総ちゃんのシアワセ 
             盆踊りでシアワセ♪なの  (うえ)
   



 西本願寺史上嘗て類を見ない、『お寺の、お寺による、門徒衆の為の一大行事』、
大盆踊り大会。
そもそもこのとてつもなく大仰なふれこみの企ては、玄海僧正さんの気まぐれな一言から始まったものでした。

 桓武天皇の御世から代々の住人と云えど、ひとつひとつの名前までは覚えきれない程に、数多(あまた)の寺社仏閣が点在するこの京の都。
となれば生存競争も自ずと激しさを増し、寺々とて、貧しくも、清く正しく美しい心で日々を送るのが、仏に仕える者の姿と前面に打ち出す建前と、賽銭箱潤す為の算盤勘定に日夜明け暮れる本音とは、きっちり使い分けなければならないのは仕方の無い事。
まして昨今のようなせわしいご時勢ともなれば、諸大名の財布の紐も殊更きつくなり、玄海僧正さんのお顔も渋くならざるを得ないのも、これ又自然の理(ことわり)なのでした。



「こう、門徒衆の心をがっぷり四つに組んで捕えて離さん、なんぞええ手は無いのかいな」
部屋の真ん中まで入り込んでいる真夏の日差しを、直截に坊主頭に受けている玄海さんの忌々しげな呟きに、後ろで、つい先ほどまで来ていた客に箔を見せ付ける、ただそれだけの為に積上げてあった大般若心経六百巻を片付けていた正念さんと知念さんが、聞かぬが仏とばかりにそっと視線を逸らせました。
ところがそんな些細な自己防衛すら仇となるのが、この世の皮肉。
いらえの無いのを不満に思った玄海さんが、団扇を煽る手を止め、おもむろに二人を振り返ったのです。
「お前ら何年仏の弟子やっとるのや、ちっとは知恵云うもんを働かせんかいっ」
我が身の不幸は、弟子の不出来が故。
修行の果てに、少しばかり歪んで辿り着いた悟りの境地を罵声に込めるや、又くるりと背を向け、燦々と輝くお天道さまの眩しさに、玄海さんは鬱陶しげに目を細めました。
そうして憎らしいばかりの暑気を払拭するかのように瞼を閉じると、その裏に、儚げに佇むひとりの像を描いたのでした。
それは己が説法に瞳を潤ませ身じろぎもせず聞き入る、思い出すだに、胸掻き乱さずにはいられない、狂おしいばかりに恋しい人の姿――。
「・・沖田はん・・」
そっと言葉にする熱い囁きすら、即座に身を震わせる甘美な媚薬に変えてしまうのも、恋と云う魔物が成せる罪な仕置き。

――とまぁ、ひとり悦に入っている師の様子を、暫し物云うのも忘れ唖然と見ていた知念さんと正念さんでしたが、それも一時の事で、触らぬ神に祟りなしとばかりに、再び片付けに精を出し始めたのでした。
ところがその知念さんの手が不意に止まり、瓜のような坊主頭が、億劫そうに脇息に寄りかかっていた丸い背に向けられたのです。
そして。
「あのぉ、僧正さま、・・盆踊り、云うんはどないですやろ?」
おずおずと進言した声は、遠慮八分、自信二分と云う按配の、何とも頼りないものでした。
「盆踊りぃ?」
そして案の定、ちらりと後ろに視線を流したものの、玄海さんの物言いは、もうすぐさまこの案を却下したも同然に面倒げで、顔は、とても門徒衆にはお見せできない苦々しげなものでした。
「このくそ暑い時に、何が哀しゅうて余計に汗かかなあかんのや」
そうして、あほくさ、と付け加えるや、その当て付けのように、手にしていた団扇を猛烈な早さで扇ぎ始めたのでした。
と、その時。
捨てる神あれば、拾う神ありとは良く云ったもの。
「あ、それええなぁ。盆踊りやったら、一緒にどうですかぁ云うて、沖田はんかて自然に誘えるなぁ・・・」
友を援護すると云う、其処までの深い思慮は無い正念さんの間延びした声が、室に籠もっていた熱を、もわりと動かしました。
ところが、何と驚いた事に――。
その寸座、それまで後ろを向けていた玄海さんが、恐ろしい勢いで振り返ったのです。
 
