秋陽


 遠くで、人の気配がした。何か話をしているらしい。其方に顔を向け耳を澄まそうとしたが、身体を縛る鉛のような重さに負け瞼を閉じた。すると意識は、手放した釣瓶のように、すとんと睡魔の淵へ落ちようとする。それに抗い慌てて薄く目を開けた途端、天井が歪んだ。眩暈感に、身体が強張る。針を打たれた後は、いつもこのような気だるさに襲われるのだ。暫くお休み下さいと、囁くように告げた山崎の声が、耳の奥に蘇る。
 すっと血の引いて行くような不快感が過ぎるのを待ち、総司はもう一度目を開けた。すると今度ははっきりと天上の木目が見えた。丹念に造形された人形のような唇から、ほっと息が漏れた。
 人の声が聞こえたのは、寸座にも及ばなかった。静けさが戻った部屋には白い陽が満ちている。その陽は薄く、焦(こ)ぐような炎天に呻吟した日々は、人々の記憶からもう遠い。ものの影は、午睡に落ちたかのように静止している。だがそのあまりの静謐さは、総司を焦燥に駆らせる。それは時と云うものに置き去りにされる、恐怖とも似ていた。
 まだ身体を動かす事は敵わない。放り出した指先に、僅かばかりの風が戯れるように止まり、そして行く。微睡みと覚醒を行き来する混沌とした意識の中で、一点、それだけが確かな現の感覚だった。
 暫く、そんな曖昧な時に身を委ねていた総司だが、ふと瞼を開いた。覗いた瞳には光が戻り、頬にはみるみる血の色が差した。
 やがて、足音が聞こえて来た。力強いそれは、真っ直ぐにこの部屋を目指して来る。
 耳を澄ませている唇辺に、小さな笑みが浮かんだ。
 
 
 障子の向うに影が差したと思う間もなく、土方はずんずん部屋に踏み込んで来た。見上げた総司と目が合ったが、無言で枕辺に胡坐をかいた。そうして視線の位置が低くなると、微かに膨らんでいる袂に目が止まった。何か物を入れているらしい。殊、身につけるものには神経を使い、乱れを嫌うこの男には珍しい事だった。それが可笑しく、一瞬、総司の口元が綻びかけた。が、その一瞬を、土方は目ざとく察した。
「何がおかしい」
「…だって」
「何だ」
 短気に糾す声が不機嫌になった。こうして渋面になると、整いすぎるが故に冷たい印象の造作に、好き嫌いの激しい癇性な一面が覗く。が、土方のこの顏が、総司は好きだった。取り澄ました新撰組副長としての顔よりもずっと見慣れている、昔からの土方だった。
「何でもない」
 総司のくすくす笑いは止まらない。
「変な奴」
 眉根を寄せたまま、土方は頬杖に納めた顔を庭に向けた。
 その横顔を総司は眩しげに見上げ、
「…それ」
 袂の膨らみを指差した。
「何なのですか?」
 振り向いた土方は、ああと云う顔をしただけで、袂に手を入れると、取り出したものを突き出した。掌には懐紙の包みが納まっている。総司は戸惑いの目を向けた。
「栗の菓子だ」
「…栗の?」
 まだ不思議そうに見詰める瞳の前で、土方の指が、無造作に包みを開いて行く。  
 やがて姿を見せたのは、小振りの菓子が二つ。全体の色が、菊の花の淡い黄に似ていると思ったのは、中に包まれている餡のせいらしい。それを求肥が覆っているのだが、求肥がごく薄いので、一見菓子そのものが黄色に見える。姿形の良い菓子だった。しかし何故、この菓子が土方の袂から出てきたのかが分からない。総司は尚首をかしげ、土方を見詰めた。その視線に、
「茶と一緒に出た」
 不親切な説明が返った。そしてそのついでのように土方は、
「後藤殿が選んだのだそうだが、甘い。甘すぎて口の中に残る。あの人の菓子の好みは、万事詰めの甘い仕事同様だな」
 桑名藩用人、後藤甚五郎の好みと人を皮肉った。
「黄色い餡か…」
 総司は珍しそうに、大きな掌の中で肩を縮めている、小さな菓子を見た。ところが、
「栗だ」
 苛立たしげな声が、束の間の鑑賞を遮った。
「…えっ?」
「中身だ」
 懐紙から頭半分を出している菓子へ、土方は顎をしゃくった。
「蜜につけた丹波栗を餡の代わりにしている。その栗の具合が、甘すぎず丁度良い。加えて、薄く被った求肥がほんのり色を透かせ品も良い、と、後藤殿は云った。が、俺に云わせれば、求肥の甘さは邪魔だ、しかも…」
 土方は朗々と講釈を始めた。その土方を、総司は大人しく見上げている。しかしその内ふと疑問が湧いた。
「京の菓子は江戸の菓子と違って、甘すぎる」
「土方さん」
「何だ」
 次第に回ってきた滑舌に水を差され、憮然といらえが返った。
 が、そんな様子など気にも留めず、総司は土方を見た。目に悪戯な色がある。
「このお菓子、お茶と一緒に出されたのでしょう?」
 顔に浮かぶ、どのような変化も見逃すまいと、黒曜の瞳はひたと土方を見詰めている。
 
