30000打御礼 芙沙さまへ 総ちゃんのシアワセ♪話し方特訓なの♪ もうどのくらい、こうして俯いているのでしょう。 けれど総ちゃんは、土方さんの不機嫌極まりない様子を見るのが怖くて、顔を上げる事ができません。 土方さんも土方さんで、下を向いたきりの総ちゃんを、腕を組んだまま厳しい眼差しで見据えています。 「総司、もう一回」 鋭い声が、総ちゃんに向けて飛びます。 途端に、しょんぼりと項垂れていた身体が、びくりと動きました。 「もう一回っ」 更に容赦無く、土方さんは催促します。 「・・・あの」 「あの、は要らないっ」 必死の思いで漸く搾り出して声にした一言だったのに、頭ごなしに叱られて、総ちゃんの薄っぺらな肩は益々内へと縮こまります。 そんな姿を目の当たりにすれば、土方さんも胸の裡に湧き上がる苦しい思いを禁じ得ません。 誰がこんな酷い仕打を総ちゃんにしたいと思うでしょう。 自分以外の人間がやるのならば、首のひとつふたつ落としたくらいでは到底治まりきれません。 一旦堰を切った土方さんの苛立ちは、次から次へと噴出し、もう止まる処を知りません。 それもこれも、勝っちゃんが叉くだらん事言い始めたらからだと、今度は此処には居ない近藤さんへと、怒りの矛先は向けられます。 *********** 何故こんな事になってしまったのか―――― そもそも事の発端は、近藤先生が土方さんを極秘で呼んだ事にあったのです。 どうせまたろくな事ではないだろうと放っておいた土方さんですが、伝言を伝えに来た隊士さんの五人目をにべも無く追い返した処で、当の近藤先生がしびれを切らして自ら現れたのを見て、仕様が無しにしぶしぶ仕事の手を止めたのでした。 ところが近藤先生は土方さんの前に腰を下ろすや否や、それはそれは難しい顔で、まるで大事な機密事を伝えるかのように膝を進め詰め寄ったのです。 土方さんは思わず、むさ苦しいっと怒鳴ってしまいそうになりましたが、其処はそれ、伊達に新撰組副長などと云うお役にはついている訳ではありません。 大きく息を吸い込むと、正面の厳つい顔に鋭い一瞥を投げかけました。 「話は?」 愛想の欠片も無い物言いでしたが、さっさと退いてもらうには、早いとこ用件だけを聞き出すのが一番です。 ですが近藤先生も度胸と器の大きさでは、誰に負けるものでもありません。 大体そんな事に一々臆していたら、新撰組の局長などはやっていられません。 「実は・・・」 近藤先生は一旦言葉を切ると、これ以上無いと思える程の眼光の険しさで土方さんを見据えました。 「総司の事だが」 「総司の事なら万事抜かりは無く俺がやっているから、あんたは気にしなくていい」 まったく何を言い出すのかと思えばとそんな事かと、舌打ちのひとつでもしかねない忌々しい顔で素っ気無く言い切り近藤先生の次と言葉を断つと、土方さんは又文机に向かおうとしました。 総ちゃんの事なら誰に何を問いただされても、本人以上に熟知しているのは自分だと自負している土方さんは、逢瀬の為に昼食も抜いて片付けている仕事を中断させられた事に、云い様の無い腹立たしさを覚えます。 ところが・・・・ 「やはりお前しかいない」 近藤先生は土方さんの背中に向かって呟くと、独り大きく頷きました。 「何が?」 後ろを見せたまま、持った筆を動かすのも止めず応えた声は、もういい加減にして欲しいうんざりとした様子を隠しもしません。 「総司のあの、のんびりとした話し方を直す人間が、だ」 「話し方を直す?」 突飛でもない話に、漸く土方さんが振り向きました。 「相手に通じりゃいい事だろう」 にべも無い意見に、今度は近藤先生の首が大仰に振られました。 