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                        総司LOVEさまへ



              総ちゃんのシアワセ♪お昼寝でシアワセ♪なの (うえ)



漸く鬱陶しい梅雨が明けた途端、お天道さまの威光をかさに『暑くてナンボのもんやもん』と、夏が大きな顔をし始めたのはもう十日程前のことです。

だからと言って何もいきなりこんなに暑くならなくてもいいのにと、ぶつぶつ文句が止らない隊士さん達に、先にごめんなさいをすると、総ちゃんは土方さんの居る副長室へと急ぎます。
そうなのです。
総ちゃんはお仕事の巡察から戻ったばかりで、土方さんにその報告をしに行かねばならないのです。

いつもは誰か他の人が先に部屋に居たらどうしようと、ちょっとどきどきしながら、足音すら忍ばせてそっと廊下を歩くのですが、今は『巡察の報告』と云う、誰憚る事無い大義名分があります。
それで総ちゃんのキモチにも、少しだけ弾みがついてしまいます。
もしも部屋に誰かがいても、土方さんと自分との間で交わされる『報告』が終わるまでは、口を挟む事が出来ないのです。
二人だけで為される会話・・・・
考えただけで、うっとりしてしまいます。
永倉さんや藤堂さん達が、『巡察の後の報告だけ』を譲ってくれたらどんなに素敵な毎日になるだろうと、叶わぬ夢につく総ちゃんの遣る瀬無い溜息は、一日一回や二回ではないのです。
それ程までに、総ちゃんにとって『報告』とは、なくてはならない大切な大切な行事なのです。


さてさて漸く土方さんの部屋が見えてくると、総ちゃんはそのひとつ前で立ち止まり、一度胸に手を当て、逸る心を鎮めました。
それからゆっくりと、まるで距離が狭まるその間すら愛しむように、歩き始めました。
シアワセへの前座は、長すぎても短すぎてもいけません。
『少しだけ焦れる』のが、楽しいものなのです。

ところが・・・・
いつもならば総ちゃんが現れるよりも先に気配を察し、顔だけを廊下に出して迎えてくれる土方さんなのですが、今日はちっともその様子がありません。
一歩一歩近づくにつれ、総ちゃんの胸の裡がざわめき立ちます。
もしかしたら、土方さんは今日は何処かに出かけてしまったのでしょうか?
いえそれならば、さっき会った山崎さんがそっと教えてくれる筈です。
では出迎える事の出来ない程、大切なお客様が来ているのでしょうか?
いえいえそんなお客様なら、近藤先生のお部屋で済ませる筈です。
障子をたった八枚分だけ歩く間に、総ちゃんの思いは千々に乱れます。
落ち着かない不安で一杯になってしまった心のまま、更に近づくと―――
いつもは開け放してある障子が、今日はきっちりと閉まっているのです。
・・・土方さんがいない
此処まで来ると、総ちゃんの思考はもう不安と云うよりも、恐怖に占められてしまいました。

「・・・土方さん」
遂に部屋の前まで来て、震える声で名を呼んでも、何の返事も返ってきません。
やはり土方さんは何処かに出かけてしまったのでしょうか?
総ちゃんは身体中の全ての力が抜け、放心したようにその場に座り込んでしまいました。
もう中を見る元気なんて何処にもありません。
土方さんのいない部屋ほど哀しいものはないのです。

土方さんが留守の時の『報告』は、近藤先生にする事になっています。
そして次に『巡察後の報告をするシアワセ』がやって来るのは、ぐるりと順番が回ってからです。
その時を計るだけで、総ちゃんは気が遠くなりそうです。
いえ、そんな『待つ』などと悠長な事をしている暇(いとま)はありません。
逃げ去ったシアワセの尻尾を必死に手繰り寄せるように、総ちゃんは考えます。
明日は確か藤堂さんの隊が、昼間の巡察に出かける番です。
ならば早速藤堂さんにお願いして、お当番を代わって貰わなければなりません。

