玉 響 〜たまゆら〜 十八

 

 

 

傍らで誰かの動く気配で目が覚めた。

ぼんやりと視線を動かすと庭に面した廊下に出て

土方が何やら手を動かしている。

 

それが一匹だけ迷い込んで柱に止まった蜩(ひぐらし)を

追い払っているのだと気付いて、総司はほんの少し笑った。

 

その鳴き声が自分の眠りを邪魔するのではないかと気遣って

土方は蜩を追い払おうとしているのだろう。

 

 

「土方さん・・・」

目覚めてしまっては、もう土方のせっかくの好意も無になってしまった。

それをすまないと思いながら、総司は小さく呼んだ。

 

 

「何だ、目が覚めてしまったのか」

「すみません」

「誤ることはないさ。よく寝ていたな」

 

問われて初めて今自分が横になっている夜具を敷いてくれた

八郎の姿が無いことに気付いた。

 

「・・・八郎さんは?」

「帰った。今日はお前をどこぞに連れ出そうとしていたらしいが、

眠ったまま起きないのでは埒があかないとぼやいて先程帰った」

 

総司は一瞬目を閉じて、胸の内で八郎に感謝した。

 

 

 

あれから総司に約束をさせると、八郎は夜具を取り出して

有無を言わせぬ強い口調で横になることを命じた。

逆らうこともできず、言われるまま体を横たえたとたんに、

鉛のように重い疲労が押し寄せてきた。

 

自分自身もついてゆけぬ激しい感情の起伏に翻弄され、

体も心も一気に限界が来たらしい。

つい目を閉じたまでは覚えているが、あとは闇に呑み込まれて意識をなくした。

 

八郎はその様子を見届けると、約束どおり何も告げずに

土方にあとをまかせて帰ったらしい。

 

 

 

(あの人がいなかったら、自分はどうなっていたのだろう・・)

 

堪えきれずに崩れ折れそうになる時には必ず支えてくれた。

逆巻く激情の波に呑まれそうになる時には手を掴んで引っ張りあげてくれた。

多分八郎が居なかったら自分はとうの昔に、

土方を思うその重さに押し潰されていただろう。

 

八郎の気持ちはこの身に辛いほどに有難い。

どんなに言葉を尽くしても言い足りるものではない。

その事を思うと、あの腕に縋って何もかも吐き出して泣きたい衝動に駆られる。

 

 

それでも八郎への思いは土方へのそれとは違う。

土方を思う時は、八郎の時のように決して心穏やかではいられない。

ただただ狂おしく切なく、そして苦しい。

 

昼も夜も眠りの闇の中ですら、捉われ続けて足掻いている自分がいる。

きっとそれはこの生が終わる時まで容赦なく自分を追い詰めるのだ。

いっそこの思いを捨て切れたらどんなに楽になれるかと思う。

 

 

だがようやく自分はこの思いに終止符を打つ。

一度だけ、一度だけ思いの丈(たけ)を土方に伝えると決めた。

伝えて道が開けるのか、閉ざされるのか、それは分からない。

それでも自分は伝えると決めた。・・・そう決めた。

 

 

 

総司は閉じていた瞼を静かに開いた。

そこに心配気に自分を覗き込んでいる土方の目があった。

 

「大丈夫です。眠り過ぎて今夜は目が覚めて眠れないかもしれません」

努めて明るく言う総司に、土方は正直に安堵の色を浮かべた。

 

 

「今夜伊東の慰労をかねて酒の席をもうけると近藤さんが言っている。

隊の主だった者達は全員出席せよとのことだが、お前はいい」

 

「私も行きます」

「無理をするな、近藤さんには言っておく」

「大丈夫です。伊東さん達がお帰りになった時にも私はそれを知らなかった。

あまり顔を合わせないのではあちらも良い気がしないでしょう」

「顔を合わせる機会なら嫌でも屯所であるさ」

 

あまりに露骨なその言い方に昔から変わらぬ土方の癇症を見たようで、

総司は声を立てて笑い出した。

 

 

その笑い声を土方は苦々しげに顔をしかめて聞いていたが、

ふと廊下に射す日が翳ったのに気付いて庭に視線を向けた。

 

「日暮れが早くなったな。そろそろ秋だろう」

やがて暮れ行く空の色に、なんとはなしに呟いた。

 

「・・・秋」

「どうした?」

急に笑いを消して黙ってしまった総司を訝しげに見た。

 

