のまま顎をしゃくると、総司は慌てて袖を通したが、動きながらも語りは続く。
「島崎さん、利聲様の御本心まで、自分には分からなかったと云っていた。だから知った時は茫然としたって…」
土方を見る瞳は、瞬きもしない。大切な事を言葉にする時の、総司の癖だ。
「利聲様に、お父上の心だけを伝えられた事で満足して、真実を見過ごしてしまっていたら、きっと生涯の悔いになったって…。自分が、新しい道を見つけた後だから、余計にそう思っただろうと云っていた」
「新しい道?」
訝しげな声に、火影を受けた青白い面輪が頷いた。
「島崎さん、西洋医学に使える薬草の勉強をするのだそうです」
「西洋だろうが本道だろうが、薬草の勉学ならやっていただろう」
今更と、言外に含みを持たせ声に、総司は首を振った。
「今までは自分が好きでやっていたけれど、今度はそれを人の為に役立たせたいのだそうです」
「ふん」
渋い顔を見せながらも、土方には音人の心が分かる。
通仙散の調合を田坂に託された時、音人は初めて人の命を委ねられる事の畏怖を知った。そしてそれを乗り越えた時、細いながらも一筋の光を見出せたのだろう。
人の命を殺めようとした者が、人の命を救えるのか――。
そう田坂に答えを請うた音人は、調合した一服を総司が口にした瞬間、共に己の命も賭したに違いない。だがそれは、自分とて同じだった。
土方はゆっくり手を伸ばすと、総司の右脇に触れた。不意の動きに、総司が不審げに見上げた。
「傷の痕を、見ていいか?」
意図が判らず、総司は暫し無言で土方を見詰めていたが、やがて微かに頷いた。
夜着の袷を緩めると、くっきりと浮き出たあばら骨が露わになった。その右の骨のすぐ下に赤紫の筋が一本、白い膚とは色を異にしている。更に傷の両脇に、縫った糸の痕が、赤紫の点となり残っている。
「上手く縫えたから、いつか糸のような白い線になると、田坂さんが云っていた。でも私はおなごではないし、そんな事気にしてくれなくても良いのに」
屈託の無い笑い声にも応えず、土方は傷痕に視線を向けたまま無言でいる。
「土方さん…?」
「俺の上に乗れ」
強引な物言いだったが、拒んでしまうには、どこか苦しげな声だった。戸惑いながらも、総司は云われるまま、土方の胡坐の中に膝を置いた。
膝立ちになった関係で、目の位置が逆さまになった。見下ろす総司の視線の先で、土方はまだ傷痕を凝視している。土方と、呼びかけようとして総司は息を詰めた。
傷痕を見ている顔は、胸を締め付けられる程に切なく、そして哀しみに彩られていた。だがこの顔を、総司は克明に覚えている。
通仙散を服し、何も分からなくなる刹那、最後に瞼に刻んだ土方の顔が、今瞳に映る顔だった。けれどその時の自分には、握ってくれた手に、案ずるなと握り返す力は無かった。だから意識が戻ったら、真っ先に伝えなければならなかったのだ。もう二度と、あんな顔をさせないと…。
「土方さん」
小さく、総司は呼びかけた。
「…すみませんでした」
続けた声が萎れ、漸く土方が顔を上げた。
「心配を、かけてしまいました」
黙って見上げる双眸に、鬼と、人が恐れる鋭さは無い。土方は深く吐息すると、両腕を細い腰に回した。
「…俺はもう、あんな思いは真っ平だ」
そのまま、愛しい者の温もりに籠るように、引き寄せた胸に顔を埋めた。
「…土方さん」
呼んでも、土方は返事をしない。
「土方さん…」
仕置きの腕(かいな)を解く術も見つからず、許しを請う心細げな声が、遠慮がちに囁いた。
「のびるぞ」
止まってしまった箸を、音人は指した。だが総司は瞳を瞠ったまま音人を見ている。
「蕎麦」
苛立ちが混じり始めた二度目のそれに、慌てて箸が動いた。
