秋霖 九
(一)
昼過ぎから雨が降り始めた日の夜、翌々日には江戸へ発つと云う堀内の為に、ささやかな送別の宴が催された。江戸の頃から堀内を知る、気の置けない者ばかりの宴は、酒が入ると忽ち無礼講の様相を呈した。
「中山道を行かれるのですか?」
近藤は早顔を赤くし、上機嫌だ。
「ええ」
その近藤に、堀内は穏やかな目を向けた。
「それが良いです。この時期は雨が多い。東海道では大井川で何日も川止めにあう危険がある」
「実はその川止めも、又一興と思ったのですよ。一生に幾度も体験できませんからな」
「ほう…」
近藤は小さな目を瞠った。目の奥に好奇の色が浮かんでいる。
「ではなぜ?」
「大げさな理由は無いのです。ただ初秋の中山道も風情があって良いと思った…、まぁ、そんなところですかな」
幾分照れくさそうに笑うと、堀内は手にした盃をあおった。
「なるほど」
その様子を見、近藤も頷いた。その時、
「あの…」
話が引けるのを待っていたように、遠慮がちな声が掛かった。
「どうした、総司」
近藤が訊き、堀内は口に運びかけた盃を止め総司を見ている。二人に見詰められ、一瞬、躊躇う風に総司は目を伏せた。が、すぐにその目を上げると続けた。
「堀内さまは、やはり目黒に引っ越しをなさるのですか?」
ずっと気に掛けていた事らしく、堀内を見る瞳が真剣だった。
「する。家督も譲る」
堀内は清々しい口調で語ると、笑みを浮かべた。そして膝を回して体ごと総司と向き合った。
「だが私は武士を捨てた訳では無い。どんな境遇に身を置こうと、私が武士である事には変わりはない」
総司は瞬きもせず、堀内の言葉を厳粛な面持ちで聞き入っている。だがその横顔には、皮膚を透けて出るような憂いの色が滲んでいた。そしてそんな総司の様子を、少し離れた席から、土方が目の端で捉えている。
総司の様子に、堀内が気付いた。そして忽ち顔を曇らせた。
「…もしや総司殿は、私が隠居する事を、自分の所為だと思っているのか?」
はっと、総司が顔を上げた。その瞬間を逃さず、堀内が総司の目を覗き込んだ。
「図星のようだな」
総司を見る目に、悪戯な色が浮かんだ。
「だが残念だったな、それは違うぞ」
堀内の視線から逃れられず、総司は狼狽えた。
「違うぞ、総司殿。これは誰の所為でもない。すべては私の考えの無さが始まりだ。まったくいい年をして情けない」
堀内は自嘲するように首を振り、そして苦々し気に呟いた。
「しかし、私も端から逆上せていた訳では無いのだ。雪蓮花の存在を知った時、そんな夢のような花があるものかと笑った。だが心の隅に引っかかったのも事実。それは日を追うごと存在感を増し、やがて私は花の事を調べ始めた。調べれば調べるほど、雪蓮花の効力は素晴らしかった。私は夢中になった。そして気づけば、必ずや雪蓮花を手に入れ、総司殿を江戸に連れ帰るのだと、奮い立つような使命感の中にいた。そう決め、残された人生をその為に費やすことが、至上の喜びのように思えた」
どこか夢を見ているように、一点を見詰め堀内は語る。が、その声がふと声が途切れた。そして夢から醒めたように、軽く首を振った。
「だがそれは違う」
そう云って総司に向けた目が、寂さを帯びていた。
「それは私の勝手だ。傲慢だ。総司殿には総司殿の生きる道が有る。人の人生を、己の勝手で捻じ曲げる事など許されはしない。そんな簡単な事すら、私は忘れてしまっていたのだ」
すななかった、と詫びる堀内の目が瞬いた。それは総司の初めて見る、堀内の気弱さだった。総司は慌ててかぶりを振った。堀内への、何とも言い難い、切ないほどの慕わしさが胸を締め付け、言葉を詰まらせる。総司は膳を横に退けると、居住いを正し、畳に手をついた。ゆっくり、堀内に向かい頭を下げる。
「…ありがとうございました」
だがそう云った後、またも声が詰まった。今度は目の奥までもが熱く潤み、瞼を開けられない。