それを見ながらふと土方さんは、『口に拳骨を入れたまま今のように首を振ったら近くにいる人間は迷惑だな』と、現実を前向きに捉えました。 流石は怜悧な分析に培われた実践派、新撰組副長土方歳三です。 「それは違うよ、歳」 そんな土方さんの観測などものともせず、近藤先生は意外にも少しだけ悲しそうに眉根を寄せました。 「総司には良い家からの養子縁組の話が後を絶たない。この先もまだまだそれは続くだろう。だがもしも良い縁組が纏まっても、あのおっとりとした喋り方では、きっとその家で働く者達が総司の事を甘く見てしまうだろう。そんな事で総司が継子虐めをされると思うと、俺は胸が張り裂けそうに辛い」 もうすでにその時の光景を脳裏に描いているのか、近藤先生は耐えられないようにぎゅっと目を瞑りました。 ―――近藤先生は懐古します。 総ちゃんが自分の元へとやって来た時は、いとも容易く片手で肩に抱き上げてしまえる小さな子供でした。 食の細い総ちゃんに毎日きちんと一日二回、お八つの馬頭饅頭を、寒い時には火鉢を囲み、暑い時には日が陰を作っている縁側で食べさせ大きくしたのは他ならぬ自分です。 だからこそ、総ちゃんには誰よりもシアワセになって欲しいと、近藤先生は思うのです。 総ちゃんのシアワセな姿を思うと、目頭までもが熱くなります。 溢れ出しそうになるものを、近藤先生は二度三度目を瞬いてやりすごしました。 近藤先生が感傷に浸る様を見ながら――― 土方さんは不機嫌の骨頂に来ています。 生まれた時から総ちゃんは自分のものだと自他共に認める土方さんには、面白くないどころの騒ぎではありません。 全く冗談ではありません、一体全体何処から養子に出すなどと云う発想が生まれてくるのでしょう? こんな馬鹿げた話に付き合っていられるかと、敷いていた座布団を蹴飛ばさん勢いで荒々しく立ち上がっても、近藤先生は閉じた目を開こうとはしません。 そんな近藤先生などさっさと切り捨てた土方さんの手が、襖の桟に伸びたその時―――― 「歳よ」 腹の底に響くような低い声が、後ろから呼び止めました。 「何だ」 これ以上会話を続ける気など微塵も無い土方さんも、横を向いたままでいらえを返します。 「お前に総司の事を任せた俺が間違っていた」 ゆっくりと土方さんを見上げた近藤先生の目には、男がひとつ物事を決めた荘厳さがありました。 「どう云うことだ」 応える声も、流石に真剣みを帯びてきます。 近藤勇と云う人物の数々の思いつきには、長い付き合いの間で、大概の事は適当にあしらう術を会得して来た土方さんですが、殊総ちゃんに関する件で、しかも任せて間違いだったなどと云われた日には、例えそれが竹馬の友であろうが許す事など出来はしません。 けれどその土方さんの怒りなどものともせず、近藤先生はふりふりと軽く頭を振りました。 「総司が歯切れ良くてきぱきと、相手に一歩引かせるような威厳を持った調子で話す事ができないのは、お前が傍らにいるからだ」 「どうして俺の所為になるっ」 土方さんは開こうとしていた襖の桟から手を離し、近藤先生に詰め寄りました。 「総司が何かを言う前に、お前が全部先回りしてしまうから、あいつは別段自分からああして欲しい、こうもして欲しいと云わなくても済んでしまうのだ。いや、もしかしたら総司は他に言いたい事があっても、お前の手前言えんのかもしれない。いやいや、きっとそうに違いない・・・総司、可哀想に」 近藤先生は不憫と思った愛弟子の顔を脳裏に思い起こした途端に、せっかく踏ん張って堪えていた熱いものが頬に流れるのを止められなくなってしまいました。 「歳よ」 近藤先生は、唖然と言葉が出ない土方さんにおもむろに向き直り、鋭く細い目を据えました。 「俺はやはり総司には辛い思いはして欲しくない。