秋霖 七


(一)

 二馬の蹄が、夜の底を響(とよ)もす。荒々しい乱打は、下賀茂神社まで来ると東に折れ、今度は高野川の方向へと手綱を取る。白い毛並みを持つ馬の後ろに漆黒の毛並みの馬が続き、二頭は、川べりの道を疾風のように駆け上がる。
 暫く、二頭は一糸乱れず川に沿って走り続けたが、じき大原との岐路と云うところまで来、後ろを走っていた山崎が総司を抜いた。今度はその背が、翔に騎乗している総司の導になる。進むほどに道幅は細くなり、山崎は徐々に手綱を引き、やがて馬を歩かせ始めた。そして空を見上げ月の位置を確かめると、左手に広がる木立の中へ入って行った。総司も後に続く。
 昼間でもさぞ寂しいだろうと思える森の道は、重なりあう枝の隙から零れる月明かりにほそぼそと浮かんでいる。総司は前を注視し、山崎の背を見失わないよう、翔の手綱を握る。そうして二町も進んだのだろうか。突然、視界が明るく開けた。前を見ると山崎が馬を止めて待っている。総司が隣に並ぶと、山崎は前方を指した。
「宝ヶ池です。ここまで来れば雁通寺まではじきです」
 池の遥か先を見、総司は黙って頷いた。
 水辺にあった椎の大木に、二人は乗って来た馬を繋いだ。辺りは深いしじまに包まれている。時折、闖入者を警戒するように梟の鳴き声が響くが、その余韻が鎮まると、又不気味な静けさが訪れる。
 山崎が先に立ち、二人は慎重な足取りで歩き出した。

 馬を繋いだ水辺から半里も行かない内に、道はなだらかに上り、やがて夜目にも一際勾配のきつい坂が見えて来た。その手前で、山崎が足を止め総司を振り返った。
「この坂を上り切ったところです」
「はい」
 息を詰めるようにし、総司は応える。その時だった。総司の視線が鋭く雑木林に向けられ、同時に山崎も身構えた。林の中から、草を薙ぐように走り来る足音が聞こえて来たのだ。しかもそれは躊躇することなく此方に向かって来る。程なく、黒い塊が、杉の幹と幹の間から転がるように道に飛び出して来た。
「伝吉っ」
 低く山崎が叫んだ。伝吉は厳しい目で山崎を見上げた。
「副長たちが常盤屋に囚われやした」
「何だとっ…」
 危惧が現実になった事に山崎が声を険しくし、
「無事なのですかっ」
 問うた総司の顔が強張った。
「今のところは大丈夫でやす。が、他にも人質を取られていやす」
「他にも…?どのくらいだ」
「男が四人女が二人。皆今日集まった客たちで、副長たちとは別の部屋で縛られていやす」
「六人か…。多いな」
 人質が多ければ、それだけ助ける側に不利となる。山崎の顔に焦りのいろが走った。
「それと…」
 するとその時、伝吉が口ごもるように云った。山崎が目を向けると、伝吉はまだ云いにくそうにしている。
「どうした?」
「はぁ…」
 不審げな視線に促され、伝吉はようやく口を開いた。
「一緒に、堀内さんも囚われていやす」
「堀内さまが…?」
 一瞬、ぽかんと目を見開いた総司が聞き返した。
「…どうして堀内様がいるのでしょう?」
「へぇ…、それはあっしにも分からねぇのですが…」
 不思議そうに見詰める瞳から、伝吉は戸惑うように視線を逸らせた。
「分かった伝吉」
 その時、横からきれの良い声が掛かった。
「詳しい事は堀内様ご自身から聞く他あるまい」
「へぇ…」
 山崎に助け舟を出され、伝吉の顔に、ほっとしたいろが浮かんだ。
「それで寺の中の様子だが…。敵の数や、部屋の配置は把握できたのか?」
「大凡は…」
 山崎を見上げ答える目に、ようやく、この男本来の鋭さが戻った。そして一呼吸おいて、伝吉は語り出した。
「雁通寺は、思いの外広い寺でやした」
――土方達と別れ、先に寺に到着した伝吉は、人気の無い阿弥陀堂から建物内に入り込むと天井裏に潜み寺を探った。その伝吉の目が、寺の宝物を飾ってある奥の部屋に進んだ時、糸のように細い隙間から見えた光景に釘付けられた。動かぬ視線の先には、一組の男女が、恍惚と阿片を吸っている姿があった。男は壁に凭れ虚ろな目で煙管を吸い、女は男の肩に気怠げに頬を預けていた。男も女も死んだ魚のような目をし、弛緩した四肢をだらしなく床に放り出していた。
 例え救い出しても、廃人として余生を送る他無いだろう…。
 胸に重い塊を残したような後味の悪さを抱え、伝吉は、微かにずらせていた天井板をそっと閉じた。