 豹変とも云える突然の動きは、知念さんと正念さんを、驚かせると云うには足りず、二人は其処に固まってしまったかのように、息さえ詰めてしまいました。
そんな二人の様子など眼中に無いように、玄海さんは両の手の指で輪を作りそれを膝の上に置くと、半眼の体(てい)で暫しの瞑想に籠ってしまったのです。
ですがよこしま三昧の身に御仏の導きがある筈も無く、所詮形ばかりの座禅はあっと云う間に終(つい)を迎え・・・
「・・盆踊り」
今度は低く呟くや、かっと目を見開き、荒縄で縛り付けられたかのように動けぬ二人に、玄海さんは視線を向けました。
そして――。

「今、御仏がうちの此処に来はって・・」
と、静かに語り始めると、自らの胸に手を当てました。
「こないな世知辛い世ぉだからこそ、皆に踊る楽しみを教えてやるのが、仏に仕える者の役目やと、それがお前らの使命やと、云われはったのや」
あまりに強く云い切られる白々しさは、頼りなく語られる真実よりも、余程に説得力のあるものなのかもしれません。
この時の知念さんと正念さんが、その良い例でした。
ごくりと生唾を呑み込む二人を、玄海さんは穏やかに見比べるや、更にこの上無く慈悲深い笑みを浮かべて大きく頷きました。

「あのぉ・・ひとつ聞いてもええでしょうか?」
ですが長年傍らで世話をして来た甲斐は、知念さんを素早く大法螺の呪縛から解き放ち、師を見上げて問う声は、既にしっかりと現に戻っていました。
「何や」
そして弟子の疑問にうるさそうに答える玄海さんの顔も、もうとっくに算盤勘定に長けた、世俗の人の其れに戻っていました。
 ついでに付け加えるのなら、仏とて慈悲のお顔が三度までならば、修行も終わらぬ生身の己は一度が限度と、それは玄海さんの譲れぬ信念であります。
 
「盆踊りはええんですけど、寺の何処を使うんですやろか?境内云うても広いし、掃除もしとかんと・・」
「何処って、寺の全部に決まっとるわ」
「寺の全部ぅ・・?」
「当たり前や。境内も本堂も、庫裏かて使こおて、一晩中踊り明かすのや。その位盛大にやらにゃ、今日び世間の話題にも上らんわ」
驚きが勝り唖然と言葉を失くした知念さんに、玄海さんは当然な事を聞くなとばかりに、これみよがしの顰面(しかめづら)を作りました。

――確かに。
玄海さんの提案は、広大な寺領を門徒衆に解放し、この夜ばかりは太鼓や唄に合わせ、皆仲よう踊ろうではないかと――。
生きとし生けるもの、仏心さえあれば皆兄弟姉妹なのだと。
あたかも仏に仕える者らしい、実に大らかな発想でした。
ですがこの、懐の深さを押し付けがましく前面に打ち出した企ての裏には、門徒衆の心をしっかりと掴み、己の人気を不動にのものにしようとする、遠謀策略があるとは今更語るまでもありません。
そして更に、その一番の根本には、名を口にしたそれだけで胸の高鳴りを鎮められない、想い人総ちゃんとの距離を、この夜を境に一気に縮めてしまおうと目論む、他人には語れぬ、玄海さんの悲壮な決意があったのです。


「一晩中、踊り明かすのですやろか・・?」
「そや、一晩中や」
師のそんな胸の裡など知る由も無く、予想外に大それた計画を聞かされ、思わず声がひっくり返ってしまった知念さんでしたが、深く頷く玄海さんの双眸には、何事にも揺るがぬ意志の強靭さがありました。
更に・・・
「男も女も、闇に紛れて一晩中踊り明かすのや」
「・・男も女も・・闇に紛れて?」
「そや」
ほんの少し声を落としての、耳打ちするかのような秘密めいた物言いに、ぽっと頬を赤くしたのは正念さんでした。
そして玄海さんはそんな二人の前に屈みこむと、今度は鋭い目で見据え、他人に漏れる事を恐れるように、低い声で話し始めたのでした。

