玉 響 〜たまゆら〜 十九

 

 

 

昼のうだるような暑さも夜ともなれば幾分和らぎ、

肌をかすめる湿気の無い風がせめて秋の到来を知らせる。

 

 

「どうしてあんなことをご本人の前で言うのです」

咎めるような響きを込めて、総司は傍らの土方を見た。

「どんなことだ」

総司の視線を受けても顔を前に向けて、歩を緩める事無く土方は応えた。

「伊東さんのことです」

悪いとは露程も感じてはいないだろう土方に総司は少し苛立った。

 

 

 

結局あの険悪な雰囲気のまま土方は残してきた仕事があるからと、

近藤に後を任せ宴のたけなわで席を立って出て来てしまった。

なりゆきで総司もそのまま土方について、

こうして今二人で屯所への道を歩いている。

 

 

土方に痛烈にやり込められて、

伊東の目が宿した憎悪の色を総司は忘れられない。

 

 

土方が伊東と相容れないのは総司にも良く分かる。

だがどうしてこの人は必要以上に伊東を刺激するのだろうと思う。

新撰組の為ならばどんなに意に沿わぬことでも

顔色ひとつ変えずに頭を下げる位の芸当は持ち合わせている人間である。

 

それが何故伊東に限ってはこうも癇性に拘るのか・・・、

思い当たることも無く、総司は小さな溜息をついた。

それを土方は聞き逃さなかったようである。

 

 

「伊東のことが気になるのか」

「気になるのは土方さんのことです」

「俺のこと?」

 

「土方さんは伊東さんを刺激しすぎます」

「勝手に怒らせておけばいい。俺は正直に言葉にしているだけだ。

ましてお前が気に病む道理は全く無い」

青白い月明かりに浮かんだ、土方の端正な横顔が皮肉に歪んだ。

 

「土方さんはそれで良くても、近藤先生は困ります」

「近藤さんは好きで伊東を連れて来た。俺が知ったことではない」

突き放した様なその物言いに、総司は驚いて土方を見た。

 

 

確かに土方は総司の前では、伊東への嫌悪を憚ることなく露骨に現してきた。

だが今の言葉は伊東を連れてきた、近藤への非難そのものだ。

一体どうして土方はこれほどまで伊東を嫌うのか、

総司はその真意を推し量ることも叶わず、

土方を見つめたまま目を逸らすことができなかった。

 

その視線を感じて、さすがに土方が総司に顔を向けて苦笑した。

 

 

「そんな顔をするな、近藤さんの顔を潰すようなやり方はしない」

「・・・・やり方は、しない?」

「追い出すにしろ、叩き潰すにしろ、奴にはいずれいなくなってもらう。

微塵たりとも新撰組の行く道の邪魔はさせない、・・・そういうことだ」

 

突然の激しい土方の言葉に、総司の足が止まりそこに立ち尽くした。

先を行っていた土方がその気配に気付いて振り返った。

 

 

「・・・山南さんの時のように?」

胸の奥から絞りだすような苦しげな総司の声だった。

その顔に浮かんだ深い翳りが、月明りの下でも十分に見て取れた。

 

 

 

 

総長山南敬介が新撰組の脱走を図り、

腹を切ったのはこの二月の終わりのことだ。

その山南を追って大津で追いついて共に屯所に戻り、

介錯をしたのは他ならぬ総司自身であった。

 

山南の強い意志を翻すことができず、結局腹を切らせてしまった事実は

未だ総司の中に押しつぶさんばかりに重く存在する。

山南の首を刎ねた両の掌が、

まだあの骨を割った時の鈍い感触を忘れていない。

見えぬ朱の色に彩られたその手を、無意識に握り締めた。

 

 

 

そんな総司の胸の内を、土方は敏感に悟って暫らく黙って見ていたが、

あえてそれに気付かぬ風を装うと、

 

「山南は勝手に出て行った。そして勝手に戻ってきた。

あいつは自分の思うがままにしただけだ。それで己は満足だったろう。

だが残された者はただ翻弄されて、消えぬ苦しさに今も呻吟している。

山南のした事は自分勝手な暴走以外の何ものでもない」

 

語る言葉は死者に何の容赦も無い痛烈なものだったが、

しかしそれは紛れも無く自分を労わるものだと思い当たって、

弾けるように総司は俯いていた顔を上げた。

 

『残された者は今も呻吟している』そう、土方は言った。

 

