総ちゃんのシアワセ 恋の道でシアワセ♪なの (はじまり) まるで今年の幸先を約束するかのような、麗らかな初春の陽が、白い障子を透かせて室に満ちる、お正月元旦の昼下がり。 ここは新撰組屯所の中でも、一等奥まった処にある、総ちゃんのお部屋です。 床の間には、誰の配慮か、てんこ盛りに活けられた松竹梅の間に、千両万両の紅い実が、これも又奥ゆかしさの欠片も無く、それらを押し退けるようにして顔を覗かせ、豪快に新年を祝っています。 ですが・・・ その押し付けがましい目出度さとは裏腹に、室の隅には、膝を抱えてちんまりと座り込んでいる影がひとつ。 お正月の最初の日だと云うのに、そうした格好のまま、総ちゃんはもう幾度遣る瀬無い溜息を漏らした事でしょう。 そうなのです。 総ちゃんにとってお正月とは、かくも寂しく辛いものなのです。 と云うのも。 総ちゃんの大切な土方さんは、新撰組副長と云う、実質上組織を束ねて動かさねばならない立場。 そんな訳で、お正月ともなれば、表看板である局長の近藤先生と二人、朝から晩までお年頭の挨拶回りに忙殺され、総ちゃんとは顔を会わせる暇(いとま)も無い始末。 昨日の大晦日の夜も、二人で同じお蒲団にくるまり、土方さんの腕の中で、何処か気の抜けた西本願寺の除夜の鐘を、うっとりと聞いていたまでは覚えているのですが・・・ 明け方目覚めた時には、もう傍らに土方さんは居らず、夜具に残る温もりも無く、今日が元日だったのだと、幸せな夢路からイキナリ現に戻された総ちゃんは、これから先、松の取れるまでの孤独を思い、愕然と、深い色の瞳を潤ませたのでした。 とまぁ、そんなこんなで、他所様にはお目出度いお正月も、総ちゃんにとっては、ただただ寂しい行事に過ぎません。 それを紛らわせる為に、近藤先生におねだりし、会津陣営のある金戒光明寺から貰い受けた、目つきの悪い錦鯉に餌をやったり、一度見たら二度目は是が非でも遠慮願いたいご面相の、蛸の入っている蛸壺を覗いみたり、ふてぶてしい態度が新撰組に良く似合っていると、伊東さんに思うざま皮肉を云われた、猫の土方さんの毛繕いを手伝わせて貰ったりと・・・ 総ちゃんなりに、寂しさに負けまいと、いじらしい自己啓発の時を過ごしてはいたのですが、流石にそれ等にも限界があります。 増してこれ等の愛玩魚や動物は、土方さんを髣髴させ、慰めになるどころか、総ちゃんにとっては、寂しさ切なさを膨らませるだけの代物だったのです。 今日も土方さんの帰りは、深夜になるのでしょうか。 それを思った途端唇から零れ落ちたのは、魂すら抜け出てしまいそうな深い溜息で、そのまま総ちゃんは、抱えた膝の上に顔を伏せてしまいました。 けれどまぁ、世の中は、丁か半かの二者択一。 総ちゃんにとっては寂しく辛いだけの時も、それを僥倖とほくそ笑む人間がいるのも又、譲れぬ世間のお約束。 「総司は、いるかえ」 影が映るや否や、すらりと障子を滑らせ姿を見せたのは、お正月早々恋敵の多忙を横目で見て機嫌の良い、八郎さんでした。 その声に、慌てて顔を上げた総ちゃんでしたが、堰き止められていた陽が一気に室に入り込んだ眩しさに、思わず瞳を細めてしまいました。 ですがそんな様子など、全く頓着無く・・・ 「入りなよ」 八郎さんは後ろを振り返ると、まるで自分の居室のような鷹揚な調子で、其処にいるらしい人間に声を掛けました。 「遠慮するこたぁないぜ」 誰かお客さんなのかと、不思議そうに目を瞬く総ちゃんを置いといて、更に八郎さんは、躊躇っているらしい相手を促します。 「あんた、総司に会いに来たんだろう?」 