五月雨の・・・ (七) 「・・・雨、上がるかな」 しんと物音ひとつせぬ静寂の中、凝視していた隣の影が寝返りを打った、それが辛抱の堪え際だったのか、相手の眠りを邪魔せぬよう沈黙を強いていた総司の唇から、遂に独り語りを装った小さな呟きが漏れた。 「無理だろう」 案の定、いらえはそう間を置かずに返ったが、それを聞いた途端、待っていたように掛けていた夜具が跳ね除けられ、横になっていた身が素早く起こされた。 「高崎まで、どの位かかるのかな」 何とか会話を続けたいと、その必死が、埒も無い問い掛けすら、大層な勢いの言葉に変えてしまう。 「三日もあれば着くだろう」 「・・三日」 少年と云うにも幼い日に試衛館の内弟子となった総司には、多摩方面への出稽古が知り得る限りの遠出で、三日と云う時の経過が、一体どれ程の距離を自分と一の間に作るのかが分らない。 小さな反復は、その心許なさの表れでもあった。 あれから―― 月が変わる刻限を以って、柚木の悪事の残骸一掃を計ると云う河井を見送った後、夜明けと同時に江戸を発ち高崎に向かう意志を、一は周囲に伝えた。 せめてその出立を見送りたいと云う総司に、始め土方は厳しい顔を見せたが、今回の件では尽力させてしまった堀内の口添えもあり、又何よりも、この者の見せ掛けによらぬ頑固さを熟知しているだけに、最後は諦めの息と共に、我儘と云うにはあまりにささやかな駄々を許した。 そうして夜が帳を開けるまでの僅かな時を、堀内の屋敷で、今総司は一と二人で過ごしている。 「一さんは、高崎に行ったことがあるのですか?」 天井に顔を向け仰臥している主への問い掛けは、話を切らすまいと急(せ)く心が、ついつい先を逸らせる。 「無い。だが以前爺さんが、何かの話のついでにそんな事を言っていた」 「・・佐平さんが?」 今はもう現の声を聞く事叶わぬ者に触れた、そのほんの一瞬だけ、一の声音が和らいだと思ったのは、佐平への自分の感傷がさせる錯覚だったのだろうか・・ 向けた視線の先で、宙を睨み、身じろぎせぬ横顔の唇は、総司にそれを問う事を憚らせる厳しさで、堅く閉ざされている。 何を憂い、何に思いを馳せているのか・・ 何もかもを、影と云うひとつの暗色の濃淡に沈めてしまう闇の中では、一の面に浮かぶ、心の襞が読み取れない。 それが総司の胸の裡を、ひどく落ち着かなくさせる。 「・・そう言えば」 再び出来てしまった沈黙を、不意に破った一の呟きに、これ以上の会話の続きを諦め、落胆にいた瞳が、慌てて声の主を捉えた。 「確かに、爺さんは云っていたな」 「何を?」 身を乗り出すようにして問う総司に、漸く一が視線だけを向けた。 「あんたと俺は、似ていると」 「それは、お甲さんが云っていたのと同じ事だろうか?」 「らしいな。・・あんたが二度目に来て帰った後、そう云っていた。だから互いを見ていると、苛つくのだろうと笑っていた」 そう云った言葉の最後が、苦い笑いになった。 「私は一さんを見て、苛つく事など無い」 「俺はある」 勢い込んで訴えたものの、それを即座に否定された総司の言葉が、途端に詰まる。 「見ず知らずの他人に、何故これ程節介を焼くのか。・・係れば自分の身すら危険だと云うのに、向こう見ずに飛び込んで来る。放っておいてくれれば良いものを、冷汗をかかされるこっちが苛つく」 向けられている深い色の瞳に、みるみる困惑の色が湛えられるのが、闇に慣れた一の目にも分る。 「・・すみません」 呟きにも満たない、消え行くように頼りない声が、気まずいしじまを僅かに震わせた。 「本当に、苛立たせる」 だがそれすら、容赦の無い云い様を止める枷にはならず、更に掛けられた追い討ちに、沈黙を嫌っていた総司が、今度は唇を閉ざした。 「だから気になる」 が、次の瞬間、耳に届いた予期せぬ言葉に、俯きかけていた面輪が、弾かれたように上げられた。 