「総司殿?」
なかなか顔を上げ無い総司を、堀内が呼ぶ。近藤も総司、と声を掛ける。
「…総司殿?」
また堀内が呼ぶ。今度は少し狼狽している。
答えも返せない焦燥の中で、しかし総司の胸は温かかった。父とは、こう云うものなのだろうか…、ふと、そんな事を思った。
(二)
闇の一点を、総司はぼんやりと見詰めていた。頭が重い。伸ばした四肢の先までが気怠い。だがどうしてこうなったのか、そこに至るまでの記憶がない。思い出そうとすると、頭の芯に鈍い痛みが走る。
総司は息を吐いた。すると、少し離れた場所で人の気配がした。驚いて視線を回すと、明り取りの窓に肘を掛けた土方が此方を見ていた。
「目が覚めたようだな」
薄闇の向こうから土方が訊いた。それに答えず、総司は黙って土方を見詰めていた。が、少しして、
「…ああ、そうか」
独り合点したように呟いた。思い出した、ここは堀内の送別の宴を催した、高瀬川沿いの船宿だ。
堀内を見送ったのは覚えている。だがその時には既に足元は覚束なく、土方に叱られながら支えて貰っていた。そんな事をも辛うじて思い出した。酒が過ぎたのは、堀内との別れに感傷的になってしまったからだ…。
「寝てしまったんだ…」
自分を見失ってしまった不甲斐なさが、情けない声になって漏れた。
「堀内さんを見送るまではしっかりしていたから安心しろ」
土方が苦笑した。
その声に励まされるように、総司は土方に視線を戻した。雨はやみ、月が出て来ているのだろう。障子に差した柳の影が、土方の後ろで、時折、風に絡むように揺れる。その葉擦れと、障子を叩く風だけが夜を奏でる音だ。
「近藤先生はどうしたのですか?」
「とっくに帰った」
「今、何刻くらいだろう…」
「八ツ(午前二時頃)近い」
「もう夜中だ…」
軽く吐息し、総司は胸を起こした。頭を枕から放した途端、一度くらりと景色が揺れたが、起き上がってしまうと、思いの外身体がしっかりした。
「寒くはないか?」
案じる声に、総司は首を振った。
「お酒のお蔭かな?」
「あんな程度の酒、とっくに醒めている」
「土方さんと違って、普段飲まないと効くのです」
土方は呆れた視線を寄越したが、それすらも嬉しそうに総司は笑った。
「羽織っておけ」
土方が、羽織を脱いで投げて寄越した。
「ありがとう」
今度は総司も素直に受け取った。今しがたまで土方の肩にあった羽織は、まだ人肌の温もりが残っていた。その仄かな温もりが、総司を幸福感で満たして行く。
「土方さん…」
窓辺の土方が、頬杖の上の顔を回した。
「ありがとう」
掌から顔を離した土方が、訝し気な表情をしたのが分かった。慌てて総司は続けた。
「あの、羽織ではないのです。……、心配をしてくれて、ありがとう」
「……」
寸の間、土方は総司を見、総司からも言葉が途切れた。土方が立ち上がった。そしてゆっくり総司の前まで来ると、向かい合うように腰を下ろした。瞬きもせず、息をも詰め、総司は土方を凝視している。その総司の頬に、土方は手を伸ばして触れた。冷たい頬だった。土方は指を滑らせ、やがて唇に触れるか触れないかの際で止めた。そうして暫く、総司の息遣いを確かめるかのように動きを止めていたが、やがて静かな声で云った。
「俺はまだ雪蓮花があると信じている」
総司の瞳が揺らいだ。
「莫迦な話だ」
ようやっと指を離した土方の口辺に、自嘲めいた笑みが浮かんだ。しかしその目の奥深くに、一点、細く頼りなげに揺れる色があるのを、総司は見逃さなかった。それは、土方が何より嫌い、彼自身からも周囲からも徹底的に排除してきた、人の持つ弱さだった。総司は言葉を失った。
「笑うか?」
問われて、総司は首を振った。そして土方を見、振り絞るような声で云った。
「笑わない」
「噓を云え」
土方は渋い顔をした。
「笑うなどするものか」
するとムキになって総司が云い返す。
