玉 響 たまゆら(四)
思えば束の間の沈黙であったに違いないが、
先に目を逸らしたのは総司の方だった。
「・・・つまらぬ事を聞きました。堪忍して下さい」
そのまま下俯(うつむ)いて顔を上げられない。
田坂医師の視線が、今の総司には正視に耐えられなかった。
たとえ明日をもしれない難かしい患者であろうと、
死なせることを前提には、決してこの医師は治療を施さないであろう。
田坂医師は全力を尽くして、消えかかる命を引き戻そうとするだろう。
田坂とはそういう医者だった。
ここに通い始めて総司は、田坂の医者としての信念を常に目の当たりにしている。
その田坂に向かって、自分から命を見限るようなことを口走ってしまった。
心の弱みを、つい見せてしまった自分の愚かさが情けない。
(自分はこんなに弱い人間ではなかったはずだ・・・)
いつの間にか体と一緒に心まで、
自分の思うにならなくなっている不甲斐なさに、総司は唇をかんだ。
「自分の限界を知りたいと思う心は誰にでもある。
それが重い病を抱えた人間ならばなおさらのことだ」
思わぬ近さで聞えた田坂の声に、総司は驚いて伏せていた顔を上げた。
田坂は総司のすぐ前に腰を下ろそうとしていた。
「だが沖田君、自分の命を見限る為に、
その限界を知ろうと言う人間に、私は答えることはできない」
田坂の言葉は厳しいが、その声音にはしみいるような慈しみがあった。
患者が己の宿業に負けて、捨て鉢な感情に走るのは良くあることだ。
だが田坂は目の前の、自分よりも年若いこの患者が、
多分それだけではない理由で、先程の言葉を吐いことを懸念していた。
今まで見たことのない総司の暗い瞳に、何かしら心に引っかかるものがある。
「本当に、浅はかなことを・・。許して下さい」
この医者の自分への真摯な態度に対する裏切りに、総司は深く頭を下げた。
うな垂れたうなじの頼りなさが、
この若者の本当の姿のような気がして、田坂はふと痛ましく思った。
新撰組の沖田といえば今洛中の勤皇志士達に、昼に夜に恐れられている剣客だ。
田坂とて初めて会った時には、これがその沖田かと疑いたかった。
白刃を振るう血塗られた日々の中で、労咳という宿痾を抱える身ならば
当然あってしかるべき翳りというものが総司にはなかった。
見ればいつも笑みを絶やすことなく、弱音の一つも口をつかない。
見かけを裏切るその強靭な精神力に、正直田坂は舌を巻くものがあった。
だが今自分の前に頭(こうべ)を垂れて許しを乞う総司は、
田坂の目にあまりに脆く映る。
「私の物言いはやっぱり容赦が無いと、君もそう思うかい?」
突然の呼びかけに顔を上げて、
総司は田坂が何を言わんとしているのか訝しむようにその顔を見た。
見つめた視線の先にある田坂の顔に、照れくさそうな笑いが広がった。
その笑い顔につられて、思わず総司も小さく笑った。
「容赦があるようになったら、それは田坂さんではありません」
「身も蓋も無い言い様だな」
「お互い様です」
くすりと笑った時、総司の顔も声も、田坂の知っているいつものそれに戻っていた。
「私のこのはっきりと言い過ぎる性格は母親譲りさ」
「お母上の?」
田坂は笑いながら頷いた。
「私の母は江戸の柳橋の芸者でね。
気風(きっぷ)の良さを父に気に入られて妾になった」
初めて聞く田坂の身の上話に、
総司は何と答えて良いのか分からず、黙って聞いていた。
「私は生まれてすぐに本家の父の家に引き取られたから、
母の顔形も覚えていないが、折にふれ父が、この気性を母譲りだと言っていた」
「お父上は?」
「大津の膳所藩の江戸藩邸詰めの武士だった」
「ああ、それで田坂さんには上方の訛りがないのですね」
総司は江戸にいたという田坂の言葉に頷いた。
「十五の元服前までは江戸で育った。それから京で医者をしていた
遠い親戚筋のこの家に養子に来たからね」
「でも田坂さんには武士よりも医者がお似合いです」
「まぁ私のこの気性なら、腹を切るのも一度や二度では済みそうにないからな」
心底そう思っているのであろう田坂の、情けなさそうな言葉に、
総司はとうとう堪えきれずに声を立てて笑い出した。
その笑いが小さな咳を誘った。
「ほら、人のことをそんな風に笑うから罰(ばち)があたったのさ」
憎まれ口を叩いて、さすってやる背中の持ち主が、
この骨ばった薄い背で凌ぐものが、どうか少しでも優しい風であって欲しいと
田坂は何故か切ない感傷に捕われていた。
田坂の診療所を辞す時には日は西に傾き、
すでに夏の残照が眩しかった。
「五日後にもう一度くるんだよ。忘れないように」
「はい」
玄関まで送りに出てくれた田坂に礼を言って背を向けたが、
二、三歩あるいて立ち止まると、総司はくるりと振り向いた。
「田坂さん・・」
「何だい」
田坂は玄関の格子に背を軽くもたらせて、腕を組んで総司を見ている。
「さっきはどうして私なぞに、お母上の話をして下さったのです」
「・・・さて、どうしてだろうな」
田坂は射す西日にまぶしそうに目を細めて、
自分でも分からないという風に、唇の端を緩めただけで笑った。
「何となく君に話したくなった。そういう時も人にはあるものさ。
そんないい加減な理由ではいけないかい」
総司はあわてて頭(かぶり)を振った。
そのまま何かを思うように立ち尽くしていたが、
「いつか私の話も聞いてもらえますか・・」
遠慮がちに問うた黒曜の瞳が微かに揺れた。
「待っているよ」
田坂のその声に励まされる様に、嬉しげに総司は笑った。
だがその日はこの身が朽ち果てようとも
決して来る事が無いことを総司は知っている。
己の胸の奥に仕舞い込んだこの思いは誰にも触れられることなく、
わが身と共に葬られるのだ。
それでも『いつか田坂に・・』との約束は、
総司に現(うつつ)の苦しみから一時の開放をくれるものの様に思えた。
「いつか、きっと・・・」
果たされることの無い約束をして、総司は今一度、田坂に背を向けた。
屯所に戻った時にはすでに辺りは薄闇に覆われ始めていた。
五条にある田坂の診療所から西本願寺までの距離は、
いつもならそう苦になるものでもないが、さすがに今日は疲れていたのか、
ここまでの道のりがいやに長く感じられた。
屯所の玄関口を潜るや否や、見習の局長付隊士に呼び止められた。
「沖田先生がお帰りになりましたら、局長室に来られるようにとのことです」
「何かあったのですか」
「いえ、お客様がお出でのようです。上様奥詰の伊庭殿とおっしゃいましたが・・」
「・・・伊庭・・」
総司の声は表に出ることなく、喉の奥で絡んで消えた。
顔が強張るのが分かる。
指先が血を吸い取られるように冷たくなってゆく。
「沖田先生・・」
急変したかにも見える総司の様子に隊士が慌てた。
「何でもありません。・・・土方さんは?」
「ご一緒に局長室です」
「・・・そうですか」
安心させるよう、に笑いかけたつもりだったが、
それが何の役にも立たない程、自分の顔は青ざめているらしい。
見習の隊士はまだ心配げに自分を見ている。
長い廊下の先に局長室がある。
そこに伊庭八郎がいる。
そして土方も・・。
足元が波にさらわれるように、不安定に揺らいでいた。