――先程、この菓子は茶と一緒に出されたのだと、土方は云った。だとしたら、菓子はそこで土方の腹に収まり、今ここには無い筈である。それがあると云う事は、土方が土産を無心したと考えるのが自然だが、菓子を土産にねだるなど、土方の気質からして信じ難い。ではどうしたのか…。
 抑えられない好奇心が、みるみる総司の胸に膨れあがる。
 
「土方さんは、ご自分のお菓子の他に、後藤さまのお菓子も頂戴していらしたのですか?」
 土方は心底嫌そうに眉根を寄せた。
「莫迦を云え」
「ならば、どうされたのです?」
 込み上げる笑いを口元で仕舞っている事など、土方には見通しらしい。端整な造作が、渋く歪んだ。
「何処の菓子かと訊いたら、相手が勝手に気を利かせ、帰りがけに用意されていた。それだけだ」
「珍しいな」
「何がだ」
 鋭い双眸が、楽しくて仕方がないらしい口元を睨みつけた。
「土方さんが、甘いものに固執するなんて…。近藤先生みたいだ」
 云い終えるや、堪えていた笑いが、とうとう声になって零れ落ちた。土方は苦虫を潰したような顔でいる。ひとしきり笑ったあと総司は、
「土方さんのお墨付きのお菓子、どんな味なのだろう?」
 菓子を見、いらえを求めるように土方を見た。
「食えば分かる。俺は行くぞ」
 仕置きのように乱暴に云い捨て、土方は腰を上げようとした。するとその所作を目で追っていた総司が、ゆるく首を振った。
「どうした?」
「食べたく無い」
「どこか辛いのか?」
「…そうじゃないけれど…、今は食べたく無い」
 見上げている面輪からは、つい先程まで広がっていた笑みが消え、降り注ぐ陽を遮るように目元に手を翳した、その仕草すら物憂げに見える。
「山崎を呼んだ方がいいのか?」
 上げかけた腰を、土方は下ろした。
「そう云うのじゃない」
「ではどう云うのだ」
「…身体がだるいから、今食べても美味しくない」
 土方は黙った。
 自身に針を打った経験が無いから、総司の云う事が分からない。だが確かに、酒を飲みすぎた翌朝の、あの何とも云いようの無い頭と体の重さを抱えて、甘ったるい菓子を欲しいとは思わない。想像できる範疇はそんなところだった。しかしその時ふと、
(あの人なら、別だがな)
 饅頭を頬張りながら酒を飲む、近藤の顔が脳裏を過った。そしてそのついでのように、二人の男の顏が浮かんだ。二人とも己と同じように、、菓子を食いたいとは思わないだろう男達だった。それどころか、宿酔いの時に菓子はどうだなどと云った途端、遠慮なく嘲笑を浴びせてくれるだろう。
 苦々しく舌打ちし、土方は、伊庭八郎と田坂俊輔の顔を打ち消した。

「食わんのなら犬にやる」
 思わず声が荒いだが、元を糾せば総司の駄々が、思い出したくも無い者達の顏を浮かばせ、忌々しい思いに駆らせたのだから怒るのは道理だと土方は思う。ところが――。
「食べないのじゃない」
 返ったのは、ぴしゃりと手の甲を打たれたような鋭い声だった。瞬間、土方の眉根がぎりぎりまで寄り、
「いい加減にしろっ」
 狭い堪忍袋の綻びから、短気が迸った。
 総司は一瞬息を呑み土方を凝視したが、しかしすぐに瞳に勝気な色を浮かべ、くるりと背を向けてしまった。
「何を不貞腐れている」
 こう云う総司は見たことが無い。土方は慌てた。声に戸惑いが混じったのは本意ではないが、仕方がない。
「総司」
 促す調子を殊更低くし威厳を取り繕っても、総司に此方を向く様子は無い。
「…不貞腐れてなんか、いない」
 ぽつりと、蚊の啼くような呟きが聞こえただけだ。ではその態度は何なのだと、土方は出かかった言葉を喉に押し戻した。おかげで、憤懣が体中に満ち満ちる。堪え性の苦手が、再び短気を迸らせるに間は要らない。しかし口を開きかけたその刹那、ふと何かが脳裏の端を掠めた。それは強く意識を引き、時折、空気に触れた熾火のように、色を鮮やかにする。その遠い火を、土方はじっと凝視した。するとある光景が、記憶の狭間から姿を覗かせた。
 そうだ、あの時もこんな風に、総司は駄々をこねたのだ――。
 細められた目に、懐かしげな色が浮かぶ。
 それは総司がまだ、宗次郎と呼ばれてる頃の事だった。