「すると、その二人も人質の数に入れなければならないな。そして敵の数は、常盤屋と住職を含め…」
 心持目線を落とし、山崎は腕を組んだ。
「住職でやすが…」
 山崎の目が伝吉に行く。
「かなりの年寄りでやす。それに寺を貸すだけの約束だったようで、こんなになっちまった事に今かなり動転していやす。世間に知れたらどうするのだと、常盤屋に詰め寄っていやした」
「常盤屋の反応は?」
「相手にせず、強かに笑ってやした。それからふと阿片を吸っている男女に目を遣って、九条卿が邪魔だなと呟きやした」
「九条卿だと?」
 山崎が目を細めた。
「では阿片を吸っていたのは九条卿か?」
「おそらく…」
 伝吉も厳しい表情で頷いた。
「常盤屋は、九条卿を始末するつもりでやす。悪事の生き証人でやすから」
 ぼんやりと眸を開き、定まらぬ視線を宙にさ迷わせていた男女の姿を、伝吉は脳裏に思い浮かべた。が、すぐにその像を打ち消すと云った。
「それから、副長達が閉じ込められている部屋と、他の人質達のいる部屋は建物の端と端でやす。手分けをするにも、三人では場所が離れすぎていやす」
「確かに、お前の云うとおりだな…」
 山崎も難しい顔をした。その時、ひとり思案の中に籠っていた総司が顔を上げた。そして山崎と伝吉を、ゆっくり見回した。
「考えていても仕方がありません。踏み込みましょう」
 突然の発言に、山崎が驚いたように目を見張り、伝吉も無言で総司を見詰めた。
「土方さん達を見張っている敵を、まず私が斃します。その隙に、山崎さんと伝吉さんは、皆の縄を解いて下さい。解いたら、私に構わず人質が囚われている奥の部屋へ走って下さい」
「しかし沖田さん一人で大丈夫ですか?」
 山崎は杞憂の色を顔に浮かべている。総司の剣は天賦だとは山崎も承知している。しかし人質を庇いながら一人で敵に対峙するのでは分が悪すぎる。
「大丈夫です。一対一なら負けないし、もしもの時は、縄を解いて貰った人に助っ人をさせます。そのくらい…」
 総司は言葉を切ると、寸の間、悪戯そうな笑みを浮かべた。そしてその笑みを消さずに云った。
「役に立って貰わなければ」
 こんな所にまで呼びつけてと、続いた恨めし気な呟きに、山崎と伝吉の表情もようやく緩んだ。
「分かりました、そうしましょう」
 幾らか安堵した山崎の声に総司は頷き、そしてもう一度、交互に二人を見た。
「私たちが土方さん達を助けに来たことを、奥にいる敵に悟られてはなりません。気づかれれば、他の人質達に危険が及びます。だから一瞬が勝負です。土方さん達を自由にしたら、後は手分けをして迅速に人質を助け出す、これを確実に実行しなければ…」
「へぇ」
「分かりました」
 伝吉が低くいらえを返し、山崎が厳かに答えた。それを聞くと、総司は口元に笑みを浮かべた。そしてくるりと踵を返すと、
「行きます」
 衒いの無い声を残し、闇の先へと踏み入った。

(二)

