深々と sinsinto 静かに開かれた襖から外気が入り込まぬ様に素早く身を入れると、 すぐに後ろ手で静かに閉じ、足音を忍ばせ、吐く息すら殺すように、 少しの音も立てずにその人影は、室の真中に延べられた夜具の傍らに座った。 闇の中で行灯の仄かな明るさだけが映し出す眠り顔は、 やはり血の色を無くして閉じられた薄い瞼すら動かず、不安に胸が騒ぐ。 眠りを覚まさぬように、そっと額に手を触れるとずいぶんと熱い。 脇に目をやれば、手拭はたらいの水に浸(つ)かったままだ。 一度は下がった熱が、また上がってきたらしい。 水に手を浸(ひた)らせれば肌を刺すように冷たい。 中の手拭をとって水の滴る音を立てぬように固く絞った。 その濡れ手拭を、額に乱れる前髪を指で掻きあげてやりながら乗せようとした時、 「・・・土方さん」 深い眠りに落ちていたと思った総司の瞳が開いた。 「どこか苦しいのか・・?」 その問い掛けに総司は微かに首を振った。 「忙しいのに・・・」 総司の瞳が申し訳無さそうに見上げてくる。 「ばか、病人がそんなことを気にするな」 総司の懸念は、寝る時間もろくに無い最近の土方の多忙を気遣うものだった。 確かに最近の土方は忙しすぎた。 九月の終わりに隊士募集の為に江戸に下り、戻ってきたのがこの十一月の初め。 その後すぐに離脱していた伊東一派の粛清に動いた。 留守中には大政奉還という大事件があった。 世相は目まぐるしく変わり、公には新撰組副長として近藤の補佐に回り、 また実質的に隊の内部を仕切る土方の毎日は、息もつけぬ程に忙しかった。 今日も近藤と共にどこかに行って、着替えもせずにそのままここに来たのだろう。 土方はまだ黒羽二重の正装だった。 その土方の体を総司は案じていた。 本来ならば傍らで手となり足となって、 身を粉にしても動かねばならない我が身は 今は立ち居振る舞いも侭ならぬ病床にある。 必要な時に動けぬ情けなさに、知らず唇を噛んでいた。 「お前がそんな心配をすると、治るものも治らなくなるようで余計に気苦労が増える」 苦笑しながら手にしていた濡れ手拭を総司の額に乗せてやると、 一瞬瞼を閉じて、心地良さそうに吐息した。 本当は体が辛いのだろう。 否、辛くないはずはない。 だが総司は絶対と言って良いほどに、己の体の苦しさを口にしない。 それが哀れだった。 今日総司を診察した主治医の田坂俊介医師によれば、十日程前に引いた風邪は 元々の宿痾によってすでにほとんど使い物にはならない肺腑を侵し、 広く炎症を起こさせているということだった。 決して油断のできる状態ではないと、田坂の顔は厳しかった。 そして同時に田坂は、総司の命の限界が近いことを告げた。 だがその田坂の言葉を、土方はどこか遠いところで聞いていた。 「・・・土方さん」 黙ってしまった土方を、総司が不安げに小さく呼んだ。 「寒いのか・・・?」 その声が少し震えていたのを土方は聞き逃さなかった。 総司は静かに又首を振ったが、高い熱に苛まれて、 走る悪寒に震えているのは容易に知れる。 土方は黙って立ちあがると着ていた羽織の紐を解き、袴と一緒に脱ぎ捨てた。 やがて下着一枚になると、夜具の端を持ち上げ、するりと総司の横に滑り込んだ。 その、瞬きを一回するだけのような、あっと言う間の出来事を、 総司は瞳を瞠って見ていた。 抱き寄せられて土方の体の冷たさに触れて、一瞬体が強張った。 「すまん。冷たいか?」 胸に抱(いだ)きこむようにして顔を覗くと、総司は瞳をあげて首を振った。 総司の体は驚く程熱いのに、腕の中の体はまだ震えている。 (・・・また、痩せた) せめて楽になるように、背中を撫でてやりながら、土方の胸の中は重く暗い。 総司の生が終焉を迎える日など考えもしない。 自分の傍らからいなくなる時など、思いもよらない。 だがこの背の儚さは一体何だというのか・・・ 思わず抱く腕に力を込めた。 