もともと小枝のようにか細い足は、炎天下を歩いて疲れて果て、『もうちょっとだって歩かされるのはごめんですっ』と、つれない文句の代わりに、じんじんと総ちゃんを苛みます。
でも少しも早く藤堂さんの処に行かなければ、誰かにお当番を取られてしまうかもしれません。
そんな事を思うのは古今東西何処を探しても自分だけだとは露知らず、俄かに湧き起こった焦りに、ある限りの力を振り絞って総ちゃんが立ち上がろうとしたその時――――
かさりと、衣擦れの音が部屋の中から聞えました。
総ちゃんは慌てて身体の向きを変え、膝立ちのまま桟に手を掛けました。
敷居は日頃のお掃除の成果が行き届いており、ちょっと触れただけで、すぅっと滑るように障子は勝手に開かれました。
そして部屋の中が瞳に映し出された寸座・・・
「・・・うわぁ」
総ちゃんの唇から、感嘆の吐息が零れ落ちました。
そうさせるまでの光景が、其処にはあったのです。


東に面している副長室は、お天道さまが一番高い処に回る頃には丁度具合良く日陰になり、此処だけが蒸し暑いのを忘れたような涼しさになるのですが、何とその真中に、土方さんが肱枕で昼寝をしていたのです。
更に良く見ると、その土方さんのお腹の辺りで丸くなり、同じように昼寝を決め込んでいる影があります。
土方さんに寄り添って寝ている、自分以外の影。
何となく哀しくなった総ちゃんが、足音を忍ばせゆっくりと畳を踏んで近づくと、その正体は―――
「・・・猫の土方さん」
聞こえるか聞こえないかの小さな呟きが、零れ落ちました。

それは確かに、総ちゃんが先日自分で拾ってきた、吃驚する程目つきの悪い『猫の土方さん』という名の猫だったのです。






あれは三日前の夕方の事でした。
初めて会った時、猫の土方さんは丁度何処かの魚屋さんから獲物を狩ってきた処でした。

法度を犯し魚屋さんに追われ、細い路地を逃走途中の猫の土方さんと、総ちゃんは真正面から出くわしてしまったのです。
互いを見た瞬間、一人と一匹はそれぞれ全く違った事情で、金縛りにあったようにぴたりと動きが止まってしまいました。
総ちゃんは瞳を大きく瞠り、猫は威嚇するように前足を低くして、全身を総毛立てました。
後ろからはぱたぱたと、魚屋さんの足音が聞こえてきます。
猫は後ろを鋭く一瞥し己の危機を察すると、総ちゃんに『其処どいてやっ』、と云わんばかりに低い唸り声を立てました。
ところが・・・
それを聞いた途端、総ちゃんの唇から陶酔にも似た甘美な溜息が漏れたのです。
そうなのです。
今瞳に映る猫こそは―――
総ちゃんに、土方さんを彷彿させて余りあったのです。

魚を咥えて辺りを見回す眼光の鋭さ、敏速な足裁き、何よりも人を食ったようなふてぶてしいご面相、それらの全てが土方さんに重なるのです。
「可愛い・・」
総ちゃんの瞳はうっとりと猫を捉えて、瞬きもしません。
猫も猫なりに本能とういうもので、目の前の敵の行動がどうにも読み取れず、次の動きが出来ないまま、今度はじりじりと後ずさりを始めました。
それは、正体の分からない相手には、とりあえず係わらないのが一番と云う、無頼の猫の人生(猫生)で得た知恵でした。
と、その時。

「ほんま、悪いやっちゃっ、もう堪忍せぇへんから覚悟しとき」
でっぷり貫禄の、つるつるの頭に手拭を巻き、『魚為』と染め抜いた半纏を着た魚屋の親爺さんが、ぜいぜい言って猫の真後ろまでやって来ました。
そして訳の分からない敵総ちゃんと対峙し、何だか恐ろしく疲れ果て、いつものように咄嗟に身をかわす事ができなかった猫は、あっと言う間に後ろ首を片手で掴まれ、そのまま持ち上げられてしまいました。
「あっ・・」
それを見ていて、思わず叫んだのは、猫ではなく総ちゃんでした。