「・・ほな」 三度目の催促に漸くだみ声が聞こえ、それと同時に、八郎さんの後ろから現われた、立派な髭に縁取られた厳つい顔が、ちらりと総ちゃんを覗き見し、けれどすぐさま気恥ずかしそうに、もじもじと俯いてしまいました。 ですが眩しさに慣れた深い色の瞳が、その像を映し出した寸座―― 「・・・お天神さま・・」 白梅に、ほんのり紅梅を混じらせたような唇から、思わず小さな呟きが零れ落ちました。 「お天神さまやなんて、相変わらず他人行儀なんやから・・・みっちゃん、て呼んでぇなぁ」 あまりの驚きに、瞳を見開き、瞬きすら止めてしまったような総ちゃんに、みっちゃんこと菅原道真公は、惚れた相手に見(まみ)えた嬉しさに、これ以上下げようが無いと云う程に目尻を下げ、懸想相手のつれなさを、ちょっとだけ恨めしそうに責めました。 「二条城を出た処で丁度出逢ったこの御仁に、西本願寺の新撰組屯所は何処かと聞かれ、それならば行く先は一緒と同道してきたが、お前の客だとは、話しの途中で知ったのさ」 傍に立つ仰々しい束帯姿の男に、八郎さんは面白そうな視線を向けながら、呆然と言葉を失くしている総ちゃんに、奇遇な経緯を教えました。 「おおきに、ほんま助かったわ。何しろあの小憎らしい陰陽師に結界張られてからこっち、中々外に出られんかったよって、久方に都歩く云うたかて、千年も経ったらあんまり変わってしもうていて、何処がどうなんか、ちっとも分からんかったわ」 道真公は、烏帽子の乗った頭をふりふりと振ると、大仰に溜息をつきました。 「そりゃ、難儀なことだったな。で、総司に用ってのは何だえ?」 八郎さんは、まるでそれが最初からの決まり事のように、ごくごく自然な所作で、総ちゃんのすぐ傍らに座り込んで胡座をかくや、相手が過去に名を馳せた著名な歴史人である事には、とんと気に掛ける風も無く、先を促します。 「あ、そやそや。忘れるとこやった。うち、総ちゃんに、うちの作った自信作を披露しに来たんやった」 道真公はぽんと手を打つと、瞳を見張ったまま、未だ驚きから抜け出る事の出来ない総ちゃんの前に、いそいそとにじり寄り、居住まいを正しました。 そのまま仰け反らんばかりに胸を張るや、調子を整える為に、二度三度喉を鳴らし・・・ 「東風ふかばぁ 匂うても匂わんでもぉ 梅は梅ぇ 主なしとてぇ 春は春うぅ」 朗々と、声高らかに、自分だけが悦に入ってやがて謡い終えると、道真公は、暫しその余韻にたゆとうかのように、恍惚とした風情で遠くを見つめていました。 ――ですが。 その陶酔を些かも邪魔せぬ静寂が暫し続いた後、突然、はたと気付いたように、総ちゃんに視線を戻しました。 「・・あの、これ去年の春からこっち、ずっと練っていたんやけどぉ・・どうやろ?」 ぼんやりと自分を映し出している、深い色の瞳を覗き込むようにして問う声は、あまりに反応の無い相手の様に、流石に不安が先走るのか、少しだけ畏まっていました。 と、云うのも。 自ら『学問の神様』と豪語して憚らない天下の菅原道真公が、こんなにも弱気になるのには、それ相当の訳があるのです。 そう、あれは昨春のこと。 紅白の梅が、道真公の寓居である北野天満宮の境内を色鮮やかに彩り、むせ返るような艶で甘い香が、早春の冷気をふわりと包み込んでいた、花も盛りの昼下がり。 道真公は、天満宮の隣にある行き付けの茶店『梅香』の店先に出ていた縁台に、ちんまりと腰掛けていた総ちゃんを、見初めてしまったのでした。 うっとりと梅に見とれている、まるで花に紛れてしまいそうなその横顔を眼(まなこ)に刻んだ瞬間、心の臓がどくりと音を立てて隆起し、そして次には、それが早鐘のように打ち始めた、身を震わせるような恋の昂ぶりを、道真公は、今もって鮮明に思い起こす事が出来るのです。 