玉 響(たまゆら) 壱
「この暑さってのはどうにでもなるってもんでも無さそうだが、
それにしても大概にして貰いたいもんだ」
昼酒の盃を形の良い唇にもって行きながら、
伊庭八郎はうんざりとしたように呟いた。
それを総司は困った様な笑みを浮かべて黙って見ている。
根っからの江戸っ子を自負するこの男には、
ねっとりと絡みつくような京の蒸し暑さは我慢がならないものなのだろう。
そんな総司の視線を感じ取ったのか、八郎は顔をあげた。
「なんだ、可笑しいか」
大人気ない愚痴を笑われたかと思って、八郎は少し顔をしかめた。
「可笑しくはないけれど・・」
総司は小さく笑った。
「可笑しいんだろ、笑っているぜ」
「八郎さんらしいと思って」
「何だ、やっぱり俺をからかっていやがる」
「そうではないけれど・・・」
そのまま言葉は続かず、八郎の子供のように拗ねた物言いが可笑しくて、
総司は声を立てて笑い始めた。
「埒も無いことで笑うのは相変わらずだな」
自分が笑われているのにも構わず、八郎の顔に怒気はなかった。
「そうかな」
まだ笑いを含んだまま、総司は八郎を見た。
まっすぐに自分を見つめてくる、総司の黒曜の瞳は底を推し量れぬ程濃く深い。
その瞳の奥に何を隠しているのか、自分だけが知りたくて、
八郎は昔も今も未だ呻吟の中にいた。
「お前さんこそ大丈夫なのか、この暑さ。体に辛くはないか」
さらりと問うたつもりだが、八郎の言葉に総司の顔が一瞬翳った。
八郎は総司の胸に巣食い始めた労咳を言っているのだ。
殊更に人にふれて欲しくはないであろう総司の心の内が、
笑みを消して戸惑うように揺れる視線で、八郎には手に取るように分かる。
それを痛ましいとは思ったが、今日こそはこの話題を避けて通るわけは行かない。
八郎が将軍家茂の警護の為、江戸から上洛したのが先月の五月。
京に落ち着くはずが、家茂の頻繁な下坂で大坂留まりが思いもかけず多い。
こうして二人で話をする機会を得られたのも、公務の多忙を縫ってのことである。
京に着いた時は新緑の季節だったのが、いつの間にか夏を前にした梅雨に入っている。
江戸を発つ前に、八郎には一つの決心があった。
それは京で新撰組にいる総司を、江戸に連れ戻すことだった。
昨年の夏新撰組が池田屋襲撃の際に、総司は喀血してその病が表に知れた。
池田屋事変のおちついた秋、隊士募集の為江戸に下った近藤勇から、
そのことを密かに聞かされた時の八郎の衝撃は大きかった。
近藤自身の胸の内にも苦しいものがあったのだろう。
語るその顔も又、苦渋に歪んでいた。
江戸に戻さないのかと詰め寄る八郎に、近藤は黙って首を振った。
幾度も説得を試みたが、総司は頑なにそれを拒んだという。
近藤達もすでに将来(さき)を限られてしまったこの若者の不憫さが先立って、
周囲ではその話は禁句として暗黙の了承事となっているという。
近藤の話を聞きながら、八郎は血が滲む程に唇をかみ締めた。
悔しさと、情けなさだけが先に走った。
池田屋襲撃のほんの一月程前まで、やはり上洛した将軍警護の名目で八郎は京に居た。
滞在は四月余りだったがその間、総司はそんな病を身に宿している素振りなど、
微塵も見せなかった。すでに総司の体には異変が起きていたはずだ。
何故、気づいてやらなかったのか。
だが総司がそこまでして体の不調を押し隠さなければならなかった理由(わけ)も、
八郎は嫌と言うほど知っていた。
その理由(わけ)が八郎の胸を押し潰さんばかりに苦しめる。
そしてそれは、総司への恋慕と常に背中合わせにある。
「体は、大丈夫なのか」
もう一度真顔に戻って問うた八郎に向かって、総司は曖昧に頷いた。
「八郎さん・・・、近藤先生に聞いたのですか」