魚屋の親爺さんは猫を離さないまま、そんな総ちゃんにちらりと鋭い視線を投げかけました。
「あの、あの、その猫」
総ちゃんは親爺さんの尋常では無い様子から、このままでは猫がどうにかされてしまうのではないかと慌てて声を掛けました。
「この猫はなぁ、うちとこの魚を盗んだごっつう悪い奴や。それもいっぺんや、にへんやあらへん。こないに性悪な奴は、あの世に行った時かてきっと閻魔様に苛められるだけや。せやったらうちが涙を呑んで、今ここで三味線の皮にしてやった方が、渡った彼岸で、仏さんもああ可哀相やなぁ思うて、ちょっとは慈悲深い情けを掛けてくれるかもしれへん」
親爺さんと猫の間には、きっと壮絶な戦いを繰り返してきた歴史があるのに違いありません。
今その修羅の時代を漸く終えて、親爺さんの裡には、ある種感慨深いものがあるのでしょう。
猫を見る目尻に、きらりと光るものがありました。

一方それを聞いた瞬間総ちゃんは・・・・
恐ろしさのあまり身体中の血がすぅっと一遍に引き、瞳は見開かれ、蒼白な唇は息をも止め、ほっそりと優しげな面輪は、全ての表情を失くしてしまったかのように凍てついてしまいました。
「どないした?」
そんな様子を訝かしんで、親爺さんがちょっと心配そうに覗き込みました。

けれど今の総ちゃんにはどんな言葉も耳に届きません。
土方さんの皮が剥がれて三味線になってしまう・・・
ただただその混乱と衝撃だけが、くるくるくるくる交互に頭の中を回り続けます。
いえ、そんな事は例え神さまだって仏さまだって、近藤先生にだって許す事はできません。
今自分が助けなければ、土方さんは三味線の皮にされてしまうのです。
愛は―――
時に無謀なまでの庇護本能を発揮するものなのです。

「その猫が欲しいのですっ」
総ちゃんは悲愴な形相で、親爺さんの半纏の胸元を両手で掴みました。
「欲しいっちゅうても、こないに根性曲がっとる猫、飼っても何の得にもならへんで」
総ちゃんの勢いに気圧されながらも、親爺さんは年輪を刻んだ額の横皺を縦に寄せて、人の世の損得を諭します。
「三味線の皮は駄目なのですっ」
「せやけど太鼓の皮にはならへんで?」
総ちゃんは更にぷるぷると、頭を振りました。
「太鼓の皮も駄目なのですっ」
親爺さんの半纏を握り締める細い指に、折れんばかりの力が籠もります。
土方さんを三味線や太鼓の皮にするくらいならば、いっそ自分のこの身を差し出す覚悟の総ちゃんの壮絶な迫力に、遂に親爺さんも諦めの息をつきました。

「せやけどなぁ・・・。この顔は半端なふてぶてしさや無いで?飼う言うたかて、きっと家のもんが反対するわ。それに近所のもんにかて、あないなもん飼ってからに云うて嫌な顔されるのは目に見えてる。そんでもあんた、この猫飼う勇気があるんか?」
親爺さんは、他人様と円滑に生きてゆく為には、涙を呑んで辛抱しなければならない事が世の中には多々あるのだと、目の前で、今にも零れ落ちそうな露を瞳に溜めている総ちゃんに、とくと言い含めました。
けれど総ちゃんは、それにこくこくと頷き返すだけです。
「あのね、屯所では土方さんが皆に好かれているのです。だから猫の土方さんだって、きっと好かれると思うのです」
総ちゃんにとって、それは何処をどう叩かれ様が、埃のひとつも出てこない、間違いの無い真実だったので、ちょっとだけ親爺さんに向かって薄っぺらの胸を反らせて、誇らしげに応えました。
「そうかぁ・・こいつがそないに人さまに好かれとるとはなぁ・・・」
親爺さんには総ちゃんの言う処の意味は全く通じませんでしたが、でも何となく長い間死闘を繰り返して来た敵に、少しだけ情のようなものが移っていて、三味線や太鼓の皮にするには夢見が悪いかな、と思い始めていたところなので、この際他人の迷惑にはあっさり目を瞑る事にしました。

「ほな、こいつの行く末、あんたに任せるわ」
親爺さんは猫の後ろ首を持ったままの手を、ぐいっと総ちゃんに差し出しました。
「・・・時々は、お頭付きの魚も食べさせてやってや」
くしゅんとひとつ鼻を鳴らせて、親爺さんの顔は泣き笑いのようになりました。
つられるように、総ちゃんの瞳に溜まっていたものも、遂にひとつ白い頬に零れ落ちました。

