玉 響 たまゆら 十弐
キヨが吊るしたのであろう風鈴の音が微かに聞える。
(少しは風があるのか・・)
ぼんやりと手にもつ筆から墨が滴って、白い半紙を汚した。
それを見て、田坂は医学書を書き写そうとしていた努力を、
とうとうそこでやめた。
(一体何を苛立っていたのか・・)
あの伊庭八郎と名乗った若者を気まずく玄関に送ったあと、
田坂は同じような自問を繰り返していた。
繰り返したところで堂々巡りで埒もあかないと、
それも放り投げて、そのまま畳の上に背中を投げ出した。
両腕を頭の後ろに組んで畳に仰向けに寝ながら、
伊庭の自分に向けた燃えるような視線を思い出した。
そしてその視線を、自分は跳ね返していた。
些細も無い事なのに、自分の感情を押さえることができなかった。
あれは一体何だったのだろう・・
そんなことをぼんやり考えていた時に視界が翳った。
「田坂さん」
遠慮がちな声と共に、上から覗き込まれて田坂は飛び起きた。
その田坂の驚き様に、声を掛けた総司の方がびっくりしたようで、
切れ長の目を大きく見開いて動けずにいる。
「なんだ、君か。驚かせるなよ」
安心させるように笑いかけてやると、
総司は緊張を解いてほっとしたような笑みを浮かべた。
「どうしたのです。田坂さんが隙だらけなんて・・
めったにないことです」
それが珍しかったのか、総司は嬉しそうに笑った。
「私はいつも隙だらけだよ。で、どうした何か用かい?」
言いながら、突っ立っている総司に座れと手で示した。
言われるままに田坂の前に正座したが、
そのまま総司は少し躊躇らうように黙った。
そういうときの田坂は黙って総司が口を開くのを待ってやる。
やがて決めたかのように田坂に向かい、
「朝のことはすみませんでした。私が我侭を言いました」
小さい声で詫びて、申し訳なさそうに下を向いた。
「いや、いいよ。私も短気だからね。辛抱ができなかった・・」
何を思ったか、言いかけて田坂はそこで言葉を切った。
その目が笑いを含んでいる。
「何か私の顔についていますか・・?」
思い当たることも無く、総司が怪訝に田坂の視線を受け止めた。
「いや、そういうところは本当に素直なのだけれどな」
そう言った田坂の声の最後は笑いに変わった。
「田坂さんっ」
からかわれていると分かって、総司は頬に濃い朱を上らせて怒った。
「悪かった、怒るな。
・・・・ところで、さっきの客人は君の友人と言っていたが」
どうでもいいことだと自分に思い聞かせていたのに、
先ほどから気になっていたことが、つい口をついて出てしまった。
「伊庭のことでしょうか」
「そう伊庭殿・・・と言っていたかな」
その名を覚えてはいたのに、総司の問いかけに思い出すフリをして
田坂は視線を庭先に逃した。
田坂が目を庭に移したまま黙ってしまったのを見て、
総司は別の意味で一瞬不安に駆られた。
(自分を江戸に連れて帰ると言う事を、八郎は話したのだろうか・・)
何も知らない田坂にまさかとは思うが、その沈黙は総司を無意味に焦らせる。
「・・・伊庭が、何か田坂さんに言ったのでしょうか」
ついに耐えられなくなって、総司から声を掛けた。
急に沈んだ総司の声に、今度は田坂の方が驚いて振り返った。
いつの間にか総司の顔から笑みが消え、黒曜の瞳が微かに揺らいでいる。
「いや何も聞かないが・・・、第一私と伊庭殿で話すことなど無い。
それとも伊庭殿は私に何か話すことがあったのだろうか」
矛先を向けられて、さらに総司は狼狽した。
「いえ、ただそんな風に思ったものですから・・」
必死に取り繕うように言う総司が、
何故こんなにも伊庭の事でうろたえるのか、何を隠しているのか、
それを問うこともできず、田坂は複雑な思いで総司を見ていた。
大通りを歩きながらいつの間にか祇園近くまで上がって来ていたが、
八郎はどうにも我慢ができなくなって今来た道を引き返した。
(田坂はもしかしたら総司に・・・・)
総司を江戸に連れて帰りたいと言った時、
『自分としてはここに留まらせてやりたい』
そう言った田坂俊輔医師の、自分の視線を跳ね返した強い目が、
八郎の気持ちをこの上なく苛立たせていた。
もう一つ、八郎の胸にわだかまることがある。
田坂という男を自分は確かにどこかで見たことがある。
最初に田坂に会った時に芽生えた小さな疑問は、
先ほどの、短かったが激しい確執を経て、
八郎の胸の中で確固たるものに変わっていた。
(戻ってどうするってんだ・・・、野暮も大概にしろっ)
足早に歩きながら自分で自分を叱咤してはみるが、
転がり出した激しい感情と、疑惑はすでに止まる事を知らない。
ここを曲がれば田坂の診療所という辻まで来て、八郎は立ち止まった。
さかまく激情のままに戻ってきてしまったが、
さすがにその家に踏み込むのは八郎の矜持が許さなかった。
(全くざまぁねぇ・・)
自嘲の笑いを漏らしたつもりが、己の無粋に呆れて声にもならない。
暫らく辻に立っていたが、やがて思いきり良くそこから背を向けた。
振り返らずそのまま再び表通りに出たところで、
軒先に簪やら紅やらを並べている小間物屋の前を通りすぎようとして、
そこの店番をしている主らしい女と目が合って声を掛けられた。
「お侍はん、ええお人のお土産にこうて行っておくれやす」
愛想のいい世辞に足を止め、ふとこの女に聞いてみる気が起こった。
季節の花だからだろうか、朝顔を意匠した簪を一つ手に取って、
「包んでくれ」
と差し出すと、
「へえ、おおきにぃ」
女主は嬉しそうに両の手のひらで簪を受け取った。
簪が黄色い紙に包まれるのを見ながら、
「この先の診療所の先生は、腕は確かなものかい」
さりげなく問いかけた。
「田坂せんせ、ですやろか」
「苗字はわからんが同じ藩の者が、若いが大層見立のいい医者だと言っていた」
「ほな、やっぱり田坂はんとこの若先生やわ」
「そんなに名医かい?」
「亡くなられはった大先生もそりゃりっぱな方どしたえ。
確か、膳所(ぜぜ)のお殿様のお脈を見ていたこともあらはったとか・・。
けどご養子に入られはった今の若先生も、見立は確かなもんどす」
女主は自分の身内のように誇らしげに言った。
「ええお人がお喜びになりますえ」
気のよさそうな女主の愛想に適当な相槌を打って、簪の金を払うと、
包みを受け取って八郎はゆっくりとその店先を離れた。
(生憎『ええおひと』にこれを挿せといったら怒るだろうよ)
掌の中に納まる簪を弄びながら苦笑した。
その時ふいに何の連脈も無く、女主の言った『膳所』という言葉が耳に蘇った。
(膳所・・・近江本多、六万石か・・)
何とは無しに呟いて、ふと八郎の足が止まった。
(・・・膳所)
八郎の脳裏に一人の男の顔が浮かんだ。
それは田坂俊輔よりもずっと年の多い、初老に近い男の顔だった。
だがその精悍な面差しは田坂俊輔のそれとあまりに似ていた。
そしてその横に居た少年の顔は・・・・
(・・杉浦・・・、杉浦俊輔か・・・)
往来に厳しい表情で立ち尽くす八郎の影だけが、
過ぎ行く刻(とき)を告げるかのように長く伸びていた。