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総ちゃんのシアワセ
ひみつでシアワセ♪なの (うえ)
時折、吹き抜ける風が悪戯して前髪を揺らしても、其れに少しだけ瞳を細めるだけでやり過ごし、総ちゃんは横に置いた行李の中から、取り出した単衣に視線を落とし、それから少し首を傾げては考えこみ、又直ぐに元に戻し、今度は別の単衣を取り出して、やはり又暫し物思いに耽り・・・
もう一体どれ程、同じ所作を繰り返している事でしょう。
ですが。
これには当人にとっては一大事、他人さまには「あっそ」の三言で終わる、一見あたかも深そうでいて、とてつもなく簡単な理由があったのです。
実は総ちゃんは明日から土方さんと、材木商白木屋さんのご招待で、都から少し離れた嵯峨野に行くことになったのです。
それを土方さんに告げられたのが、今日の朝餉の時。
しかも土方さんは、いきなりの事で吃驚し、お箸を持つ手を止めたまま瞳を見開いている総ちゃんに向かって、誰にも云うなと低い声で耳打ちしたのでした。
そうして食事の途中で近藤先生に呼ばれ出て行く広い背を見送った後も、暫しはこの降ってわいたような僥倖が信じられず、ぼんやりとしていた総ちゃんでしたが、庭の蝉が一斉に鳴き始めるや、まるでそれが合図のように、今度は怒涛の勢いで喜びが押し寄せ、胸に手をやらなければ飛び出してしまうのでは無いかと思う程に、心の臓の鼓動は高鳴り始めたのでした。
それもその筈。
何しろ土方さんは、『誰にも云うな』と、念を押して行ったのです。
それは紛れも無く、『ふたりだけの秘密』と云う事なのです。
朝から晩まで二人きり。
交わす言葉も、返るいらえの声も、土方さんのものだけ。
視界に入るのも、土方さんの姿だけ。
そうと思えば煩いだけの蝉の声すら、うっとりと夢路をたゆとう総ちゃんの耳には、歓喜の半鐘のように響くのでした。
――さて、そんな訳で。
あれからすぐに総ちゃんは部屋に引きこもり、もう昼も過ぎたと云うのに、明日身につけて行くものを、未だ決めかねているのです。
と云うのも、嘗て近藤先生が、嵯峨野はここよりもうんと涼しく、夜などうっかり風邪を引いてしまいそうだったと、馬頭饅頭を食べながら語っていたのを、総ちゃんは覚えていたのです。
着いた途端風邪など引いて、この類稀なシアワセを、日がな一日咳とくしゃみに邪魔される事になった日には、目も当てられません。
ならば、やはり少しでも厚い織物の方が良いでしょう。
ですが其処はそれ、仮にも真夏。
あまり厚くても今度は暑さに負け、団扇と水枕のお世話になってしまうのでは、それこそ悔やんでも悔やみきれません。
たかが単衣一枚。されど単衣一枚。
傍から見れば他人の顔して素通りを決め込みたい馬鹿馬鹿しさも、恋する者の一途に置きかえれば、それはもう一大事で、総ちゃんの悩みは延々と続いているのでした。
ですがまぁ、風邪や暑気当りでなくとも、人の恋路を邪魔して馬に蹴られたい輩は何処の世にもそれ相応にいるもので、開け放した室の、隅に重ねられた障子に映った人の影に、はたと気付いた総ちゃんの瞳が其方に向けられました。
「総司は、何をしているのだい?」
其処に現われた近藤先生は、室の真中にちんまり座わり、行李の中身を広げている総ちゃんの姿に、不思議そうな視線を向けました。
「・・あの、・・あの」
後ろめたさすら、嬉し恥ずかし恋心。
しどろもどろの言い訳も侭ならず、総ちゃんは耳朶までほんのり朱に染めて俯き、唇は中々その先を言葉にしてはくれません。
「片付けも良いが、歳を見なかったかい?」
ですがそんな様子などお構いなく、近藤先生は総ちゃんの脇まで来ると、其処にゆっくりと腰を下ろして胡坐を組みました。
「土方さん?」
たった四つのその音には、頼まれなくても過剰な反応を示す総ちゃんです。
この時も例外ではなく、一人だけ悦に入った恥じらいに項垂れていたか細い項が、ばね仕掛けの人形のように跳ね上がりました。