「不器用なくせに節介焼きで、見れば苛立つだけの奴なのに、いつの間にか気になっている」 仰臥の体勢はそのままに、此方を向くでもなく、己の心に在る不可思議を解くように、一の語りは続く。 「・・分らん」 最後は観念にも似た諦めの声が、答えの見出せない様を自嘲するように笑っていた。 「似ているから」 それに寸暇を置かず返ったいらえに、一の顔が再び総司に向けられた。 「お爺さんの、云った通りだ」 振り向く事を承知し待ち構えていた双つの瞳が、合った途端、闇の中で嬉しそうに細められた。 「私も一さんを見ていると、苛々する」 だがそう皮肉を云った面輪が、直ぐに可笑しそうに笑い始めた。 その総司を、一は暫し呆れ顔で見ていたが、やがて容易には止まりそうにない笑い声に、遂に辛抱も尽きたのか、これみよがしの深い息をひとつ吐くと、又さっさと天井を向いてしまった。 「きっと、似ているんだ」 体全部で拒まれても、尚繰り返す声は、その裏で執拗に是とのいらえをねだる。 だが此方も応えぬのが譲れぬ頑固なのか、真っ直ぐに顔を別つ形の良い鼻梁が、若い精悍さを感じさせる横顔の主は、一向口を開こうとしない。 それを見ている総司も、声にする事こそ控えているものの、諦める気は露程も無いようで、深い色の瞳が、瞬きもせず一を見つめている。 降る雨の静けさが、現の音を水輪に閉じ込め、この頃合のぬるい風と相まって、室の中を、何処か物憂く、だが何故かそれが不思議と心地よい曖昧さに包み込む。 その優しい静寂の中、微かにも動かず自分を凝視している視線が、まるで無言の行のように一を責め立てる。 「・・かも、しれないな」 「きっとそうだ」 遂に根負けし、ようよう聞こえて来た声の素気無さが、これは本意ではないと、強く伝えていたが、総司は嬉しそうに頬を緩めた。 「高崎のお寺にお爺さんの遺髪を届けたら、江戸に戻ってくるのでしょう?」 漸く掴んだ会話の糸口を、今度こそ離すまいと問う総司の語尾が、だが急(せ)き込む勢いを不意に失くして小さくなった。 それは戻るいらえが、多分自分の願うものとは異なる結果だと、胸の裡の何かが教える所為なのは、総司自身も承知している。 だがそれでも一縷の希に縋るように、総司は次の言葉を待っている。 一は暫し天井に目を向けたままでいたが、やがてゆっくりと顔を横にし、総司を見遣った。 「京へ行く」 「・・京?」 高崎までの距離を慮るのが精一杯だった脳裏に、思いもかけなかった土地の名を今叉告げられ、深い色の瞳が狼狽に揺れる。 「以前、まだ高崎で店をやっていた頃の手代が、内藤新宿で偶然爺さんの姿を見つけ、その後俺が捕まって色々問い質されたと話したのを、覚えているか?」 顎を引くだけで頷く総司の仕草が、一の話が、これ以上自分の知らない方向へと掛け離れてしまうのを警戒していた。 「その時自分の居所を記した紙を、爺さんに渡して欲しいと、無理矢理握らされた」 「・・それが、京だったのですか?」 「店をたたんだ際に、身ひとつ立てられる程の金を渡して、そいつを生まれ故郷の京へ帰したのだそうだ。・・結局、手がかりを得られず肩を落していたが、その時一緒に、もしも爺さんが難儀する事があったら、必ず教えて欲しいと頭を下げられた」 「お爺さん、きっとその人の事を、大事にしていたんだ」 「一生掛っても返しきれない恩を受けたと、云っていた」 「ではその人の処に、お爺さんの事を?」 「約束だからな。・・泣いてくれる奴に弔って貰った方が、爺さんも喜ぶ」 淡々と抑揚の無い声音は、湿った感情の欠片すらも見せない。 だがそれこそが、心の裡にある慟哭に、ともすれば負けてしまう己を律している、一の、唯一の砦のように総司には思えた。 「けれど・・、又江戸に戻ってくるのでしょう?」 