玉 響 〜たまゆら〜 十五

 

 

 

 

夜になっても湿気を含んで纏わりつくような重い空気が鬱陶しい。

 

土方と八郎は提灯の灯りを頼りに肩をならべて歩いていた。

酔った勢いもあったのだろうが、明日は非番という八郎に

近藤が今夜は是非に新撰組に泊まれと譲らなかったのだ。

 

その近藤は堀川沿いの西本願寺にさしかかったところで

妾宅に寄るからと屯所には戻らず辻を東に折れてしまった。

 

 

 

「近藤さんもあっちこっちにお盛んだな」

八郎の呆れたような口調に土方は苦笑した。

 

「女遊びくらいはいいさ」

「あんたはやっぱり決まった女はいないのか」

「知ってのとおりだ」

「ふん、野暮天が。そのうち新撰組と一緒に心中でもしな」

「お前も口の悪さだけは変わらんな」

「お陰さまでね」

 

昔馴染みに軽く毒づいて、

 

 

「ところで、あの田坂って医者・・・」

 

手に持つ提灯の灯によって来る虫を手で払いながら、ふいに八郎が言った。

 

「俺は昔会ったことがあったよ」

「田坂さんに?」

 

土方は思わず隣をゆく八郎を見たが、

闇に紛れてその表情までは分からない。

 

 

「父親が膳所藩の江戸詰めの藩士だった。確か留守居役か何かをしていたはずだ」

「田坂さんの父親がか?」

 

八郎は無言で頷いた。

 

「俺の父親の知り合いだった」

「では田坂さんもお前のことは知っているのか?」

「いや、知らないはずだ。俺があの人を見たのは十かそこらの頃で

まだ親爺が心形刀流の八代目をやっていた。」

 

 

八郎の父伊庭軍兵衛は心形刀流の八代目当主で

幕府老中の水野忠邦の庇護を受け、

心形刀流を江戸四大流派と言われるまでにした人間だったが、

水野失脚と共に九代目を門弟の堀和惣太郎に譲って隠居した。

その軍兵衛も八郎が十五の年に流行病で病没している。

結果、心形刀流の正当な十代目後継者たる八郎は、

形の上で九代目堀和改め伊庭軍平の養子となっている。

 

 

 

「田坂さんの前の名は杉浦、杉浦俊輔と言ったはずだ。

あの人の父親もかなりの遣い手で、

俺の親爺とは何の縁で知り合いになったのかは定かでないが、

一度御徒町のうちの道場に息子の田坂さんを連れて来たことがある。

餓鬼だった俺はそれを遠くから見ていただけさ。

親爺が田坂さんと手合わせをしたが、

他人を褒めぬ親爺が珍しく太刀筋が良いとあとで言っていた。

俺だって褒めたことがない親爺がだぜ」

 

その時を思い出すように八郎は視線を遠くに投げかけた。

 

 

「お前が褒められないものを褒めたというのなら、さぞやの腕だったのだろうな」

「・・・・あのまま何事も無ければその道でずいぶんと名を上げただろうよ」

八郎の声が幾分低くなった。

 

「何かあったのか?」

「あったから今医者なんざやってるんだろう」

「・・・・・」

 

 

「田坂さんってのは杉浦さんの外に出来た子らしい。

跡取ができずに養子をとって藩に届を出した後にあの人が生まれた。

杉浦さんは田坂さんを引き取ったが、すでに嫡子は養子の兄と決まっていた。

杉浦さんって人はそういうけじめははっきりと付けることの出来た人だから

最初から田坂さんの事はどこかに養子に出して、杉浦の後継者は長男と決めていた。

だが田坂さんが長ずるにしたがって、出来の良い弟を兄が疎むようになってきた。

そりゃあそうだろうよ。田坂さんは杉浦家の実の子なんだからな。

気の小せぇ兄が胆を苛立たせるのは当然のなりだ」

 

 

「くだらんな」

土方は露骨に眉根を寄せて嫌悪の表情をした。

 

武士になることに焦がれて、自分はこうして今ここに居るが、

武家社会のそう言う朽ち果てたような因習に拘る傾向は、

土方の最も嫌うところであった。

 