そんな二人の後ろを、お天道さまの陽が茜色に染め始めました。
そして―――
親爺さんの手からぶる下がった猫の影だけが、ゆらりゆらり、呆れた様に地に長く影を伸ばしていました。






とまぁ、総ちゃんと猫の土方さんとの間には、そんな経緯(いきさつ)があった訳なのですが・・・

総ちゃんは今、土方さんの横でまぁるくなって寝ていても、決して大きな態度を崩さない猫の土方さんを、ぼんやりと見ています。
その時、気持ち良さそうに眠っていた土方さんが、少しだけ身じろぎしました。
すると猫の土方さんも同じように、前足の中に少しだけ深く顔を埋めました。

ふたりでオンナジようにお昼寝・・・・
ふたりでオンナジ動き・・・
もしかしたら見ている夢だってオンナジかもしれません。

それを思った時、総ちゃんの胸の裡を雷(いかずち)のように駆ったのは、どうしようもない寂しさでした。
絵に描いたようなシアワセが目の前にあるというのに、何故自分だけが仲間に入れて貰えないのでしょう・・・
考えるだに、辛さ切なさは募るばかりです。
総ちゃんはぎゅっと拳を握り、さっきよりも余程に音を忍ばせ、息をも殺すようにして近寄ると、土方さんと猫の土方さんとの間の僅かな隙間に、自分の身体をすり込ませようとしました。

ですがその時・・・・
それまで起きる気配など少しもなかった土方さんの目が、鋭く開きました。
同時に猫の土方さんも、俊敏な動きで跳ね起き、そのままするりと開いていた障子を抜け、縁から音もさせず庭に降り立つと、総ちゃんが瞳を一回瞬いた時には、もう跡形も無く姿を消していました。
「あっ、・・・」
丁度身体を横にしかかっていたところだったので、畳の上を這うようにして必死に猫の土方さんを追おうとしたその総ちゃんの手を、今度は本当の土方さんが掴んで止めました。
「お前は俺に用事があったのでは無いのか?」
起きた途端に、愛しい者が自分以外のものに関心が行っているのを見て、土方さんは不機嫌極まりない低い声で咎めました。
間近で見据えられ、総ちゃんは半分うっとりとしながらも、漸くはたと我に返りました。

そうです。
此処へ来る前は、土方さんと交わす『巡察の後の報告』の事で頭も心も一杯だったのです。
ですがそれよりも素敵な光景が、総ちゃんの思考の全てを一瞬にして奪ってしまったのです。
けれどここでそれを為しえなかった傷心から抜け出せ無いまま沈んでいたら、今は二番目になってしまった土方さんへの『報告』というシアワセまでをも逃してしまうのです。
そんな不幸の重なりは、思っただけで戦慄に身体が震えてしまいます。
早く『土方さんを独り占めできる報告』をしなければと、総ちゃんが慌てて唇を動かしかけたその時―――――

「副長はおられますでしょうか・・」
部屋の中を伺う、幾分控えめな声が、重ねた障子の外から掛かりました。
けれどその影はとても大きく、誰と名乗るまでもなく、『私は島田魁です』と、そのまんま言っているようなものでした。
「入れ」
土方さんはやおら新撰組副長の顔に戻り、重々しく外の島田さんに伝えました。
島田さんは中に総ちゃんが居たのを察していたらしく、どこもかしこも大きな体を、せめて小さく縮める事で申し訳なさを表すようにして入ってきました。
思ってもみない展開に狼狽し、頭の中が真っ白になってしまったのは、無論総ちゃんです。
いくら『報告』が大切なものだとは云え、もっと大切な用事を島田さんが持ってきたのなら、やはり土方さんは其方を贔屓してしまうでしょう。
それでも、例え常日頃お世話を掛けっぱなしの島田さんにだって、このシアワセの邪魔をさせる訳には行かないのです。
「あのっ・・」
総ちゃんは自分の優先順位を主張すべく土方さんににじり寄って、『報告』を始めようとしました。
ところが・・・
「総司はもういい」
土方さんは無残にも、たった一言で総ちゃんのシアワセを木っ端微塵に吹き飛ばしてしまったのです。
その瞬間の総ちゃんを見て、大きな体を更に大きく仰け反らせたのは島田さんでした。

