翠霞立つ (下)
「そんなにして頂く訳にはゆかないのです」
出入りする客の邪魔にならないよう、土間の片隅に佇み、恐縮して主に告げている若者には頓着なく、田坂はすでに店の者が用意した盥の中で汚れた足をすすぎ、上がり框を踏んでいた。
「其処で問答している方が余程迷惑らしいぞ」
飛んできた声に弾かれたように上げた瞳が、そうと言われても、どうして良いのか分からぬ風に戸惑っていた。
此の店の主人小川屋左衛門は、身に着けたものを強(したた)か濡らしている得意客とその連れを見て、一度は目を丸くしたが、着る物を調達するからそれまで奥で休んでいて欲しいと申し出てくれた。
親切を通り越して見せる気配りの様子から、どうやら一緒にいる医者と云う男は、ここでは客としてではなく、身内のように扱われているらしい。
朧げながらそう感じ取っても、若者にはまだ遠慮の方が先に走る。
「駕篭屋には使いを走らせましたが、今の頃合はえろう混み合いますのや。少し奥で休んでいておくれやす」
駕篭を呼んで貰えればすぐに辞すからと、頑なに押し通す相手に小川屋も譲らない。
「けれど・・」
「その袴、脱いでしまえよ。そうすればいいだろう?」
若者の躊躇いは、川の水に濡れた身が屋敷の中を汚す事にあるようで、それに気づいた田坂が、小川屋の往生に助け舟を出すような形で口を挟んだ。
乱暴な提言に、呆気にとられて向けた瞳が、笑いを隠せない田坂の顔を捉えた途端、からかわれたのだと知り、すぐに勝ち気な色に変わった。
だが抗いの言葉を返そうとしたその寸座、不意に店先がざわめき立った。
店の中の幾人かの目が外に流れ、それにつられて視線を遣ると、暖簾の向こうに大八車の輪が見える。
どうやら仕入れていた商売用の品が届いたらしい。
「荷がついたらしいですわ」
穏やかだった小川屋の目が、俄かに商人(あきんど)らしい物定めをするものに変わった。
「田坂せんせいに頼まれてましたもんも入っている筈ですわ」
「それは有り難いな。思ったよりも早かった」
小川屋との会話に終始していた田坂は、その名を聞いた若者の面に、一瞬走った驚きの表情を知らない。
「いつまでも突っ立っていると、今度こそ店の邪魔になるぞ」
再び注意を戻して促すと、流石に本人もそう思ったらしく、まだ歩は逡巡しているようにゆっくりとだったが、言われるままに上がり框の前までやって来た。
「すみません。少しの間ご迷惑をかけます」
きっちりと頭を下げて詫びを言う姿は、何処か少年めいていて小川屋には可笑しい。
「そないな事、ちっともかましまへん。何も気にせんといておくれやす」
和やかな笑みを肉付きの良い頬に浮かべて、小川屋左衛門は幾度も頷いた。
店の者の後について奥の客間の前まで来ると、叉も若者は敷居を跨ぐに躊躇する風に廊下で立ち止まり畳を踏もうとはしない。
「なんだ、まだ遠慮をしているのか?」
先に室に入っていた田坂が振り向いた。
「・・・待たせてもらうなら、ここで十分だから」
幾多の長い年月を刻んできた頑健な建物に相応しく、渡ってきた廊下は巾が広い。
例え腰を下ろしていても、通る者の邪魔にはならないだろう。
「それではうちが旦那さまに叱られます」
慌てたのは、案内してきた店の手代だった。
それでも若者はまだ困惑の中から抜け出せずにいるのか、足を動かそうとはしない。
いくら水気が切れているとは言え、このままの姿で端座したら、確かに畳には染みがついてしまうだろう。
それを懸念している様子だった。
「ならば其処の・・」
それらを一瞬に察して、田坂が庭に視線を投げかけた。
「其処の縁に腰掛けいればいい。箱庭の夕景というのも、なかなかに風情があるものだろう?」
言いながら、驚いたように目を見張る若者の横を通り過ぎ、言葉の終わる頃には田坂自身が張り出た縁に腰を下ろしていた。
「これならば遠慮はいるまい」
振り向いて笑いかけると、それまで硬かった面輪に正直に安堵の色が浮かんだ。
「隣に、失礼しても良いですか?」
