玉 響 〜たまゆら〜 二十
田坂の診療所を辞して、屯所に戻った時には日はすっかりと暮れ、
屋内ではぽつりぽつりと灯をともす部屋すらあった。
玄関の式台を上がって中に入ると、内部が妙に慌しく落ち着かない事に気が付いた。
「何かあったのですか」
丁度擦れ違おうとしていた隊士を捕まえて聞いた。
「あ、沖田先生、今お戻りでしたか」
急ぎ足で下を向いていて総司に気が付かなかった隊士は、
吃驚したように顔を上げて立ち止まった。
「屯所の中がずいぶんと慌しいようですが」
「実は・・」
隊士はそこで一瞬言いよどむ風だったが、
この若い幹部の耳にはいずれ耳に届くだろうと思ったのか、
「松原さんが、亡くなったのです」早口に声を低くして言った。
「・・・松原さんが」
その言葉に驚いて、更に重ねて聞こうとしたところへ、
「総司」
呼ばれて振り向いた先に土方の姿があった。
「局長室に来い」
短く告げると背を向けて、先に廊下を歩いて行く。
まだ松原の死の理由(わけ)が分からず一瞬躊躇したが、
遠くなって行く土方を見て、すぐにその後を追った。
(何故・・・あの松原さんが)
歩きながら松原忠司の人の良さそうな顔が脳裏を過(よ)ぎる。
四番隊の隊長を務めていて、この顔では迫力が無いと、わざと頭を坊主にして強面を作っていた。
だが根っからの親切者で総司が病を抱えたこと知るといつも気遣い、それとなく労わってくれた。
その松原が切腹騒ぎを起したのは七月の始め、総司が田坂の診療所で療養中の間のことだった。
田坂の所では見舞いに来た者も何も言わなかったから、総司は屯所に戻ってそのことを知った。
切腹の理由(わけ)は自分の斬った浪士の妻を不憫と思うあまりに
何かと面倒を見ていていたが、それを周囲からあらぬ嫌疑を掛けられ激昂しての事だという。
田坂の所から戻り、松原が寝ているという部屋を見舞うと、
本人は傷口の痛みに耐えかねるように顔を蒼白にしていたが、そんな自分よりも総司の体を気遣った。
『こんなに暑い盛りにまだ巡察になど出たらいけません』
そう言って無理矢理笑い顔を作って総司を案じてくれた松原だった。
(・・・・何故)
同じ言葉に思考を奪われながら、総司は局長室の前に来ていた。
局長室の中には近藤始め土方と伊東、他に主だった幹部の殆どがいた。
「遅くなりました・・」
頭を下げてその末席に座ると、それを待っていたように、近藤が組んでいた両腕を解いて口を開いた。
「皆もすでに知っていることとは思うが松原君は心中という、
本来武士にあるまじき死に方をしている所を今日発見された」
近藤の言葉に、総司は思わず少し伏せ気味にしていた顔を上げた。
初めて聞く事実だった。
顔を近藤の方に向けると、その横に座っていた土方と目があった。
何か問いたげな総司の視線を土方は、つと逸らした。
総司に聞いては欲しくない事を問われた時にする土方の癖だ。
「松原君の亡骸は新撰組が引き取ったが、隊としての葬儀は出さない。
だがこういう不祥事は隊の内部に少なからず動揺を引き起す。
今ここにおられる幹部の諸君は、隊の風紀に今暫らくは目を配られるように」
苦りきった顔でそれだけ言うと解散を告げ、まず自分が部屋を出て行った。
その内集められた者達が、三々五々立ち上がり出てゆく中で、
黙ったまま総司は身じろぎもせずに座っていた。
最後まで土方と何やら打ち合わせをしていた観察の山崎が去ると、総司はすぐにその側に行った。
「何故松原さんの葬儀を出さないのです」
いきなり本題に入り、詰め寄るように問い掛ける総司に、
「決まったことだ」
土方の声は感情のかけらも感じられなかった。
その応(いら)えに、
「女の人と心中を図ったからですか」
総司にしては珍しくなじるような口調で食い下がった。
「分かっているのなら聞くな」
土方は少々うんざりとした様子で答えた。
「一緒に死んだ女の人はどうしたのです」