それはそのまま総司の心の奥深くで、生々しくも塞がれることなく、

鋭い口を開いたまま血を流し続けている傷を気遣うものに他ならなかった。

土方は決して総司の中にある、山南の死がもたらしたものを忘れてはいない。

 

 

 

「伊東はいつか新撰組に亀裂を生じさせる奴だ。

だが新撰組の中を乱させるようなことは決してさせない。

二度と山南と同じ真似をさせはしない」

 

言い切って、今総司を見る土方の眼差しは限りなく深い。

 

土方が自分に注ぐ思いを目の当たりにして、総司はあわてて下を向いた。

目の奥が熱い。

今土方の顔をみれば頬に伝わるものを止められないだろう。

 

 

 

「どうした?」

急に深くうな垂れてしまった総司を訝しんで、土方が声をかけた。

 

下を向いたまま二度三度強く瞼を瞬いくと、

総司はその声に励まされるように土方を見た。

 

「何でもありません」

応えた声が微かに湿っていたかもしれない。

それを誤魔化すように、

 

「けれど土方さんが今以上に嫌われ者になるのも困ったものです」

くすりと小さく笑って、土方の横を通り過ぎた。

          

二、三歩足を進め、

「置いてゆきますよ」

少し体を後ろに向けて、呆気に取られている土方に告げると、

そのまま振り返らずにどんどん先を行った。

 

 

 

山南が自分に残した傷は、それが塞がる日は多分来ないだろう。

それでも支えてくれる人がいれば、

傷を抱えながらでも前を見て歩いて行けるような気がした。

 

提灯もいらぬ程の月明かりに照らされた道を歩みながら、

総司は土方に気付かれぬように目の端に溜まったものを少し乱暴に拭った。

 

 

 

 

 

九月に入って最初の日、

総司は五条坂にある田坂俊輔医師の診療所に出かけていた。

 

 

「あまり上等とは言えないが・・・」

診察を終えて盥(たらい)の水で手を洗いながら、田坂は総司に目を遣った。

肩袖を通しながら、総司の表情が不安げに曇った。

 

「まぁ、今日のところは良しとしておこう」

にやりと笑った田坂を見てからかわれたのだと知り、

思わず総司は頬に朱を浮かべて田坂を睨んだ。

 

「田坂さんっ」

「そんなに怖い顔をするなよ」

「怒りもします」

「けれど本当は少し仕事を休むように言いたいんだがね」

満更嘘でもないらしい田坂の口調に総司は沈黙した。

 

 

「新撰組を離れることはできないと、君は前に言っていたよな」

ふいに田坂が思い出したように言った。

その問いかけに総司は黙ったまま頷いた。

それを見て、田坂は小さな溜息にも似た息を吐いた。

 

「頑固だな。私が強引に療養生活に入らせたら、君はどうする?」

「死にます」

今度は間髪を入れず答えた。

 

「おいおい、死ぬなどという言葉はそう簡単に使ってくれるなよ。

また土方さんに怒られるぞ」

冗談めかして言ったが、総司の目にある真剣な色に田坂は一瞬怯んだ。

 

「いえ、自ら命を絶つ・・・とか、そういうことではないのです」

「ではどういうことだい?」

 

 

総司は少し考えるように視線を遠くに向けていたが、

「・・・きっと、この身はこの世に残っても、

沖田総司という人間の中身は無くなってしまうような・・・

生きていながら中身は死んでいるというか・・そんな気がするのです」

上手く言えないのですが、そう付け加えて少し笑った。

 

「生きながら死んでいる・・・か」

「はい」

 

それは救われないな、と聞えぬ程に呟いた田坂の低い声は

共に漏れた吐息に消された。

 

「えっ?」

「何でもないさ」

 

笑いながら告げる田坂の顔に、一瞬のことではあったが

どこか寂し気な翳を感じたのは自分の錯覚だったのか。

いつもと違う田坂の一面を初めて見せられて、総司は思いもかけず戸惑った。

 

思えば自分は田坂と言う人間をあまりに知らない。

 

 

 

今この人は何を想い、何故こんなに遠い目をしているのだろう・・

秋を思わせる夕暮れの色は人恋しい寂しさを覚えさせる。

 

田坂の物憂そうな横顔を見ながら、

どうしたことか感傷的になっている自分を、総司は持て余していた。

 

 

 

       

 

裏文庫琥珀       玉響二十