そう、恋とは―― 古今東西、今昔関係無く、神様でも人様でも頓着無く、惚れたが最後、他人様は元より、懸想相手の迷惑すら顧みず、ただひたすらに己の本懐成就への道を突っ走る、究極の自己陶酔なのかもしれません。 そしてそれは、世に『お天神さま』と奉られる菅原道真公であっても、決して例外では無かったのです。 けれど現実とは又、至極残酷なものでもありました。 一瞬にして恋に堕ちてしまった道真公でしたが、それと同時に、土方さんと云う、強力な恋敵の存在をも、知らねばならなかったのです。 ですが如何にこの恋の道が棘と知ろうが、一度堕ちてしまえば、もう既に道真公の脳裏に描かれるのは、天満宮にほころぶ今年の梅を、総ちゃんと二人仲むつまじく眺めている図しか有り得ません。 そしてその為にも、総ちゃんの想いを独り占めしている土方さんの句など歯牙にもかけない、総ちゃんの為の、総ちゃん好みの、総ちゃんが感嘆のため息を漏らすような和歌を作ろうと、この一年道真公は、ひたすらそれ一筋に没頭する日々を送って来たのでした。 とまぁ、お天神さまにも、そんな事情があったのですが・・・ 神さまよりも人さまの方が、世知辛い現を生き延びねばならない分、遠慮の無いものなのかもしれません。 「川柳ってのも、二番煎じになると、存外につまらんものだな」 「何やてっ」 胡座をかいた片膝の上に頬杖して、失礼を尤もげに嘯(うそぶ)く八郎さんに、道真公が目を剥き振り向きました。 「あんたの川柳よりも、まだ土方さんのの方が、捻りも考えも無い分、面白味があるぜ」 その道真公の怒りを面倒そうにかわし、更に八郎さんは、傍らの総ちゃんに、なぁ?と相槌を求めます。 「総ちゃん、ほんまっ?」 詰め寄る道真公の迫力に、総ちゃんは、一度仰け反るようにして身を引いてしまいましたが、それでも土方さんの句と比べられれば、其処だけは是が非でも譲る事は出来ず、相手の勢いに怯えながらも、遠慮がちに、けれど確かに、こくこくと頷きました。 そのつれない返事を聞くや道真公は、暫し呆然と視線を宙に彷徨わせていましたが、やがて力抜けたように立ち膝が崩れ、へなへなと、その場に座り込んでしまいました。 「・・うちのは、・・つまらん・・」 そうして漏れた呟きだけが、室に満ちる陽の耀さとは対をなして、虚空に響き渡りました。 何しろこの一年、閉じた瞼の向こうに総ちゃんの姿を思い浮かべては、ある時は胸高鳴らせ、ある時は切ない溜息をつき、この三十一文字(みそひともじ)の為に寝食を忘れ、呻吟の時を過ごして来た、道真公なのです。 それが又も恋敵に敗れたとあっては、流石にお天神さまとて抜け殻同然となるのも、あながち責められたものではありません。 ところが。 現の無遠慮は、こんな時にも容赦なく―― 「総司、いねぇのか?」 そんな他人様の事情など、慮る気遣いも情けも無く、床を鳴らしてやって来、廊下から顔を出したのは永倉さんでした。 「何だ、いるじゃねぇか。・・いたよ」 そのまま後ろの誰かに向かって声を掛けるや、永倉さんは座敷に足を踏み入れました。 そして続いて入ってきたのは、珍しく黒羽二重の羽織を纏った田坂さんでした。 「何処かに、行って来たのかえ?」 腰を下ろしかけた田坂さんに、その姿を揶揄するように声を掛けのは、八郎さんでした。 「新年の挨拶まわり。沖田君、おめでとう」 それに素気無く応えながら、田坂さんの目は総ちゃんだけに留められ、そうして緩めた口元から、漸くお正月らしい一言が発せられました。 「あっ・・」 けれどその田坂さんの挨拶に、総ちゃんはようやっと、自分が此処に居る誰にも新年の挨拶をしていなかった事に気付き、深い色の瞳が愕然と見開かれました。 