・・・そうだ、お前ができないのならば、伊庭君に頼もう。あの江戸前の切れの良い話し方を教授して貰ったら、きっと総司は仕合せになれるだろう」 突然閃いた自分の思いつきが、何にも代えがたい素晴らしいものに思えて、近藤先生の声にも俄かに張りと勢いが出てきました。 「伊庭だとっ?」 総ちゃんの仕合せを直ぐ間近に捉え、これで養子に行っても継子虐めはされないだろうと喜色満面のその近藤先生の胸倉を、土方さんは力任せに掴み上げました。 「そうだ、伊庭君だ」 殴りかからんばかりの土方さんに、近藤先生は怯みもせずに大きく頷きます。 「彼なら手取り足取り腰までとって、懇切丁寧に総司に喋り方の極意を伝授してくれる筈だ」 そう信じて疑わない近藤先生の満足げな顔を、土方さんは憤怒の形で睨みつけました。 よりによって八郎さんなど、金輪際許せるものではありません。 「それに伊庭君ならば、末は大きな道場の跡取だから、人の上に立った時の心構えも一緒に教えてくれるだろう。・・・これで総司も例え将軍家のお目に止って養子に行く事になっても何の憂いも無い」 「・・・将軍家の養子だと?」 もう呆れを通り越して不思議なものでも見ているような土方さんに、これ叉真剣な眼差しの強面が頷きました。 「そうだ、将軍家だ。・・・だが歳よ。そうなればもう総司には滅多に会う事も出来なくなる。・・・それも寂しいものだな・・」 厳かに語る声は震え、目は宙を見据え、必死に潤むものを堪えようとしている近藤先生の胸倉を、土方さんはゆっくりと離しました。 「歳?」 掴まれ引っ張られていた力から不意に解放されて、少し後ろに傾きながら、近藤先生が土方さんの顔を怪訝に見上げました。 「俺がやる」 土方さんは、近藤先生が今まで見たことも無い、ぞくりとするような冷たい表情で、一言だけ言い捨て立ち上がりました。 近藤先生は一瞬喉を上下に動かし、ごくりと生唾を呑み込みました。 それ程に―――― 土方さんの形相は、凄まじいものだったのです。 共に同じ夢を抱き、苦労を分かち合い、新撰組を築き上げてきたこの友を、今初めて恐ろしいと、近藤先生は思ったのです。 固まったように凝視するだけの近藤先生を残し、後ろ手でぴしゃりと襖を閉めた、屯所中に響き渡るような音の大きさが、土方さんの並々ならぬ怒りを物語っているようでした。 気配が少しずつ遠のいて行くと、漸く近藤先生は額に浮かんだ冷たい汗を拭いました。 そしてまだ背筋に感触として残る戦慄の残影を消し心を落ち着かせる為に、右手で拳骨を作ると、それを口に入れては出し、入れては出し・・・・ そんな日常の仕草を繰り返す事で、『もういつもと少しも変わらない時が戻ったのだ』と、自分に言い聞かせました。 ですがその動きが、幾度目かにふと止りました。 「・・・やはり伊庭君が良いのかもしれない」 それは近藤先生の父性が、本能として選び取った結果でした。 あんな土方さんを見せたら、きっと総ちゃんは萎縮してしまいます。 だとしたらやはり教授は八郎さんに任せた方が良いのではと、近藤先生は思ったのです。 いつか仕合せにする為に、総司を養子にやる――― けれどそれが誰であれ、どんなに良い縁組であっても、自分にはただ辛いものでしかありません。 今一度頬に伝わる熱いものを、近藤先生は無骨な指でそっと拭いました。 とまぁ、近藤先生と土方さんの間にはそんないきさつがあったのですが――― 気の毒なのは何も知らずに巡察から戻り、歩き回って足が棒のようになってしまった疲れもなんのその、漸く土方さんと二人で話ができると息せき切って副長室まで走ってきた総ちゃんでした。 「あのね、今戻ったのです」 まだ整わない息の間から、それはそれは嬉しそうに告げる総ちゃんに、まずは座れと土方さんは黙って自分の前を指さしました。 