「・・ふむ。実は先日白木屋から、暑気払いに来ないかと招待状を貰い、それを確かに歳に預けておいたのだ。だが昨日返してくれと云ったら、そんなものは知らんと、あいつは言い切る。が、どう考えても歳が持っている筈なのだ。・・それをもう一度、問い質そうと思ってな」
近藤先生はさも難しげに、厳(いかめ)しい顔を更に顰め、それはそれは大切な秘密事を打ち明けるように声を潜め、総ちゃんに耳打ちしたのでした。
「それで歳が何処に行ったのか、総司は知らないかい?」
近藤先生の問いかけに、総ちゃんは体中の、ありとあらゆる神経を一瞬にして強張らせると、次には蒼白な顔で必死にかぶりを振りました。
「・・そうか。総司にも歳の行方は分らないのか」
近藤先生は腕組みをし、顎の張った大きな口元を、固く結んで宙を睨みました。
その近藤先生の様子を、俯いたままちらりと覗き見した総ちゃんの心の臓の鼓動は、今にも胸を突き破りそうに激しく高鳴ります。
何しろ土方さんが白木屋さんの招待状を持っているのは、明白なのです。
けれどそれを近藤先生に教えてしまったら、土方さんとの二人だけの嵯峨野行きは、今すぐこの場であぶくと消えてしまうのです。
総ちゃんの胸の裡は、自分のシアワセの為に、父とも違わぬ近藤先生に嘘を通さねばならない痛恨と贖罪で千々に乱れ、申し訳なさに瞳は潤みます。
と、その時。
「総司、いるかえ」
例によって例の如く、年貢の無駄遣いと世間様から後ろ指のひとつふたつ指されかねない、気楽なお上勤めの八郎さんが、中庭から登場するやひらりと縁に上がり、当然のように総ちゃんの傍らに腰を下ろしました。
そしてやおら扇子を抜き取ると、それをはらりと開いて、改めてふたりを見遣りました。
「近藤さんに難しい顔をさせているのは、さて何の談義やら」
八郎さんは扇子をはたはたと扇ぎながら、聞いたところで力を貸そうなどとはこれっぽっちも思いませんでしたが、懊悩にいるらしい相手への、一応の礼節は欠かしません。
流石は、心形刀流の御曹司。
円滑な人間関係こそが、世間さまを上手に渡る術と心得たものです。
ですが八郎さんの形ばかりの気配りにも、近藤先生は厳しい顔を崩さず無言を決め込み、その横で総ちゃんはこれ以上無いと云う程に縮こまったまま、息をも止めてしまったかのように身じろぎしません。
けれど、上には上があると云うもの。
この異常な二人の様子にも、八郎さんは少しも動ぜず、もう近藤先生への義理は果たしたとばかりに、今度は項垂れている総ちゃんを覗き込みました。
「総司は・・」
「伊庭君」
ところが八郎さんが総ちゃんに語りかけたその途端、近藤先生の太く重い声が、それを遮りました。
「何でしょう?」
中断された事に、内心舌打ちした八郎さんでしたが、其処のところは、浮き沈みの激しいこのご時世に、如何につつがなく流派を繁栄させて行くか、幼い頃から帝王学を叩き込まれた身。
己を抑えて返す声には、忌々しさの欠片も悟らせません。
それに何と云っても、近藤先生は総ちゃんの親代わり。
如才無くしておいて、損はありません。
「何か、ご懸念でも?」
更に愛想良い調子と共に向けたのは、裡に秘める魂胆など露ほども見せぬ、にこやかなご面相でした。
「・・実は」
促されて近藤先生は口を開きましたが、それでも逡巡するように一旦言葉を切り、再び宙に厳しい視線を向け、しかし直ぐにその躊躇いを払うかのようにふりふりと頭を振ると、今度はおもむろに八郎さんに向き直りました。
「君は、歳から何か聞いてはいないだろうか」
「はて?」
峻厳な面持ちで土方さんの名を告げる近藤先生の、そのあまりに重々しい物言いと、切羽詰まった険しい目の色に、漸く八郎さんにも、少しばかり面白半分の興が湧いたようで、問う声が幾分低くなりました。
それにどうやら近藤先生のこの気難しげな顔から察しても、あまり楽しい事情とは思えません。
あわよくば・・・
恋敵を蹴落とせる、格好の機会かもしれません。
「土方さんから何か、とは?」
そうとなれば、俄然聞く態度にも真剣味が増すと云うのは、この世に生まれたからには、とことん己の事情が一番の人の常。
扇子で口元を隠した八郎さんが、近藤先生に急(せ)いてその先を促します。
「・・歳が、わしに隠し事をしているとしか思えんのだ」