小さく呟いた総司の声音に、諦めの色が入り混じる。
「聞いたよ」
手酌で酒を盃に注ぐと、八郎は次に続けなければならない言葉の重さに負けぬように、
一気にそれを飲み干した。
そのまま真っ向から総司を見据えると、
「総司、俺はおまえを江戸に連れて帰る」
江戸前の早口の八郎が、それだけは一言一言区切るように、ゆっくりと告げた。
思いもかけぬ八郎の言葉に総司は息を呑んだ。
「何を・・」
八郎の痛いほどの視線に射られながら、
ようやく喉の奥からそれだけを絞り出した。
「冗談を言っているんじゃないぜ。俺はお前を江戸に連れて帰る。
嘘で無い事は、お前が一番よく知っているはずだ。
俺の気持ちも、お前は知っているはずだ」
「八郎さんは酔っている」
投げるように言い捨てて、座を立とうとした総司のその腕を八郎は素早く掴んだ。
「逃げるのか」
「逃げる?」
掴まれたまま強引に向かせられた顔を上げ、
総司は初めて挑むような強い目をして八郎を見た。
黒曜の闇が、さらに見るものを深く誘う。
この目だ、と八郎は思う。
土方を忘れる為に抱いて欲しいと泣かれた、あの時と同じ色の瞳だ。
そして自分はこの目に惑わされ、
己の中に堅く閉じ込めていた総司への激しい恋情の封印を解き、
ただその思いのままに流された。
「お前はいつもそうして逃げる。二年前に俺に抱かれたときもそうだ。
お前は土方さんへの自分自信の思いの辛さから逃げたいだけだった」
片手を掴まれているだけなのに、総司は自由を完全に奪われて顔だけを背けた。
「・・・あの事はもう、終わった」
呟きの最後は自分自身に言い聞かせているように、儚く消えた。
「終わっちゃいねぇよ。少なくとも俺はな。今もこうしてお前を思い続けている」
「約束が違う、八郎さん」
背けた顔を今一度上げて細く叫んだ総司の声は、悲鳴のそれに似ていた。
「一度、・・・一度きりの事と忘れてくれる約束をしたはずです」
総司の白磁の頬に刷くような濃い朱が走った。
それは怒りの感情以外の何ものでも無かった。
「そうだ、確かに約束だったな。
お前は土方さんへの思いを断ち切る為に、俺に抱かれた。
だがそれでお前は土方さんへの思いを断ち切ったか、断ち切れたのか総司」
真っ直ぐに問いかける八郎の視線は、総司に逃げることを許さない。
「断ち切れる訳がない。俺もそうだ。お前を断ち切れない」
八郎は掴んでいた総司の腕を強く引き寄せた。
その力にあらがいながらも、負けて自分の胸に抱きこまれた総司の体は、
八郎が哀しくなるほど細かった。
そのまま抵抗する総司を片手で抑え込むようにして、
もう一つの手で頤(おとがい)を掴んで強引に上を向かせると、
己の唇を総司のそれに合わせた。
自由を奪われて総司は目を瞠ったまま、なすがままにされていたが、
やがて唇を割って入ってくる八郎の舌を、一瞬目を瞑って噛んだ。
「つっ・・・」
八郎の顔が歪んだ。
渾身の抵抗に思わず八郎が力を緩めた隙に、総司は素早くその腕から逃れた。
息が上がって荒い呼吸を繰り返しながら、総司は八郎を強く睨んだ。
八郎の唇の端から僅かに朱い血が滲んでいる。
その視線を逸らせもせず受け止めて、
「悪かったとは思っていないぜ。これが俺だ。
お前を諦めきれない、掛け値無しの俺だ。覚えておいてくれ」
告げた八郎の声はすでにいつものそれに戻っていた。
その声音の中にある八郎の確かな真実に、総司は居たたまれず身を翻して廊下に出た。
足早に去ってゆく足音を聞きながら、八郎は酒を盃に注いだ。
「野暮も酔狂も貫き通せばりっぱに真実(ほんもの)ってね・・・」
そのまま一気に飲み干した酒は、とっくに冷めているはずなのに、
やけに熱く八郎の喉を過ぎて行った。
「ざまぁねえや・・」
知らず、自嘲の笑いが低くこぼれた。