律儀な断りに田坂が頷くのを確かめて、若者は隙の無い流れるような所作で横に腰掛けた。
そうして共に並んで座り、暫し無言で濡れた袴の裾を吹く風に遊ばせていたが、不意に若者が横の主を仰ぎ見た。
「田坂先生と言われるのですか?」
向けた瞳に悪戯そうな色があった。
「先生はいらない」
「けれどさっきのご主人がそう言っていた」
笑った顔には、先程よりもずっと打ち解けたものがある。
「君の名を。・・いや、聞かなくてもいいか」
名を問うのを止めたのは、兄と違(たが)うそれを、あまりに酷似した唇から告げられるのを厭う、己の心の感傷だったのかもしれない。
そんな独り合点を苦笑した田坂に、その心裡までは分かりはしないのだろうが、若者も微かに笑みを浮かべた。
それは聞かれれば応える風でもあり、拒む風でもあり・・・そのどちらともとれるものだった。
「昨夜の雨で、ぼんやりしていた葉の色が漸くはっきりした」
西の陽を受けて煌く青葉に心奪われているのか、敢えて話の流れを外した様に呟いた若者の声には、心持陶酔の響きがあった。
両の手の平を縁の端につけ、それで前に乗り出すように傾ぐ身体を支えて庭に目をやっている仕草が、隠し切れない稚気を現しているようで、田坂は唇の端だけに笑みを浮かべた。
「・・・さっき、川を見ていたと言ったよな」
黙って頷く顔には、何の警戒も無い。
「汚れた川を見るのは、川の矜持を傷つけると言われた」
諭された事を不愉快と咎める風ではなかった。
むしろ何処か楽しげに、その時の事を思い出している様子だった。
「あれは詭弁さ」
「きべん・・?」
事もなげに言い切った横顔を見上げた声が、怪訝にくぐもった。
「あんな汚い水を飽きもせず見ている、ずいぶんと酔狂な奴がいる。そう思ったら声を掛けていた」
無礼な言動に、一体どんな応えが戻るのか。
怒り出すのか、愛想を尽かせるのか・・・
相手の出方を楽しむ様な田坂の思惑を、だが若者は見事に裏切った。
「本当は・・・」
言いかけたのは、真実を語ろうしているものらしかった。
その伏線なのだろうか、声の調子が一段落ちた。
思いがけない反応に、驚く胸の裡を隠して、田坂は横を向けたままの顔で次の言葉を待つ
「川を渡って行かなければならない処があったのです。・・・けれど橋から下に流れる川を見ていたら、何だかもっと近くに行きたくなって・・・」
「あの汚れた水を見にか?」
呆れたような声音も、黄昏が近い柔らかな色合いが辺りを包む中では勢いが無い。
言葉では応えず黙って頷いた横顔が寂しげに思えるのは、そんな景色のせいもあるのかもしれない。
「黒くて、渦を捲いていているのに・・・二、三日もすればすぐにまた綺麗に澄んで淀む事も無くなる。・・・何だかとても不思議な気がした」
ぽつりぽつり紡がれるそれは、到底会話という形を為すものではなく、むしろ自分のとった奇異な行動を言い訳している様にも受け取れる。
濁流に重ね合わせるような、そんな暗く鬱積したものが、何かこの若者の心にあるのだろうか。
その思いが、田坂を落ち着かなくさせる。
「不思議な事でも何でもないさ」
「そうかな?」
少しの間もおかず、今度は瞬時に返ってきた応えのする方に視線を向けると、其処に黒曜石の深い色に似た瞳があった。
「何故そんなことを言う?」
だが更に踏み込む問いかけに、若者は再び庭に目を移して応えない。
ちらりと見せた、一番奥底に仕舞われている真実は、沈黙の中にひっそりと閉じ込められたようだった。
「例えば自分の中に目を背けてしまいたい様な、どろどろと禍禍しく渦巻く感情が湧き起こっても、さっきの川のように、二日もすればそんな姿を見せていたことなど誰も信じぬ位、いつの間にか穏やかに澄んでいれば良いとでも思ったのか?」
幾分強引な持って行きようだとは承知していたが、田坂は思うところを直截にぶつけた。
きっとそれは若者が胸に秘めるものを突いている。
それは確信だったが、向けられたままの硬質な横顔からはその真意までは読み取る事ができない。
「そんな事は思わない・・でも・・」
「でも?」