「日頃顔を合わせても、暑おすなぁ、寒おすなぁ、の短い挨拶ばっかりで、ほんまの心まで相手には見えへん。けど皆で楽しゅう踊っておる内には、笑顔になり、しだいに打ち解けても来るやろ?それが男と女やったら尚更や。いや、もしかしたら今までええなぁて思うても声をかけられんでいた相手に、ちょっと袖が触れおうたそれが切欠で話が盛り上ごうて、胸に秘めた恋心も伝えられようになるかもしれん。これからの寺は、門徒衆に、そないな心配りがでけるようでなければ駄目なんや。この盆踊り大会が成功すれば、お西はんは、ええ縁を結んでくれはる、ほんまありがたい寺や、そないな評判も立つ。そうなれば門徒かて、苦労せんとも向こうからやって来るわ」
 途中から、己の言葉に酔いしれるように立ち上がり、宙の一点に視線を据えると、玄海さんはもう戻れぬ道を行く修験者の如き厳しい形相で、固く拳を握りしめました。

 けれどその本音が、まさか総ちゃんとの恋の成就にあるとは露知らず、師の頭に当る強烈な陽射しの眩しさに、知念さんと正念さんは思わず目を細めたのでした。





 そんなこんなで。
ここは西本願寺の一角に、拝借していると云うにはあまりに威風堂々とそびえ建つ、新撰組の屯所。
そしてこの頑健な建物の一等奥まった局長室で、先程から豪放磊落な笑い声を響かせているのは、局長の近藤先生でした。
更にその横で、大きな影に隠れるように、か細い首をうな垂れちんまり端座しているのは、そんな生気の欠片も無い様子が、ひどく近藤先生を案じさせている総ちゃんだったのです。
と云うのも・・・

 どうしても自ら出張(でば)らねばならない仕事で、土方さんが大坂に向かったのが昨日のこと。
そして明日の帰営を、一日千秋の思いで待ち焦がれていた総ちゃんに今朝届いた知らせは、思いもかけない衝撃的なものでした。
何とっ。
それは、商談する筈だった相手が腹下しを起こし、急遽全ての日程が一日ずれ、そのお陰で京に戻るのも一日延びると云う内容のものなのでした。
文は、一度見たら忘れる事の出来ない灰汁(あく)の強い筆跡で、相手の名を全て『莫迦』と置き換え、其処かしこに土方さんのただならぬ憤怒が滲み出ていましたが、総ちゃんはそれすら視界に入らず、朝の陽射しが強くなる室で、まるで魂の抜き取られてしまった人形のように、呆然と宙に瞳を彷徨わせていたのでした。


 とまぁ、総ちゃんにとっては生きるか死ぬかの一大事でも、他人さまには愚にもつかない、いえ、むしろ総ちゃん以外の人間のほとんどにとっては、歓迎すべき土方さんの帰営延期。
まして玄海僧正さんには、願ったり叶ったりの恋敵の留守。
となれば盆踊り大会への参加を持ちかける舌の滑りも、俄然勢いを増すと云うもの。

「そないな訳で、明日の晩は門徒衆も新撰組の皆はんも、仲よぉ、楽しゅう、踊りの輪の中に入って過ごせたらええなぁと、そないに思うとりますのや。元々盆踊りには、日頃想うていても中々伝えられん切ない心を、この夜ばかりは相手に知って貰う云う、これで中々粋な要素もありますのや」
「僧正どの、それは実に良いお考え」
苛烈な夏の陽を真横から浴び、どこまでがおつむなのか、ちょっと見分けのつきかねる額に汗を浮かべ、穏やかな相で説く玄海さんに、近藤先生も大きく頷きます。
「いやはやこの近藤、僧正殿の気風の良さには改めて敬服いたしました」
「なんのなんの、仏の弟子とこの世に遣わせられたからには、人さまのお役に立つのがうちらの役目。皆はんに喜んで貰えるなら、こないに嬉しい事はありません」
まるで日陰にそっと咲く花が、強い日差しで萎れてしまったかのような総ちゃんにちらりと視線を流しながら、玄海さんの『建前』はとどまる処を知りません。
「では新撰組も非番の者は全員参加との局長命令を出し、少しでも盆踊り大会を盛り上げましょうぞ。このような時にこそお役に立てなければ、寺領を拝借している日頃のご恩を仇で返すと云うもの」
なぁ?と、横で項垂れたままの総ちゃんに相槌を求める近藤先生でしたが、当の本人は端座している事すら不思議のような覚束ない体(てい)で、漸く上げた瞳もぼんやりと、何処に焦点が合っているのか分からない始末。