それでも諦めきれず、半ば強引にいらえを引き出そうとする声は、執拗に食い下がる。 「どうだかな」 素気無く返ったそれは、地を、葉を、柔らかに潤す滋雨が、不意に冷たい水の礫(つぶて)に様変わりするように、総司の心をたちまち寂寥感で覆う。 「・・が、あんたとは、又会える気がする」 しかし続けられた言葉は、口調も、声音も、闇の向こうから見つめる眼差しも、そのどれもが、ついさっき交わした会話の時のそれと少しも変わらないのに、又しても総司の瞳を驚きに瞠らせ、息を呑ませるのに十分だった。 「・・本当・・に?」 暫し身じろぎもせず一を見つめていた総司だったが、やがて我に返るや否や、今の言葉が現のものであったと確かめるように、慌てて夜具から這い出すと、今は此方を向いて横臥している主ににじり寄った。 「本当に、又会えるかな?」 「気がするだけだ。俺にだって先の事は分からん」 あまりに必死な形相を見れば、それがその場凌ぎの偽りだとは云いかね、真摯を超えた瞳に捉えられた決まり悪さに、一は乱暴に寝返りを打った。 「気だけでもいい」 だが背中を向けられても、まだ其処を動こうとはしない声は、嬉しそうに告げる。 それを後で聞きながら、一は、つい口から滑り出た己のいい加減さを、何故か厭うと思わぬ不可思議を持て余していた。 ――いつの間にか出てきた風が、外の草木の枝を揺らし梢を騒がせる。 その葉擦れのざわめきが、互いの無口が作るしじまを、時折邪魔する。 一は横臥したまま闇の向こうを見据え、総司はその一の背を見ている。 降り止まぬ五月雨の音だけが、妙に優しく、寂と静まり返る室を包み込む。 ・・・きっと、一の勘は外れるような気がする。 けれど今、何か言葉を発した途端、それはもっと早く、もっと呆気なく、まるであぶくのように儚く消えてしまいそうな気がする。 だから閉ざす唇には、力が籠もる。 見つめている背から視線を逸らすことすら出来ず、総司は軒を打つ雨だれの音を聞いていた。 「浪士組?」 抜ける風は、この時期特有の水気を孕み、汗の浮いた肌を更に不快に湿らせる。 「知らんのか?」 「暇とは無縁だ」 「ならば縁を作れ」 その汗を拭いながら返った物云いの、あまりの愛想の無さに、応える口調には諦めの笑いすらある。 「この京に居て、お前のような若さで、剣術意外は興の欠片も動かないと云う輩は珍しいぞ」 「珍しい方が、大事にされる」 道場への入門もほぼ同じならば、大して歳の変わらぬと云う気安さもあるのだろうが、本来口下手な自分が、こんな風に気さくな会話を交わせるのは、この成田源次郎と云う人間の屈託の無い人柄故だとは十分承知しているから、遠慮の無いいらえを返す一の口からも苦笑が漏れる。 「お前には興の無い、その浪士組だが。・・何でも将軍家の護衛の為に組織され、京まで上ってきた一部がそのまま居残り、京都守護職のお預かりとなったそうだ」 「それで?」 多少の後ろめたさはあるのか、気の無い相槌を寄越しながらも、いつの間にか視線は道場の片隅へと釘付けられている相手に、源次郎は深い溜息をついた。 「腕の立つ者を、募っていると云う事だ。お前ならば向こうの方から誘いがありそうだと、そう云いたかっただけだ」 「生憎、職には困っていない」 「いつまで小間物屋の用心棒をしているつもりだ」 暖簾に腕押しよりもまだ手ごたえの無さに、半ば呆れ、半ば諦めの源次郎の言葉は、もうとっくに耳を素通りしているのか、ただ一点を凝視している一の双眸が鋭く細められた。 その尋常でない様子に、流石に源次郎も、向けられている視線の先を見遣った。 「・・・あの人は、先生の知人の紹介だと云っていた。あれで医者だそうだ」 先ほどから一が捉えているのが、今立ち合っている二人の内のひとりだと知るや、それに注意が奪われるのは然もありなんとばかりに、豊かな二重の顎が引かれた。 「医者?」 