島田さんは本当はとても急ぎの用事だったのですが、それよりも、顔からも唇からも色を失くし、瞳は土方さんを見詰めてはいるものの、視線は虚ろに定まらない総ちゃんの痛ましい姿に、自分の責任を感じて慌てふためいてしまいました。
「いえっ、副長っ、どうか先に沖田さんのお話を聞いて差し上げて下さい。私の話など、そのあとのあとのその又後で十分っ」
と、言い切ったは良いのですが、実は近藤局長が土方さんを大至急呼んで来るようにと言っているとは、この期に及んでもう口にできず、島田さんの心の裡は忠義と情の間を行ったり来たりで、大きな顔からは一杯の汗が吹き出し、畳の上にまでぽとぽとと滴っています。
「あとでいいのか?」
土方さんが怪訝に聞き返します。
「・・・はいっ、それはもう、・・・後の後でも勿体無いくらいに十分なのですっ」
苦しげな声が、夏の日差しからそっと隠れた涼しげな室に響きます。

ちっとも来ない土方副長の事を思って、きっと今頃近藤局長の苛々は積りに積もっている事でしょう。
伝言を任されつつもそれを為しえない己と、かくも憔悴し、今にも儚い身体が前に傾いでしまいそうな程に打ちのめされている総ちゃんを無碍には出来ない己と・・・・
一体どうしたら両者の顔が立つのか。
島田さんの苦衷など知らぬように、ひとつ風が通り抜けるたび、それを嬉しがって、軒に吊るした風鈴がちりんと音を鳴らせます。


胸掻き毟られる思いに煩悶の時を費やし、やがてひとつの覚悟が島田魁を動かしました。
どちらも選べない事ならば、我が身ひとつが腹を切れば全ては丸く収まる事。
島田さんは、ゆっくりと中庭に視線を移しました。
強い季節の陽が葉に照り返り、眩いばかりの碧が煌きます。
忠と情の為に身を散らせるのならば、あの世で出迎えてくれるおっと様、おっか様も必ずや褒めてくれる事でしょう・・・
この世に生を受けてから、今この時まで――――
振り返ってみれば、良い人生だったのです。
・・・・と、思いきや。
末期(まつご)に見納める風景には、ひどく不釣合いなふてぶてしい面相がひとつ・・・・
はてと、島田さんが目を凝らすと、それがひょいっと宙に浮き、何が起こったのかと視線を上げた先に、猫の後ろ首を掴んで立つ永倉さんの姿がありました。
「あっ」
同時に、総ちゃんの嬉しそうな声が明るい室に響きました。
「土方さん、あんたのことを近藤さんが呼んでるよ」
永倉さんは、何でもなさそうにさらりと言い切りました。

独り悦に入っていた散り際を逸し、暫し愕然と声も出ない島田さんと、猫の土方さんが戻ってきてくれた喜びも束の間、又土方さんと離されてしまう哀しさに呆然としている総ちゃんの事情など露知らず、永倉さんは猫を重そうに掴んだまま、此方へとやって来ます。
「何でも急ぎなんだとよ」
更に二人にとってそれぞれの意味で残酷に止めを刺しながら、草履を脱いで縁側から上がりこみ、土方さんを促しました。


そう急かされて土方さんは――――
縋るような瞳で見る総ちゃんを、ちらりと視界に入れて思案します。
長い付き合いの近藤さんですが、未だ嘗て『本当に火急だった』と言える用事は、後にも先にも池田屋の時一回きり。
それとて何も呼ばれた訳ではなく、行った先が外れて次なる目的地に向かった其処に、たまたま近藤さんが居たまでの事。
今回もきっと大した事では無いのは火を見るよりも明らかです。
やっと巡察から戻ってきた総ちゃんと二人だけの時間を割いてまで、近藤さんの顔を立てる余裕も義理もありません。
土方さんはすぐに『無視する』方向に思考を纏めると、躊躇い無く総ちゃんを選び、一度は上げかけた腰を再び下ろしました。
その瞬間総ちゃんの顔一杯に、えも云えぬ嬉しそうな笑みが広がりました。
と、再びその時―――――


「新撰組は長閑でいいねぇ」
世の中でふたつ聞きたくない声のその片方が、土方さんの耳に届きました。
途端にあさっての方角に顔が向いたのは、長年の習性です。
いつもの様に庭から登場の八郎さんも八郎さんで、端から土方さんは居ない者と決め付けたように、総ちゃんの方だけ見ながら、ゆっくりと此方に歩いて来ます。