 花の咲く季節になっても、浮かれた足元を掬うように、天は冷たい雨を降らせる事がある。春陰の寒さに風邪を引いた宗次郎は、外に出られない日が続いていた。
 折しもその日は、試衛館の住人が皆出払い、屋敷の中は、雨音の静けさにおもねるように閑寂としていた。母屋の端に与えられた宗次郎の部屋には、居る筈の隠居夫妻の声も届かない。敷かれた蒲団に押遣られる格好で、土方は部屋の隅に置かれた火鉢の番人になっていた。
 時折、宗次郎が小さな咳を繰り返す。最初は気にかけ、その都度振り向いていたが、それも眠気が勝れば次第に億劫になる。咳はすぐに治まるのだから、そうそう神経質になる事も無い。半ばまどろみに溶け込みながら、土方は煎じてあった薬を湯呑みに注いだ。飲ませたら、自分も一眠りするつもりだった。
 
「宗次郎」
 蒲団に埋もれていた小さな顔が、上向いた。
「飲め」
 差し出された湯呑を、宗次郎は暫し見ていたが、やがて小さくかぶりを振った。
「腹でも痛いのか?」
 幾日か床につき、面輪は一回り小さくなり頬も青白いが、見たところそれ以外変わった様子はない。
「我儘を云うな」
 些か苛立ちを込めて促すと、
「要らない」
 今度は驚くほど強い拒絶が返った。思わず、土方は宗次郎を凝視した。だが宗次郎はくるりと背を向け、頭から蒲団を被ってしまった。
 厚い蒲団に埋もれた小さな隆起を、土方は唖然と見詰めた。
 
 気まずい沈黙を笑うように、鉄瓶が音を立てて湯気を吐き出す。それを呆けたように見ていた土方だったが、その内、無性に腹が立って来た。そもそも何故ここまで、宗次郎の駄々に付き合わされねばならぬのか。子供一人の機嫌取りに右往左往している己が忌々しい。その怒りのまま、
「勝手にしろっ」
 振り向かない背を怒鳴りつけると、荒々しく蒲団の横に転がった。
 どちらかが身じろぎすれば、どちらかの身に触れる狭い部屋の中。だが意地のように、宗次郎は動かない。土方は肘枕の中で吐息した。
 