「・・総司?」
朝からずっとこんな調子の総ちゃんに、近藤先生の声も流石に憂いでくぐもります。
「近藤はん、ご心配は要りまへん。この盆踊り大会は、云わば御仏のお導き。せやし沖田はんの暑気あたりかて、あっと云う間にようなります」
懸想相手を魂の抜け殻にしてしまったその原因を、憎い恋敵の留守の所為ではなく、暑気あたりが故だと強引にすり替え、御仏の御慈悲を説く玄海さんのお顔に、それはそれは尊い笑みが浮かびました。
「まことでしょうか?」
「ほんまどす」
身を乗り出すようにして問う近藤先生の迫力にも臆する事無く、玄海さんは静かに頷きます。
更に数珠を持った掌を合わせ、御仏に感謝するかのように深く下げた坊主頭を眼(まなこ)に捉えれば、元々が、漢気か単純かと問われて言葉に詰まる、そのまんまの気質の近藤先生。
この時も彼岸を彷徨っている愛弟子の魂魄を此岸に呼び戻すには、この盆踊り大会を置いては有り得ないと、猛烈な勢いで信じ込んでしまったのです。
「僧正殿っ・・」
愛弟子の為に是が非でも盆踊り大会を成功させねばならない壮絶な覚悟で、厳つい顔を鬼瓦のようにし、近藤先生が玄海さんに詰め寄った、と、その時――。


「総司はいるかえ?」
心此処に在らずの総ちゃんの様を、まるで見透かせていたかのように、庭の涼しげな木陰を回り、殊更ゆったりとした足取りでやって来たのは、伊庭八郎その人でした。
そして・・・
「近藤さんも、お揃いかえ?」
この局長室の主である近藤先生には一応お愛想程度に声をかけたものの、玄海さんに至っては見向きもせず、ひらりと縁に上がるや、そのまま二人の間を通り抜け、ぼんやりと座り込んでいる総ちゃんの傍らに、其れが然も当然のように腰を下ろしたのでした。
伊庭八郎秀穎、己の見せ場を十分に心得、それを最大限に生かすに長(た)けすぎた、天凛の持ち主でありました。
――更に。
「さっき此処に来る時に聞いたんだが、土方さん大坂だって?」
誰にも言葉を挟む隙を与えぬ素早さで、薄っぺらな肩を己が腕の中へと包み込むと、八郎さんは柔らかな笑みを浮かべ、茫然自失の総ちゃんを覗き込んだのでした。

そんな新たな邪魔者の出現は、当然と云えば当然の場所に火種を撒き散らし、それまで尊い慈悲深さを湛えていた玄海さんのお顔が、一瞬の内に欲と煩悩にまみれた修羅の相に変わったのも、事の顛末を思えばごく自然の成り行きと云えたのですが・・・
ところが間の悪い事に、その豹変とも云える瞬間を、たまたま見てしまった近藤先生は・・・
「あの・・」
己が捉えた光景が信じられず、無骨な指で目を擦りながら、つい心許ない声を漏らしてしまいました。
「何ですやろ?」
ですが振り向いた玄海さんのお顔は、先程までのものと寸分も変わりない穏やかなもので、近藤先生は又も己の網膜が映し出す不可解な像に愕然としたのでした。
そんな近藤さんの様子に、八郎さんもどうやら他の人間の存在に気づいたらしく、漸くそちらに視線を移しましたが、坊主頭に照り返す陽射しの眩しさに、あからさまに渋面を作りました。
そして袴に差していた扇子を抜くやはらりと開き、それを日除け代わりに目の上に持って行くと、
「・・ああ、あんたか」
どうにか相手の顔貌(かおかたち)を識別し、興も無さそうに嘯きました。
「うちで悪うございましたなぁ」
失礼この上ない挨拶ではありましたが、其処は修行してなんぼの仏の弟子。
偶(ぐう)と堪えた怒りを柔和な声音にくるみ、玄海さんは、八郎さんに穏やかな笑みを向けました。
「いや、坊主ってのは、夏には因果な商売と思っただけだ。気にしてくれるな。・・が・・、」
そんな厭味など歯牙にもかけない風情の八郎さんでしたが、ふと何かを思いついたように言葉を切ると、端整な面を少しだけ難しげにしました。
そのまま暫し扇子をぱちりぱちりと鳴らしていましたが、漸くひとつの結論に辿り着いたのか、伏せていた面を上げると、やおら玄海さんに視線を戻しました。
そして・・・
「その頭、頬被りをしてみたらどうだえ。そうすりゃ皆眩しさに難儀しなくて済む・・・」
と、云いかけ、けれど又も言葉を止め・・・
「・・いや、・・滑るか・・」
合点したように呟くと、首を振って独り語りを仕舞いにしました。
「失礼なやっちゃなっ」
流石に此処まで云われては修行の成果も功を成さず、玄海さんが食って掛ろうとしたその寸座――。


