玉 響 〜たまゆら〜 十六
総司が目を覚ました時には、ずいぶんと日が高くなっていた。
(・・・もう何刻くらいになるのだろう)
まだ覚めぬ頭でぼんやりと、障子に映る明るい光を見ながら思った。
起き上がろうと体を動かした瞬間に、胸に鋭い痛みが走った。
その感覚が総司の全てを一瞬にして覚醒させた。
(昨夜、血を吐いたのだった・・・)
深い眠りを貪ってもそれは夢ではなく、確かな現実としてここにある。
総司は手を胸にあてると、二度三度呼吸を整えてから
体中のすべての神経を研ぎ澄まさせて、今の自分の状態を把握しようとした。
体が酷くだるいのは喀血のあとの発熱の名残だ。
手をついて体を支えながら起き上がると深く息を吸ってみる。
先程感じた鋭い痛みはもうない。
これなら何とか動くことができるだろう。
ひとつひとつの動きを確かめるように、ゆっくりと立ち上がりそのまま廊下に出た。
井戸端で顔を洗おうと足を向けたところで、土方付きの見習い隊士と出合った。
「あ、沖田先生、お目覚めですか」
「ええ。あの今何刻頃でしょう・・」
朝の遅いのを決まり悪いと思いながら、総司は尋ねた。
「じき九つになるところです」
「そんなに・・・」
言われて総司は赤くなった。もうすぐ昼なのである。
そんな時間まで眠りこけていた自分が恥ずかしい。
「いえ、土方先生が沖田先生を起さぬようにと仰いまして」
総司の狼狽を慰めるように隊士が答えた。
「土方さんが・・?」
「昨夜遅くにお客様とお戻りになられまして、
その時に沖田先生をお呼びするように言われたのですが、
沖田先生はお疲れのようですでにお休みですと言いましたら
今朝は目が覚められるまで起さずそっとして置かれるようにと」
「そうですか・・」
結局いつも自分は土方に心配をかけてしまう。
総司は己の不甲斐無さにやり切れない思いだった。
「それで土方さんは?」
「副長室です」
呼び止めてしまったその隊士に礼を言うと、
少しふらつく体を叱咤しながら手早く身支度をすませ、副長室に向かった。
副長室に土方は一人だった。
「土方さん・・」
仕事の手を休ませるのを申し訳ないと思いながら、遠慮がちに声を掛けた。
「やっと目が覚めたか」
何か書状に目を落としていた土方が、顔だけを総司に向けた。
「すみません、ずいぶんと遅くまで寝てしまいました」
「疲れていたのだろう、構わないさ。それに今日は非番だろう」
言いかけた言葉の途中で、
あまり良いとは言えない総司の顔色に気付いて土方の顔が曇った。
「お前具合が悪いのではないか?」
「昨日、特別に暑かったのでその暑さに当たったみたいで・・・
けれどもう何ともありません」
ぐっすり眠りましたから、そう付け加えて総司は屈託の無い笑みを作った。
「それより八郎さんは?昨夜はここに泊まったのではないのですか?」
先程の見習いの隊士が言った『客』とは八郎のことだろう。
昨夜土方と一緒に屯所に戻ってきたのならばここに泊まったはずだ。
その姿が無いのを訝しる総司の様子に、土方は小さく苦笑した。
「伊庭なら新撰組の『取り込み中』を嫌って帰った」
「取り込み中?」
「伊東達が昨夜遅くに帰って来た」
その時の事を思い出したのか、土方の端正な顔が忌々しげに歪んだ。
「伊東さん達もお帰りになっていたのですか・・何も知らなくて」
だとしたら昨夜はかなり慌しい空気につつまれていたはずである。
同じ屯所の中に居ながらそれすら知らず、
自分はすべての喧騒から離れて一人遠いところにいた。
その情けなさに暗澹たる思いで、総司の顔に一瞬翳がさした。
「何の役にも立たずに戻って来たのだからお前が気に病むことは無い」
そう言って総司の憂慮を慰める土方だが、
伊東と言う人間自体がすでに気に入らないから言葉は痛烈だ。
「結局植田は捕らえられない、その後始末は島田君に任せる。
一体何の為にぞろぞろと雁首揃えて尾張あたりまで行ったのか・・」
低く、吐き捨てる様に言った。
その様子を見ていた、総司がくすりと笑った。
「何がおかしい」
「土方さんと伊東さんは本当に仲がいいと思って・・」
「馬鹿なことを言っているな」
さすがに露骨過ぎる嫌悪の様が大人気ないと思ったのか、
土方は照れ隠しの様に苦々しげに顔をしかめた。
「それより伊庭が今日は非番だと言っていたが、そのうち来るのではないのか」
「上様の御警護というのは案外に気楽なものなのですね」
「伊庭にそう言ってやるがいい」
これ以上邪魔をするなと土方に追い出されて、総司は廊下に出た。
自室に戻るや否や後ろ手に障子を閉め切ると、
総司はその桟に体をもたらせながら、沈むように膝をついた。
土方のところで張っていた気が一気に抜けて、
堪えようの無いだるさにもう立っていられなかった。
座り込んで深く息を吐くと、眩暈が襲ってきそうで思わず目を瞑った。
考えてみれば昨夜、とても少ないとは言えない量の血を吐いたのだ。
例え一晩くらい寝たところでその衝撃からそう簡単に体が立ち直るはずが無い。
あの時は失いそうになる意識を支えるだけが精一杯で
他に何も考える余裕など無かった。
だがこうして体の不調と覚醒した意識が
何とか折り合いをつけている状態におかれると、
昨夜ぎりぎりのところで垣間見た
己の胸の一番深いところで燻(くすぶ)る真実を思い出さざるを得ない。
(諦めてなどいない・・)
自分は土方への思いを決して諦めてなどいない。
思い切ることなどできるはずが無い・・。
押さえられなくなってゆく自分の恋情の激しさを、
そうすることで必死に堪えようとするように、
総司は堅く目を閉じ、唇を噛んだ。
どの位そうしていたのか、昼になったのであろう、
市中の巡察に出かけていた隊の者達が戻ってきた様で、
俄かに屯所の中がざわつき始めた。
その気配が総司を現(うつつ)に戻した。
瞑っていた目を開いた時、昨夜押入れに隠したままだった、
血に汚れた羽織の事を思い出した。
(あれを早く片付けなければ・・・)
這うようにして押入れまで行くと、襖に手を掛けて開けた。
昨夜浅葱の羽織に滲みた鮮やかな血は、
一夜を経てどす黒い不吉な色に変わっていた。
その色の持つ、底の無い闇色をした情念の様なものが、
今自分の胸に渦巻くものに良く似ていると総司は思った。
ぼんやりとそんな思いに捕らわれていて
背後の障子の向こうに、人影があることに気がつかなかった。
「総司、入るぜ」
障子が開けられるのと同時に名を呼ばれて驚いて振り向いたが、
一緒に入って来た陽の眩しさに一瞬目が眩んだ。
「八郎さん・・・」
やっと目が慣れてその名を呼んだが仰ぎ見た八郎の視線は
総司の手にある羽織の一点を凝視して動かない。
それに気付いて咄嗟に羽織を背に隠そうとしたが、
一瞬早く八郎の手がそれを捉えた。
「・・・昨夜のことか・・」
やがて羽織に混じる朱に釘付けられていた視線を、
血の気を失くして硬く強張る総司の顔に移し、八郎は掠れた声で問うた。