玉 響 〜たまゆら〜 十四

 

 

 

 

最後にこまごまとした注意を受けて、

田坂の診療所から久しぶりに屯所に戻ったその日から、

隊務に復帰して総司の毎日は忙しかった。

 

 

近藤も土方も暫らくは隊に居ながら、総司には休養という形を取らせるつもりだった。

 

 

それがこの五月に土方が江戸で隊士を募集した折に

同道して来た植田という者が早々に脱走を計り、

尾張近辺で朝廷の名を語り金策をしているとの報で、

参謀の伊東甲子太郎を始めとする主だったもの何人かと、

監察の島田魁も共に植田を追うことになってしまった。

 

 

ただですら将軍の上洛で洛中の取り締まりに

神経を砕かねばならないこの時期に人数が少なくなって、

総司一人が静養と称して屯所でのんびりしている訳にも行かなかった。

 

 

それでも病み上がりの体を案じて今暫らくは大人しくしているようにと

厳しくは言ってみるが、本人は大丈夫と笑っているだけで、

いつにも増して張り切って市中の巡察に出かける総司を、土方は複雑な思いで見送った。

 

 

 

 

そんな日々が幾日か続いてさすがに疲れが出てきたところに、

木陰も無い午下がりの巡察はどうにも体にこたえたようで、

夕刻屯所に戻るや否や、総司は自室の畳の上に崩れるように体を投げうった。

 

今夜は一昨日大坂から上洛した将軍に同行している八郎が、

近藤の接待で島原に上がることになっていた。

土方も一緒に出かけていて屯所の中はひっそりとしている。

 

土方が島原(そこ)に上がることをいつもは切なく思うのに、

今日は屯所にいないことが総司にはありがたかった。

 

 

 

(こんな自分を見せる訳にはゆかない・・・)

 

巡察中は照りつける日のせいだと思っていた体の火照りは、

いつの間にか暫らく忘れていた不快な微熱に変わっていた。

 

指一本動かすのも気だるく、少しの間目を閉じて、

畳の冷たさに己の熱を移すようにぐったりとしていた。

 

 

 

そのうちにうつ伏せになって胸を圧迫した苦しさからか、小さな咳が出た。

体を起すのも辛く、そのままの姿勢で止まらぬ咳に薄い背が波打った。

 

 

突然、咳と共に胸からせり上がってきた熱く不快な感触に、

総司は咄嗟に口元を手で覆った。

 

確かに経験をしたことがある、その予感に総司の全身が硬直した。

 

 

一度は遡ってくるものを呑み込んで耐えたが、

抑えられたそれは更に大きなうねりとなって、

喉を焦がすように熱く逆流し、口の中に溢れかえった。

 

ぐっ、という不快な声にならない音と共に、

押さえた指の隙間から鮮血が幾筋も流れ出す。

 

 

必死で先程脱ぎ捨ててあった羽織の裾をもう片手で探して掴むと、

今ある渾身の力でそれを引き寄せた。

 

胸に抱えるようにして羽織で口元を覆うと、

もう掌だけでは押さえきれないものを咳と共に吐き出した。

吐き出すたびに、錆びた鉄のような匂いが総司の鼻腔を突く。

 

 

一年ぶりに蘇った悪夢だった。

 

 

喀血を繰り返す度に、伏した背が撥ねる様に盛り上がる。

それを三、四回繰り返して、ようやく落ち着いた。

 

 

掴んだ羽織を下にしたまま、総司はせわしない浅い呼吸を繰り返した。

息を深く吸えば叉肺腑から熱いものが逆流してきそうだった。

 

 

暫らく動くこともできずにそうしていたが、

やがて肘を畳に付けて、

それで体を必死に支えながらゆっくりと上半身を起した。

 

 

起き上がった途端に激しい眩暈と

心の臓が圧迫されるような息苦しさに襲われた。

それをそのままの姿勢でどうにかやり過ごし、

自分の手に握られている羽織を見た。

 

 

浅葱の色に不釣合いな朱が生々しく散っている。

そこから目を逸らして包み隠すように丸めると、

押入ににじり寄り襖を開け、その奥に突っ込むように押し込んだ。

 

柱に手を掛けのろのろと立ち上がり、壁を伝って廊下への障子を細めに開ける。

部屋に残っている血の匂いを消さなければならなかった。

 

 

開けた障子の桟にもたれるように背を預けると、

ずるずると体が沈んでそのまま座り込んだ。

 

ひとつひとつの動作に激しい息切れがする。

熱を持ってきた体が悪寒に震え始める。

 

唇の端から胸元に伝わる細い朱の跡を残して

顎を反らし、障子の桟に頭を付けて荒い息を繰り返した。

 

 

 

 

自分の胸に巣喰う宿痾は嘲笑うかのように、確実にその勢いを増している。

 

死は近い将来必ず訪れる。

それを怯えているつもりはなかった。

だが今総司は初めて、病のもたらす別の恐怖に捕われていた。

 

終わりが来る前に、自分は動けなくなる。

刀を持つ腕はその力を無くし、足は歩くことをかなわず、

いつか指の一本すら自分の思い通りには動かせなくなるだろう。

 

 

そして死はゆっくりと、その最後にようやくやって来るのだ。

 

 

 

瞼を閉じても不思議と何も頬を伝わらなかった。

もう一度目を開けて、乾いた瞳でぼんやりと闇に包まれた庭を見た。

 

何の連脈も無くその闇に土方の面差しが浮かんだ。

 

          

 

「ひじかた・・さん・・」

          

その問いかけに闇の中の土方は応えてくれない。

呟いた自分の声がひどく遠くに聞こえる。

 

ここで意識を失う訳にはまだゆかない。

血を吐いたことなど微塵も分からぬように

自分にはまだしなければならない後始末が残っている。

動けなくなる前に、しなくてはならないことが残っている。

 

 

まぎれもない現実は、総司を堪えきれない焦燥に走らせた。

そしてその焦燥はもう一つ別のところで

総司の胸の中をかつて無い激しさで揺さぶった。

 

 

 

(動けなくなるまえに・・・・)

 

 

動けなくなる前に、一度だけ土方にこの胸の内をぶつけてみたい。

我が身と一緒に葬り去るのだと一度は堅く決めたこの思いを、

せめて一度だけ、ぶつけてみたい。

 

それはもう叶わぬことなのだろうか・・・。

 

 

 

「・・・できるわけが無い」

 

微かに自嘲の笑みを浮かべて、総司は小さく呟いた。

今更できるわけがない。

否、してはならぬと、そう決めて自分はここまで土方について来たのだ。

 

こんな願いはとうに捨てた筈なのに、まだ未練がましく拘る自分が情なかった。

 

 

 

(体が弱くなって、心まで弱くなってしまったのだ・・・)

          

 

「・・・ひじかたさん」

もう一度その名を闇に向かって呼んだ。

 

 

(もう、遅いのだろうか・・・)

すべては、本当にもう遅いのだろうか・・・。

 

 

 

繰り返し己の胸に問いかけながら、

閉じた瞼に映った土方の残影が次第に闇に薄れて行った。

 

 

 

 

 

                 裏文庫琥珀      玉響十五