 元々、宗次郎にはひどく頑固な一面がある。それは滅多に見せないから、多くの人間は、大人しく素直な宗次郎しか知らない。が、一旦臍を曲げ始めたら最後、近藤はおろか、土方ですら手をやく。しかし…、と、土方は首を捻った。いつものとは少し違う気がするのだ。いつも宗次郎が頑固になる時、それは殆どが正論に基づく。だからこそ扱いにくいとも云えるのだが、今日のこれは幼子のような駄々だ。
 軽く頭を後ろに向け、土方は蒲団に目を遣った。その時、つと蒲団が縮まり、間髪を置かず小さな咳が三つ続いた。咄嗟に土方は手を伸ばしたが、宗次郎はそれを拒むように、すぐに沈黙の砦に籠ってしまった。会話をする気は無いらしい。土方は起き上がり、胡坐を組んだ。そのまま暫し天井を見ていたが、やがてゆっくりと視線を蒲団に戻した。その目が座っている。
――理由を語らずして翻弄されっぱなしでは、己の矜持が許さない。語らぬのなら、語らせるまで。
 それが出した結論だった。そう決めれば行動は早い。土方は手妻のような素早さで蒲団を捲った。途端、厚いそれは、まるで火に炙られた紙のようにふわりと持ち上がり、夜着一枚で縮こまっている小さな身体を容赦なく剥きだした。突然砦を崩された宗次郎は、驚愕に見開いた瞳を土方に向けた。そして睨みつけるように、瞋恚の色を浮かべた。が、抗いもそこまでだった。次の瞬間、色を失くした唇から零れ出たのは、抗議の言葉ではなく咳だった。しかも咳は間断なく続く。
「みろ、云う事を聞かないからだ」
 大きく波打つ背を擦ってやると、背骨の形が掌に触れる。少年と云うにも覚束ないこの痩せっぽちな身体の、どこからあの一徹な頑固が出てくるのか…。土方にはそれが可笑しい。
「このあたりで意地っ張りも止めておけ」
「…意地なんて、張っていない」
「そりゃ、悪かったな」
 からかって細めた目に、咳の名残の泪を一杯に張った瞳が映る。瞳は、水の膜をゆらゆらと不安定に揺らしながら、土方を睨んでいる。当人は精一杯怒っているつもりだろうが、これでは赤子も怖いとは思わないだろう。つい、口元が緩んだ。
「何が可笑しいのです」
「…いや」
 怒りの矛先をやんわりと受け止め、土方は込み上げる笑いを噛み殺し真顔を作った。
「次の出稽古は俺だ」
 突然話題を変えられ、言葉の意味が掴めない宗次郎が、ぽかんと唇を開けた。土方は尚更可笑しい。
「一緒に来るなら、近藤さんに話してやるぞ」
 睨んでいた瞳が、今度は零れんばかりに見開かれた。
「だがな、俺は風邪を引き摺っている奴と一緒は御免だ」
「風邪なんか、すぐに治る」
「じゃ、飲むんだな」
 差し出された湯呑みに、一瞬、宗次郎は気まずそうな視線を向けた。が、覚悟を決めたように受け取ると、一気に煽った。
「…にがい」
「一度に飲むからだ」
「何度も分けたら、その分苦い」
 まだ口の中に苦みが残っているのだろう。宗次郎は面輪を顰めている。
「莫迦」
 土方は笑った。思いつめたような物言いが可笑しかったのだ。
「土方さんも飲んだら分かるのに…」
「風邪を引いたらな」
「何故、皆は風邪を引かないのだろう…?」
 宗次郎は不満そうな目をした。そして、
「風邪など、つまらないばかりだ」
 ぽつりと呟いた。
 堪え切れず、土方は腹に手を当てて笑った。それを深い色の瞳が恨めしそうに見ていた。





 あの時――。
 宗次郎は、駄々をこねたのだ。風邪も治りかけ、外に出られない退屈も募っていた。そこへ丁度良い都合に話し相手が現れたが、その相手たるや、己の都合ばかり押し付け身勝手この上ない。そこで臍を曲げてみた。更には天にも問うた。
 何故、皆は風邪を引かず、自分は引いてばかりいるのかと。どうしてこのような脆弱な身体を与えたのかと――。
 風邪などつまらないばかりだと呟いたそこには、どうにもならない理不尽に対する幼い怒りと、そしてそれは己に与えられた運命(さだめ)なのだと受け入れた、早すぎる諦観があった。

 土方は振り向かない背をじっと凝視した。
 たぶん、総司はあの時と同じような、何かの思い、或いは感情に駆られたのだろう。だが土方はすぐに思案を止めた。他人の考える事など、幾ら考えても分かる筈がない。ましてそれが感情の機微ともなれば尚更だ。分からないのなら、あの時の様に問い質すまでだ。
 考え損の駄賃のように、土方は摘み上げた菓子を口に放り投げた。すると気配を感じた総司が、ちらりと後ろを振り向いた。刹那、漆黒の瞳はこれ以上無い程、大きく瞠られたが、土方は悠々と菓子を頬張っている。やがてゆっくり菓子を嚥下すると、何事も無かったかのように、呆然と見詰めている総司を見下ろした。黒い瞳は土方を凝視したまま、瞬きしない。これでは瞳も乾いてしまうだろうにと、土方は余分な事を思う。思いながら、
「旨いぞ」
 残りのひとつを差しだした。総司は一瞬菓子に目を遣り、そして土方を見上げた。土方は無言でいる。据えられたその視線に観念したように、総司は漸く身体を起こした。
 横になっていた目には柔らかな陽ですら眩しいのか、総司は暫く目の上に手を翳していた。が、やがて、
「土方さんのように食べたら、味など分からない」
 笑いを含んだ瞳を土方に向けた。
「菓子など、どれを喰っても同じだ」
「でもこのお菓子を気に入ったのでしょう?」
 土方の眉が、嫌そうに寄った。
「後藤殿はな」
「なんだ、つまらない」
 そう云いながらも、声は面白がっている。そのついでのように、手が菓子に伸びた。
「身体がだるいから、食っても旨く無いのではないのか?」
 今度は土方が茶化す番だった。
「もう良いのです」
 総司はつまんだ菓子を目の上に持ってき、光に透かせるような仕草をした。それが総司の照れだった。
「山崎さんの針はとても楽になるのだけれど…。少し困るな」
「何が困るのだ」
「……」
 菓子を見詰める横顔から、寸の間、言葉が途切れた。だがすぐに、総司は土方に視線を戻した。
「良く効きすぎて、目が覚めても暫く身体が起きないと云うのか…」
「寝起きの悪い奴なぞ幾らでもいる」
「それとも違うのです」
「お前の云っている事は分からん」
 土方は息を吐いた。総司の要領の得ない話には慣れているつもりだが、それでも手に余る事は間々ある。今もそうだ。
「目が覚めて、人の声も聞こえるし、部屋の中も明るい…。でもみな遠いのです」
「遠い?」
 土方を見詰める瞳が、真剣な面持ちで頷いた。
「何だか自分だけが別の世界に居るような、そんな感覚なのです…。どんな風に云えば良いのだろう…」
 総司は言葉を選びあぐねているようだったが、途中まで聞いて、土方は何とはなしに合点した。