明らかな勝敗の結果はもう眼中になかったのか、漸く振り向いた相手の、思った通りの反応に、源次郎は満足げな笑みを浮かべた。 「世の中には、自分の商売には要らぬ力を持っている、皮肉な奴もいると云う事だろうさ」 尤もそうな意見は横に流し、己の意識の全てを、一瞬の内に浚ってしまった主を、一は再び視界の内に捉えた。 礼を交わし終え面を取った横顔は、高い鼻梁が端正を際立たせ、立ち合いの余韻を残して滴る汗が、荒々しい精悍さすら感じさせる。 然程息を乱している風も無い様は、無駄を一切を省いた、計算され尽くした動きの結果によるものだろう。 だがそれでいて、打ち込む時の俊敏さ、激しさには息を呑むものがあった。 対した相手はこの吉田道場の師範代で、決して弱い人間では無い。 が、振り出した竹刀が交わされると同時に、相手の其れが胴に入った瞬間は、自分でも何が起こったのか分からなかったであろう。 それ程に見事な、切れの鋭さだった。 しかし今、自らが奥へと案内する道場主の吉田の後に続き、小さくなって行く広い背を双眸に捉えている一の脳裏に、突如として浮び、たちまち神経の全てを支配してしまったのは、未だ忘れえ無い、ひとりの人間の面影だった。 尋常でない状況下での出会いから、別れまでの瞬く間に、竹刀をまじえる暇(いとま)など有り得る筈も無かったが、もしかしたら身の動きの鋭さ俊敏さは、先ほど見た相手よりも勝るかもしれない。 否、多分そうなのだろう。 行動を共にした、僅かの時で、それは十分に推し量る事が出来た。 だがそう云う怜悧な観測よりも、ひとつ前の同じ季節の出来事を思い起こした途端、一の胸の裡を隈なく満たしたのは、飾り気の無い懐かしさだけだった。 そして何よりもその思いが、らしくも無い感傷へといざなう。 不意に渦巻いた、言い訳の見つからぬ感情に振り回される自分を嫌い、少々乱暴に額の汗を拭うと、一は記憶の淵に刻み込まれた邪気の無い笑い顔を、瞼の裏から消した。 市街を少し外れれば、京と云っても、途端に田畑だけが広がる田舎風景になる。 脇の民家とて、段々にまばらになる道を、一の足はそう急(せ)くでも無く、むしろ所在無さげに行く。 江戸から上って来た浪士組は、壬生と云う地に居を構えたと、源次郎は云っていた。 道場を出て、帰るべき道とは逆のそれへと歩を進めているのは、あの瞬間、一気に時を溯らせ、未だこうして自分を捉えて離さない残影の所為だった。 向かう先に、目当ての相手がいる確率は皆無に等しい。 だから今己がしようとしている事の馬鹿馬鹿しさには、呆れを通り越して愛想が尽きる。 それでもこの目で確かめねば落ち着かない自分と、さてどの辺りで折り合いをつけようか・・ 止まぬ煙雨が、視界に入るもの全ての、色も輪郭も朧にしてしまう中、一は方頬だけを歪め、自嘲の笑みを浮かべた。 だがその足が、不意に地に縫い止められたように止まった。 畦を、少しだけまともにしたような心許ない道の先に、傘も差さずに蹲る人影がある。 どうやらそれが、切れた下駄の鼻緒を挿げ替えようとしているらしいとは、細めた眸が映し出す、相手の仕草で判じられた。 が、雫の帳が邪魔をして、顔貌までは分からない。 分からないが・・・ 心の臓が、一度どくりと鳴った。 そうしてゆっくりと、再び一は歩を刻み始める。 雨湿りは、地を踏みしめる音すら土に沈めてしまう。 歩みを止めず、距離が縮まる中、一心に鼻緒に目を落していた面輪が、気配を察して上げられた。 その寸座、深い色の瞳が大きく見開かれ、同時に、形の良い唇が動きかけたがそれは僅かな戦慄きだけで仕舞いになり、言葉になる事は無かった。 「・・不器用だな」 差しかけられた傘と共に、低い、無愛想な掠れ声が、けれど辺りを霞ませる雨の柔らかさにも似て、見上げる総司の耳に届いた。 五月雨の・・・ 了 |