「昔馴染みの近藤さんに隠し事とは、又遺憾。してそれは、どんな?」
八郎さんは、それはそれは上手に水を向けます。
「実は先般白木屋から嵯峨野への招待状が届いたのだが、それが何処を探しても見つからない」
「それと土方さんと、どう云う関係が?」
「その招待状を確かに歳に預けた筈なのだが、あいつはそんな物は知らんと云い切るのだ」
「では近藤さんは、その招待状を土方さんが隠していると?」
「わしとて疑いたくは無いが・・」
「苦しい心中・・と、云う処ですな」
ふりふりと頭を振り、難しそうに眉根を寄せる近藤先生に、そんな事かと内心呆れながらも、八郎さんはいらえを返す声に、過不足無く適度な重さを忍ばせます。
「伊庭君、其処で頼みなのだが。一度君から歳に・・」
俯いたまま小さく固まっている総ちゃんの頭を越えて、近藤先生が身を乗り出したその刹那。
「ここにも居やしねぇ」
額から滴る汗を鬱陶しそうに拭いながら、これも又庭を回って現われたのは、永倉さんと、大きな体をやはり汗だくにしている島田さんでした。
「さっきから土方さんを探してるんだが、何処にもいやしねぇ」
永倉さんはこの暑さの中、探す手間が余程に面倒だったらしく、其処に近藤先生を見つけると、心底迷惑そうに顔を顰めました。
「歳を?」
「そうよ」
怪訝に問う近藤先生にいらえを返しながら、お天道さまの強い陽射しから逃れるように、永倉さんは座敷に上がりこみました。
その後に、流石に暑さに参っていたのか、いつもは控えめな島田さんまでもが続きます。
「川下りの舟が用意出来たと、折角教えてやろうと思ったのによ」
永倉さんは胡坐をかき、胸元を大きく肌蹴て風を入れながら、それがあまりに急な事だったので、なかなか船宿の手配が取れなくて本当に大変だったと、憤懣遣るかたない口調で、座敷にいる三人に訴えました。
「川下り?」
ですが近藤先生は訳が分らぬと云う風に、永倉さんとその後ろの島田さんを交互に見比べます。
「何でも明日外に漏らせない、大事な打ち合わせがあるんだとよ」
「打ち合わせ?」
「だから人目も誤魔化せるし、静かで誰にも邪魔させずに話が出来て丁度いい、嵯峨野の川下りの納涼舟を用意して来いと、土方さんが云ったのさ。しかも副長命令だと、言い切りやがった」
そうだよな、と後ろを振り返り同意を求めると、此方はきちんと正座をしている島田さんが、それに違いありませんとばかりに律儀に頷きます。
「・・嵯峨野」
ところが今話題にしていたばかりの地の名を、思わぬ処で聞いた近藤先生の口から、不審そうな呟きが漏れました。
その途端、俯いたまま縮こまっている総ちゃんの薄っぺらな身が、びくりと大きく震えましたのを、黙って見逃す八郎さんではありません。
「どうしたんだえ?」
案ずる振りをして、いつの間にか己の腕の中に身を浚っている手の早さ巧みさは、片恋の鬱憤を他所で晴らしてきた歳月を伊達に積んでは来ていない、見事な抱擁でした。
と同時に、総ちゃんに関しては、尋常で無い勘の働く八郎さんです。
今まで交わされていた会話の中身と、総ちゃんの様子から、どうやら土方さんが嵯峨野で何かを企てているらしいと――
そしてそれは自分にとって何が何でも、例え蹴る馬がいればそれを馬刺しにしても、さくら鍋にしても邪魔してやらねばならない人の恋路だと、瞬時に察したのでした。
総ちゃんは総ちゃんで、土方さんとの秘密が露見し、掴みかけたシアワセが、うたかたの夢と消えてしまう恐ろしさに、今はもう八郎さんの腕の中に囚われの状況すら意識の外で、身を石よりも硬くして顔を上げられません。
「この暑さの所為で、納涼舟を繰り出してお大尽遊びしようって暢気な奴等で、空いている舟なんざひとつも無いのを、無理やり一艘貸し切ったんだ。手間暇掛けさせられたぜ」
そんな八郎さんと総ちゃんの事情など知る由も無く、自分の苦労が如何に大変だったかを身振り手振りで語りながら、なぁ、と再び後ろを振り向いた永倉さんに、島田さんはまだ汗の引かない額を手拭で拭いながら、仰るとおりですと目だけで伝え、遠慮がちに頷きました。
「その舟遊びと云うのは、嵯峨野のどの辺りでやるんだえ?」