会話がつながれば、その糸を切らせまいと、先を促すに必死の自分に田坂は呆れた。
「・・もしもそんな風に、人の心にあるものが簡単だったらどうなのだろう?」
「簡単とは?・・・憂い事も不安も、そういう忘れ去ってしまいたい、嫌だと思うものが、自分の裁量ですぐさまどうにでもできるということか?」
顔を向けて頷く瞳が、こんな埒もない話に応えを求めるにしては真剣すぎた。
「困った事を聞いてくれるな」
一瞬笑った田坂の表情が、逆に射す光の中で見えにくかったのか、若者の目が眩しげに細められた。
「・・・困ったこと?」
呟き、返した語尾が小さく消えた。
「困ったことさ。・・・俺も、今の処そう云う意味では、自分自身をどうにもできない人間だ。過去を思い起こせばその苦しさ重さに負ける」
応えの意味するところがあまりに漠然としすぎたのだろう。
若者はどう受け止めて良いのか判じかねているように、田坂を見つめる瞳を逸らさない。
「そんなに難しい事を言っている訳ではないぜ。俺もまだ澄んで流れる水には戻れてはいないと言う事さ。・・・弱い人間なのだろうな」
「そんな風には見えない」
「そういう振りをしているだけさ」
応えながら、何故自分はこんな事を、名すら知らない若者に語っているのか・・・
その不可思議を、田坂は突き止めようとは思わなかった。
だがもしも問われたならば、自分自身にも理解できかねる、突き動かされるままに心の気紛れ為したものと応える他、どうにも術はなさそうだった。
更にこんな曖昧を良しとする自分が嫌でもなく、田坂は胸の裡で苦笑した。
「だがそれでも生きている限りは・・・いや、きっとどの世に渡っても、乗り越えられぬ限りは、心に流れる水は澄む事は無いのだろうな」
「・・・どの世に渡っても」
伝える言葉の一部を切り取って繰り返した若者の声は、田坂に向けられたものではなかった。
それが証拠に、視線は名残の陽だけに彩られた庭に移されていた。
「さっきから聞いていると、君の心にあるものが、あの川の水のようだとでも言っているようにも思えるが」
一瞬垣間見た、横に居る者の心をまだ閉じさせたくは無くて、田坂は更に問う言葉を止めない。
「・・川なら。・・・一処には止まらないから、その方がずっといい」
「川でなくとも時を経れば、心に鬱積したものは、否が応でも流れ出さずにはいられなくなるさ。人という者は、これで思いの他しぶとく出来ていて、幸か不幸か忘れるという事ができる」
「・・・いつかそうなると良いけれど」
少し間を置き、考えあぐねている様にしていたが、やがて発せられた声は、それまで静かに流れていたものが、不意に深みに落とされたように沈んだものだった。
言いながら叉遠くへと向けてしまった瞳は、何処かを見ているようでその実何も捉えてはいないのかもしれない。
或いは。
まだ正確な診断を下せずにはいるが、この者の懊悩を形作っているものの一つに、身体に宿しているであろう病があるのならば、その時が来るのを迎える事ができるのかと、思いを巡らせたのだろうか。
だとしたら、今自分が言った事は何とも残酷な仕打になる。
いっそ翳りの欠片も見せない横顔が、田坂には辛い。
いっとき、茜色の情景に沿うように、言無き静けさが世界を作ったが、やがてゆっくりと若者が田坂を振り向いた。
「田坂さんは・・・」
言ってしまったあと、そう呼び名して良いのかと戸惑ったのか、ふと言葉が途切れた。
「それでいいよ」
促す声が笑っていた。
つられて、若者の顔にも安堵の笑みが広がった。
「いつか乗り越えられるのですか・・・それ」
「胸の中にどろどろと渦巻くものをか?」
頷いた面輪が、西日を浴びて尚白い。
「無理だな。俺はそれほど物分りの良い人間では無い」
拍子抜けする程あっさりと返って来た応えに、若者は一瞬虚を突かれたように呆けた表情を作ったが、それが堪えきれない笑い声に変わるのはあっと言う間だった。
「可笑しいことでもないだろう」
流石に相手を見ては失礼だと思うのか、身体を折るようにして笑う姿に、うんざりとした声が掛かった。