 確かに、うたた寝から覚醒への時、そう云う奇妙な感覚を、土方自身も体験した事がある。
 意識は眠りと現(うつつ)を行き来しているのだが、人の声も、ものの音も鮮明に聞こえる。だがそれが妙に余所余所しいのだ。総司の云うとおり、遠くに聞こえる。薄く目を開ければ、明るく照らす陽がある。しかしその光すら、冷たい横顔を見せ、影を止めてしまう。一瞬、自分が別の世界におかれているような、不安や焦りさえ感じる。
 総司の云いたかったのは、そう云う事なのだろう。しかし総司はその奥に、更に深い闇を見たのだと、土方は思う。

 現を遠くに感じている間総司は、時に置き去りにされるような錯覚に陥った。宿痾を抱える身にとって、それは恐怖だった。そしてその呪縛から解かれた時、不器用な矜持は、他愛も無い駄々で、置いて行かれるようで恐ろしかったのだと不安な心を訴えたのだ。
 松尾に蛍を追った初夏の宵、ここにいると、負うた背から響いた声が土方の胸を抉る。置いて行かれるのは嫌だから置いて行くのだと冗談めかして笑った顔が、瞼を熱く灼く。だが残念ながら、己は想い人を置いて行くのも、想い人に置いて行かれるのも本意ではない。総司が何者になろうと、掴んだ手を解かず傍らに置くと決めている。
 掌に乗せた小さな菓子を楽しそうに観賞している面輪に、土方は目を移した。

 すっと手を伸ばし、横から菓子を取りあげると、
「土方さんっ」
 何をするのだと、抗議の声が上がった。
 だが土方は素知らぬ顔で、菓子を半分に割り、その片割れを口に放り入れた。総司は呆然と瞳を見開いたが、
「食わないのなら、全部食うぞ」
 真顔の脅しに、慌てて残りの半分を取り返すや、素早く口に入れた。
 口を動かしている間も、奪われるのを恐れるかのように、土方から目を離さない。これでは味など分かったものでは無かろうと、土方は苦笑を禁じ得ない。
「旨かったか?」
 それでも念の為聞いてみると、
「……」
 総司は一瞬小首を傾げかけたが、すぐに、
「こんな風に急いで食べたら、美味しいのかどうかなど分かる訳が無い」
 案の定、不満の声が返った。
「だったら始めから素直に食うんだな」
 返す言葉に窮して伏せた面輪に、鮮やかな朱の色が刷かれた。その様子を目の端に入れながら、土方はゆっくりと立ち上がった。


 縁に出ると、薄い陽が、庭の隅に群上している小菊を包んでいる。
 背中に、総司が不満げな視線を寄越しているのが分かる。この分では、当分は臍を曲げているのだろう。だが荒療治もたまには楽しい。菓子を頬張りながら此方を睨んでいた、一杯に見開かれた瞳は、当分脳裏から消えそうにない。
 茜色の陽が、つと傾きを低くした。いつの間にか、風に刺すような冷たさが忍んでいる。
「…斉藤に、繋ぎをつけるか」
 その陽の端を追うように、低く呟いた策士の目が細められ、鋭い光を宿した。

「おい、何か羽織れ」
 後ろに声をかけ、土方は渡り廊下を踏み出した。
 足元に戯れる光が白い。
 慶応三年の秋が、行こうとしていた。






短 編