秋霖 八

(一)

 背後で、ずんと、重い音がした。八郎の斃した敵が崩れ落ちたのだろう。だが総司は振りかえらず土方を追う。
 部屋を二つ通り抜け、続く三つ目の襖を、伝吉は慎重に開けた。その頃には総司の目も暗がりに慣れて来た。新たな部屋は、開けた襖以外の三方を壁に囲まれている。土方も堀内も、そして総司も、一瞬互いの顔を見合わせた。ここで行き止まりなのかもしれない、そんな思いが三人の脳裏を過る。だが伝吉は違った。部屋に踏み込むと、三方を囲む壁に沿って摺り足で歩き出したのだ。やがて伝吉は、部屋の一か所で足を止めた。壁に耳を付け、目を瞑り、石のように蹲りじっと動かない。暫くそうしていたが、不意に目を開け立ち上がると、今度は壁に吸い付くように両腕を伸ばした。そして、ぐっと腕の肉を隆起させ壁を押した。微かに軋む音をさせ、壁が動く。やがて人ひとりが通れる程の闇が、ぽっかりと姿を現した。
 伝吉が振り向いた。そして土方の目を見て頷き、隠し扉の奥へ踏み出す。その後に、土方、堀内が続く。最後に足を踏み入れながら総司は、静かに刀の鯉口に指を掛けた。

 隠し扉の先には細い廊下が続いていた。
「…足元に気を付けてくだせぇ」
 ほとんど息だけで、伝吉が云った。
「ここは座敷牢と繋がっていて、常盤屋はそこにいる筈でやす」
 土方が無言で頷き、四人はまた、足音を殺して歩き始めた。
 壁を伝って角を曲がると、不意に人の声が聞こえた。しかも案外近いところで話している。闇色の床には、灯の色も滲んでいる。四人は足を止め、壁に身を寄せた。すると突然、一人の声が激した。
「どうしてくれるのやっ」
「何を今更」
 冷たい声は常盤屋だ。
「さんざ甘い汁を吸っておきながら、自分だけ知らなかったとは云わせないよ。あんたには最後の最後まで付き合ってもらう。手始めに、京からの逃げ道をつけて貰おうかねぇ」
 常盤屋は、くすくすと嘲り笑いすら漏らした。
「おのれっ…」
 唸り声が低く闇を震わす。
「騙したのやなっ」
 罵声と共に、一瞬、全てが闇に包まれた。常盤屋に掴みかかろうとした僧侶の体が、灯を隠したのだ。咄嗟に伝吉が前に出る。だが次の瞬間、総司の目に、雷のような素早さで僧侶の脇を擦り抜ける常盤屋の影が映った。手には匕首が光っている。振り返りざま、常盤屋が、踏鞴を踏んでいる背に匕首を突き立てようとした。しかし匕首は弾き飛ばされ床に転がった。体を丸めた伝吉が、常盤屋に体当たりを喰らわせたのだ。もう一人の若い男が、咄嗟に小刀を抜いた。常に常盤屋の傍らにいた男だ。男の視線は、土方、堀内を素通りして、真っ直ぐに総司に据えられた。酷薄な感がする口元に、冷たい笑みが浮かんでいる。腕の立つ相手なのだろう。男の力量を見定めつつ、総司はゆっくり抜刀した。
 常盤屋もしぶとかった。すぐさま体勢を整え、伝吉に襲い掛かかろうとした。しかしそこに堀内の突きが襲う。その一撃を、常盤屋も寸でのところで交わす。堀内は鞘に入れた大刀を次々に繰り出すが、その攻撃は須らくかわされて行く。常盤屋の身ごなしは、まるで軽業を見ているようだ。
「堀内さん、どけっ」
 背後から土方が叫んだ。しかし堀内は振り返る事が出来ない。少しでも隙を見せたら最後、常盤屋はすぐさま反撃に転じるだろう。すると業を煮やした土方が、強引に前に出た。危ないっ、と堀内が思ったその時、土方は脱いだ羽織を常盤屋目がけて投げつけた。それを常盤屋が振り払う。だがその一瞬。土方は唸り声をあげ、常盤屋目がけ突進した。そして懐に入ると上半身を起こしざま、常盤屋の右手を激しく蹴り上げた。獣の断末魔のような低く細い声が、寺の中に響く。銀色の弧を描いて弾き飛んだ匕首が、畳に転がる。しかし常盤屋は斃れなかった。だらりと右手を垂らし、土方を睨み付けている。目は異様に据わり、歪んだ口元には笑いが浮かんだ。
「…面白れぇ」
 赤い舌が、ちろりと見えた。その舌を仕舞わない内に、凄まじい足蹴りが土方を襲う。それを辛うじて避けたが、体勢を整える間もなく、今度は左足が繰り出される。その執拗な攻撃をようよう交わしながら、反撃の隙を狙う土方の視界の端で黒い影が動く。その影が突然目の前に立ち塞がった。
「堀内さんっ」
 邪魔だっ、と叫んだ時だった。堀内が右に体を開いた。吸い寄せられるように、常盤屋が飛び込んで来た。堀内が腰を沈める。そしてその低い姿勢のまま、闇を薙ぐような一閃が走った。土方も伝吉も、一瞬、何が起こったのか分からなかった。我に返った時には、堀内は静かに刀を仕舞い、常盤屋は後方の壁に打ち付けられていた。
 ずるずると崩れ落ちる体を立ち直そうと、常盤屋は幾度か足掻いた。しかし口から大量の血を吐くと、そのまま動かなくなった。
「兄貴っ」
 総司と対峙していた男が悲壮に叫ぶ。
「このやろうっ…」
 憤怒の形相で、男が総司に襲い掛かって来た。その激しい攻撃を交わすと、総司はすぐさま攻めに転じる。
 最初の一撃を、男は僅かに飛んで交わした。が、間髪を置かず繰りだされた次の突きには一歩退いた。だが三本目の攻撃は、もっと鋭く男を襲った。男は踏鞴を踏んで後ずさった。その瞬間だった。男の目に青い光が走った。
 始め男は、自分の身に何が起こったのか分からなかった。しかし頬に触れる冷たい感触を探っていた視線が、凝然と止まった。頬と紙一枚の差で、壁に刀が突き刺さっていたのだ。男は正面に視線を戻した。自分を仕留めた若者は、青白い頬を紅潮させ、微かに息を乱している。男の背に冷たい汗が滴る。得も言われない恐怖が、男を襲っていた。男はごくりと喉を上下させた。そして云った。
「…殺しやがれ」
 男の目の中で、美しい顔が曇った。