「明日発つなんて、知らなかった」
「あんたが蕎麦を奢るとの約束を果たしたら、すぐ発つつもりでいた」
「田坂さんも何も云っていなかったし…」
「話したのは一昨日の夜、診療所を閉めた後だからな。驚いてはいたが、決めた事ならば早い方がいいと云ってくれた。順天堂には知人が居ると云って、その人宛に紹介状も書いてくれた」
残った汁を啜りながら、音人が、丼から目だけをだして教えた。
「だがあの人は凄いな。本道、蘭学の垣根を作らず、その場その場で必要とする方法を自分で切り開いて行く」
畏敬の念を素直に口にする、この若者らしからぬ言葉にも総司は応えず、ぼんやりと音人を見ている。
通仙散を調合する前にした約束を果たす為に来た蕎麦屋で、明日京を発つと、音人は唐突に切り出した。驚く総司を余所目に音人は、下総佐倉にある医学塾順天堂に行くのだと告げた。
順天堂は、佐倉藩藩主堀田正睦の招きにより、蘭医佐藤泰然が作った蘭医塾である。そこで西洋医学を学び、薬学の知識を深め、広く役に立てたいのだと、音人は云う。現に順天堂では手術の際、副作用の強い通仙散のような薬は使わず、患者の体力のみを頼りにしている。だがそれでは助かる患者を見殺しにする事にもなる。だからこそ、順天堂で通仙散を完全なものにするのだと、音人はひとり淡々と語った。
「明日は、夜明け前に発つ」
すっかりのびてしまった総司の蕎麦に眉根を寄せながら、音人の物云いは、気負いも愛想も無い。
「奈良の薬草の村に寄って、それから伊勢へ出る。そこから江戸、下総までは船を乗り継ぐ」
「…薬草の村と、伊勢」
呟いた途端、総司の記憶の狭間に何かが煌めいた。その正体を探すように、一寸言葉を切ったが、それはすぐに嬉しそうな笑いになった。
「島崎さんのお父上が辿られた道ですね」
弾む声に、音人は黙って頷いた。
「あまり長居はできないが、先を急ぐ旅だから仕方があるまい」
「江戸を越えて行くのですね」
江戸と云った時、総司の声に、一瞬、憧憬と懐古が交じり合ったのを、音人は聞き逃さなかった。総司は、宿痾を抱える己の身が、もうその地を踏む事はないと決めているのかもしれない。そう思わせるような、静かな瞳だった。
「俺は国元を出たのは今回が初めてだから、地理には疎い。だがあんたがそう云うのなら、そうなのだろう」
その禍々しい予感を吹っ切るように、音人は乱暴に箸を置いた。
「島崎さんがあちらに着くころは、もう桜も終わっているかな…」
音人の思いを知らず、親しい者と別れる辛さを紛らわせるように、ぽつりと呟いた声が寂しげに揺れた。
「道草を喰わずに行けば大丈夫だろう」
「そりゃ、どうですやろな。うちとこの桜は、もう小っさい蕾つけてますわ」
声の主は、それまで板場の向うで葱を刻んでいたこの店の主だった。薄くなった鬢に続く平べったい顔に、自慢とからかいの笑いを浮かべている。店に二人きりの客の話を、聞くともなしに聞いていたのだろう。
「桜、蕾を持ったのですか?」
「気ぃつかんで入って来たんか?のんきなもんやなぁ。花が綺麗な姿を見せてくれるんは、ほんまに短い間や。大切にせなあかん」
「本当だ」
ここの主は客にも平気で説法する。妙に度胸が据わった偏屈ではあるが、味は悪く無い。門前の小僧ならぬ、門前の蕎麦屋だと、田坂の云った通りの主に、総司の声が楽しげな笑いに変わった。
「あんたはんも、どっか遠いところへ行くらしいが、こうして心配してくれはるお人もおるんや。気ばらなあかん」
説法が及んで、音人の顔にも苦笑が浮かぶ。
「もう一杯くれ」
返事代わりに、音人は丼を上げた。
「新撰組は余程に暇らしいな」
「貴様程じゃない」