「やっぱりここか」
声と共に庭から現れたのは、熱の籠もる土を踏む足取りも大儀そうな、永倉さんでした。
「いたぜ」
しかもその永倉さん、総ちゃんが中にいる事を確かめると、今度は後ろを向き、大きな声で誰かに其れを伝えるではありませんか。
やがてその声に促されるように、建物の影から遠慮がちに大きな姿を覗かせたのは、意外にも島田さんでした。
「総司、お前、猫と鯉と蛸に餌をやってねぇだろう」
云いながら、縁に腰を下ろした永倉さんでしたが、又しても頼みもしない客の登場に、玄海さんの眉根がここぞとばかりに寄せられました。
ところが。
玄海さんの事情を他所に、それまで人形の如く反応の無かった総ちゃんが、突然弾かれたように面輪を上げたのです。

「・・あのっ、あのっ・・、猫の土方さんと、鯉の土方さんと、蛸の土方さんはっ・・」
そして生気の無い白い頬を益々蒼くするや、立ち上がるのももどかしげに慌てて永倉さんの元まで這い寄ると、片方の袖を掴み、叫びにも似た悲愴な声を上げたのです。
「安心しな。不覚にもお前の猫に朝飯の魚を取られ、槍を振り回し怒り狂っていた原田を宥め、その猫を探している途中、中で蛸が暴れている蛸壺が、近くにいた奴らをめがけて当り散らすかのように転がっているのに出くわし、更に滝を逆さにしたように水しぶきを上げている摩訶不思議な池を見た島田さんが、これ等の全ては、二度と拝むのは真っ平な面(つら)した蛸と鯉が腹を空かしての暴挙が原因と気づき、餌はやってくれた。ただ猫はどっかいっちまったままだ。が、あいつも盗んだ魚でひもじい思いはしちゃいねぇ筈だ」
島田さんの機転を、まるで自分の手柄のように話す調子には些かの引け目も無く、むしろ結構な大事(おおごと)になっていたらしい顛末を、さらりと語る瀟洒な物言いが、いかにも江戸気質を自負する永倉さんらしいものでした。
「・・ありがとう・・ございました・・」
そしてその永倉さんを潤んだ瞳で見つめる総ちゃんの唇からは、安堵に震える声が零れ落ちたのでした。

全く、何と云う失態でしょう。
幾ら土方さんの帰営が明後日に延び、心神ともに耗弱していたからと云って、その化身である愛玩動物達を空腹で怒らせるなど言語道断。
どれ程自分を責めても、到底足りるものではありません。
二重三重の衝撃が自責の念となり、今総ちゃんを打ちのめします。


「まぁ、そう気にするな、誰にでも忘れる事ってのはあるもんさ。なぁ?」
深い深い色の瞳を慄きに見開き、其処に今にも零れ落ちそうな雫を湛え、薄っぺらな肩を落とし憔悴しきった風情の総ちゃんに向かい鷹揚に頷きながら、永倉さんは、本来その恩恵を蒙る筈の島田さんに同意を求めました。
それに島田さんも、真摯な面差しで、尤もですとばかりに大きく頷きます。
案外に――。
人が良いと云われる人間は、自らの人の良さに気づかないからこそ、人が良い人生を送り続けられるのかもしれません。

「そうです、そうです。人間忘れるっちゅう事がでけるからこそ、又次のシアワセが巡って来ますのや」
そしていつの間にか総ちゃんの近くまで擦り寄っていた玄海さんも、慈悲深い眼差しを送り、ここぞとばかりに自分の存在を押し出します。
「シアワセもいいが、この暑さにゃ、あんたのその頭も大概辛えだろう。手拭でも置いてみたらどうだ?」
ですがその玄海さんに返ったのは総ちゃんのいらえでは無く、滴り落ちる汗を拭いながら、広げた胸元に手団扇で風を送り込んでいる永倉さんの進言でした。
「大きなお世話やっ」
又も失礼この上ない言い分に、玄海さんが身を乗り出し詰め寄ろうとした、その時――。
「そうだよ、永倉君」
突然会話に参入して来たのは、近藤先生の、諭すような太い声でした。
「どれ程僧正殿の御尊頭の照り返しが激しく目に痛くとも、そしてそれがこの暑さの中ではいか程に迷惑であろうが、寺領をお借りしている手前、そのような事は決して口にしてはならん。例え腸(はらわた)を穿(ほじく)り出されようとも、それだけは留めおかねばならぬ」
まるでそれが武士(もののふ)としての生き様だと云わんばかりに、宙を見据えて語る近藤先生の声には、一度決めた己の信念を貫き通す強靭さがありました。
――悪気も嘘偽りも無い朴訥さと云うものは、時に残酷なまでに躊躇い無く、本音を言葉に変えてしまうものなのかもしれません。

