玉 響(たまゆら)弐
空を覆っている厚い雲が、今の総司にはありがたかった。
明るい日差しの下を歩くのは、今の自分には眩しすぎる。
足早に歩きながら通り過ぎる風景は、
視界から脳裏に届くことなく、ただ流れて行く。
『お前は土方さんへの思いを断ち切れたのか』
先ほどの伊庭八郎の声が耳に深く残って消えない。
八郎と会った祇園近くの料理屋から逃げるようにして夢中で来たが、
屯所に近い堀川まで来ると、総司はやっと立ち止まって一度大きく息を吐いた。
この重い気持ちを引きずったままの顔を土方に見せる訳にはゆかない。
人の機微に敏感な土方である。
何を言わずとも総司の精神に何かがあったと察するに容易であろう。
そして問い詰められたとき、
今の自分はそれを上手にかわせる自信がなかった。
そのまま川原におりると、浅い川辺の縁に腰を下ろした。
八郎に抱かれたのは確かに二年前。
試衛館全員が浪士組に加わって京への上洛を決めた寒い日だった。
そしてその夜、総司は自分から八郎に抱かれることを望んだ。
あの時自分は土方への思いの丈(たけ)を、
一つ残らず胸の内の一番奥深くにしまいこんで、二度と開けてはならぬと決めた。
どんなに恋しかろうが、どんなに切なかろうが、
自分は微塵もこの気持ちを土方に悟られてはならないと決めたのだ。
それは土方その人の為であった。
野望とも言える大志を抱いて京に上る土方の、
この身全てをかけて力になると決めた時、
胸に秘める恋情は、土方の負担になるだけものだと捨てる決心をした。
土方はその望みを果たす為に鬼にも蛇にもなると言い切った。
ならば自分も共に鬼になるつもりだった。
だが言葉で切り捨てるように、人の思いは容易に捨てられるものではない。
抑えれば抑えるほど、堪(こら)えれば堪える程、
土方を慕う激しい感情は総司の中でそのうねりを高くして行く。
自分の思いが抑えきれない程に高まった時、
総司は八郎に抱かれることを望んだ。
たった一度自分の心を裏切って、他の男に身を委ねることで、
自分自身に罪をつくり、その罪を封印として土方への思いを抑えようと決めた。
浅はかと言えるかもしれない決断だったが、
追い詰められた総司は、そうするより自分の心を抑える方を知らなかった。
そうして自分はその胸の内にある
土方への恋情を抑えられるはずであった。
だが心と体はいつも総司を裏切る。
抑えたはずの思いは常に表に出ようとして未だ総司を苦しめている。
そしてもうひとつ自分を重く縛って離さない事実を、
総司は感じないわけには行かなかった。
あの日八郎に抱かれて総司は土方への思いを断ち切るはずだった。
その為に抱かれるのだ。
それは罪であり、ただ苦痛だけであるべきはずのものだった。
抱かれながら羞恥に震え目を堅く閉じ、
体を開かされる恐怖に怯えて八郎に縋り、
そして身を引き裂かれる苦痛にその背に爪を立てた。
唇を噛み締め、体を強張らせて襲う激痛に耐えながら、
しかしそれだけではなかったことを、総司の体は覚えている。
あの時自分は微かではあるが、苦痛の中に悦びの片鱗を見つけていた。
八郎に揺らされる度に、経験したことの無い淫らな感覚を知った。
それは行為のほとんどが苦痛に終わった中で、
本当に僅かではあるが、消えぬ事実として総司の体の中に残っている。
もしかしたら意識が放り投げだされる瞬間、
自分は悦楽の声を上げていたかもしれない・・
罪を犯すはずの行為の中で悦びを感じた自分が、
恐ろしい魔物の様に思えて、それが総司を苦しめていた。
『断ち切れるはずがない』
土方への総司の恋情を、八郎はそう言い切った。
総司は吐息の様な微かなため息をつくと、
川原に散らばる小石の一つを掴んで川に投げた。
水に落ちた石は小さな音を立てて底に沈む。
沈みながら、幾重にも水面(みずも)に輪を作った。
それは自分の胸に先程八郎が投げかけた波紋に良く似ていた。
西本願寺の一角にある新撰組の屯所に戻ったとき、
副長室で土方は外出の支度をしていた。
黒い麻の一重の羽織に袖を通すところで、入って来た総司を見ずに、
「早かったな、伊庭とは・・・」
言いかけたが、顔を上げて総司を見るとそこで言葉を切った。
「・・・何かあったのか」
「何も」
土方の怪訝そうな視線を避けて、総司は心内を悟られぬよう短く応えた。
「八郎さんに昼をご馳走してもらいました」
さりげなく話題をかわしながら、見透かされた動揺を抑える。
「伊庭と喧嘩でもして来たか」
「何も無いと言っているではありませんか」
自分の視線を受けて、総司の黒曜の瞳が僅かに揺れたと
土方が思ったのは、ほんの一瞬のことだった。
総司はその果ての無いような深く黒い瞳の底に全てを隠してしまう。
怒りも、悲しみも、憤りも・・・いつもそうだ。
一旦隠してしまった心を総司は決して見せはしない。
土方は胸の内だけで小さく溜息をつくと、それ以上の詮索を諦めた。
「今日はどちらへ行かれるのです」
問う総司の声にはいつもの明るさが戻っている。
「近藤さんが紀州藩の三浦さんに伊東を紹介するといっている。
堅い席ではなく島原でということだ。帰りは遅くなる」
紀州藩京都藩邸の公用人、三浦休太郎は近藤と親交が深い。
昨年秋江戸から参謀として招いた伊東甲子太郎を、
先月国元から戻った三浦と引き合わせるつもりなのだろう。
「島原で・・・」
「島原に三浦さんに馴染みの女がいるらしい。近藤さんも気を利かせたのだろう」
その遊郭に土方も行く。
接待に遊郭の茶屋を使うのは今に始まったことではない。
いい加減に慣れれば良いものをと思うが、
ちくりと総司の胸に棘(とげ)がささる。
その痛みが段々に大きくなって行くのを、総司はもてあました。
「それより、明日は『一』のつく日だったな」
ふいに土方は思い出したように言った。
「あ・・」
言われて総司は慌てた。
毎月一の付く日に医者に通うことになっている。
胸の病が発覚しても京に留まるという総司に、
これだけはと土方が約束させた決め事だった。
「忘れていたわけではないだろうな」
土方の端正な顔が総司を軽く睨んだ。
「忘れてなどいるものですか。明日巡察を終えたら行くつもりでした」
総司のとって付けた様な返事に土方が苦笑したとき、
駕籠の用意が出来たと、見習いの隊士が呼びに来た。
早くに休むようにと言い置いて出かけて行く土方の背を見送りながら、
総司は知らず胸に手を当てていた。
白粉と鬢付油の香があふれる其処(そこ)に、
行ってくれるなと袖を引いて引き止めたい。
その思いを必死で抑えるように、胸に当てた手が震えた。