「身寄りが無いと言っていたが、二人が死んでいた家を貸していた大家に金を渡してきた」
「そんな・・・」
「一緒に葬ることはできない。お前にもそれ位は分かるだろう」
「葬儀を隊から出さないのなら、松原さんと女の人を一緒に葬っても・・」
「総司」
土方は厳しい口調で、総司に全部を言わせず遮った。
「決めた事に口出しは許さん」
その言葉に総司は一旦口を閉ざしたが、
土方の鋭い視線を、強い瞳の色で跳ね返す様にして睨むと、
そのまま背を向け二、三歩足を進めたが、次には走るようにして部屋を出た。
後ろで土方が何か叫んだが、振り向きもしなかった。
途中監察部屋で松原の遺体が安置されてある所を聞くと、
礼もそこそこに、何かに追われるようにその場所に急いだ。
屯所にしている建物とは棟が離れた、
普段は物置として使っている土蔵の中央に松原の骸(むくろ)はあった。
ひんやりとした湿気の多い黒土の上に松原は横たわり、
その上には粗末な筵(むしろ)が掛けられているだけだった。
静かに近づいてその傍らに膝を付き、そっと筵を上げると
そこにもうこの世のものでは無くなった松原がいた。
「・・・松原さん」
応えがあるはずは無いと知りながら、総司は呟いた。
視界に映る松原はひどく穏やかな顔をしていた。
生きている内には、一緒に生を絶ったという女と
言葉では言い表すことなどできない葛藤があったはずである。
人の世ではどうにもならない業苦に負けて二人で彼岸を渡った松原を、
土方を思う己の業と重ねあわせれば決して責められない思いで、
総司は筵から投げ出された死者の冷たい手を握った。
どの位そうしていたのか、背後に人の気配を感じて振り向いた。
「土方さん・・・」
土蔵の入口に蝋燭の灯を持った土方が立っていた。
無言で見つめる総司に近づくと、
「気が済んだのならもう大概にしろ」
低い声で告げながらそれでも横に来て隣に片膝をついた。
「松原さんは死んで安堵したのでしょうか・・・」
視線を松原に移したまま呟いた総司の語尾が、闇に溶け込むように消え入った。
「どうだろうな。生きていれば報われる事もある。だが死んでしまえばそこで終わりだ」
「そこで、終わり・・・」
「そうだ、そこで終わりだ。お前には松原の顔が安堵しているかのように見えるか?
もしそうならばそれはこの世に残された者の感傷でしかない。
死んで全ての迷い苦しみから吹っ切れたのだと、そう思っていたいだけさ」
「そうでしょうか」
「途中で投げ出して逃げた奴が、死んで安らげるはずが無い」
「・・・死んで安らげるはずがない」
「胸に思うことを抱えたまま死んで、一体どこに安らげる」
目の前に横たわる死者を鞭打つ容赦の無い言い方だったが、
総司はその言葉に思わず土方の横顔を振り仰いだ。
その総司の視線を察して、
「違うか」
問い掛ける土方の目は微塵の揺るぎも無い信念の、強い色を湛えていた。
血の通わぬ松原の肌の色は、艶を無くして蝋燭の灯に鈍く浮かんでいる。
もう松原には怒りも喜びも悲しみもしない。
その全てを断ち切って冷たい骸(むくろ)となった。
だが安らぎを求めて共に手を取って逝った先で、
再び消されぬことのない情念の業火に炙(あぶ)られているのだろうか。
それはついこの前までの自分にあまりに良く似ている。
身を焦がされるほどに狂おしい土方への思いを胸に秘め、
それを封じ込めたまま我が身と一緒に葬ることで、
自分はその苦しさから逃れようとしていた。
だが・・・
(死ぬことによって逃げても、何からも開放されない・・・)
確かにそうなのかもしれない。
いや、きっとそうだったのだ。
「ゆくぞ。蔵の湿気は体に悪い」
横にいる土方が立ち上がった。
「・・・はい」
総司はもう一度ゆっくりと物言わぬ松原に目を移して目礼すると、
すでに背を向けて戸口に向かって歩き始めた土方を、
その距離がせめて少しも開かぬ様にと願いながら足早に追った。