ところが・・・ そんな威厳のある姿にも心捉われ、うっとりと端座した総ちゃんに、土方さんは嘗て見たことのないような怖い顔を向けたのでした。 物言わずただ沈黙している土方さんに、何か怒らせるような事をしてしまったのだろうかと、俄かに不安になった総ちゃんの心の臓の音が段々と大きくなり、それが遂に破れんばかりにまで達した時――― 「今からお前の話し方を直す」 身じろぎもせず此方を見ている瞳に、土方さんは眉根を寄せ重々しく告げたのです。 「どうして?」 突然話し方を直すと言われても、分からない事ばかりです。 吃驚するのとおろおろするのとで頭の中が一杯になってしまった総ちゃんは、思わず素朴に質問してしまいました。 それに言葉を詰まらせたのが土方さんです。 あまりに邪気無い問いかけは、時に残酷でもあります。 まさか勝っちゃんの馬鹿馬鹿しい狂想に乗せられたとも言えず、ここは納得させずとも強引に承知させる他無いと、土方さんは苦しい腹のうちを決めました。 「近藤さんがそうしろと言った」 しっかり近藤先生の所為にすることは忘れず、返したいらえの調子は、総ちゃんに少しも逆らう隙を与えぬ厳しいものでした。 土方歳三、抜け目と云うものを置き去りにして生まれて来た男です。 「・・・・近藤先生も?」 ところがそれを聞いた途端に、総ちゃんがしょんぼりと項垂れてしまいました。 近藤先生と土方さんが二人で『直せ』と言うからには、自分の話し方はきっと変なのに違いありません。 今まで何も言わずに黙っていてくれた近藤先生も土方さんも、もうこれが限界だと思ってしまったのでしょうか? それで話し方を直せと言っているのでしょうか? そう思い始めると、何処が悪いのかは相変わらず分かりませんでしたが、自分の話し方は可笑しいに違いないと、総ちゃんは信じざるを得ないのでした。 そして総ちゃんを次に襲ったのは、こんな変な話し方をする自分にはいつか土方さんも愛想をつかせ、その内に嫌われてしまうのでは無いかと云う恐怖でした。 そんな事は死んでも嫌です。 愛は――― 不屈の精神無しでは成り立たちません。 総ちゃんは哀しみと慄きの中でも必死の覚悟を決めると、深い色の瞳を上げて土方さんを捉えました。 「・・・あの・・あの。・・・話し方、直します」 蚊だってもう少しましに鳴くだろうと思う程に小さな小さな声は、語尾が更に沈んで最後まで聞き取る事が出来ません。 その痛々しい姿に、これまた瞼の奥を熱くしながら、土方さんが大きく頷きました。 ****************** さてさてそう云う訳で、早速『土方さんの、一部土方さんの都合の為の、どうしても八郎さんに譲れない土方さんによる、総ちゃんの話し方矯正』が始まったのでした。 そして今総ちゃんに与えられている試練は、『報告』なのです。 巡察から帰って来ての報告を、総ちゃんは一応土方さんにしなければならないのですが、それがすぐさま教材になったのでした。 報告は簡単です。 『何も異常ありませんでした』 たった一言そう言えば良いのです。 ですが総ちゃんにとって、これがなかなか難しい事だったのです。 まず言葉の始めに、『あの』『あのね』と、総ちゃんは柔らかく付けてしまうのです。 それは総ちゃんの来し方でどっぷり身に染み付いてしまった、最早身体の一部と言っても過言では無いのです。 何故そんな風になってしまったのか――― 小さな頃から大人に囲まれて育った総ちゃんは、『こうしたいな』と思った事を言葉にする前に、大概の事は周りが気づいて先にやってくれるので、殊更自分が主張しなくても、その恩恵を有りがたく蒙れば良いだけなのでした。 