「あいつらの数だが…」
 八郎が呟いた。聞きつけた田坂が顔を上げると、八郎は、襖の前に立つ見張りの男を目で示した。
「雪蓮花の偽物を持って来た時、勢ぞろいしたのが全部だとすると、ここに二人、あとは常盤屋を含めて七人、都合九人って勘定かえ?」
「そんな事知るか」
「知るか、はねぇだろう」
 八郎は口を尖らせた。
「敵が何人いようと、このざまじゃ今更だろう」
 負けじと、田坂の眉間にも皺が寄った。身動きの出来ないこの状況に、そろそろ限界が来ているらしい。
「いやいや、田坂さん…」
 するとその時、堀内が、顔を斜めにして二人を見た。
「それは違いますよ。伊庭さんの探ろうとしている事は大切なことです」
 更に堀内は、縛られている腕を窮屈げに回し、密談をするように肩を寄せて来た。
「かように呆気なく敵の手に堕ちた私が云うのもお恥ずかしい限りだが…。しかし他に囚われているのは我々よりも更に弱い立場の者たち。その者達を守る為にも、敵の数を把握しておくのは大切なことです」
「流石は堀内殿、今を冷静に判断されるに長けておられる」
 八郎は満足げに頷くと、
「そう云う事だ」
 尊大な口ぶりで田坂に視線をくれた。が、その時だった。八郎と背中合わせにいた土方が、ぐっと短い唸り声を漏らした。八郎が背中に神経を向けると、腰の上あたりに当たっていた土方の手が微かに動いている。おい、っと低く声を掛けたが、土方は無言で手を動かしている。何をしているのかを探る間もなく、今度は先ほどよりも強く土方が息を詰めた。そして次の瞬間、それは脱力するように細く吐き出された。同時に、背中に固く当たっていた拳が緩んだ感触に、八郎は、目だけを動かし土方を見た。
 八郎の目が、整った造作の横顔を捉える。表情の薄いその横顔に、不敵な笑みが浮かんだ。
「いましたな、縄解きの名人」
 堀内が愉しそうに口元を緩めた。
「伊庭、あいつらに気づかれないように背中を向けていろ」
 土方が八郎に囁く。二人の手元を隠すように、田坂と堀内がさり気なく身を寄せる。
 土方の指が、八郎の手首を戒めている荒縄を探る。時に大胆に、時に繊細に指は動き、その都度、皮膚が攣られる鋭い痛みが八郎の手指に走る。
 ――おぼえていろよっ。
 その痛みに顔を顰めながら、八郎は、闇に浮かぶ常盤屋の姿を睨み付けた。

(三)

 雁通寺の白塀の下を伝い歩き、もうその塀もつきると云う所まで来て、漸く伝吉は足を止め振り向いた。後ろに続いていた総司も山崎もそれに倣い、用心深く辺りを探る。塀の反対側の鬱蒼とした森は遥か先まで続き、更にその向こうには、先の尖った山の影が闇を一層深くしている。方角からして比叡山だろう。
 総司はもう一度寺の塀に目を戻した。頭の上に、大振りの楓の枝が突き刺すように伸びている。更に目を移すと、その枝の二間ばかり先に小さなくぐり戸がある。その時、かしゃりと小さな音がした。総司が大よその景色を頭に入れている内に、伝吉が懐から鉤縄を取り出していたのだ。伝吉は榧の木を見上げると、その中の太い枝を目がけて縄を放り投げた。すると縄は孤を描いて塀を越え、生き物のように枝に巻き付いた。伝吉は、その縄を一二度引き、鉤が頑丈に外れない事を確かめると、今度は縄を伝い一気に塀をよじ登り越えた。
 伝吉の姿が塀の中に消えると、再び、夜の底のようなしじまが総司と山崎を包み込んだ。その闇の中で、二人は息を殺すようにし周囲の気配を拾う。すると暫くして、木の軋む微かな音がした。咄嗟に其方を見ると、くぐり戸が内へと開かれ、そこから伝吉が顔を覗かせ手招きをしている。ゆっくりと、総司はぬれ落ち葉を踏みしめた。

