玉 響 たまゆら 六
昨日から一日が長い。
水に浸かった綿のように重い体を布団に横たえて、総司は吐息をもらした。
横になった途端に待っていたかのような激しい疲労感に襲われた。
それに耐え切れずに軽く瞼を閉じた。
考えなければならないことは山程あるのに、今はそれすら面倒に思う。
だが目まぐるしく終わった今日一日の残影が、
瞼に焼き付いて総司に眠ることを許さない。
眠れぬ辛さに寝返りを打ったとき、障子に人の影が動いた。
その影の人物が誰かはすぐに分かる。
総司は急いで体を起すと、消した行灯にもう一度灯を入れた。
「起してしまったか」
部屋にぼんやりとした灯りが広がって、
思い切ったように障子を開けたのは土方その人だった。
「眠ってはいませんでしたから」
「疲れたろうから早く寝ろと言った俺が起してしまっては洒落にもならんな」
端正な顔に苦笑が広がるのを、総司も笑って応えた。
「伊庭と何かあったのか」
布団の横に胡坐をかいて座り込み、
真顔に戻った土方に問われたのは、昨日と同じ事だった。
「昨日から何も無いと言っているのに。土方さんは疑い深い」
浮かべた笑いをそのままに誤魔化したつもりだが、
今日の土方はそれでは納得しないらしい。
「近藤さんの目は誤魔化せても、俺には通用せんぞ」
それは先程の伊庭への態度を言っているのだろう。
だがこれだけは口が裂けても土方にその理由(わけ)を話す訳にはゆかない。
「本当に・・大したことではないのです。
昨日会った時にささいなことで八郎さんと口争いになってしまって・・・。
私が悪かったのです。八郎さんが今日大人になって折れてくれたのに、
私ばかりがこだわって・・・。土方さんにも心配をかけてしまいました」
ごめんなさい、と下を向いて許しを乞うように呟いたその声は、
最後まで聞き取れぬほど小さなものだった。
全てをその中に隠してしまう黒曜の瞳すら、今夜の総司は自分に向けない。
総司にとって徒事(ただごと)では無かった何かが、伊庭との間にあったに違いない。
それがどうしてか、今無性に土方の神経を苛立たせる。
何故こんなに苛立つのか、それは一体どこからくるものなのか・・・。
自分でも理由の付かぬ、ふいに嵐の様に湧き上がってきた、
己の胸の内の激しい感情を土方は持て余していた。
だが強引に問いただした処で、総司は決して本当の事を口にはしないだろう。
執拗に迫れば迫るほど、総司はきっとその黒曜の瞳の奥底に全てを隠す。
自分を見据えたまま押し黙ってしまった、いつもと違う土方の様子を、
何かを恐れるように総司はそっと仰ぎ見た。
それでもまともには目を合わせられない。
「ほんとうに、何でもないのです・・」
追い詰められた怯えを隠す様に下を向いたまま、黒曜の目が不安げに揺れた。
「お前がそう言うのならもういい。
だがいつまでもこだわるのはお前らしくないな」
いっそ激しく問いただしたい感情をどうやら押し殺して、
土方のいつもより少し低い声音が、静かに総司の耳に届いた。
やっと顔を上げて目を合わせるると、総司はその言葉に黙って頷いた。
「伊庭の事はいいが・・・、
それよりも田坂さんは何と言っていた?」
確かにそれを気にしていたのであろう、土方の顔に憂慮の影が浮かんでいた。
「何も。いつもと同じ事を・・、
こんな季節だから滋養のあるものを食べろとか・・、
ああ、そう言えば田坂さんは江戸のお生まれなのだそうです」
先ほどの八郎のことから少しでも遠ざかりたくて、
総司はことさら明るい声で、田坂の話題を口にした。
笑みさえ浮かべて話す総司を土方は黙って見ていたが、
「薬が変わったようだが」
布団の脇に置かれた湯呑みの中に残る、飲み遺しの茶色の液体に視線を止めて、
思わぬことを総司に問いただした。
一瞬の不意を付かれて、総司の顔から笑みが消え狼狽が走る。
江戸に居た頃一時薬売りをしていただけあって、土方は薬の種類に詳しい。
湯呑みに残った薬湯の色と、微かに鼻をつく匂いだけで、
いつもと違う処方が施されたのだと知るのは容易なことだった。
「・・・急に暑くなったので、田坂先生が滋養の付く薬を下さったのです」
自分に答える総司の言葉は確かに嘘をついている。
だが先ほど伊庭のことを問いただした時感じたような、
不安定な危うさはなかった。
「体の事については嘘は付かないという約束をしたはずだったな、総司」
今度こそ土方の厳しい視線は、総司に隠すことを許さない。
観念したように、総司は小さく吐息した。
「暑くなったので少しいつもより念入りにしたほうがいいからと」
「で、田坂さんは何と言われたのだ」
「今度は五日後に来るようにと、そう言われました」
少し早口にそう言い切ると、総司は土方に向き直った。
「本当に、それだけなのです。
田坂さんもこんな陽気の時には誰もが調子を崩しやすいからと、
そう言われて、用心の為だと・・・、ただそれだけなのです」
総司の作るぎこちない明るい声を聞きながら、
土方は田坂俊輔の顔を思い浮かべた。
総司の言う理由だけで、あの若い医師が薬の処方を変えるとは思えない。
己の信念には頑なまでに忠実な医者だと、土方は見ている。
その田坂が治療に関して何かを変える時は、
患者の容態に何か懸念が生じたからだ。
今日二度目の総司の偽りに眉根を寄せて、土方は無言だった。
重い土方の沈黙に耐え切れなくなった総司の唇が
微かに動いて何かを言おうとしたとき、
「五日後には俺も一緒に行こう」
告げた土方の言葉の強さは、もう総司に拒む隙すら与えなかった。
土方が部屋を去った後もしばらくは身じろぎもできず、
総司は布団に半身を起したままの姿勢でいた。
酷い疲労感が一度に押し寄せてくる。
緊張とは別のその感覚が、不思議に強張った心と体を開放してゆく。
総司はやっと体を動かして行灯の灯を消すと、布団に体を横たえた。
自分が今まで危うい均衡を保って堪えてきたものが
一気に崩れ出しそうな気がする。
労咳という宿痾が分かった時、総司は心のどこかで安堵した自分を知っている。
病はこの胸の内に秘めた思いが、堪えられない程に膨らみを増して行く中で、
その辛さに唯一終止符を打ってくれるものと、総司を甘く誘った。
果てなど来てくれるなと思う程、いつの日も土方と共に並んで居たい。
だがこの苦しさから開放される日をも、常に自分は望んでいる。
八郎が起した一陣の風は、遠からず自分を嵐の渦中に巻き込むだろう。
(来るべき時が、来たのかもしれない・・・)
それが自分の命の限界前に来たことが、総司を怯えさせる。
(今日も叉、眠れそうにはない・・)
そんな予感に捕われて、総司は軽く寝返りを打った。
だがその確かに思えた予感すら、総司を裏切る。
瞼を閉じて、いたずらに闇に意識を遊ばせていたが、
やがて漂うようにしていたそれは淵に引き寄せられ、
更なる深い底へと沈んでいった。