「もういい」
突き放すように土方は云い、苦々しく顔を顰めた。正直、この話題に触れた事を後悔していた。偽雪蓮花に翻弄された己の滑稽さが、猛烈に腹立たしかったのだ。思わず舌打ちをした。が、その時だった。耳のすぐ近くで軽く乾いた音がした。土方は胡乱気に目を動かした。だが次の瞬間、その目は驚愕に見開かれた。
凝然と見上げる先に、総司が立っていた。帯を解き小袖も落とし、総司は裸身だった。月明かりが、若者の伸びやかな肢体を青白く浮き上がらせている。それを美しいと、土方は思った。
土方の前で、総司は膝をついた。そして己の左の鎖骨の辺りを、そっと指さした。
「この傷…」
其処には、皮膚を断つように、一本の白い線が走っている。
「覚えていますか?」
「…忘れるわけがない」
掠れた声で、土方は答えた。そして己の指で、その傷痕をなぞった。
ゆっくりと、なぞり終えても土方は傷痕を凝視し、やがて眉間に皺を寄せた。
「あの時、俺は生きた気がしなかった」
総司が微笑んだ。
その傷は、総司がまだ宗次郎と名乗っていた頃、土方との稽古中に出来たものだった。
土方自身、元々手加減など出来る男ではなかったが、このころの宗次郎は、既に土方の太刀筋を交わす技術を体得していた。だから土方も当然交わすと思い、手加減無しで突いた。しかしその時、宗次郎の前を小さな影が過った。影は試衛館の飼い猫だった。宗次郎は咄嗟に避けた。そのお蔭で、土方の突きが鎖骨の辺りにまともに入ってしまった。宗次郎の小さな身体は、まともに羽目板に叩き付けられたのだ。それから十日ほど、宗次郎は高い熱に魘され、その間、試衛館は重い空気に包まれた。。
「俺は生きた心地がしなかった…」
強張った表情で、土方は呟いた。
突きが入った瞬間の、握りしめた竹刀から伝わった重い手ごたえ。物音が止み、道場を包み込んだ異様な静寂。腕に抱えた宗次郎の、ぐったりと弛緩した小さな身体…。名を叫んでも叫んでも開かない、貝殻の裏のような薄い瞼…。そのどれもが、土方の手に耳に目に、まるで今起こった出来ごとのように蘇るのだ。
「あんな思いはもうごめんだ」
苦しい息を吐き出すように、土方は呻いた。その土方の手を、総司は取った。
「でも私は今、こうしてここにいる。…この時も」
そして今度は脇腹へと、その手を導いた。そこにも白い膚を裂くような傷があった。銃創の傷痕だ。その傷痕を、土方は食い入るように見ている。
「この時も、私は死ななかった」
目を上げた土方に、総司は微笑んだ。
「私は死なない。ずっと土方さんの傍らにいる。…土方さんを守って、ずっといる」
土方は物言わず、総司を凝視している。総司も土方を見詰めている。
蝋燭の芯が縮む音がし、焔が揺らめく。微かな風が、障子を鳴らし、夜の底を叩いて渡る。いくばくか、二人は言葉なくして互いを見詰めていたが、やがて土方が手を伸ばし、総司の腕を掴んだ。
「俺は忘れていた」
そしてその言葉も終わらない内に、素早く、総司を両腕に抱え込んだ。
「…土方さん」
「忘れていたよ」
「……」
「お前は強いと云う事を…」
首筋で囁く土方の声がくぐもった。その広い肩に、総司は額をつけ、そして目を瞑った。
「俺から離れるな」
「はい」
「ずっとだ」
「…はい」
土方の力は、骨が砕けるかと思うほどに強い。その腕に絡めとられながら総司は、この人を自分が護るのだ―、そう思った。
(三)
旅立ちの神と信仰が深い粟田神社は、今日も旅姿に身を包んだ人の参詣が絶えない。その粟田神社の鳥居の正面にある茶屋の床几に、総司は堀内と腰かけている。江戸に帰る堀内の、旅の安全を祈願した所だった。
このところ秋の訪れを感じる爽やかな天気が続いていたが、今日の空は、厚い雲が低く垂れこめ、しかも膚に触れる風は重く生ぬるい。遠くの山々は白く翳んでいる。
「大津まで降らなければ良いのですが…」
