玉 響 たまゆら 五

 

 

 

薄闇に灯をともした局長室から賑やかな声が聞えてくる。

自分の心とは反対に、歩みが段々とそれに近づく。

 

部屋のほんの手前まで来て立ち止まると、

総司は一度目を瞑り、それからゆっくりと開いた。

 

 

 

「おお、総司もどったか」

廊下に向かって開け放した障子の陰からその姿を見ると、

近藤は機嫌の良い声をかけた。

 

「邪魔をしているよ」

近藤の声に重ねるように聞えてきたのは、

伊庭八郎の、少し低いが艶のある声だった。

 

 

「いらっしゃい。昨日はご馳走様でした」

笑みを浮かべてそれに応えながら、

自分の声がいつもと変わらぬものであることを確かめる。

 

「馳走したって言うほど立派なもんじゃなかったがな」

苦笑気味に言う八郎の、言葉の奥に含まれた違う真実を、

総司は八郎から目をそらすことで聞き流した。

 

 

「伊庭君は明日の朝にはまた大坂に発つそうだ」

二人の間に流れる微妙な空気など、とんと気が付かない近藤が総司に向かって告げた。

 

「明日?」

「上様が大坂がいいって言うんだ。しょうがねぇや」

 

八郎は総司達が京に上った一昨年の文久三年に、

将軍家茂の親衛隊というべき『奥詰』に選出されている。

それゆえ将軍上洛の際には常に警護の為同行しなければならない。

 

 

「伊庭君、上様は今度はどの位こちらに御留まりになられるのであろう」

元々が政治好きで、今では幕閣の一隅を占めるとひそかに自負する近藤は、

当然のことながら、将軍家茂の挙措を気にした。

 

「さぁ、どうってもんでしょうね。上様ご自身がどうのというよりも、

周りのうるさい連中がいろいろとやっているみたいですからね」

 

 

 

しばらく酒の肴に表向きの話題で盛り上がる、近藤と伊庭の声を聞きながら、

総司はこの席で八郎が、昨日の事を蒸し返す心積もりはなさそうなことに安堵した。

 

 

 

「時に土方さん」

近藤と話していた八郎が、ふいに話題を土方に振った。

 

「あんた、上の色町(上七軒)にずいぶんと馴染みがいるんだってね」

 

油断していただけに、一瞬にして総司の表情が強張った。

何気ない色町の話題をしているだけなのに、

総司にはそれが八郎の土方への挑発に思えた。

 

「子楽のことか」

「子楽っていうのかい。いい女なんだろうねぇ」

「ただの馴染みだ。愛想がない分こちらも気を使わなくていい」

「相変わらずつれないね、あんたも」

八郎は土方のにべもない言い方に、唇の端をゆがめて笑った。

 

「色事に情を混ぜるのは無用のことかい?」

「今はいらんな」

「新撰組一筋か・・。唐変木(とうへんぼく)になんなきゃいいけどね」

「酔ったか、伊庭」

 

絡まれて苦笑する土方の声を聞きながら、

総司はその二人の会話が、そのまま事無く終わってくれるのを、

ただ、ただ祈るような気持ちで待っていた。

 

 

いつもとは違うその総司の様子に、土方が気がついた。

 

「どうした、総司。疲れたか」

実は総司がこの部屋に入ってきた時から、

どことなくいつもと違う様子が気にかかっていた土方だった。

 

 

「いえ、疲れてなどいません」

「医者に行っていたんだって?」

横から八郎が言葉をはさんだ。

 

「顔が疲れたと言っている。今更伊庭には気を遣う間柄でもなかろう。

失礼して先に休んだらいい」

 

土方の言葉に総司は大きく頭(かぶり)を振った。

「大丈夫です。部屋が暗いからそんな風に見えるだけです」

 

 

だがそういう総司の顔色は、夜だからと言うのを差し引いても、

ずいぶんと青く見えて、土方は眉根を寄せた。

 

普段は素直すぎる程で、どちらかと言えば大人しい部類に入るのに、

こんな風に総司が言い張るときは、誰がどんなにしようとも、

頑として我を通して、人の言葉は聞き入れない。

 

気心の知れた伊庭に失礼などなかろうにと、

他愛もないことにこだわる、今日の総司の意固地さが土方には分からず、

そのまま黙って総司の横顔を見た。

 

 

そんな土方の憂慮を察したのか、

「そろそろ俺は帰るよ。舟を使うとはいえ、

明日明け方には京をたって昼前までに大坂に入らねばならない」

言いながら、八郎は脇に置いてあった大小を取って立ち上がろうとした。

 

 

「おお、それはご苦労なことだな。今度京に来る時は新撰組を宿にしてくれ」

近藤は昔馴染みの客人にどこまでも機嫌がいい。

 

「有り難いが新撰組に寝泊りしてたら、こちらまで手を貸せと使われそうだ」

冗談めかして笑いながら、近藤や土方に見送られて廊下にでようとした八郎が

ふと、総司に視線を送った。

 

「門のところまで送ってくれるか?」

その目に逆らうことができず、総司は黙って頷いた。

 

 

 

 

 

屯所にしている建物の入口から、七条に開く西本願寺の門までは距離がある。

総司は八郎よりも少し後ろを歩きながら、二人とも暫らくは無言だった。

 

 

「きのうは俺が堪えどころがなかったな」

八郎の声は総司の耳に少し気弱に聞えた。

 

「怒っているか」

立ち止まって振り向いた八郎に、

「・・・終わったことだから」

応えた総司の声は小さかったが、

その中にははっきりと拒絶の意思が含まれていた。

 

 

「やっぱり怒っているな」

詫びているはずなのに、少しも悪びれた風が無く八郎は笑った。

 

「あんなこと、突然にされたら誰だって怒る」

からかわれて、総司の目が勝気に八郎を睨みつけた。

 

「さすがにあれは突飛(とっぴ)すぎたかもな。

怒るな、それだけ俺も切羽詰っているってことさ」

 

「冗談を言うのはもうやめて下さい」

「冗談じゃねぇから俺も困ってる」

 

言った声音から笑いが消えて、八郎は真顔になっている。

その八郎を見る総司の頬にさっと朱が走った。

黒曜の瞳が憤りの色をたたえて揺れた。

 

 

「二度とそんなことを言ったら八郎さんとはもう他人だ」

冷たく告げたつもりが、声に震えが混じった。

「いっそ他人になりたいね。そうすりゃ俺もこんな野暮をしなくてすむ」

静かな語り口の中に、決して揺らぎ無い信念がある。

 

だが総司も今度は逃げることをしない。

この男に告げなければならない。

自分は土方の為に全てを尽くして果てるのだと。

 

 

「八郎さん・・」

総司の唇が動いてそれを告げようとしたとき、八郎の手が制した。

 

「聞かねぇよ」

湿気を含んだ重い空気を裂くかのように、明るい声音だった。

 

 

「聞かねぇよ、総司。

お前はお前の好きなようにするがいいさ。

だが、俺も俺の好きにさせてもらう。

お前が土方さんを思い切れずにここに居るように、

俺もお前を諦めることはしない」

 

言葉の端々に垣間見える、自分への激しい恋情に圧倒されて、

そのまま立ち尽くす総司に、八郎はゆっくりと背を向けて歩き始めた。

 

「中途半端な野暮をする気はとんとねぇよ」

 

 

 

背中だけで言い捨てて闇の中に小さくなってゆく八郎の姿を、

総司は呪縛されたように動けず、ただぼんやりと見送った。

 

 

 

 

 

 

                    裏文庫琥珀      玉響六