「すみません」
漸く顔を上げて詫びる声に、まだ笑いが籠もるのを隠し切れない。
「あんまりきっぱりと言うから」
「情け無い奴だと思ったのか?」
「そうじゃない・・・。そうじゃなくって、嬉しかった」
「嬉しい?さて誉められているのか、からかわれているのか・・」
揶揄する物言いに、含むものはない。
「嬉しかったのです。・・自分だけかと思っていたから」
「みんなそうだろう。流れ出したところで、では澄むのかと言えばそうとは限らない。余計に土や砂を運んで汚く濁り淀むかもしれない。そんな事は誰にも、何一つ分からんさ」
言葉の含む処は、どうにも否定的なものだった。
だが語る声音には、湿ったものは何処にも無い。
「だがそんな弱気も、主すら目を背けてしまいたい自分の中の禍禍しい感情も、知らぬと平気の顔をして過ごしていれば、そのうち仕方なしに流れ始め、いずれ忘れてしまえるのではないかと、僅かながらに期待はしているのだがな」
続けられる言葉は、あまりに淡々としすぎていて、然もなく耳を通り過ぎて行ってしまう程に気負いの無いものだった。
「平気の顔をしていれば?」
「案外に、生きている内は澄む暇も無く、濁って淀んでばかりかもしれんな」
「・・・そんなものかな」
「とりあえず俺はそうらしい」
「平気な顔か・・・」
又正面を捉えた瞳が、少しだけ細められた。
その先に見ているものを知りたいと、そう逸り、聞かぬ自分を田坂は叱った。
「さっき川の向うに行くところがあったと言っていたが」
ともすれば又何か探りに動き出しそうな自分に箍して、田坂は話の持って行き先を変えた。
「明日・・・、又明日行くから良いのです」
それには間髪を置かず応えは戻り、振り向いた顔が楽しげに笑っていた。
又逢えるのかと、否、逢えはしないのだろうかと、咄嗟に問い質したい衝動に駆られた相手は、だが自分が再び見(まみ)える事のできる筈の無い人であったと気づき、動かしかけた唇の端を綻ばせて笑い返すことで、田坂はそれを誤魔化した。
二度と、逢わない方が良いのだろう。
忘れること敵わず、呻吟の中に自分を閉じ込めたまま物言わぬ人の影は、思えば苦しさだけが支配する胸の裡だけに存在すればいい。
だからこの若者とは、今一時の出逢いだけで十分なのだ。
そうでもして言い聞かせねば、到底承知しそうに無い己の心をどうにか押し殺して、田坂は今一度、今日最後の日が落ちる様を視界に入れていた。
西本願寺の広大な敷地をぐるりと覆う黒い板塀が見えて来た処で、総司は駕籠を降りた。
一隅を借りる形で屯所を置く新撰組の誰かに、姿を見られるのを厭う心がそうさせた。
夕餉も終わり夜番の組はすでに出払い、残る者達には一時心安らぐ頃合と重なり活気を呈している建物の中では、案外に人の目は盗みやすく、自室まであと少しという廊下の角に差し掛かったとき、忍ぶ足が、不意に現れた影の前でぴたりと止まった。
それが誰のものであるのか、すぐさま分かっただけに顔が上げられない。
「遅い帰りだったな」
土方の声はいつもよりもずっと低い。
不機嫌だろう事は凡そ想像がついていたが、それがこうして現になって耳に届けば、尚更目を合わせるのが躊躇われる。
「・・・その格好」
何か言わなくてはと気だけが焦った矢先に、土方が怪訝に呟いた。
夜目にも総司の袴の裾が濡れ、それが素足に絡むように纏わりついているのが分かる。
しかも湿り気は腰の辺りまであるらしい。
「一体どうしたのだ」
問う声に、俄かに厳しさが増した。
「濡れてしまったのです」
不審に自分を見る気配を察して、咄嗟に顔を上げ、唇から零れ落ちたのは言訳にもならないものだった。
「見れば分かる。だがどうしてそんなことになったのか、分かるように説明しろ」
秀麗な眉が寄せられ、整った顔立ちが一段と険しくなった。
偽りなど、この勘の良い人に通用するはずも無く、物言えず俯いた途端束ねた髪が滑り、露になった項(うなじ)が酷く寂しげに頼りない。
叱られたと、総司は思い込んでいるのだろう。