そして近藤先生と毎日二回馬頭饅頭を、時には夏の強い日差しを凌いで涼しい縁側に腰掛け風鈴の音を聞きながら、或いは北風が頬を紅くする冬には障子をきっちり閉めて、しゅんしゅんと鉄瓶が音立てる火鉢を囲んで食べ――― 季節の移ろいを愛でる近藤先生の横にちんまりと座り、穏やかでゆったりとした時の中で総ちゃんは大きくなって行ったのです。 そんな訳で大して急いで話をする必要も無かったので、此方から話題を切り出す時にはちょっと気恥ずかしく、それで自分を励ます為に、言葉の最初を『あの』とか『あのね』から始めて勢いをつけるようになってしまったのです。 でも『あのね』が『自分を奮い立たせる』などと思うのは、総ちゃんだけです。 けれど本人はそれを不思議とも思わず、ずっとこんな調子で来てしまって今がある訳ですから、総ちゃんの話始めの『あの』とか『あのね』は、今更切れと怖い顔されても『ほな長いことお世話になりました』と言って、思い切りよく去って行ってくれるような代物ではないのです。 さっきから総ちゃんは『何も異常はありませんでした』と、一生懸命に土方さんに言おうとしているのですが、先にするりと『あの・・』が出てしまうのです。 そして何が悪かったかと云うと、まずは最初がいけなかったのです。 一番初めに『あのね・・・』と報告を始めようとした途端、土方さんの鋭い叱責が飛んだのです。 人というものは、一度臆するとそれにずっと捉われ、どうしても次の言葉が上手く出てこなくなるものなのです。 まして総ちゃんにとって、それが何よりも大切な土方さんからならば尚の事です。 土方さんに嫌われてしまう、そう思うと恐ろしくて次の言葉を紡ごうにも身体は震え、唇は意志とは関係なく貝のように閉ざされてしまうのです。 情けないやら哀しいやら、下を向いたままの姿勢では、自分の膝の上だけが全ての視界の内が、だんだんに滲んで行きます。 ―――方や 薄い肩を落とし、ほっそりとか細い項を垂れて、見るからに憔悴しきった総ちゃんの姿に、土方さんも目を背けたい辛さを必死に堪えているのです。 鬼と呼ばれる自分です。 ですが、鬼になれるものとならないものとはきっちりと区別してきた筈が、まさかこんな処で墓穴を掘る羽目になろうとは。 土方さんは近藤先生の顔を脳裏に浮かべ、どんなに罵倒し尽くしてもしたり無い悔しさに歯ぎしりをしました。 ですがもしもここで自分が総ちゃんの『話し方矯正』を降りてしまったら、きっと近藤さんは八郎さんに頼もうとするでしょう。 総ちゃんの手取り足取りだけでも許せないのに、腰まで取られての教授など、新撰組を潰したって認める訳には行きません。 そうなのです。 土方さんも叉血の涙を流しながら、胸張り裂けるばかりの思いで、総ちゃんを厳しく指導しているのです。 愛とは・・・ 時に壮絶なまでの、己自身との闘いなのかもしれません。 土方さんは目をぎゅっと瞑り、瞼の奥の熱いものを堪えました。 と、その時――― 「つまんねぇことを、やり始めたんだって?」 中庭から、歯切れの良い江戸言葉が聞えてきました。 世の中で一番聞きたくない声の主の登場に、土方さんはあからさまな舌打ちをしました。 総ちゃんは総ちゃんで、うっすらと紅く染めた目の縁を見られないように俯いたまま、少しだけ視線を声のする方に向けました。 「話し方がどうのって言っていたが・・・」 八郎さんは扇子を腰帯から抜き取りながら、ゆっくりと此方へ歩いて来ます。 「総司のなら、そのままで上等だろうよ」 そして隙の無い鮮やかな身ごなしで縁に上がると、苦虫を潰して更にその上から踏んずけてもまだ足りないような忌々しげな土方さんなど、『端っからいない』と決め込んだ涼しい顔で、総ちゃんの横に腰を下ろしました。 