そうです。 曲がりなりにもお天神さまを目の前にして、ご挨拶を忘れたなどと聞いたら、常に礼節を重んじる近藤先生は、弟子に施した自分の躾の至らなさを、きっと嘆く事でしょう。 新年早々、父とも仰ぐ近藤先生に、そんな哀しい思いをさせるなど、到底出来る事ではありません。 まだ虚ろな表情で、ぼんやりと自分を見ている道真公に向かい、総ちゃんは慌てて畳の縁の前に両手をつくと、深く頭を下げました。 「・・・お天神さま、あの・・・明けまして、おめでとうございます」 「はい、おめでとうさん。けど千回の余も正月を繰り返して来たら、目出度さかて有り難さかて、好い加減薄れるわ」 どきどきしながら年頭の挨拶を述べる小さな声に、始め道真公は、他所に顔を向けたまま、片手をひらひらさせ、おざなりに言葉を返していました。 「あの・・、今年も、どうぞ宜しくお願いします・・」 「はいはい、今年かて来年かて、適当に宜しゅうしてや・・・へっ?」 けれどそれが総ちゃんのものである事に、はたと気づくや、つい直前までの呆けたような体(てい)が嘘のような素早さで、振り返りました。 「いや、総ちゃん、えらいおめでとうさんっ。ああもう、総ちゃんとやったら、今年だけじゃのうて、来年も再来年も、ずっと宜しゅうしてたいわ。ほんま、正月云うんは、何遍やっても目出度くてええなぁ」 その豹変とも思える態度に驚き、顔を上げた総ちゃんに向かい、道真公は、今にも抱きしめんばかりにして身を乗り出すや、それはそれは嬉しそうに、顔中の筋肉を緩めました。 「これやから、一度神さんやったら止められんのや」 勢いに気圧された総ちゃんの困惑など構う風も無く、道真公は目尻も顎鬚も口髭も、とりあえず下げられるものは全て下げ、神仏に畏怖の念を抱かざるを得ない、人の哀しい性(さが)を逆手に取り、至極満足そうに頷きました。 その道真公を、胡乱に見ながら―― 「誰?」 見なれぬ顔の正体を、横の八郎さんに問うたのは、田坂さんでした。 「菅原道真公だってよ。総司に用事だってんで連れてきた」 「へぇ」 返した八郎さんのいらえも、とんと気の無いものでしたが、それを受けた田坂さんの調子も又、相手の氏素性を明かされても然して驚く風もなく、呆気ない程淡々としたものでした。 「けどよ・・」 その二人の会話に、割り込むようにして口を挟んだのは、射し込む陽より陽気な、永倉さんの声でした。 「正月に神さん連れて来るなんざ、あんたも気が利くじゃねぇか」 「だろ?」 敷居際で胡坐をかき、しげしげと『お天神さま』を見ながらの褒め言葉に、八郎さんも満足げに頷きました。 「だが正月なら、学問の神様より七福神の方が良かったんじゃないのか?」 「贅沢云ってたら、きりが無いだろうさ」 如何にも医者らしい、田坂さんの現実志向の意見に、腰から抜いた扇子を、開いては閉じ、閉じては開きながら、ぱちりぱちりと小気味の良い音を立て応える八郎さんの物言いは、あたかもお正月らしい鷹揚なものでした。 ですが・・・ 其処は、世にお天神さまと祭られる道真公とて、元は人の子。 「さっきから聞いておれば、ほんま失礼な奴等やなっ」 遠慮の欠片も無い世俗の人の寸評には、流石に堪忍袋も膨らみすぎたようで・・・ 振りかえった道真公の髭も眉も、怒涛天を衝く勢いで、跳ね上がっていました。 「うちは天下の菅原道真、お天神さまやでっ。七福神が何やねんっ、目出度い神さんが七人束になって掛かってきたかて、ちっとも負けんへんわっ」 怒鳴り散らさんばかりの文句でしたが、噂をしていた三人は、些かも動じる風はありません。 それどころか・・・ 「けど正月なら、やっぱり景気のいい神さんの方が、喜ばれるだろう?