「云われてみりゃ、それも一理あるかもしれねぇなぁ。腹に一物あるのはいけ好かねぇが、義理に重石されりゃ是を否と首を振らにゃならねぇのも、又人の世の理(ことわり)か・・」
近藤先生の言葉に、手団扇を止めて腕組をし、世知辛い世の因果をしみじみ語る永倉さんに、傍らに立つ島田さんも同調するかのように、大きな顔を苦しげに歪めて頷きました。
「あんたっ・・」
「しかもだっ」
こめかみの筋肉をひくひくさせながら、仏の顔などとっくに放り投げて怒りの声を上げた玄海さんでしたが、又してもそれは近藤先生の声にかき消されてしまいました。
「僧正殿は総司の暑気あたり平癒の為に、明日の夜は西本願寺の寺領を解放し、ありがたい盆踊り大会を催して下さると云うのだ」
拳を振り上げんばかりに力強く言い切り、そしてそのまま、そうですよね?と人の良い笑顔を向けられれば、他言できぬやましさを秘しているだけに、玄海さんも今更違うとは撤回できません。
迸りかけた怒りを堪えると、ごくりと喉仏を上下させ、寸での処で其れを呑み込みました。

「暑気あたり平癒の為の、盆踊りねぇ・・」
ですが玄海さんの次の言葉よりも先に響いたのは、風の通り道に涼しげに胡坐をかいて呟いた、八郎さんの億劫そうな声でした。
「そうなのだよ、伊庭君。僧正殿は西本願寺の威光をかけた盆踊り大会を催し、仏の御加護で総司の暑気当りを治して下さると云うのだ」
盆踊り大会の趣旨を、いつの間にか、『お寺の、お寺による、総ちゃんの為の一大行事』に都合よく解釈している事などには露ほども気付かず、それどころか近藤先生は、感極まって小さな目に溜まった泪を拭いもせず、最後は低い嗚咽交じりに言葉を終えたのでした。
シアワセとは――。
もしかしたら何をも寄せ付けない程に強靭な、激しい思いこみ以外の何ものでも無いのかもしれません。
「これで総司もきっと元気になるだろう・・」
土方さんの帰営延期の衝撃に加え、愛玩動物達を空腹で怒らせてしまった自責の念に捉われ、触れれば倒れんばかりの風情でうな垂れている総ちゃんの哀れな姿を目の当たりにし、近藤先生は、頬に零れ落ちたひと滴(しずく)の泪を無骨な手で拭ったのでした。

 そんな師弟の有様を暫し静観していた八郎さんでしたが、盆踊りで暑気当りが平癒すると云う、近藤先生の発想の目出度さ、相変わらずの単純さに呆れた吐息を漏らすと、その口直しのように、扇子の下の目線を、総ちゃんの白くか細い項へと流しました。
 ですがその総ちゃんの正気を此処まで失くさせている真の原因が、あの思い出すだに不愉快な恋敵の不在と云うのが面白く無いのは、八郎さんとて玄海さんと同じ事。
人の恋路を邪魔すると決め、些かの躊躇いも手心も加えないと決めた、それが己の揺るがぬ信念ならば、想い人の生気の無い様は暑気当りと決め付け、盆踊りでも念仏踊りでも好きに踊らせておいた方が気が治まると云うもの。
それに只ですら閉口するこの蒸し暑さの中、踊って汗を流すなど頼まれても御免ですが、総ちゃんの介抱を名目に、自分達は何処か涼しい処で高みの見物と決め込むのも悪い話ではありません。
いえいっそ二条城の二の丸御殿あたりならば、内外に巡らされた堅牢な堀に妨げられ、下界に籠もる熱も上っては来ないでしょう。
幾つもの襖を開け放し、闇を滑る風に乱れ、白い項に戯れる後れ毛。
それに絡ませ遊ぶのは、意地の悪い己が指先。
現と夢幻の境を行きつ戻りつ、ふたり堕ちるのは真夏の夜の桃源郷。
――そう、確かに、悪い話ではありません。
ならばこの話、乗っても・・・