このまま朝など来なくてもいい。 愛しい者を奪うだけに来る明日など要りはしない・・・ その土方の温もりを確かめるように、総司はじっと動かない。 ふいに頬に熱いものが触れて我に返った。 総司が手を伸ばして指先で、触れていた。 「痩せた・・」 声音に不安が混ざる。 「ばか、それはお前だろう」 それには応えず総司は小さく笑っただけだった。 昼頃から降りだした冷たい雨は、いつのまにか雪になったようだった。 軒を叩いていた雨の音はもうしない。 代わりに吐く息すら白く濁りそうな冷たさが、時折室内に忍び込む。 「藤堂さんのこと・・・気にしているのですか」 暫らくその静寂の中で身じろぎもせずに土方の胸に寄り沿っていたが、 ずっと心にわだかまっていたことを聞いた。 十日前、伊東一派の粛清が行われた時、 伊東と行動を共にしていた江戸試衛館以来の同士藤堂平助をも、新撰組は斬った。 藤堂のことは、死ぬまで口にするつもりは無かった。 それは土方にはただ辛い事のはずだった。 だがそう固く心に決めた事を今、敢えて言葉にしたのは、 土方の胸にある枷を、ひとつでも吐き出させて楽にさせてやりたいと願ったからだ。 今の自分にはそんなことしか出来ない。 「気にしてなどいないさ」 「嘘だ・・・」 「何故そんな事を言う・・」 「土方さんが嘘をつくとすぐに分かる」 「では今回は、はずれだな」 「・・・それも嘘だ」 「それではお前はどうなのだ・・・お前こそ、藤堂を思っているだろうに」 総司は小さく首を振った。 「思ってなどいません・・」 「隠さなくてもいい」 土方の指が頬にかかった総司のほつれ髪を梳いた。 寝込む前よりも更にひと回り小さくなった蒼白な顔は、 黒曜石に似た深い色の瞳ばかりが、唯一生気を感じさせてそこにある。 「藤堂さんは・・」 熱に潤んだ瞳で土方を見上げた。 「藤堂は?」 「・・・私に横になっている時と、 暗いときには物事を考えてはいけないと、そう言った。 そうすると、私は藤堂さんに最後に約束をしました。だから・・」 言葉を途切らせてしまった総司を、土方は辛抱強く待つ。 「・・だから、今は藤堂さんの事は考えない」 土方の事だけを想っていたいという昂ぶりを敢えて堪えて、 その代わりに抱き込んでくれている胸に顔を伏せた。 「堪(こら)えなくてもいい。堪えるな、総司・・」 本当は自分が泣きたいだろう心を隠す身が、哀れだった。 「・・・堪えてなど、いません」 「お前こそ、嘘をついている」 その言葉の最後までを聞かず、総司は土方の手を取ると 己の寝着の袷からそっと胸の中にそれを導きいれた。 外気に当たっていた土方の手が胸の薄い肌を通して、 心の臓を凍らせるほどに冷たかった。 思わぬ総司の所作に、土方が慌てて手を引こうとした。 その土方の離れようとする手を、総司は己の両の掌で強く掴んで抗った。 「総司、咳がでる」 叱るように言う土方の声も届かぬように、 総司は激しく頭(かぶり)を振り続ける。 「総司・・」 諭すように宥(なだ)めようとしても、 俯いたまま渾身の力で土方の手を握り締めて放さない。 「・・・嘘じゃない」 瞳を伏せたまま、消え入るような声だった。 「・・・ここで・・・、私の胸の中で想っている事は、土方さんの事だけだ」 言い切って見上げた黒曜の瞳が、 その奥にひたむきな激しさを湛えて揺れていた。 「いつも、いつも土方さんの事しか想っていない」 素の肌を通して、酷く高い総司の体温が伝わる。 だがそれより熱いのは総司の切ない心だ。 「私は土方さんのことしか、想っていない」 しがみ付くように自分の胸に又顔を伏せ、後は言葉にならない総司の骨ばった肩を、 土方はただ黙って抱きしめていた。 泣いてくれたほうが、 何故藤堂を見殺しにしたのかと責めてくれる方が、どんなにか楽かしれない。 触れる総司の薄い胸の下に、宿る業病がある。 