さっき通りかかった稲荷神社じゃ、大層な客で溢れ返っていたぜ。そこ行くと学問の神さんてぇのは、正月にゃ、少し地味すぎやしねぇか?」 「学問の神さんで、悪うおしたなっ、今日び、何処の賽銭箱かて景気悪いわっ」 更にその怒りを煽るような、全く悪気の無い永倉さんの一言に、束帯姿のお天神さまは、遂にぷいと横を向いてしまいました。 又々ところが――。 そんな取り込みの最中にも、招く客も招かざる客も、遠慮なくやって来るのがお正月。 「沖田はん、いはります?」 少しばかり浮かれた声が、中庭から掛かりました。 「あっ・・」 「ああ、いはった。おめでとうさん」 玄海僧正さまだと、総ちゃんの唇が動こうとしたそれより先に、今度は緋色の袈裟を身に纏い、満面に笑みを浮かべた坊主頭が現われました。 「あんなぁ、沖田はんに食べて貰いとうて、うちとこの正念に夜なべさして、汁粉作らせましたのや」 いそいそと、総ちゃんに話しかけながら、沓脱ぎ石の上に草履を脱ぐや縁から上がり込み、座敷を突き進む玄海さんの足が、けれど不意に止まりました。 「沖田はん、これなに?」 そうして自分の行く手を邪魔する存在に漸く気付いたかのように、道真公を指差しました。 「あんたの、商売敵だとよ」 「商売仇?」 永倉さんの端的すぎる説明に、見上げる道真公と、見下ろす玄海さんが、一瞬胡散臭そうに、互いの視線を絡ませました。 「北野天満宮の、菅原道真公だとさ」 更に八郎さんが、面白そうに永倉さんの言葉を補います。 「菅公?ほな、お天神さんやんか」 かの菅原道真公と名を告げられるや、みっちゃんこと道真公は、それが習い性なのか、仰け反らんばかりにして胸を張りました。 ところが。 「お天神さんでも、七福さんでも、何でもええけど、ちょっと其処どいてや」 玄海さんは、名を聞いても驚くでも、畏怖するでも無く、道真公を除けるようにして進み出でると、総ちゃんの前に端座しました。 「今日の汁粉は、初物やて、いつも以上に念を入れましたのや。小豆かて蝦夷から取り寄せて、そんでそれを形を崩さんようにふっくら炊くのに、一晩中、そりゃもう気ぃを使いましたわぁ」 もう道真公の存在など、すっかり記憶から押しのけて、玄海さんは、それはそれは嬉しそうに、総ちゃんに語り始めました。 「そう云や今年の除夜の鐘は、えらい気が抜けてたな」 汁粉作りに精出していたのがその原因だったのかと、永倉さんは、昨年から腑に落ちずにいた気掛かりに、今年早々合点が行った事に、安堵したように呟きました。 「除夜の鐘やったら、他所さんとこが、煩い程気張ってますやろ。うちとこが気ぃ抜いたかて、煩悩のひとつふたつ、どこぞの鐘が消してくれますわ。それよりなぁ、沖田はん・・・」 その永倉さんに、ちらりと面倒そうな視線を送り、何とも都合の良い言い訳をするや、そんな事よりもこっちが大事と、直ぐに総ちゃんに視線を戻して、玄海さんは続けます。 「前に汁粉は、漉し餡の方が好きやって云うてましたやろ?せやから小豆は、うちが自分で、ひと豆ひと豆、心を込めて潰しましたのや」 除夜の鐘のくだりは、まるで何でもない事のように云ってのけた玄海さんでしたが、今度はそれとは打って変わり、上目遣いで総ちゃんを見ながら、少しだけ恥ずかしそうに、けれどとても恩着せかましく、もじもじと付け足しました。 「せやからもう早ように食べて欲しくて、門徒宗への説法も、いつもよりずっと短こうして来ましたのや。そんで・・」 更に玄海さんが、如何にその汁粉が貴重なものかを、得々と説こうとしたその時―― 「ちょっと待ちぃやっ、お前こそ誰やねんっ、総ちゃんに馴れ馴れしいやっちゃな」 玄海さんと総ちゃんとの間に割り込むようにして、身を乗り入れたのは道真公でした。 