男二人が居座るには、八畳の座敷は窮屈な感がする。尤も、互いに顔を見合わせて座っている訳ではない。八郎は丸火鉢を抱え込むように手を炙っているし、その寒がりを嘲るように、土方は床柱に背を預け胡坐をかいている。二人とも行儀の悪い事甚だしい。
明日、一旦大坂に帰る八郎が田坂の診療所に挨拶に来たのと、黒谷の帰りに寄った土方とがはち合わせになったのが、丁度半刻前だった。一の付く日の今日、総司は診察に来る筈だったがその姿は見えず、居る筈の音人もいない。まだ患者を見ている田坂と手伝いをしているキヨの邪魔をする訳にもゆかず、とりあえず、二人は勝手知ったるこの家の居間に落ち着いた。じき昼八ツ(二時頃)になろうとしている。
そうこうしている内に、聞きなれた足音が近づいて来た。
足音の主は分かっていたから、八郎は億劫そうに振り返り、土方は面倒げな視線を障子に投げた。
「来ていたのか」
障子を開けた田坂の声にも、客を迎えると云う気遣いは無い。
「稼ぐな、名医」
「貧乏暇なしさ」
八郎のからかいを軽くかわしながら、田坂は室内を見渡した。
「沖田君は、まだか」
「そうらしいな」
云いながら、八郎は、憮然と座って居る土方に視線を流した。その時、
「沖田はんなら、島崎はんと出かけましたえ」
後ろで、キヨの丸い声がした。
「出かけた?」
「へぇ。何や沖田はんが島崎はんに、お蕎麦を御馳走する約束をしてはって、今日はそれを果たす日や、云うてましたわ。せんせはまだ患者はんを診てはったし、そしたら先に行こう云うて、おふたりで出かけはりましたわ」
「蕎麦?」
「沖田はんは、せんせにお店の事聞かはった、云うてましたえ」
キヨは胡乱に見上げたが、田坂は、組んだ腕の左手を顎に遣り考え込んだ。が、それも束の間で、
「あの蕎麦屋の事か」
はたと気付いたように、目を上げた
「どこのお蕎麦屋さんか知りまへんけど、そないに美味しいお蕎麦屋はんやったら、うちもいっぺん連れて行ってもらいたいもんですわ」
独り言にしては大きな声で呟くと、キヨはツンと顎を上げ、田坂の後ろを通り過ぎて行った。だが今はキヨの機嫌を直すより先にやる事があった。田坂は白い被布を脱ぎ捨てると、大股で廊下を歩き始めた。それを見た中の二人も何かを察したらしく、素早く立ち上がると続いて敷居を跨いだ。
「蕎麦屋の約束って何だ?」
五条大橋を渡り、高瀬川に沿って南に下りながら、漸く八郎が問いかけた。
「通仙散の調合をして貰うにあたり、治ったら蕎麦を奢る約束をしたそうだ」
「総司が、か?」
「らしいな。だがそれならその蕎麦、俺に奢らせても罰(ばち)は当たるまい」
「尤もだな」
と、気の毒を装い相槌を打ったその時、
「あいつは俺に馳走した事が無い」
後ろで、不機嫌な声がした。振り返れば、土方がこの上無い仏頂面をしている。
「そう云えば…、俺もそうだな」
恋敵の不幸を面白がったのは一瞬で、八郎は、すぐに己も同じ境遇であった事に気付いた。
むっつりと、三人が三様に押し黙り、足だけを運ばせ始めた。
たかが蕎麦一杯である。その蕎麦を奢る奢られないで、これ程に向かっ腹を立てている自分達は、傍で見ればいい笑いものだ。それでもささやかな矜持は許さない。恋とは、どうにも厄介な代物らしい。八郎は胸の裡で、苦く顔を顰めた。が、それでも…。
「仕方がないだろうよ」
そんな己を良しとし、謡うように空を見上げた。その視線が、つと一点に止まった。いぶし銀の樹肌を持つ木は桜だった。その枝に、ひとつふたつ白いものがある。目を凝らすと、それは小さな蕾だった。
「桜が、咲くな」
天を仰いだ声に、男達が、足を止めた。
さくら 了
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