「そうは思わんか、伊庭君」
「上々でしょうな」
小さな目を赤くして向けられた声に、緩やかな笑みを浮かべた端整な面が、淀みないいらえを返しました。


「盆踊り大会・・」
ところが腹の中はどうであれ、賛同の意を唱えた二人をよそに、今度は永倉さんが重い呟きを漏らしました。
「なんぞ文句がありますのかいな」
その永倉さんに、万度の無礼に堪え処などとっくに捨て去った玄海さんが、不機嫌この上ない視線を送りました。
「文句じゃねぇが・・」
ですが常日頃から、些細な事には頓着しないのが漢気(おとこき)と自負している永倉さん。
この時も玄海さんの忌々しげな口調など全く気にする風も無く、縁に腰掛けていた身を、くるりと室の中に向けました。
「寺が音頭とる盆踊りたぁ、ちょいと抹香臭くはねぇか?」
そうして、なぁ?と、隣に腰掛けていた島田さんに相槌を求めました。
突然に話を振られた島田さんでしたが、元々が律儀一徹の人。
この難しい問題へのいらえを何とか自分なりに引き出そうと、暫し苦しげに眉根を寄せて考え込んでいましたが、やがてひとつの答えに辿り着いたかのように、遠慮がちに口を開きました。

「あの・・、やはり唄は念仏で、途中の景気づけにはりんや鐘の音を入れて、それであの・・、灯りは蝋燭や線香なのでしょうか?・・だとしたら、こう、戻ってくる元気も無くなるような気がするのですが・・」
大きな体の半分を庇の陰からはみ出し、滴る汗をも拭わず問う口調は真剣で、その真剣が過ぎて、島田さんの双眸には、最早鬼気迫るものがあると云っても過言ではありません。
「そんなん当たり前のことですやろ。元々念仏唱えて何ぼの坊主、喉に自信がのうてどないしますのや。下手な三味線引きよりもずっと声が通って、盆踊りかてきっと盛上がりますわ」
ところが玄海さんは、その島田さんの迫力にも負けず、そんな事も分からないのかとばかりの呆れ顔で、ふりふりと頭をふりました。

「だが・・」
ですが其処で待ったを入れたのは、頭を振られるその度に、跳ね返る陽の眩しさに、端正な面を迷惑げに顰めていた八郎さんでした。
そしてぱちりぱちりと小気味の良い音をならし、扇子を閉じ開きしながら・・・
「云われてみれば、確かに仏にゃ供養になるだろうが、辛気臭くて総司の暑気当りには効き目は無さそうだな」
島田さんの見解にさもありなんと頷くや、返す刃で、玄海さんには、これみよがしの胡乱な視線を投げ掛けました。
「ほなどないにすればいい、云いますのや。尊い御仏の前で煩いばっかりの笛三味線なんぞ、もっての他ですっ」
元々が寺の台所事情をちゃっかり算盤勘定に入れた、徳よりも欲の深いこの妙案。
本音を突かれればさっさと開き直るのも、これまた仏のお導きとばかりに、玄海さんは仏頂面で八郎さんに体を向けました。
「が、念仏なんぞ唱えちまったら、踊るどころか手も足も動かねぇだろう。何しろ念仏と云や、手を合わせるもんと相場は決まってるからな」
なぁ?と、又も島田さんに話を振りながら、永倉さんは、暑さに耐え切れないように顎を上げ、伸ばした首筋から胸元へと、風を送る手団扇の動きを早くしました。
 
 永倉さんの尤もな言い分に頷いた島田さんではありましたが、確かに、鎮座している仏像の前で読経に合わせ、たくさんの人間が一様に踊る情景は、何とはなしに薄気味悪いものがあります。
それを脳裏に描いた寸座、この暑さにも係わらず、島田さんは大きな体をぶるりと震わせました。
と、その時。

「いっそ念仏の中身を変えてみたらどうだえ?」
行き詰まった道の先に光明を与えるかのように、八郎さんの鷹揚な物言いの声が、扇ぐ扇子の風に乗り、室に響き渡りました。






瑠璃の文庫   盆踊りでシアワセ♪なの(した)