玉 響 〜たまゆら〜 二十弐

 

 

 

 

小奇麗に手入れの行き届いた中庭がある料理屋の一室で、

格子の嵌った窓の障子を少しばかり開けると、乾いた夜風が頬に気持ちがいい。

季節は急には変わらず、こうして少しずつその様を現している。

その初秋の気配を楽しむかの様に、田坂俊輔は少し目を細めた。

 

 

 

「お待たせ致した」

声と同時に閉められていた襖が開いて、番屋に寄っていた土方が入って来た。

「首尾はいかがでしたか」

「なかなかに煩い事を言いましたが、あれも仕事ならば致し方ない」

そうは言いつつ、土方の顔が忌々しそうに苦りきっていた。

番屋ではかなり細かくあれこれ聞かれたのであろう。

 

いつもほとんど感情と言うものを表情に出したのを見たことがないが、

この男も存外に気が短いのかもしれない。

田坂はふとそんな風に思って唇の端に小さな笑みを浮かべた。

 

 

「何か?」

その様子を認めて、土方が不審気に田坂を見た。

「いえ、大したことではないのですが・・・」

 

それでも人の顔を見て笑みを浮かべて、

理由(わけ)を言わずにいるのは相手に失礼になるかと思ったのか、

「私という人間自身が気が短い方ですので、

土方さんも又同じとお見受けして、少々嬉しくなりました」

田坂は軽く言い切ると、土方を見て更にその顔に笑みを広げた。

 

 

人に短気と言われて喜ぶ人間は少ないだろうが、

こうも正面切って悪気なく言われたのでは怒るに怒れない。

土方も仕方なし苦笑しながら頷いた。

 

「確かに、私は短気な方でしょうな。

実は今宵もそれが原因でこんなところで無作法をあなたに見られた。

まったくもって面目ない」

その実少しもそんな風には思っていなさそうな口調で言って、

土方は田坂が盃に注いだ酒を飲み干した。

 

 

「ところで、今夜は本当はどちらに行かれるところだったのです」

「憂さ晴らしに上七軒に行くところだったのだが・・・」

土方の少々バツの悪そうな物言いに田坂が笑った。

 

「それは、上七軒の綺麗どころがお相手ではなく申し訳ない」

「いや、最初からあまり気が進んでいた訳ではないのです。

こうしてお手前と呑んでいるほうが余程気が晴れる」

それがまんざら嘘では無いことは、

先程よりはずっと清々とした顔つきが如実に物語っている。

 

「上七軒には良く行かれるので?」

「馴染みがいるにはいますが・・、あまり良い客ではないでしょうな」

「決まった女が・・?」

「めったに行くことはありませんが愛想の無いのが煩わしく無くていい」

 

 

いかにも現実的な土方の考えだと思う。

だが田坂の脳裏にふと沖田総司の面影がよぎった。

確かにあの若者は土方に恋慕の情を寄せている。

その土方が女の処に出かけるのをどんな思いで見送るのか・・・。

 

あの黒曜石にも似た深い色の瞳に湛える色は、切ない哀しさだろうか、

それとも身を焦がすような激しい嫉妬のそれだろうか、

あるいは限りない絶望だろうか・・・・

そのいずれにせよ総司が心に残す疵を見たようで、田坂はふと痛ましい思いに捉われた。

 

 

「どうしました」

そんな気配を察したのか、田坂の盃に酒を足しつつ土方が問い掛けた。

「いえ、何でもありません。それより沖田君は今夜は?」

「私が屯所を出るときには巡察に出かけていました」

「そうですか。あまり夜風にあたって仕事をするのは良くはないのですが」

 

医師に戻っての何気ない一言だったが、今度は土方が黙った。

そのまま田坂が訝しく思えるほど土方は沈黙していた。

 

が、やがて何かを決めたかのように、

「田坂さん、実はかねて聞いておきたいと思っていたことがあります」

開いた口から漏れた声は、田坂が思わず顔を見つめてしまうような真剣なものだった。

 

 

「お聞きしたいのは、総司の体のことです。

あの病自体は、いずれ死をもたらすものだと言うことは承知しているつもりです。

だがそれを総司にあてはめて考えることが、私にはできないのです。

情けない話だとお笑い下さるのならばそれでもいい。

・・・・今ならまだ間に合うのではないでしょうか。

新撰組を離れさせてどこかで静かに療養生活をさせれば、

総司は治るのではないのでしょうか。

どうか正直なところをお聞かせ願いたい」

 

僅かな嘘も許されぬような土方の視線に見据えられて、田坂は一旦目を閉じて沈黙した。

 

それは多分ほんの一瞬のものだったのだろうが、

土方には限りなく長いものに思えた。

その長さに焦れて自分から口を開こうと思った時、

田坂が瞑っていた目をゆっくりと開いた。

 

「土方さん、貴方にならば率直に申し上げて良いと判断しました」

それに土方が黙って頷くのを見とどけると、

 

「沖田君は体はすでに治るものではありません」

 

 

医師としての冷静さで言ったつもりが、語尾が微かに震えたかもしれない。

それは紛れも無く沖田総司と言う若者に心惹かれ始めている、

田坂俊輔個人としての感情の先走りだったのかもしれない。

皮肉にもその命の限りを言葉にして、

田坂は確かに総司を恋しいと想う自分の胸の内を垣間見た。

 

