玉 響 〜たまゆら〜 十参
大坂に行っていた土方が診療所にやって来た時は
もう七月も半ばを過ぎていた。
大坂での出張は十日の余に及んだ。
予定よりもずいぶんと長引いた他藩との駆け引きに
さすがの土方も参ったようだった。
「一人が腹を切ればそれで済むものを」
めずらしく苛ついた調子で総司にこぼした。
「新撰組とは違います。そう簡単に切腹などさせませんよ」
聞きようによっては土方の定めた局中法度への皮肉にもとれるが、
総司はそんなことなどお構いなしに言いはなつ。
嬉しそうに笑みを浮かべて自分を見る総司を見ていると、
言われて怒る方が馬鹿馬鹿しくなる。
「お前の顔を見て戻って来たと実感したよ」
「それは嬉しいことですけれど、何か他に言いたいのでしょう?」
嫌味のつもりがさらりと返されて、さすがの土方も苦笑せざるを得ない。
今日の総司は大坂に行く前に見舞った時よりも、随分と元気そうに見える。
やはり体を静かに休めることは、総司にとって必要なことだったのだ。
もっと早くに療養させてやっていたら
少しでも病の進行を遅くすることができたろうに。
そう思うと土方の胸に言い様のない後悔が走る。
「そういえばこの間八郎さんが来てくれました」
明るすぎる声がその土方の感傷を断ち切った。
「伊庭が?」
「はい、非番と言ってわざわざ」
「暇なヤツだな」
土方の呆れたような物言いに、総司が声を立てて笑い始めた。
「何がそんなに可笑しい?」
仏頂面の土方に応えを返そうとするのだが、
笑いが先に立ってなかなか言葉にならない。
土方は忙しいから同じ大坂に居ても会う事は無いだろうと言った総司に、
『どうせ俺は暇だよ』と応えて、そっぽを向いた八郎の顔を思い出したのだ。
一旦声に声に出してしまった笑いはなかなか治まらない。
その様子を呆れて見ていた土方も、さすがに焦れて、
「そんなに笑っていたら話もできん」
いい加減にしろ、と腕を組んだまま渋面を作った。
「・・・話?」
目じりに溜まった涙を拭いながら、
まだ笑いの余韻から抜けきれないように総司が聞いた。
「田坂さんがあと三日程様子を見て具合が良いようなら
屯所に戻ってもいいと言って下さった」
思いもかけぬ話に総司は一瞬呆けた様に土方をみたが、
すぐににじり寄って、その袖を掴んだ。
「・・本当に?」
放したら、この話は嘘だったと消えてしまいそうで
袖を掴んだ手につい力がこもる。
「本当だ。そんなに袖を掴まれたら千切れてしまう」
大きく見開かれた目に、土方は応えながら苦笑した。
そう聞いたとたんに、黒曜の瞳がうっすらと滲んだ。
慌てて手の甲で、零れ落ちそうなものを荒っぽく拭いながら、
「・・・でも、田坂さんはそんなこと一言も・・」
誤魔化すように笑いかけたつもりが泣き笑いに歪んだ。
その様子を見ながら土方は、たったひと月にも満たないが
総司がここで過ごした孤独の深さを思い知らされた。
だが同時にこんな事が涙になる
最近の総司の感情の起伏の激しさと脆さを、又しても見せつけられて、
何か言いようの無い不安に駆られていた。
そんな土方の思惑も知らず総司は、
拭っても拭っても自分の目に滲んでくるものを持て余し始めていた。
書き物をするのに使う部屋の軒にキヨが吊るした風鈴の音が、
肌には感じぬが、微かに風がある事を知らせる。
「土方さんから聞いたのかい?」
手が開くのを待っていたように入ってきた総司を見て、田坂は笑った。
先に声を掛けられて、廊下に立ったまま総司は頷いた。
「そんなところに立っていないで入るといい」
田坂はそこかしこに散らかしていた書物を除けて、一人分が座れる場所を空けた。
誘われるままにそこにきちんと正座すると、
総司は両手をついて田坂に向かって深く頭を下げた。
「おいおい、何の真似だい?」
「さっき土方さんから聞いて・・・。ありがとうございます」
やっと上げた顔は田坂が初めて見る、この上も無く嬉しそうなものだった。
その顔を見ながら、田坂は軽いため息をついた。
「新撰組がそんなにいいのかい?」
言っている意図が分からず、総司は不思議そうに田坂を見た。
「いや新撰組に戻れるのが、そんなに嬉しいものかと思ったのさ」
黒曜の瞳に見つめられて、田坂は思わず苦笑いをした。
「・・・新撰組に居ない自分など、考えたことがありません」
「それは新撰組が君にとって全てだということかい?」
田坂の問いかけに総司は、言葉でなく深く頷いて応えた。
その黒曜の瞳は、これだけは譲れないという強い色を湛えていた。
「そこまで君が新撰組に賭けなければならない
理由(わけ)ってのは一体何なのだろうね」
その頑固なまでの一途さがどこから来るものなのか、
それを知りたくて田坂は執拗なまでに総司を責める。
責めながら、どうしてここまで自分はこの若者に拘るのか、
すでに歯止めが効かなくなっている己自身を田坂は感じていた。
このままでは何を言い出すのか自分でも分からない。
その危惧から、話題をそらすつもりで、
「そんなにしてまで近藤さんや土方さんの側に居たいかな」
黙ったままの総司に、深い意味も無く問い掛けた言葉だった。
だが意外な事に、その言葉に黒曜の瞳が微かに揺れた。
それは見間違いかと思える程の、ほんの僅かの事であったが、
田坂は総司のその一瞬の動揺を見逃さなかった。
「近藤先生や土方さんの側でお役に立っていたい・・
私には他にできるものは無いから、ただそれだけなのです」
だが半分は真実、半分は己の心までを裏切る偽りを
田坂が切なくなるまでの、翳りの無い笑みを浮かべて総司は言った。
そう言い切ったとき、黒曜の瞳には最早何の揺らぎも無かった。
総司が座っていたそこだけが人が座れる形を残している。
散らばった書物を片付けながら、
田坂は先程総司が一瞬見せた動揺が頭から離れない。
黒曜の瞳が揺らいだ先にあったのは、『土方』という名に相違なかった。
何の根拠がある訳では無い。
だがそれは確信とも思える田坂自信の勘であった。
本を拾い集める手を止めて、田坂は中庭から見える真夏の空を仰いだ。
どうしてこんなことが苛立つほどに気に掛かるのか。
この間伊庭という若者が尋ねてきた時も、
田坂は自分を止めることができなかった。
他人に対する感情も、先に望む物も、全てはとうに捨てたはずだった。
(人の心とはまったくに上手くゆかない・・・)
やるせなく重い息を吐きながら、
仰いだ空の青さがひどく眩しくて、思わず目を細めた。