「うちは、この西本願寺の僧正です。あんたこそ、総ちゃんやなんて、えらいずうずうしいわっ」 それが本当に忌々しそうに、玄海さんは思い切り眉根を寄せました。 「総ちゃん云うて、何が悪いねんっ。坊主の分際で神さんに盾突くとは、ええ度胸してるわっ」 「神さん怖うて、仏の弟子なんぞやってられますかいなっ」 「坊主はおとなしゅう、百八つ鐘ついてればええんやっ」 「鐘ついて煩悩消えるんやったら、坊主の商売上がったりやですぅ」 神さまと、仏さま――。 有り難味が、はらはらと剥がれ行くような俗っぽい言い合いに、永倉さんは、今朝小常さんと二人初詣に出かけた折に賽銭箱に入れた一分金を、一朱金にすれば良かったと、ふと損した気分になりましたが、年明け早々ケチは云うまいと、ひとり奥歯を噛み締めました。 そのまま何とはなしに視線を移すせば、瞳を大きく見開いたまま、硬直してしまっている総ちゃんを他所に、八郎さんも田坂さんも、目の前の悶着を面白そうに眺めています。 そうなのです。 確かにこの二人にとって、道真公と玄海僧正さんは、総ちゃんに懸想していると云う意味では、恋敵に違いはありません。 けれど人と云うものは、最早どう転んだ処で自分の敵では無いと値踏みすれば、相手に対して尊大且つ、寛容になれるものなのです。 今の八郎さんと、田坂さんがその良い例でした。 「だいたい、何であんたがここにおるねんっ。お天神さんなら、大人しゅう天満宮に鎮座して、初詣に来る人間の願い事聞いてやるんが、神さんの勤めやろ」 「大きなお世話やっ、そうそう簡単に願い事が叶ったら、神さんはいらんわっ。あんたこそ、門徒衆の煩悩のひとつでも消したるのが、仏の弟子の勤めやろっ」 「お生憎さまですぅっ、煩悩云うんは、悩んで悟りを開く為のもんですわ。うちらが簡単に消してやってしもうたら、仏さまの有り難味かて、よう分からしまへんっ」 神さま相手に、両の手を水平に上げ、そうしてふりふりと頭を振り、然も尤もそうにうそぶく玄海さんを見ながら、もしかしたら世の中で一番ずうずうしいのは、仏の教えすら都合よく解釈してしまう、人と云うものなのかもしれないと・・・ ふと永倉さんは、らしくも無く、世智辛い世の中に暮らす『人』としての、無常を感じてしまいました。 ――と、その時。 「出来たぞ」 気配も感じさせず障子に影が映り、声と共に、ふらりと姿を現したのは一さんでした。 「あっ」 と同時に、神さまと仏の弟子の熾烈な舌戦に巻き込まれ、言葉も無く固まっていた総ちゃんの唇から、漸く現に戻れたような小さな声が漏れました。 ですが・・・ その声音の中に、何処か嬉しそうな響きがあるのを、そう云う事だけはいち早く察した道真公と玄海さんが、眉間に皺を寄せた顔を、素早く、新参者の一さんに向けました。 「誰?」 けれど二人の険しい視線には全く動ずる風も無く、道真公に向け顎をしゃくり、一さんは総ちゃんに問います。 「あのね、お天神さまなのです」 「ああ・・」 総ちゃんの紹介に、一さんは、大して興も無さそうな一言で頷き、大仰な束帯姿で座している道真公には、ちらりと視線を投げただけで歩みを止めず、総ちゃんの傍らまで来ると、其処に腰を下ろしました。 「ほら」 そうして手にしていた刀を、深い色の瞳の前まで持ち上げて差し出しました。 その一さんに、心底嬉しそうな笑い顔を向けると、総ちゃんはそれを両の手で大事そうに受け取り、直ぐに鍔へと視線を落としました。 そして―― 「うわぁ・・」 次の瞬間、溜息のような感嘆の呟きが、流麗な線を描く唇から、うっとりと零れ落ちたのでした。 |