 

田坂の告げた言葉の衝撃は土方を想像以上に打ちのめしたようであった。

顔から全ての表情が去り、血の気が失せた蒼さが

端正に造作された顔を、ある種壮絶なまでに冷たく見せる。

 

 

「・・・・もう、治らないと、そう言われるか」

搾り出すような苦しげな声だったが、双眸は毅然と田坂を捉えた。

 

「今療養生活に入らせれば、確かに一年の寿命を

二年に永らえることはできるかもしれません。

だがそれが十年先になることはないのです。

今の医学では残念ながらその術はないのです」

 

告げている田坂自身の顔も苦渋に歪む。

だが医師としての自分は残酷な程正確に、相手に総司の病状を伝えなければならない。

 

「慰めや嘘を言うつもりはありません。

だが土方さん、私は決して希望を捨ててはいません。

一年先、二年先にあの病に効く何かが見つかるかもしれない。

その時まで私は何とか彼を生きさせたい。死なせたくはないのです」

それは田坂自身の偽らざる本心でもあった。

 

 

 

しばらく室内を重い沈黙が制したが、

食い入る様に田坂を見ていた土方が畳の上に両の手のひらを付いた。

 

「・・・・この通りです。どうか総司を頼みます」

頭を深く下げて短く言った言葉の最後が、堪えきれないように微かに湿っていた。

 

 

 

 

あまり遅くならぬ内に帰らねばキヨが心配すると言う田坂を

これ以上引き止める理由も無く、土方は一緒に店を出た。

料理屋での会話が会話だっただけに、

お互い胸の内に重くのしかかるものがあり、自然口数は少なかった。

 

堀川沿いに南に下って来て、五条の手前で東に折れる前に田坂がふいに口を開いた。

 

 

「私は医者としては失格なのかもしれません」

急に何を言い出すのか、その真意が分からず土方は黙って傍らを歩く田坂を見た。

 

「伊庭さん・・・と言いましたか、

あの人が沖田君を江戸に連れて帰りたいが旅に耐えられるかと聞かれた時に、

それが正しいと賛成するべきだったのかもしれません」

田坂はその時の事を思い出して、自嘲するように片頬を少し歪めた。

 

「伊庭が・・?」

だが土方には初めて聞く話だった。

田坂は僅かに顎を引くだけで頷いた。

 

「何故、伊庭がそんなことを・・」

「・・・人の心は私には分かりません。

だがあの人もきっと沖田君を死なせたくはないのでしょう」

 

 

伊庭の思いも、自分の思いも結局は同じだ。

総司という一人の人間に心捉れながらも、

報われない空しさにどうする術の無くこうして足掻いている。

そしてその総司自身も又、同じように土方への想いに呻吟している。

 

 

ここで別れるという辻に来て立ち止まり、田坂は土方の顔をもう一度見た。

 

「私が今日師の家に行ったのは、師の娘御との縁談の為でした」

「・・・ああ、それは・・」

先程田坂から聞いた、総司を江戸に連れて帰りたいと伊庭が告げたという言葉に

心奪われていて土方は田坂の様子に気付かなかった。

 

「めでたいことだ」

「いえ、今日はそれを断る為に行ったのです」

「断る・・?」

「ええ、断る為に出向いたのです」

 

「私には想う人がいます。私は、一度は全てを捨てた人間でした。

将来(さき)への望みも、人への望みも」

田坂の目はまっすぐに土方のそれへと向けられる。

 

「だが、私はその人への想いを遂げる為に、

今一度人としての苦しさ辛さを経験してみようと思っています。

結局は徒労に終わるかもしれない。

それでも私は最後まで足掻いてみようと思っています。

何もせずに諦めるには、私は業が深すぎる人間です。

・・・・・多分、伊庭さんも同じ想いなのでしょう」

 

田坂を凝視する土方に、

 

「それでは」

軽く会釈して穏やかに笑いかけると、

田坂はいっそ小気味よく身を翻して背を向けた。

その凛と張られた空気の様に冴え冴えとした後姿を、

土方は暫し動けず立ち尽くしたまま見送った。

 

 

頭の中で伊庭の言葉と田坂の言葉が、繰り返し繰り返し重なるように響く。

 

          総司を江戸に連れて帰る・・・

 

何故伊庭はそんなことを言ったのか、

そして田坂は伊庭の想いは自分のそれと同じと言った。

 

 

その言葉の真実に行き当たった時、土方の中で何かが大きな音を立てて弾けた。

 

今確かに、伊庭と田坂という二人の男達に、

嫉妬という感情を露(あらわ)に覚えている自分が居る。

それはかつて経験したことの無い程に激しい焦りを呼び、

その熾火(おきび)は身を焦がすように激しく燃え上がろうとしていた。

 

 

「・・・・今頃・・」

吐き捨てるように、呟いた。

 

(今頃気がついて何になる・・・)

だが、一度見てしまった己の胸の真実は最早消しようが無い。

もう自分では収拾が付かぬほど心が千々に乱れる。

 

 

「・・・総司」

 

声にした言葉の重みが身を切られるように、切なく胸に染入った。

 

 

 

 

 

 

 

                 裏文庫琥珀    玉響二十三