「部屋は幾らでもあるだろうに」
よりによって何故こんな処に集まっているのだと、八郎さんは大仰に眉根を寄せました。
「今日も暑いだろ?」
無愛想な室の主に代わって愛想良く応えたのは、永倉さんでした。
「だから?」
促すついでに腰帯から扇子を抜き取りはらりと開き、八郎さんはしっかり総ちゃんの横に座り込みました。
「此処が一番涼しいのさ」
永倉さんはそれは誰もが認める歴とした事実なのだと揺るぎない確信を持って、八郎さんに伝えました。
「此処が、涼しいねぇ・・・」
八郎さんは鬱陶しげに、ちらりと視線を土方さんに流しました。
「あの人が居ても、端から居ないと思えるようになるまでが、修行さ」
その意を汲んで、さも得意そうに薀蓄(うんちく)をたれたのはこれ又永倉さんでした。
「したくも無いね」
八郎さんはつまらなそうに、すぐさま横を向いてしまいました。
そんな二人の会話に、土方さんの形相がみるみる変わって行くのを見て、総ちゃんがびっくりした、またまたその時―――――
「なんだ、いるじゃねぇか。土方さん、あんたのことを近藤さんが呼んでいるぜ」
廊下づたいにやって来て、ひょっこり顔を見せたのは藤堂さんでした。

島田、永倉、藤堂・・・・
よくもよくも、近藤さんは次から次へと使いを頼んだものだと、文句のひとつふたつじゃ到底足りない怒りの当たり処のように忌々しげに舌打ちをすると、土方さんはやっと立ち上がりました。
「直ぐ戻る」
又しても自分から土方さんとシアワセが遠く離れ行こうとしている衝撃で、見上げる瞳も潤む総ちゃんに一言いい置くと、『あとは世の中には何も存在しません』と決め付け、残りの人間には一瞥もくれずに土方さんは出て行きました。
滲む視界の中で、その背が角を曲がって見えなくなっても、総ちゃんはぼんやりと、いつまでもいつまでも廊下に突っ立っていました。


「お前、こいつに飯を食わせたか?」
そんな総ちゃんの哀愁などまたまた無遠慮に引き裂き、永倉さんが『猫の土方さん』をぐぃっと差し出しました。
「腹空かせているようだぜ」
「・・・すみません」
永倉さんの片手にぶら下がっている猫の土方さんを、総ちゃんは慌てて両手で大事そうに受け取り抱えました。
「腹は減っちゃいねぇと思うぜ」
藤堂さんが腰を下ろしながら、猫の土方さんを覗き込みました。
「何でお前が分かるんだよ」
永倉さんは自分の観測を真っ向から否定されて、ちょっと面白くありませんでした。
「こいつさっき賄い方でさんざ飯食ってたからな。おまけに食い終わったあと欠伸までしやがった」
藤堂さんは餌を食べ終わった途端に欠伸をした、猫の土方さんのふてぶてしさを思い出して、少し顔を険しくしました。
「・・・あっ」
けれどその藤堂さんの言葉を聞いた途端に、総ちゃんが小さな声を上げました。
「どうした?」
耳ざとく聞きとめて、猫は視界の端にも入れないという器用な方法で、総ちゃんだけに顔を向けたのは八郎さんでした。
「・・・何でもないのです」
微かに首を振り応えた声は小さく、何処となく夕にしぼんだ花のように儚げでした。

実は総ちゃんは『あくび』という藤堂さんの言葉で、さっきここで土方さんと猫の土方さんが、それはそれは気持ちよさそうに昼寝をしていて、自分もどうしても一緒にしたかった事を改めて思い出したのです。
と同時に、その仲間に入れてもらえず、独り取り残されていた寂しさと哀しさも――――
あの時のどうしようもない孤独感は、今も総ちゃんの瞳を潤ませるに十分です。
もうあんな思いは絶対に嫌です。
ですがこのままでは、この先二度も三度も同じ辛さ味わわねばならないでしょう。
打ちひしがれてばかりではちっとも前には進めません。
何としても土方さんと猫の土方さんと一緒に昼寝をしなければ、自分のシアワセはもう一生やって来ないような恐怖に、総ちゃんは端座した膝の上に置いた手で、袴をぎゅっと握り締めました。