「どうもしません。・・・・ただ少し」

「少し?」

「秋と聞いて昔人の様に少し感傷になったのかもしれません。

・・・私も豊玉師匠と同じなかなかの風流人でしょう?」

悪戯気な目をして覗き込む総司に、

「馬鹿」

短く言って、照れ隠しの様にそっぽを向いた。

 

 

 

約束の期限を八郎は『秋』と切った。

 

秋になったら自分はどうなっているのだろう。

今は何も分からない。

だが自分はその最初の歩を踏み出さねばならない。

 

運命(さだめ)は、すでに向かうべき道を転がり始めた。

 

 

庭に向けた土方の横顔が夕日に映えて茜色に染まる。

それをぼんやりと視界に映しながら、

八郎に引き出されなくとも、自分の土方への恋情は

すでに胸の内に隠して置けぬ際まで来てしまっていたのかもしれないと思った。

 

 

追い切れなかった蜩が、行く夏に縋るかの様に又啼き始めた。

 

 

 

 

 

近藤がよく島原を使うのは、この遊郭が新撰組贔屓という他愛もない理由からだった。

極端な事を言えば祇園は長州贔屓、

その向こうを張って島原は新撰組贔屓ということらしい。

 

土方に言わせれば、どんなに新撰組を嫌っても所詮は商人。

金をばら撒いている内には新撰組に靡いてくるに決まっている、

故に長州の温床たる祇園こそ使うべきだと何度か言ってはみたが、

これだけは近藤も渋い顔をして、なかなか祇園に足を運ぶことはしなかった。

 

 

今宵伊東への慰労の席を張ったのも、

総司も何度か来たことのある新撰組には馴染みの店だった。

 

案内されて部屋に通されると、そこはもう酒と白粉の匂いでむせ返るようだった。

すでに酒宴は始まっていた。

 

 

「おお総司、来たか。遅かったではないか」

一番奥の床の間を背にした近藤が上機嫌で呼んだ。

その声の方に目をやると近藤はこっちへ来いと手招きをしている。

横には今夜の席の主賓たる伊東甲子太郎が並んで座っていた。

 

伊東という人間は得意な方ではないが、

それでも一応型どおりの挨拶はしておかねばならない。

 

 

手招きされるままに呼ばれて近藤の前に正座すると、

「申し訳ありません。遅くなりました」

総司は伊東にも少し顔を向け会釈するようにして言った。

 

「いや沖田君、具合が悪いのにわざわざ私なぞの為に足を運んで頂いて恐縮です」

薄く笑いを浮かべて穏やかな口調で伊東はそれに応えた。

 

「具合など悪くはないのですが」

「それなら良いのですが・・・、

いえ何しろ昨夜も私が戻った時にはすでにお休みだったようで、

ずいぶんお疲れなのではないのかと心配していたのです」

 

労うようでいて、その実総司が自分を出迎えることなく

休んでいたという事に伊東は拘っているらしい。その言葉の裏に棘がある。

 

「昨夜は伊東先生が戻られたのも知らず、申し訳ありませんでした」

「いえいえ、そんなことは良いのです。何しろ尾張あたりまで行って

結局何もできずに帰ってきたのですからね。出迎えて頂くなどもっての外、恥の上塗りです」

どうか捨て置いてやって下さい、

そう言って低く笑う伊東の目に、ねっとりと湿った色があった。

 

 

その視線に絡みつかれて、居心地の悪さを覚えた時に、

 

「確かにそうでしょうな。

あのような場合はなるべく静かに戻った方が、気が楽というものでしょうな」

いつの間にそこに来ていたのか、頭の上から土方の容赦の無いの声が振ってきた。

あからさまに皮肉ととれるその言葉に、総司も伊東も、

二人の会話の行方が少々気になり始めていた近藤すら、思わず土方を振り仰いだ。

 

「土方さんっ」

それを咎める様に、総司は小さな声で短く叫んだ。

 

 

「これは手厳しい。さすがは新撰組の副長だけあられる」

酒が入ってほんのり染まっていた伊東の白い頬から朱が消えて、

青く強張った顔に浮かべた笑みがひどく酷薄な印象を与える。

 

「素直に褒め言葉として頂戴しておきます」

伊東の挑みかかるような視線を、眉一つ動かさずに受け止めると

一瞬侮蔑とも思える笑みを片頬に作って、土方はゆっくりと背を向けた。

 

 

 

その背に叩きつけるように投げかける伊東の怨悪(えんお)の目が

何か言いようのない不吉を誘うものに思えて、総司は思わず席を立った。

 

「総司っ」

 

無礼を叱る近藤の声も聞かず、総司は土方の背を追った。

 

 

        

 

 

 

 

裏文庫琥珀      玉響十九