「総司っ」
 苛立った声に呼ばれて振り向くと、すぐ後ろに土方が来ていた。
「何故来た」
「何故って…」
 不満げな総司の様子を無視して、土方は、常盤屋一味に縄をかけている山崎を一瞥した。
「教えたのはあいつか。余計な事を…」
 舌打ちせんばかりに吐き捨て、眉間を狭めたその時だった。顔に走った熱い衝撃に、土方は一瞬思考が飛んだ。頬を張られたのだ、と分かったのは少し遅れてだった。見下ろすと、睨み上げている総司の瞳とぶつかった。寸の間の沈黙の後、気付いたように、土方は周囲を見回した。山崎は唖然と此方を見ていたが、土方の目と合うと慌てて視線を逸らせた。屈みこんで山崎の手伝いをしていた堀内は背を向けている。だがその堀内にしたところで、今のは眼中に収めたに相違ない。土方は憮然と顔を顰めた。するとそれを見た総司が、はっとしたように目を瞬いた。そして顔を伏せ、小さく呟いた。
「…すみません」
 云ったまま、顔を上げない。ぶつけずには居られなかった憤りと、ぶつけてしまった後の後悔が、今交互に総司を襲っているのだ。その事が、土方には手に取るように分かる。
「いや…、いい」
 干からびた矜持が、中途半端にいらえを繕った。
「副長っ」
 その時、気まずさを遮るように山崎が近づいて来た。
「先程、伝吉を京都所司代に走らせました」
「ご苦労」
 むすりとした顔のまま、土方は頷いた。
「常盤屋ですが、命は助かりそうです」
 山崎は壁際に崩れ落ちている常盤屋を目で示した。
「それから、あの者達ですが…」
 そしてその目を奥の部屋へ向けた。そこには、直前まであった騒動など知らぬかのように、虚ろな目をして煙管を吸う男女と、その陰に隠れるように震えている僧侶がいた。
「従三位九条友兼卿です。それと卿の側室楓子です」
「どこまでも夢ごこちか…。気楽なものだな」
 土方は冷たい眼差しを男女へ向けた。
「九条家へ使いを出して、所司代が来る前に引き取らせろ」
「所司代への報告はどうしますか?」
「内密にする。だが九条家には褒美を貰う」
「…はぁ」
 目を瞬いている山崎を無視して、土方は鋭い目を奥へくれた。
「そこの坊主っ、お前もだっ」
 吐き捨てると、土方は部屋を出て行った。その後を、慌てて山崎が追う。だが土方を見送る総司の胸は重い。遣る瀬の無い息が漏れた。その時、不意に人の影が差した。
「総司殿」
 静かに呼びかけたのは堀内だった。
「堀内さま…」
「総司殿も、あのように恐くなる事があるのだな。まぁ、土方殿も、偶には尻の下に引敷かれるのも良かろう」
「何を仰るのですっ…」
「いやいや才気あふれる者は兎角暴走しがちだ。あれくらいの灸も必要」
 頬を紅くして抗議しても、堀内は堪える風がない。柳に風の風情で笑っている。
「それに気難しい馬に乗る者は、強引な位に手綱を引き締めるのが丁度良い」
「土方さんが馬…?」
「左様、馬だ。しかも利口な暴れ馬だ。育て方一つで滅多に無い名馬になるが、誤れば乱暴なだけの駄馬で終わってしまう。そうなるか否かは、総司殿の手綱さばき一つに掛かっている。これは大変な重責だ」