「なに、降られた処で知れている」
総司の杞憂を、堀内は笑った。
帰路に中山道を選んだ堀内だが、途中、久しく会っていない剣の友人達を訪ねる予定にしていた。その最初が、大津で道場を開いている幼馴染だった。
「大津には、どの位滞在されるのですか?」
「さて、どうするか…」
堀内は空になった湯呑を置き、雲の流れが早くなった空を見上げた。
「ずっと暮らしたらどうかと、あちらは誘うのだ」
「ずっと?」
「ふむ」
頷いて、堀内は眉を顰めた。
「どうせ帰ったところでする事も無い閑な隠居暮らしではないか、それなら道場を手伝っていた方が老い耄れずに済むぞなどと、全くもって無礼な事を云う」
不満を訴える口調には、その実、相手への深い親しみがある。
「だが本当の事を云えば、その提案に心が動いたのも事実。大津なら総司殿に何時でも会いに来られる。そのような訳で、少しばかり迷った」
冗談とも本気ともつかず、堀内は悪戯気な目を総司に向けた。その目に誘われるように、総司も笑った。
「堀内さんの稽古、見てみたかったな」
「おいおい、私は真剣に悩んだのだ」
笑う総司に、堀内は不服そうに云う。
「でも…」
だが総司の笑いはなかなか収まらない。
「でも?」
「本当に、大津なら良かったのに…」
ごく自然に零れ出た言葉だった。だが云ってしまってから、総司は、あっと云う顔をし言葉を失くした。そして慌てて目を伏せた。忽ち頬が赤くなる。自分でも気付かなかった堀内への甘えを、当の本人の前で吐露してしまった事に、猛烈な羞恥が襲って来たのだ。そんな総司の様子を、堀内は柔和な目で見ている。が、やがて、顔を上げよと促すように、総司の膝の上にあった手に自分の其れを重ねた。それでも総司は俯いたままでいる。だが堀内の武骨な手から伝わる温もりは、混乱する総司の心を安堵で満たして行く。
堀内の手の皮膚の厚さ、竹刀だこ、太い関節と温もり…。そのひとつも忘れまいと、総司は息を詰め、静かに目を瞑った。
――もう逢う事は叶わないかもしれない。
父上と、一度だけ、胸の奥底で呼ぶ事を、総司は自分に許した。
(四)
「…降ってきましたな」
山崎は報告書から目を上げると、障子を閉めに立ち上がろうとした。
「閉(た)たなくてもいいぞ」
それを土方が止めた。雨は細く、縁に吹き込むほどでは無い。それでも山崎は暫く躊躇するように外を見ていたが、土方の一瞥に合うと、慌てて居住いを正した。そして再び報告書に目を落とし、雪蓮花に纏わる事件の顛末を読み始めた。
京都所司代の調べによると、常盤屋は、江戸でむささびと恐れられている凶悪な盗賊だった。弟の節次と二人で、時に武家を装い時に商人の顔をし、人を騙し殺め、聞けば背筋が寒くなるような悪事を繰り返して来た。そして今回は逃亡先の京で、雪連花を利用し人稼ぎしようと目論んだ。その悪事に、東寺の長屋で暮らす彦左も巻き込まれた。
彦左は子供の病気を治す為に必死だった。その必死が呼び込んだのか、どんな病にも特効薬になる雪蓮花の存在を知った。しかし手に入れる術が無い、金も無い。そんな折、常盤屋の根付けを拾った。届けたら礼金が貰えるかもしれないと算段した彦左は、すぐに常盤屋を尋ねた。しかしそこで偶然にも、常盤屋と節次が、雁通寺の客を始末する相談をしているのを聞いてしまったのだ。彦左は震えただろう。しかし彼は病の子を持つ親だった。逃げ出す代わりに常盤屋を強請に出たのだ。そして雪蓮花を譲る約束をさせ、あの夜、雁通寺へ向かったのだった。
「…そして彦左は殺されました。その第一の殺人が、皮肉な事に、今回の事件を我々が知る発端となりました」
少々沈痛な面持ちで、山崎は報告書の最後を締めくくった。
「今後は京と江戸の合同で探索がなされるものと思います」
土方が頷いたのを見届けると、山崎は、それにしても…、と小さく続けた。
「親とは、子の為には、何にも勝り強くなれるものなのですな」
