玉 響 〜たまゆら〜 十七
八郎の目に見据えられて、総司は思わず視線を反らした。
「こっちを向けっ」
八郎はその腕をとって無理やりに総司の顔を自分に向けさせた。
「昨夜のことなんだな」
詰問するような鋭い八郎の声に、総司は目を伏せたまま無言だった。
それが今自分が向けた問い掛けを肯定する何ものでもないと知って、
八郎は底の無い暗澹たる思いに沈んで行くのを止められなかった。
昨夜八郎が土方と共にこの新撰組の屯所に戻ってきた時、
総司は朝まで起すことの無いように言いつけてすでに休んでいた。
疲れていたのだろうとそのまま帰ってしまったが、
その時の隊士の話によれば巡察から帰って来て
そのまま夕餉も取らずに休んでしまったという。
いくら疲れていたとはいえ、今になっては不自然すぎた。
その時におかしいと何故気がつかなかったのか。
羽織にどす黒くこびりつく血にもう一度目を落として、八郎は唇を噛む程に強く結んだ。
「・・・大したことは、ないから・・」
伏せた目はそのままに、総司は漸く聞き取れぬ程の小さな声で呟いた。
その言葉が八郎の怒りを呼び起した。
「大したことが無いものかっ、お前は馬鹿かっ」
そう言って怒鳴り捨て身を翻して出て行こうとする八郎の手を、咄嗟に総司は掴んで止めた。
「どこに行くのです」
「近藤さんと土方さんのところに決まっている」
掴まれた腕を振り切きろうとして八郎が激しく体を動かした瞬間
その反動で総司が畳に放り投げ出された。
あまりに無防備な総司の態勢に八郎が驚いた。
「総司っ」
慌ててその体を抱き起こそうとして触れたとき、自分よりも遥かに高い体温に気がついた。
「熱もあるじゃないか・・・」
考えてみればこの血の色が意味する喀血は昨夜のことである。
少ないとは言い難い吐いた血の量から察すれば、そう簡単に体力が回復するはずがない。
それほどまでにして己の体の不調をひた隠しにする総司が哀れだった。
そしてその総司の決意の意味するものが何であるのか
それを知り得るが為にこそ、
湧き上がる憤りをどうすることもできずに、八郎は乱暴に顔を横に叛けた。
今の総司を正視するには堪えがたかった。
「・・・私の頼みを聞いて下さい」
ふいに聞こえた必死な声に、八郎は思わず顔を戻した。
見上げてくる総司の瞳に強い光が宿っている。
(またあの時の色だ・・)
土方への思いを断つ為に抱いてくれと言った時の、
あの揺るがぬ意思の瞳の色を総司はしていた。
「どうかこのこのことは八郎さんの胸だけにしまって下さい」
お願いですと懇願しながら、八郎の袖を掴んだ手に力が入る。
「お願いです・・・」
それだけを言葉にする総司の瞳が、瞬きひとつせず八郎を見据える。
「聞けぬ頼みだな」
その色の深さに吸い込まれそうになるのをどうにか踏みとどめて
八郎は冷たい程の抑揚の無い声で応えた。
総司の頬にあった僅かばかりの血の色が失せて、みるみる顔が強張った。
「・・・どうしても・・」
漏れた言葉は無機質に乾いていた。
「どうしても聞けない。お前を死なせるわけには行かない」
言い終わらぬ内に立ち上がり、
俯いたまま動かない総司に背を向けた刹那、
「・・もう一度・・・抱いてくれてもいいと言っても」
やっと喉の奥から搾り出したような声は、掠れて語尾が震えた。
暫し耳に届いたその言葉を反芻しながら、
八郎は総司を見下ろして呆然と立ち尽くしていた。
総司は顔を下に伏せたままみじろぎもしない。
だがその体は硬く怯え、ほんの少し触れただけで
悲鳴をあげて粉々に砕け散ってしまいそうだった。
その痛々しさに怒りを通り越して、
八郎の胸の中で遣り切れない哀れさが先に立った。
そこまで総司の心を占める男が憎いと思った。
「・・・お前は俺をそんな風にしか思っていないのか」
重く低いその声に、総司は一瞬びくりと体を震わせ、
次に裁かれる者のように、蒼白な顔をあげて八郎を見た。
八郎のいつもは静かな、炎のゆらめきを湛えるような目が、
今は切なげに苦しそうに歪んで暗い。
憤るのでもなく、罵倒するのでもなく、まして蔑むのでもなく、
自分に注ぐ眼差しはあまりにも哀しい。
・・・そうさせてしまったのは自分だ。
八郎を酷く傷つけてしまった。
そこまで思って、取り返しのつかない事を言葉にしてしまった己の罪に
総司は全身の血が凍る思いだった。
「・・・・私はとんでもないことを」
それを言うのが精一杯だった。
どんな償いの言葉を並べても、最早この罪は決して消すことは出来ない。
知らず、目から零れ落ち頬を伝わるものがあった。
それが畳みについた己の手の甲に一つ落ちた。
泣くのは嫌だった。
八郎に手酷い仕打ちをした自分が、涙を流すのは許せなかった。
それでも己の意思に反して手にも、畳の上にも止まらぬ雫(しずく)が零れ落ちる。
自分の心一つ思い通りに成らない情けなさに、総司は強く唇を噛んだ。
どのくらいそうしていたのか、
ふいに肩を掴まれ、そこに置かれた手の温もりに顔を上げた。
「土方さんと離れるのがそれ程辛いか」
「・・・・・」
「辛いか、総司」
静かに燃えるような熱い視線に射抜かれて
土方と離れてはこの身はすでに屍だと、そう言葉で伝える事も叶わず
総司はただ首を縦に振って頷いた。
「・・・一度だけ」
縋るように八郎の胸元に手を掛け、
「・・・・動けなくなる前に・・、置いて行かれる前に、一度だけ思いを伝えたい」
最後は咽(むせ)る様な嗚咽になった。
八郎の腕で泣くことは許され無いことだと知っている。
だが今まで堪えていたものが堰を切ったように溢れ出て、
もう自分ではどうにもならず、
総司は八郎の着物の襟を掴んだまま、必死に声を殺して泣いた。
暫らくその背に手を回して包み込むようにしてやっていたが、
肩口に顔を伏せて、直(じか)に胸に響く総司の慟哭が
やがて八郎に一つの決心をさせた。
総司の両の肩を掴んで正面を向かせると
「総司、一度だけだ。一度だけ待つ。
だがお前の思いが通じなかった時には、俺はもう待たない。
少しも待たずにお前を連れて帰る。そう決めた、それでいいな」
総司に視線を逸らせる事は許さず、
むしろ自分自身に刻み込むように八郎はゆっくりと言った。
一瞬信じられないもののように総司は八郎を見ていたが、
次には八郎の強い眼差しに導かれるように深く頷いた。
「上様は秋に江戸に戻られる。それが期限だ」
最後の通牒を伝えるかの様に言う八郎の言葉に
「秋・・」
聞こえぬ程に呟くと、総司は濡れた瞳を拭おうともせず、
「・・・約束します」
八郎の視線を受け止めて、今度ははっきりとそう告げた。
瞬間、黒曜の瞳の奥深くで何かが激しく弾けた。