 堀内は大真面目に説く。それを唖然と見ていた総司だったが、やがて口辺に笑みが浮かんだ。心の裡に重く澱んでいたものが、いつの間にか雲散している。してやられたと、そちらの方が可笑しかった。その様子を見た堀内が、したり顔になった。
「機嫌が直ったようだな」
「はい」
 総司は素直に頷いた。こうも心裡を読まれては、最早降参する他ない。
「それは良かった」
 堀内は相好を崩したが、ふと真面目な顔になって云った。
「土方殿を庇うつもりはないが、ひとつだけ分かってやって欲しい。彼はどうしても幻の花が欲しかったのだ。その一念だった」
 総司は黙って堀内を見詰めた。
「それは土方殿だけではない。伊庭殿も田坂殿も…、私もだ。みな総司殿の事が大切なのだ。大切だからこそ、自分を見失ってしまった」
「……」
「我々にとって、雪蓮花は縋る藁だった。奪い、縋りたい藁だった。その正体も分からぬと云うのに…。愚かであろう?」
 堀内は嘆息した。そして心持肩を落とし笑った。哀しくなるような微笑だった。堀内のこんな淋しい顔を、総司は初めて見た。不意に目の奥が熱くなり、総司は慌てて首を振った。胸に熱く込上げたものが眦に滲み、危うく頬を滑りそうになったのだ。
「いいえ…。いいえ、堀内さま」
 それを誤魔化すように、もう一度大きく首を振った。
「そうか。では嫌われなくて済んだのだな?」
 すると堀内はおどけたように云い、幾度も頷いた。その時、俄かに人声が慌ただしくなった。
「九条家の方かな。思ったより早かった。汚点は早々に隠した方が良かろう」
 その声と入れ違いに、田坂と八郎が入って来た。
「一応、引き渡す前に九条卿も診ておきますよ」
 田坂は総司の前を通り過ぎ、仄暗い座敷に入って行った。八郎はと云えば、不貞腐れたような顔つきで田坂の背を見ている。だが総司には八郎の不機嫌の意味が分かるような気がした。堀内が云った通りなのだろう…。そう思った途端、八郎への、何とも言い難い、切ない慕わしさが総司の胸を鷲掴んだ。
「何だ」
 八郎が総司を睨んだ。
「何でもない」
「何でも無くはねぇだろう。笑っただろう、今」
「笑ってなどいない」
「いや、笑ったね。唇の端が動いた」
 八郎はしつこい。
「ほら、云ってみな」
 総司は苦笑したが、八郎の恐い目に促されると観念したように口を開いた。
「じゃぁ…」
「勿体つけず、さっさと云ってみな」
「八郎さん、ありがとう」
「……」
 八郎は面喰ったように総司を見た。だがすぐに眉根を寄せ、不機嫌この上ない顏になった。総司の言葉の意図したものが、八郎にも判じ得たのだ。そんな八郎の様子を、総司は困ったような笑みを浮かべて見ている。八郎の裡に、無念と腹立たしさと、そんなものが一挙に溢れ返る。しばらく無言で八郎は総司を見ていたが、やがて乱暴に、そして無言で背を向けた。
―馬鹿野郎だぜっ。
 総司の視線を感じながら、心の裡で吐き捨てた。
 何が馬鹿野郎なのか、八郎にも良く分からない。常盤屋に向けた罵倒なのか、それとも雪蓮花を手に入れることが出来なかった己の情けなさなのか。だが総司を救ってやる希は断ち切られてしまったのだ。その激しい口惜しさだけが、今八郎を襲っていた。