云ってしまってから、いえ、と軽く咳払いをした。らしくもない感傷を漏らした事に戸惑っているらしい。その山崎から目を離すと、土方は庭を見た。
銀糸のような雨は、音もなく降り続け、躑躅の葉を滑り土を濡らして行く。こう云う雨は染み入るように膚まで冷たくするのだ。出がけに、雨が降らなければ良いがと旅人を案じていた憂い顔を、土方は思い出していた。
(五)
寺町通から七条通りに出た所で西へ折れ、高瀬舟の回転場にかかる太鼓橋を渡ると人影もまばらになった。すると総司には、雨に沈む町が一層もの寂しさを増したように思えた。細い雨は、染みこむように身体を冷たくする。だがその雨を嫌うでもなく、総司の歩みは緩慢だ。前を見る目の、その瞼の裏には、山辺の道に小さくなって行く堀内の後姿が焼き付いている。喪失感にも似た深い寂しさが、今総司の胸を覆っていた。
烏丸通りを過ぎると、更に人影は少なくなり、東本願寺の土塀に差し掛かると、もう先に行く者も向こうから来る者もいなくなった。数軒先は、むせるような霧雨の中に沈んでいる。
足元にあった水たまりに気を取られ、一瞬、総司は視線を下にした。だが次に目を上げた瞬間、袴の裾まで濡れた足がぴたりと止まった。
土方は、淡色に染まった景色からのっそりと抜け出すように現れた。総司は瞬きも忘れ、その姿を呆然と見詰めている。やがて土方は立ち尽くす総司の目の前まで来ると、差して来た傘を押しつけ、もう一本の傘を振って開いた。
「この、莫迦がっ」
叱られて、ようやく総司が目を瞬いた。
「濡れ鼠で、ほっつき歩く奴がいるかっ」
雷は、立て続けに落ちる。
「七条に来るまでは、降っていなかったのです…」
「四の五の云うなっ」
不満げな声を太い怒鳴り声が掻き消す。思わず総司は肩を縮めた。
「帰るぞ」
云い足りない文句を切り上げるような乱暴さで、土方が踵を返した。その背に総司は訊いた。
「迎えに来てくれたのですか?」
土方は無言だ。だが総司は満足だった。土方に見えないように、ほんの微かに唇辺に笑みを浮かべた。
――土方が迎えに来てくれた。
小さな灯が点ったような温もりが、包み込むように総司の胸に広がる。
土方は足が速い。その土方に遅れないように、総司は時々速足になるのだが、距離は少しづつ開く。やがて二人の先に西洞院川が見えて来た。ここまで来れば、屯所はもう直だ。だが安堵は、再び、旅人を送った寂しさを呼び起こす。
もう峠を越えただろうか、雨に降られて難儀をしなかっただろうか…。
二度とまみえる事は叶わないと覚悟し、見送った背が脳裏を過る。するとその時。
「また会えるさ」
思いがけ無い近さで声がした。驚いて見上げると、足を止めた土方が真正面に立っていた。
「会えるさ、きっとな」
目を瞠る総司に、確かな約束を契るように土方は云う。その声の力強さに、不覚にも総司は目の奥が熱くなった。
「…はい」
声が湿りそうになるのを堪えて頷くと、何事も無かったかのように、土方はまた背を見せ歩き出した。急いで追いつき、総司も傍らに並んで歩き出す。
土方の歩は、総司に合わせるように少し遅い。総司は思う。
時々こうして、不意打ちのような優しさを土方は見せるのだ。だがそれはずるい。総司は恨めし気な視線を向けた。そんな事情など知る由もなく、土方は端正な横顔を見せている。観念し、総司は前を向いた。
西本願寺の長い長い土壁も太鼓楼も、そぼ降る銀の雫の中に沈んでいる。その煙景を見詰める総司の瞳の中で、慕わしい後姿が峠道に小さくなって行く。その背を、総司は追う。やがて背は、峠の向こうに隠れて消えた。
父上と、思わず呼んだ唇の動きを雨が消す。
堀内の影を探す総司の目に、秋霖が、静かに町を濡らして行く。
秋霖 了
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