昔から不器用な程に、正直すぎる若者だった。
だがそんな姿を見せられれば、行き先も告げずに出て行ったまま遅い帰りを案じ、遂には探しに出かけようかと腰を浮かせ、無事な顔を見た瞬間それが怒りに変わった心の持って行き場を失う。
もっときつく嗜めねばと重々承知しながらも、つい問い詰める手が緩む己の不甲斐なさに、土方は諦めの息をついた。
「とりあえず風呂に行け。それから飯だ。俺も腹が減った。流石にこれ以上はお前に付き合って待ってはいられん」
どうにも思い通りにならぬ己の弱気を切り捨てるように、口調は強いを通り越し、その反動のように乱暴に吐き出された。
瞬間、弾かれたように上げた顔の瞳が、驚いて大きく瞠られた。
土方は、待っていてくれたというのだろうか・・・
帰りの遅いのを案じて、食事もとらず待っていてくれたのだろうか。
そういえば廊下を曲がる前に聞いた音は、確かに自分の室の障子を開ける時にする慣れ親しんだ木の軋む音だった。
・・・・総司の心を、先ほど見た夕景よりも切ない想いが覆う。
「さっさとしろ。説教はそのあとだ」
一言、言い置いて仏頂面のまま向けた広い背が、ゆったりと離れて行くのを、其処を動けず立ち尽くして見ていたが、すぐに慌てて後を追い始めた。
「土方さん・・、明日、近藤先生から言われていたお医者さんへ行ってきます」
足の早い主に漸く追いついて、横には並ばず一歩後ろから、総司は吐く息だけで告げた。
「どうしてお前は、いつもそう突然に物を言う」
振り返る事もせず、うんざりと返ってきた応えも、今は聞く耳に優しく届く。
「・・・どうしてって」
言葉を詰まらせるのはいつも土方のせいだ、そう言ったら何と応えてくれるのか。
何の不安も疑いも無く、ただついて行けばよかったこの背は、唯一安堵できるところだった。
それが気づけば、不安だけを自分に植え付けるものに代わってしまったのは、何時の頃からだったのだろうか。
白粉の匂いが立ち籠もる場に行くと聞けば、胸を鷲掴みにされ、肉をもぎ取られるような痛みが走る。
誰かと枕を共にしてきたのだと知れば、突き立てられた火箸で骨を砕かれるような苦しさにもがく。
眠ることなど出来る筈も無く、ひっそりと迎える朝を、あと幾つ迎えれば良いのか。
けれどそれよりも辛いのは、土方に触れるもの全てに嫉妬を堪えねばならない、己の醜悪な心を垣間見る事だ。
決して澄む事など叶わず、淀み続ける濁流を胸に抱え、一体何時まで自分はこうして何でもない顔をして隠し通せるのだろう。
だがあの医師は言った。
平気な顔をしていれば、目を背けたくなるような醜い感情も、いつか流れて消え行く時が来るのを期待しているのだと。
そんな日が、自分にもやって来るとは思わない。
だが少しだけならそう信じても許されるような、そんな目をして言ってくれた。
それだけで十分だった。
「急に行きたくなったのです」
少し間を置いて、漸く戻った明るい声に、土方が大きく息をついたのが背中越しにも分かった。
「五条と言っていたな、その医者。・・・明日は黒谷に近藤さんと行く。寄るのは夕刻になるだろう。もしも早くに診察が終わったなら其処で待たせて貰っていろ」
歩みも止めず、振り返りもせずに掛かった命じる声に、総司の足が思わず止まった。
自分が立ち寄るのがごく当然のように、疑いも無く告げるこの背の主は、こうして何の前触れも無く、時折残酷な程に優しい。
溢れ出そうになる想いは胸に秘めるのだと、決して表には出してはならぬのだと堅く誓った決意は、土方のたった一言で、波に浮かぶあぶくのように心元なくなる。
ついてこない気配に、やっと前を行く土方が歩を止め振り向いた。
「どうした?」
不審に問う声に、今は必死に首を振るのが精一杯だった。
言葉にしたら自分は何を言い出すか分からない。
きっと今まで堪えてきた想いの全てが迸ってしまいそうだった。
幾ら待っても其処を動きそうに無い総司の心を掴みかね、だがどうしてやれば良いのかも分からず、土方が二度目の溜息をついた。