「あのね・・・」
思い切って顔を上げると、総ちゃんは横にいた八郎さんに尋ねました。
「何だえ?」
「昼寝をするには、どうしたら良いのかな?」
「昼寝?」
おうむ返しに応えたものの、それは突飛でもない問い掛けに無意識に漏れたもので、流石の八郎さんも今少しその真意を測りかね、総ちゃんを見つめ返しました。
「昼寝って、あの昼寝か?」
昼寝と言えば、やはり昼寝なのでしょうが、今一度聞き返してみた八郎さんに、総ちゃんは真剣な瞳で、ただこくこくと頷きました。
「昼寝、ねぇ・・・」

昼寝―――――
確かにそれを為すを言葉で説明せよとは、難しいものがあります。
八郎さんは扇子をぱちりぱちりと、開いたり閉じたりしながら、視線を宙に浮かせます。

「横になりゃできるだろ?」
そんな八郎さんの努力などとんと無視して、いつも悪気の無い藤堂さんが、横から親切に口を挟みました。
途端に、抜け駆けされた八郎さんの眉根が険しく寄りました。
「ですが・・・」
更にその八郎さんを押しのけて異を唱えたのは、何と、いつも控えめな島田さんでした。
けれども言いかけた言葉は、すぐに躊躇するように止まってしまいました。
「言ってみなよ」
其処はそれ、不器用な忠義の人島田さんを、昔馴染みの永倉さんが後押しします。
それでも島田さんは暫し思案するように沈黙していましたが、やがて疑問が遠慮を凌駕したのか、藤堂さんの顔を凝視して、厳かに口を開きました。

「あの、横になったら夜まで眠ってしまうのではないでしょうか?途中で目が覚めても、『もうじき夜だからこのまま朝まで寝てしまおう』などと、私などは思ってしまうのですが・・・・」
もしかしたら、島田さんはずっとこの疑惑を胸に重く抱えていたのかもしれません。
それが証に、藤堂さんの応えを、大きな目を剥き体を乗り出した姿勢でじっと待ちます。
「・・・難しい問題だな」
永倉さんが腕を組み目を細め、一点を見据えました。
「横になっただけじゃ、出来ないって代物か」
八郎さんは、たかが昼寝を其処まで真剣に考える阿呆らしさに付き合う気はとんとありませんでしたが、さっき自分よりも先に総ちゃんに応えた藤堂さんが気に入らなかったので、とりあえず永倉さんに同調し、閉じた扇子を畳の上に立て、これまた『深い思案の顔』を作りました。

「考えてもみなかったが・・・。確かに言われて見れば一理ある」
藤堂さんは己の浅慮を悔やむように、口をへの字に堅く結びました。
「そうなのです。私もうとうとしたらさぞ気持ちが良いだろうと思う事があるのですが、それを考えるとつい我慢をしてしまい、昼寝の時を逸してしまうのです」
島田さんは、未だ踏み入るを許されぬ桃源郷をうっとりと夢見るように、遠い目をしました。
そして。
総ちゃんは膝の上に抱いている猫の土方さんを、項垂れて見下ろしました。


昼寝・・・
これ程までに皆が頭を捻る難しい問題ならば、土方さんと一緒に昼寝をしたいという自分の願いは、もう叶えられないのでしょうか?
土方さんと、猫の土方さんに挟まれて、川の字になって少しだけ昼寝をする――――
そんなささやかなシアワセを、神さまも仏さまも慈悲無く、自分には知らぬ振りを決め込んでしまうのでしょうか・・・
じっと見られる視線を感じ、面倒くさそうに、猫の土方さんが総ちゃんを見上げました。

哀しみと焦燥に揺れ動く総ちゃんの瞳の中で、それはそれは土方さんに良く似たご面相が、みるみる滲んでゆきます。
遂に堪えられないひと雫が、頬を滑り落ちました。

ふにゃうっ。
ぽとんと頭に総ちゃんの涙を受け、猫の土方さんの何とも迷惑そうなしゃがれた声が、明るい夏の陽射しに彩られた中庭にまで響き渡りました。




     瑠璃の文庫    お昼寝でシアワセ♪なの(した)