「邪魔だ」 土方さんは八郎さんを見ず、一言吐き捨てるように告げました。 「総司、他所に行くかえ?」 八郎さんも、総ちゃんだけに視線を留めて伺います。 「邪魔はお前だっ」 部屋の中に土方さんの怒声が響き渡ります。 それに漸く八郎さんが仕方なさそうに振り向き、悠然と応えました。 「近藤さんは、俺に頼むと頭を下げたんだぜ」 唇の端にうっすらと笑いを浮かべ、八郎さんは楽しそうに土方さんを正面から捉えました。 「近藤さんだと?」 誰もが縮み上がってしまいそうに不機嫌を露わにした声で、土方さんが訝しげに眉根を寄せました。 「総司の話し方を直してくれだとよ」 自分が頼まれて当然と云うように八郎さんは事もなげに言い切りましたが、それを聞いた途端、下を向きっぱなしだった総ちゃんの細い面輪が驚いたように上げられました。 「そう云う訳だから、お前は何も案ずる事は無いのさ」 瞳を瞠るばかりの総ちゃんに、八郎さんは近藤先生の意向を伝えて笑いかけます。 「・・何か勘違いをしているようだが」 もしも此処に隊士さんが居たら、新撰組から逃げ出せるのならば、切腹のひとつやふたつどうって事無いって思うだろう程に、世にも恐ろしく冷たい笑い顔を、土方さんは八郎さんに向けました。 「寝惚けちゃいないがねぇ」 そんな視線などとんと意に介する風もなく、八郎さんは叉もしょんぼりと萎れてしまった総ちゃんの肩をさり気無く、でも土方さんには見せつけるようにだき抱えました。 「伊庭、其処どけっ」 「やだね」 相変わらず俯きっぱなしの総ちゃんを覗き込むようにして、八郎さんは口先だけで土方さんに応えます。 そして当の総ちゃんは――― 二人の会話の途中から、もう何を考える事も出来なくなり、自分が置かれている状況など把握も出来ず、ただ呆然と虚ろな視線だけを彷徨わせているのです。 そうなのです。 近藤先生が土方さんでは足りなくて、八郎さんにまで『直して欲しい』とお願いしたとなれば、自分の話し方はもう『変』という言葉では表せない程おかしなものに違い無いと、総ちゃんは衝撃のあまり頭の中が真っ白になってしまったのです。 そして何よりも総ちゃんを哀しみのどん底に突き落としている元凶こそは、きっとこんな自分には土方さんが愛想を尽かせてしまうという恐ろしさでした。 ほんの少し考えただけで、戦慄で身体中の震えが止まら無くなってしまいます。 それが怖くて土方さんの顔を見る事もできず、ただただ底の無い深い闇の淵に沈んでゆくような感覚に、今にも瞳を覆っているものが零れ落ちてしまいそうです。 「近藤さんに頼まれたのは俺だ」 土方さんの地を這うような低い低い声が、八郎さんに向けられました。 「あんたじゃ総司が怖がるだろうから、俺に任せたいんだとよ」 八郎さんは相変わらず、そんな事は分かりきった事だろうとでも云わんばかりに淡々と応えます。 けれどそれを聞いた土方さんの顔に、眉間と言わずこめかみと言わず、とりあえず有るだけの青筋が瞬時に立たちました。 「親心だわなぁ」 その土方さんなど視界の端にも入れず、八郎さんは、近藤先生の心の辛さ切なさをしんみりと語りました。 「だがお前はこのままでいいのさ」 そして八郎さんはそのまま、返す言葉で総ちゃんを安堵させるように続けます。 「それではお前は役に立たないな。帰れ」 土方さんは、不敵に笑うと廊下の向こうを指さしました。 「近藤さんと段取りをしてからな」 八郎さんは少しも臆することなく、片頬だけに嫌味のありったけを籠めた笑みを浮かべてて土方さんを返り見ました。 「段取りだと?」 「そうよ、段取りさ」 聞き返えされたそれに、いらえは間髪を置かずに戻り、其処で初めて八郎さんは手にしていた扇子をはらりと開きました。 瑠璃の文庫 話し方特訓(下) |