五月晴れと、その名の如く抜けるような空を見ることができるのは、案外に数える程しか無い。
それでも鮮やかな藍色を目に映す事ができれば、一昨日まで続いていた曇天などすっかり忘れたように人は季節の色を愛でる。
今日の空は天道の色すら霞ませてしまいそうに、鮮やかな蒼だった。
門を開ける前から患者の待つ診療所も、昼を過ぎて暫くすれば、どうにか本来の静けさを取り戻す。
「そろそろ来る頃か・・」
「新撰組の方どすか?」
何気なしに呟いたのは独り言だったが、キヨはそれを聞き逃さなかったらしい。
「怖い人やったらどないしよ」
キヨの危惧は満更嘘でもなさそうだった。
珍しく声に、ほんの少し臆する風な響きがあった。
今日早朝と言って良い時刻に、新撰組局長の近藤から、かねてお願いしてあった者の診察を昼過ぎにお願いしたいが如何なものかと使いが来た。
その頃合ならば人も引くので、当方としては構わないと返事を持たせたからには、やはり約束を違えずに相手はやって来るだろう。
双方の病に対する治療方法で意見が食い違う事は容易に察せられるから、結局の処、近藤の望む結果にならずに終わるだろう事を思えば、些か田坂も気が重い。
だがそれも致し方の無いことなのだろう。
見上げた空の蒼は、そんな憂さを持て余している自分を笑ってもいるようだった。
「新撰組にも優しい人はおるんやろか」
不意に薬の根を轢いていた手を休めて、キヨが自分の内に俄かに沸いた好奇心を口にした。
「さて、どうだかな」
それに応えたとき、玄関の方角に微かな人の気配を感じ、田坂が浮かべかけた笑みを消した。
耳を澄ませていると、今一度、今度は良く通る人の声が控えめに中を伺った。
「・・・どなたはんやろ?」
「俺が行こう」
田坂がキヨを制して、軽い身ごなしで立ち上がった。
急ぐでもなく廊下を渡りながら、小さな中庭の木々に芽吹いた新たな葉が、若い勢いそのままに貪欲に光を吸い燦然と色を輝かせる。
その様が、目に痛い程だった。
確かに、全てに力満る季節は近いのかもしれない。
そんな思いに捉われて辿りついた玄関は、一方に向けてしか外に開かれていない分、明るさに慣れた目には暗すぎて、佇む相手の顔貌(かおかたち)が一瞬判別し難い。
だが像を影としか結べないながらも、その姿を眸が映し出した瞬間、田坂の足が一歩も動けず其処で止まった。
「・・・今朝近藤から診察をお願いしてあった者です」
若者の唇が動いて、言葉を形作った。
――――私は俊介の想いに応えることはできない
兄の声音が耳に重なる。
「もう少しだけ・・・」
一言一言、刻み込むようにして、言葉は紡がれる。
「平気な顔をしていたいのです」
物言わぬまま自分を凝視して動かぬ医師に、若者は深い色の瞳を向けた。
後ろに見える楓の木が、風にさざめくように梢を騒がせた。
思わず外に逸らせた視線の先で、葉は表の碧に、反す翠に、惜しみなく陽を弾かせる。
人を想えば、修羅の時も悦びの時も、常に背中合わせにある。
二度とそんな時は持たないのだと決め付けていた筈の自分は、もしかしたら又も同じ淵に身を沈めようとしているのだろうか。
それを幸いと言うのか不幸というのか・・・
風が、今一度起こった。
先ほどよりは強く、今度はしなるように枝が揺れた。
その寸座、木全部が、ひとつ煌きのように滾る緑に萌えた。
予感というにはあまりに確かに胸に湧き起こるざわめきを、田坂は一瞬強すぎる日差しのせいにした。
鼓動は主の言うことを少しも聞かず、不甲斐ない程に昂ぶる。
それらを漸く抑えて、ゆっくりと視線を戻した先に、兄であって兄でない面輪が、自分を見つめている。
邂逅は――――
まばゆい光の中で、今確かに現のものとして此処にある。
「上がれよ」
少し低い声が、眩しそうに細められた眼差しと共に向けられた。
その瞬間、翠を透かせた陽が内にまで射し込み、総司の面に緩やかな笑みが広がった。
翠霞立つ 了
短編の部屋
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