 土に足音を沈めるような歩で、三人は寺の裏庭を行く。やがて人の背丈程の躑躅の植え込みが現れた。先頭を行く伝吉の足が、更に慎重になる。躑躅を半分程回ったところで、伝吉が足を止め振り返った。刀の鯉口に指を遣っていた総司が、つられて顔を上げる。すると、いつの間にか視界は広く開け、目の前の池が、水面に浮かべた月を揺らしていた。
「あれでやす」
 伝吉が対岸を指した。示した先に、庭に向け外廊下を巡らせている瀟洒なたたずまいの建物がある。だが襖は閉じられ、灯の色は漏れていない。
「あの襖を開けると十畳程の部屋がありやす。その次の間に副長たちは囚われていやす」
「見張りは?」
 山崎が訊いた。
「二人でやす」
「副長たちがいる部屋の先は行きどまりか?」
「いえ、中廊下があり、その廊下は庫裡と方丈へ別れやす。他の人質達は庫裡の方へ、九条卿らは方丈の近くの部屋に囚われていやす」
「庫裡と方丈と二手か…。一瞬の迷いも許されないな」
 自らに云い聞かせるように、山崎は呟いた。そして総司は、月明りを浴び青白く浮き上がっている襖を無言で見詰めた。
 見張りの一人が、ふと背後の襖に目を遣った。中庭に面する部屋とを遮る襖だ。寸の間、男は襖を見ていたが、すぐに土方達に視線を戻した。反対側に立っているもう一人の見張りは、この動きに気付かない。しかし土方は、僅かな異変を注意深く見ていた。暫くして、男はもう一度後ろを見た。そして今度は敷居際まで行き、何かを確かめるように襖を引いた。忽ち、ひんやりとした夜気が、部屋に流れ込んで来た。その時になり漸く、もう一人の男が、どうした、と声を掛けた。が、男は振り向かず、暗い部屋の中をじっと覗き込んでいる。聞こえるのは、カタカタと、風が襖を鳴らす音だけだ。だが男は、風がさせるその音に混じり、違う何かを聞いた気がしたのだ。それは、こつんと、まるで小石が当たったような小さな音だった。
「早く閉めろ」
 業を煮やした仲間が、苛立たし気に促した。だが男は、その声を振り切るように闇の中へ踏み込んだ。
「おいっ」
 そして荒げた声を無視し、無言で襖を引き縁に出た。
 煌々と月明かりに照らされた中庭が、男の目の前に広がった。しかし木も池もひっそりと息を潜め物音ひとつしない。
 あの音は一体…。男は首を傾げた。その時だった。男の視界の端に、一瞬、青い光が煌めいた。月華が弾けた、そう男は思った。だが男の記憶はそこまでだった。月を仰ぐようにし、男は一度仰け反り、そして一回して縁から転げ落ちた。
 斬った相手には一瞥もくれず、総司は縁に飛び上がると、一気に部屋の中まで走った。その行く手に、敷居際まで出ていたもう一人の見張りが立ちはだかる。総司は目を細めた。男の後方に、一塊になって縛られている土方達が見える。男がその視界を塞ぐように、半身を寄せた。獰猛で残忍な目をした男は、口元に薄ら笑いを浮かべて総司を見ている。対峙しながら総司は、じりじりと間合いを詰めて来るこの相手を、奥に気配を悟らせず、どうしたら斃せるものか、その方法を思案していた。するとその時、輪の中から、ゆらりと人影が立ち上がった。しかもその影は、すたすたと、無防備に近づいて来た。
「八郎さんっ」
 思わず総司は目を見開いた。その一瞬の隙を見逃さず、敵が上段から刀を振りかざした。が、それより一瞬早く、八郎は男の前に立ちはだかり、その一撃を交わした。
「こいつは俺が相手をする」
 総司を振り向かずに云うと、八郎は中段に構えた。
「八郎さん、どうして…」
「皆さん、ほとんど縄を解かれていました」
 狐につままれたような顔の総司に、申し訳なさそうに山崎が囁いた。
 伝吉が蝋燭に火を入れた。薄暗かった奥の部屋が仄かな灯りに包まれ、部屋の中央で一塊だった男達が立ち上がる。
「土方さん」
 総司は駆け寄ろうとし、しかし思わず足を止めた。そして息を呑んだ。土方は眉間に皺を寄せ、すこぶる機嫌の悪い顔をし、睨み付けるように総司を見下ろしているのだ。そしてその顔のまま唸った。
「ぼやぼやするなっ、行くぞっ」
 総司は唖然と土方を見上げる。だが土方は益々渋い顔で、総司に背を向けた。
 伝吉を先に立てて部屋を出て行く土方を、総司は呆けたように見ていた。やがてその姿が見えなくなると、ふつふつと怒りが湧いて来た。
「ぼやぼやするなって…」
 憮然と声が漏れた。が、その途端、後ろで忍び笑いが聞こえた。堀内だ。
「おや失礼」
 振り向くと、堀内は愉しそうに首をすくめた。だが恨めし気な総司の視線に合うと、口元に残っていた笑を慌てて引っ込めた。
「いや流石にあれは…、そう、あれは土方殿が悪い。助けに来て貰ったのに失礼だ。しかしまぁ、確かにぼやぼやもしていられんだろうな。人質の皆は、さぞ恐ろしさに震えている事だろう。さぁ、我々も行こう」
 そう云って促した目はまだ笑っている。それに抗議するように、総司は黙って頷いた。
 心の中には文句もある、不満もある。だがそれ以上に、土方が無事だった事の安堵が一番大きい。その事が癪で、一寸、総司は天井を睨んだ。
「ではお先に」
 少しおどけたような笑顔を見せ、堀内が踵を返した。その後を、総司も慌てて追う。
 堀内の広い背が、確かな足取りで先を導く。だが道しるべを刻むその背は、古武士のように厳しい背だった。





きりりく   秋霖(八)