扇子の風を総ちゃんに送る手を止めずに問う八郎さんの調子は、あくまでさり気無さを装いながらも、先を聞き出すに如才ありません。
「詳しい事は云っていなかったが、何でも白木屋がどうのこうのと。・・・あっ・・」
「何だ?」
それまでの滑りの良さはどこへやら、突然気まずそうに言い淀んだ永倉さんを、近藤先生の怪訝な声が促します。
それでも永倉さんは暫し口をへの字に曲げて宙を睨んでいましたが、その先の言葉を待つ、周囲の無言に負けたかのように首を振ると、ひとつ大きな息をつきました。
「・・誰にも云うなと、言われていたっけ」
あたかも難しそうに眉根を寄せて呟いた永倉さんでしたが、それも一瞬の事で、すぐに気を取り直し、いつもと変わらぬ笑い顔に戻ると、皆を見回しました。
「そう云う訳だから、忘れてくれ」
「いいよ」
後悔の欠片も、贖罪の微塵も無く、すっぱりと言い切った永倉さんに、これまた呆気ない程気軽ないらえを返したのは、八郎さんでした。
そしてその二人の後ろで、このあまりに簡単な展開に、律儀な気質が邪魔をして目を白黒させていた島田さんでしたが、先日山崎さんに、『訳の分からない事に遭遇したら、とりあえず長いものにまかれろ』と、新撰組を生き抜く智慧とも云える教訓を伝授された事をふと思い出し、遅れを取らぬよう、大急ぎで幾度も首を縦に振りました。
そして総ちゃんも又、それに習うかのように、慌ててこくこくと頷きます。
――そんな訳で。
「それじゃ、この話は端から無かったと云う事でいいな。それじゃ、何処からやり直せばいい?」
恐ろしい程あっさりと過去を斬り捨てた永倉さんが、顔だけを後ろに回して島田さんに尋ねます。
「確か・・永倉さんが、副長を探してられて、『ここにも居ない』と云われたのが始まりです」
島田さんは確かな記憶を辿るようにして、ひと言とひと言重々しく告げます。
「そうそう、そうだったな。けど又其処から始めちまうと、おんなじ筋書きになっちまうだろう?」
「それなら、いっそもっと前から遡ったらどうだえ」
土方さんの目論見を知り、今はそれを如何に邪魔するか、其方に思考の全てを回している八郎さんが、もう此方の話はどうでも良いと云う顔を露骨にして嘯きました。
「どの辺りまで遡ればいいんだ?」
あまり遠くまで行くのも面倒だしな・・と、永倉さんが眉根を寄せた、その時――
「・・あの」
聞こえて来たのは、意外にも、総ちゃんの消え入るようなか細い声でした。
「何だえ?」
そう口を挟んだものの、又俯いてしまった総ちゃんを、此処でもすかさず八郎さんが覗きこみます。
「云ってごらん」
近藤先生も、その普通で無い様子に、案じ顔で促します。
「・・あの・・、近藤先生が、白木屋さんの招待状も貰わなかった事にしちゃ、駄目なのかな?」
恐る恐る、まるでそれを云うが為に、身の内の、ありとあらゆる勇気を振絞って漸く言葉にしたような、総ちゃんの切羽詰った声でした。
そうなのです。
もしも・・
もしも近藤先生が全てを忘れて、白木屋さんの招待状も『無かったこと』にしてくれるのならば、総ちゃんのシアワセは、誰にも邪魔される事無く、晴れて現のものとなるのです。
もう直ぐ目の前に、シアワセが『お出でお出で』をしながら足踏みしているのです。
差し伸べられているシアワセの手が、『ほな今回はご縁が無かった云う事で』と、敢え無く引っ込められてしまうような、世にも恐ろしい錯覚に震える総ちゃんの瞳にあるのは、ただただ縋りつくように必死な色です。
そんな瞳を向けられれば、近藤先生とて、訳が分からないながらも、招待状の行方の詮議など取るに足らないちっぽけな事と、腹を括ってしまう気分にもなろうと云うもの。
掌中の珠と、幼い頃から慈しみ育ててきた愛弟子の、是ほど必死の訴えひとつも受け入れられぬ懐の浅さで、どうして人の上に立つ事ができましょう。
いえいえ、そのくらいの神経の簡単さ、大雑把さが無ければ、一癖も二癖もある烏合の衆を束ねて行く事など出来はしません。
そして自分を凝視している総ちゃんの瞳を覆う露が、もうこれ以上膨らみようが無くなり、蒼白な頬に一滴(しずく)零れ落ちるものを見た刹那、近藤先生の裡には、確たる信念が出来上がったのです。
