玉 響 たまゆら(参)

 

 

 

「もういいよ」

 

素の肌に耳を付けて、患者の繰り返す呼吸から、

微かな異変の兆しをも聞き逃すまいと耳を澄ましていた

田坂俊輔医師の手がゆっくりと離れると、

総司はほっと息を漏らした。

 

自分の胸から顔を上げて見る医師のそれが、

いつもより少しばかり険しく見えたが、

総司は知らぬふりをして目をそらした。

 

 

 

「今日はあまり良いとは言えない具合だよ。

自分でもわかっているだろう?」

 

脱いだ着物の袖に手を通しながら、

田坂医師の言葉に総司は小さく頷いた。

 

 

 

そのことは自分で一番良く分かっている。

確かにこのところの急激な暑さと、

梅雨のもたらす湿気とで気分がすぐれない。

加えて昨夜は伊庭八郎の、思いもかけない告白に一睡もできなかった。

土方との約束がなければ今日の受診はやめておきたいところだった。

 

 

 

「急に暑くなったのでそのせいかも・・」

この若い医師の前では隠し切れるものではないと観念して、

総司は今日の不調をそんな言葉で誤魔化した。

 

 

「この陽気だ。健康な者でも体調を崩しやすい、

と言いたいところだが、君の場合はそんなことを言ってはいられない」

若い医師の言葉は飾りが無い分、容赦も無い。

田坂医師の正義感は、患者の病への諦めを許さない。

 

 

 

 

田坂俊輔はひょんなことから、

新撰組局長の近藤勇が知り合った町医者であった。

 

 

 

 

今年になってまだ春とは名ばかりの三月も終わり頃、

公用の帰りにふと妾宅に立寄る気がおきて、

供の者を先に屯所に帰し、一人歩きを始めたその刹那、

四人の刺客に襲われた。

 

敵に囲まれながら、普段なら絶対にしない一人歩きを、

ふらりとしてしまった気の緩みが、

咲き始めた桜花に浮かれたせいだと笑う余裕が近藤にはあった。

 

近藤とて江戸では小さいながらも試衛館という町道場の当主であった。

腕に自信は有り余るほどある。

 

 

三人を倒して四人目に刃を向けた時、

僅かに起こった風に柳の枝が揺れたのに、一瞬気を削がれた。

 

その隙を突いて襲ってきた敵を辛うじて倒したが、

自分の黒羽二重の羽織の袂をも切られた。

 

 

慣れぬ事をするものではないと苦笑して、

ついた刀の血を振って拭っていた時に、後ろから声を掛けられた。

 

声に振り返った近藤の視線の先に、

白い前掛けのような物を付けた若者がいた。

 

 

 

「卒時ながらその腕の傷、手当てをして差し上げたいと存じるが」

辺りに広がる血の海の光景に臆する風でもなく、

若者は近藤に向かって言った。

 

言われてみれば微かに左の二の腕に熱くうずくところがある。

気が付かなかったが、先程かわし切れずに

相手の切先(きっさき)で傷つけられたらしい。

 

 

若者は自分は医者で、このすぐ先が自宅だと言って近藤を誘った。

 

返り血を浴びたこの態(てい)では妾宅にも屯所にも戻るに躊躇がある。

よく見れば白い前掛けのようなものは確かに医者のそれらしい。

手に提げているものは薬入れだろう。

 

ひとつこの若者を信じて、好意を受けてみようという気になったのは

あながち夜桜に誘われた酔狂ついでだけでもなかったらしい。

若者の臆さない度胸の良さが妙に気に入ったに他ならない。

 

 

近藤は後始末の為に一旦近くの番所まで足を運んだあと、

同道して来た若い医師に誘われるまま、その家の門をくぐった。

 

 

 

田坂俊輔の家に招きいれられて、手当てを受けながら聞けば、

この青年医師は本来が本道(内科)の方を専門としていると言う。

だが傷を手当てするその鮮やかな手際の良さは、近藤を驚嘆させた。

 

専門外の治療でこの腕ならば、本来の本道の腕は察するに余りある。

近藤の推測は腕に白い晒しを巻かれる頃には、すでに確信になっていた。

 

 

治療が終わると、近藤はこの医師に深く頭(こうべ)を下げて、

かねて懸念していた総司の主治医となることを頼み込んでいた。

 

 

 

 

 

田坂俊輔医師とはそんな経緯があった。

 

 

「いつもよりも少し強い薬を処方するが、これはほんの一時凌ぎだ。

今度は五日後にもう一度来なさい。

その時に今と変わらなければ、近藤さんに休養の許可をもらうよ」

 

それが脅しでないことを総司は知っている。

 

 

自分より五つ年上のこの医師は、

患者の治療に関しては確固たる信念を持ち、

その信念の為ならばどんなことも厭わないだろう。

 

 

「五日後・・」

「そう、今度は五日後だ。忘れてはならないよ。

それから来ることができないという言葉も、聞くわけにはゆかない」

田坂の言葉には治療の為には甘えを許さない厳しさがある。

 

諦めた様に総司が曖昧に頷くのを見届けると、

頑強と言うでもないが、逞しいとは十分に言いえる背を向けて、

田坂は診察室の隣の、薬棚ばかりが並ぶ部屋に入って行った。

 

その背を見送りながら、総司はふとこの医師に聞いてみたくなった。

 

 

「田坂さん・・」

 

遠慮がちな声に、薬棚の引き出しから

処方する薬を取り出していた田坂が振り向いた。

 

そのままの姿勢で、何かを言いたそうな総司の口が開くのを、

田坂は辛抱強く待ってやる。

 

 

診察を初めて受けた時、総司は田坂から『先生』と呼ぶ事を禁じられた。

根気良く付き合わねばならない患者に、少しでも親しみを覚えさせて

病の辛さの本音を聞きたいという田坂の考えからだった。

 

 

少しの間、総司は言葉にするのを躊躇していたようだったが、

やがて決めたかの様に、先程よりも強い瞳の色で田坂を見た。

 

 

「私はあとどれほど、生きることができるものなのでしょうか」

 

 

問う声音は乾いていたが、総司の黒曜の瞳は更にその色を深くして、

田坂に嘘は許さないと迫る強さがあった。

 

 

 

その射るような視線に、田坂は小さく溜息をついた。

 

 

 

 

 

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