 

「くだらんさ、だがそのくだらん事が

田坂さんの兄さんにとっては一生の問題だったのさ」

「何か起したのか・・・」

 

「膳所藩ってのは小せぇが中心に居る連中ってのは結構に骨太の人間が多くってね、

勤皇なんざ髪一本も入る余地がねぇくらいの佐幕派ぞろいだ。

もちろん、杉浦さんもそんな一人だった。

その父親の足元掬ってやろうって魂胆だったんだろうな。

その長男ってのが藩の勤皇思想を持つ若い連中と徒党を組んで

佐幕派の中心だった家老の暗殺を企てた」

 

「・・・父親への当てつけだけでか」

「坊主憎けりゃ袈裟まで・・・ってヤツだろうよ」

八郎の顔が忌々しげに歪んだ。

 

「計画は未遂で終わったが、杉浦家は長男の切腹とお家断絶。

その沙汰が下る前に杉浦さんは息子の責を負って腹を切っていたそうだ。

・・・・俺もあとから親爺が養父に話しているのを聞いて知ったんだがね」

 

「田坂さんはその後杉浦家から養子に行って医者になったのか」

「そういうことだろうな、今が医者なんだから」

 

 

 

土方は療養を頑なに拒んだ総司を諭した時の、田坂の真摯な目を思い出した。

あの強く真っ直ぐな目を持った人間なら、たとえ兄が起した一連の事件といえ、

その渦中に自分が居たことで強い自責の念に苛まれたに相違ない。

 

 

「くだらんっ」

もう一度、吐き捨てる様に言った。

 

 

 

 

 

 

二人が戻った時、屯所の中はどこか騒々しかった。

 

「何かあったか」

出迎えた見習いの隊士に土方はすぐに聞いた。

 

「尾張に行っていらした伊東先生達がもうじきお戻りになられると、

先に使者を遣わされまして、そのせいです」

 

 

「自分が戻る前にその遣いか・・・大したものだな」

その土方の皮肉な笑いを、八郎は見逃さなかった。

 

 

「取り込みそうだな。やっぱり俺は帰るよ」

「お前を帰したら近藤さんがうるさい。気にするな。それに総司も喜ぶだろう」

 

総司と土方が言った時一瞬八郎の顔が和んだが、

 

「いや、今日のところは遠慮しておくよ。

あんたの皮肉な顔はこれ以上見たくもないからな。

新撰組のお家騒動に巻き込まれるのは真っ平だね」

唇の端を歪めただけで笑って、憎まれ口を叩いた。

 

 

「総司には挨拶をして帰るよ」

「そうか、ではそうしろ」

 

そういう八郎に、ここまで来させて結局帰らせることになったのを

流石に悪いと思ったのか、

 

「沖田に俺の部屋まで来るように言ってくれ」

土方はそのまま控えていた先程の見習いの隊士に言いつけた。

 

だが言いつけられた隊士はさらに体を小さくしながら

「沖田先生は夕方巡察からお戻りになられて、そのままお休みになられたようです」

申し訳なさそうに口の中で篭るように言った。

 

「どこか具合が悪いのか」

とたんに土方の表情が険しく曇った。

 

「いえ、お疲れになられたと夕餉も召し上がらず、

朝まで起さない様にとおっしゃられて・・・」

土方に見据えられて見習い隊士は更におどおどし始めた。

 

 

その様子を気の毒に思って八郎は苦笑いした。

「いいよ、土方さん。良く寝ている所を起すのはかわいそうだろうよ」

そこまで言って、ふいに思いついたように、

 

「明日総司も非番なんだろ」

土方に問いかけた。

「そのはずだが」

 

「明日、もう一度来るよ。ちょっと総司を借り出すぜ」

「どこへ連れてゆくつもりだ。少し休ませたいが・・」

 

言葉が全部終わらぬうちに、表口の方が俄かに騒がしくなった。

 

 

 

「土方先生、伊東先生がおもどりになられました」

 

その報告に、土方が忌々しげに舌打ちをした。

 

 

 

 

 

 

 

                   裏文庫琥珀     玉響十六