「なに、あった事を無い事にして、ひとつふたつ真実を捻じ曲げる事など大した事じゃない。白木屋からの招待状は、端から無かった事にすれば良いのだな?」
近藤先生は感極まったように、やおら総ちゃんの肩を鷲掴み、そうして己の目の奥を熱くするものを二度三度目を瞬いて堪えると、案ずるなとばかりに大きく頷きました。
ですが――
「けど、どうして白木屋の招待状からなんだ?」
全く悪気の無い問いかけは、時に残酷に相手を打ちのめします。
笑みを浮かべたまま問う永倉さんの視線に、安堵の時を与えられたのも束の間、総ちゃんの心の臓は、又もはくはくと大きく波打ち始めました。
――ところが。
「哀れな、胸の裡だわなぁ・・」
唇の色まで失くし、冷たい汗を浮かべて、口をぱくぱくさせている総ちゃんに代わり、あたかも切なげに呟いたのは八郎さんでした。
そして八郎さんは、一度左右にこうべを振ると、まるで己の辛い胸の裡を吐露するかのように、深い溜息をつきました。
「なんでだ?」
その様子に、自分から問いかけたくせに、取り合えず思った事を口にしてしまえばそれで満足してしまう、腹に一物置かない主義の永倉さんも、どうでも良さげに尋ねます。
「近藤さんは、土方さんが白木屋の招待状を隠していると疑っている。だがそうと知れば、親とも代わらぬ近藤さんと、兄とも慕う土方さんの二人が諍うのでは無いのかと、そりゃ総司の立場なら、胸のひとつふたつ痛めるだろうさ。だから招待状など無かった事にすれば、それで全てが丸く収まると、総司は思ったのさ」
さり気無く『兄』と『慕う』と云う言葉を強調しながら、そうだろう、と俯いている主に語り掛ける八郎さんの口調には、寸分の淀みも躊躇いもありません。
『招待状が無かった事』に、今は自分の運の全てを賭けている総ちゃんです。
八郎さんの言葉に必死に頷く横顔は、既に蒼白です。
「いじらしいじゃねぇか」
そんな姿に、永倉さんの口からも、ぽつりと湿った呟きが漏れ、更にその後ろでは、熱くなった目頭をそっと無骨な指で拭う島田さんの姿がありました。
ですが総ちゃんには、周りの状況など伺う余裕などこれっぽっちも無く、俯いたまま、まるで閻魔様の沙汰を待つ咎人のように震えを止められません。
ところが総ちゃんのその身が不意に浮いたと思った途端、今度は恐ろしい勢いで何かに覆い被さられ、息すら出来ぬ程に身体全部が強い力で締め付けられ、一体何が起ったのか驚きのあまり瞳を見開いたその時、近藤先生の、獣のような低い唸り声が、畳を這い壁を伝い、やがて室全体を揺るがすように轟き渡りました。
「総司っ、堪忍しておくれ。お前がそんなに胸を痛めているとは知らず、可哀想な事を聞かせてしまった・・そうだ、白木屋の招待状など、端から無かったのだ、無かったのだよ。だからわしは、歳の事などこれっぽっちも疑ってはいないのだよ」
しかと抱きしめた愛弟子に、漢(おとこ)泣きに告げる近藤先生は、厳つい顔の小さな目からも、立派な鼻からも、滝のようにあふれ出るものを止めらません。
くしゃくしゃのまま笑うご面相は、もう怖いのか恐ろしいのかそれすら判じるのが難しい程に元の造りを留めず、総ちゃんを混濁に陥れ、深い色の瞳は驚愕に見開かれたまま、保身と云う本能だけが、端坐したまま膝だけで後ずさりを始めました。
「もう何も案ずる事は無いぞ、わしは白木屋の招待状など、かつて一度だって貰ったことなど無いのだ」
けれどそんな相手の怯えには全く気付かず、近藤先生は更に総ちゃんの肩を揺すり、延々と語り続けるのでした。
「じゃ、そう云う事で、皆今までの話は忘れて、俺が来た処からもう一回始めてくれ」
その師弟の姿を傍らで静観していた永倉さんでしたが、やがてその熱い抱擁も一段落するのを見届けると、すっきりした顔で辺りを見まわし告げました。
と、その時です。
「総司いるか?」
声と同時に庭から現れたのは、これまた額に汗を滴らせた藤堂さんでした。
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