その更に奥に、総司の本当の痛みがある。 外の雪は降り続いているのだろう。 僅かな隙間から、流れ込む空気が刺すように冷たい。 病室の暖をとるために、夜通し火を落とさないでいる、 火鉢に掛けられた鉄瓶が出す湯気の音だけが、室を支配する唯一だった。 「藤堂は暗い内には考え事をするなと、言ったのか・・・」 総司の後ろ髪のひとつも、 指先から零れぬように抱え込みながら、土方の声は静かだった。 微かにその頭が動いて頷いた。 「では夜が明けるころ、あいつのことを思え。 俺はこうしている。ずっとこうしていてやる。 ・・・・だから、俺の腕の中で、あいつのことを思え」 その言葉に総司は、今度は小さく頭(こうべ)を振った。 「・・・思わない。藤堂さんのことは思わない」 聞き取れぬ程の呟きだった。 「・・総司」 「藤堂さんは、横になっている時も考えるなと、そう言いました。 病気の時は何も考えてはいけないと・・・そう、いいました。 だから私は今は籐堂さんのことは、思うことはできない。 藤堂さんと、そう約束をしたから・・・できないのです」 「そうか・・」 総司は伏せた顔を、一度も上げようとはしない。 顔を見せないのは、心の内を自分に悟られるのを恐れているからだ。 総司は籐堂を救えなかった己を、ひたすらに責め、 ここまで無情の刃を振るう天の気まぐれに、憤ることも、泣くことせず、 今自分の胸に顔を埋め、瞳を閉じ、それらの全てを受け入れようとしている。 どんなに強く抱いてやっても、この苦しさの幾らも救ってやる事ができない。 「いつか・・・」 耳元で囁くように言いながら、土方は総司の胸から静かに己の手を離した。 その手の温もりが去るのを怯えるように、総司の体が一瞬震えた。 「・・・いつか、籐堂の墓参りに行こう」 決して土方を見ようとしなかった総司が、弾かれたように顔を上げた。 見上げてくるその瞳を少しも逸らさず、土方の双眸に湛えた色が深かった。 「だから、早くよくなれ・・」 そのまま二つの手のひらで、やつれた頬を包み込んだ。 「早く良くなれ。そうして、籐堂の墓参りに行こう」 瞬きもせずに瞠っていた黒曜の瞳から、初めてひとつ露が零れ落ちた。 「そうすれば、約束は守られる。その時は俺に何も隠すな。 藤堂のことも、辛ければ辛いと言え。俺が憎ければ憎いと言え。 どんなに俺を責めても構わない。お前が言いたいことを全部言え。 それでも俺はお前を放さない。どんなにお前が嫌がっても、俺はお前を放さない。 だから・・・・」 零れ落ちる露を拭おうともせず、総司が激しくかぶりを振る。 「だから、ひとつも俺に隠すな」 その言葉を強く遮るように、総司が土方の首筋に腕を絡めて縋りついてきた。 「・・・違うっ」 告げようとする言葉は声にならない。 そのもどかしさに更に激しく絡めた腕に力を込める。 「何も、隠してなどいない・・」 「分かっている」 「・・・隠してなど、いない・・・」 「・・・・分かっている」 その背を強く抱きしめてやる土方の肩口に、冷たいものが滲み込んでゆく。 雪は音も無く降り続く。 それよりも、ひっそりと総司は泣く。 この儚い背の持ち主を失うことを恐れて、 死ぬなと、自分を残して決して死ぬなと、 泣いて懇願したかったのは、或いは自分だったのかも知れない。 押し殺したようなすすり泣く声は、やがて堪え切れぬ嗚咽に変わった。 捉えた総司の髪の一筋を、土方は己の唇に沿わせた。 もうどの世に渡ろうが、放すわけにはゆかない。 沿わせた髪を、口に含んだ。 この身に代えて、生きてほしいと・・・、願った。 今も雪は闇の中で降り続けているのだろう。 地に降(お)りては露と消え、それでも飽かず降り続けているのだろう。 ただ深々と、なお深々と・・・・雪は降っているのだろう。 その様が、己の想いと重なった。 思わず閉じた目の奥が熱かった。 了 琥珀短編 |