(二)

 所司代が到着したのは、もう四ツ半(夜十一時頃)を過ぎていた。その少し前に、八郎と田坂は寺を出た。
 月に暈が架かり、岩倉の里に薄ぼんやりとした光を投げかけている。林を抜けた所で八郎は立ち止まり、手にしていた提灯を雁通寺の方角へ掲げた。まだ小さな灯の動きがある。
「落ち着かないようだな」
 田坂が云った。
「突然の話だ。所司代だって段取り良くと云う訳には行かないだろうよ」
「土方さんは、どう説明するのだろうな」
「さぁね」
「案外、騙されましたと正直に答えるのかもな」
 他人事のような、田坂の調子だった。
「なぁ田坂さん」
 消える様子の無い遠くの灯を見ながら、八郎が云った。
「人ってのは案外他愛の無いものだと、俺は思うよ」
「何を藪から棒に」
 田坂は苦笑した。
「いや、本当の話。兎角人は自分に都合の良い方へ物事を信じ込むきらいがある。そして一度信じたら、目の前で起こった事実すら疑いかねない」
「……」
「現に俺は、あの寺のどこかに雪蓮花があるのではないかと、未だ希を断ちきれない。往生際が悪いだろう?」
 ちらりと向けた目が、自嘲するように笑っていた。だが田坂は笑わなかった。
「俺もそう思っているよ」
「ほう…」
 驚いたように八郎は目を瞠り、そしてその目を細めた。
「雪蓮花の存在を、あんたは信じちゃいなかったじゃねぇか」
「信じちゃいないさ、今でも」
 からかうような口調にも、田坂は乗って来ない。
「だが医者ではない俺は、雪蓮花の存在にもしやと希を持ってしまった。そしてこの希って奴が、なかなか手強く断ち切れない」
 そう云った顔が、苦く笑った。
「なるほど、名医も人の子か」
 八郎が頷いた。
「俺はあいつを治してやりたかった。ただそれだけだった。だがもしかしたら、俺自身が、雪蓮花があれば、あいつは治ると信じたかったのかもしれない」
 淡々と語る声が、闇の森に響く。
「しかしそう考えて見りゃ、全ては、俺自身の独りよがりに過ぎなかった」
「それでも、動かずにはいられなかったのだろう?」
 田坂に促され、八郎は黙って頷いた。
 束の間、二人は言葉なく足を進めたが、やがて思い出したように、又八郎が田坂を振り返った。
「そういや、総司が頬を張ったんだろう?」
「らしいな」
 その事は田坂も気になっていた。
 合流してすぐに、土方の左の頬が薄っすら赤くなっていたのに気づいた。総司を見ると、こちらの態度もぎこちない。これはと思いはしたが、その場で当人達に問う暇も無かったし、その後も慌ただしさに紛れてしまった。
「ありゃ、痛ぇな」
 まるで自分が張られたかのように、八郎が眉を顰めた。
「痛いか?」
「痛い」
 八郎は顔を顰めて頷いた。そして、
「総司の手は肉が無いからな」
 こう、骨が直に来る、と、己の手を頬に当てて真似た。
「それに、あいつは手加減と云うものを知らねぇ」
「なるほど」
「だがな、頬を張られた奴が羨ましいと、俺は思うよ」
「へぇ…」 
 素直な感想に、田坂は笑った。だがそれが何故だとは聞かない。八郎の本音と細やかな矜持は手に取るように分かる。
 田坂は足を止め、今一度北の方角を顧みた。雁通寺に灯の色はまだ揺らめいている。八郎に羨ましいと云われた男は、そこで忙しく指揮を執っているのだろう。
 視線を戻すと、八郎はもう一間ほど先を行っている。その背に、田坂は声を掛けた。
「おい、帰ったら一杯やらないか」
 返事の代わりに提灯を持った手が軽く上がった。
 まだ消えそうにない灯を背に、田坂は足早に八郎を追い始めた。






きりりく  秋霖(九)終章