玉 響 〜たまゆら〜 二十参
土方が屯所に戻ると、それを待っていたように近藤が呼んでいるという。
最近では隊の内部関係はすべて土方が取り仕切っているから
自分の方から出向くことはあったとしても、
近藤の方から用事があるというのは珍しいことだった。
「近藤さん」
一応廊下から障子の向こうに声を掛ける。
「歳か・・」
その声と同時に部屋の中で立ちあがる気配がして、近藤自身が障子を開けた。
行灯の灯だけで薄暗い中に居ても、近藤の顔が何やら難しそうに顰(しか)められている。
「何かあったのか」
ただ事ではなさそうな様子に土方もつい構える体勢になる。
「いや・・・、とにかく中に入れ」
土方の腕を取って引っ張り込む様に部屋に引き入れて一つ息を吐くと、
「総司がな・・」
立ったまま言いかけて、自分より少し上にある土方の顔を見た。
「総司がどうした」
つい先程まで思考の全てが捉えられていたその名を聞いて、土方の顔に緊張の色が走る。
「ちょっと面倒を起した」
「面倒だと?」
無言で頷くと、そこでやっと近藤は畳の上に腰を下ろした。
「面倒とはどういうことだ、総司はどこにいる」
急(せ)き込んで聞く土方を鎮めるように、まぁお前も座れと自分の前を指差した。
「面倒といっても大したことはない。・・・いや、返って面倒か・・」
「だから何をしたと聞いている」
要領を得ない近藤の説明に焦れて、土方の声に苛立ちが混じる。
「五番隊の武田とちょっと諍(いさか)いを起したらしい」
「武田と?」
土方は眉間に眉根を寄せた。
五番隊隊長の武田観柳斎を土方は嫌っている。
伊東ほど気をつけて挙措を観察している訳ではないが、
ある意味隊の内部を乱す恐れのある人物であることには変わりはない。
ただ伊東と似ているところは局長の近藤に取り入るのが上手いということだ。
だがその武田が何故総司と争いごとを起すまでに接点を持ったのか、
まして総司は自分とは違って伊東にも武田にも露骨な嫌悪感を持ってはいないはずだ。
分からないことばかりで土方の胸が不安に騒ぐ。
「武田が総司に何かをしたのか」
「逆だ」
「逆だと?」
「総司が武田に刃を突きつけようとしたらしい」
「まさか・・」
土方の顔が強張った。
信じられないことだった。
確かに総司の腕は新撰組の精鋭を集める一番隊の隊長を務めるに余りある。
だが総司自身はめったやたらに刀を抜かない。
人を斬るのを良しとしない総司の信条が最後の最後の時まで、
鯉口を切らせないということを土方は嫌という程知っている。
その総司が何故隊内の者に刃を向けたというのか、
そしてそれこそ『私の闘争を許さず』という局中法度に照らし合わせれば
切腹という事実に思い至って、土方の顔が色を失くした。
「総司はどこだっ」
「落ち着け、歳。大丈夫だ、総司は持っていた脇差に手を掛けただけだ。
丁度通りすがりに居合わせた島田君が止めに入った。隊規違反にはならない
・・・だがまずいことにその場を伊東に見られた」
その言葉に土方が深い息を吐いて脱力したように立てていた片膝を折った。
「どうも武田が挑発したらしいが・・いや挑発と言うのか、
武田も自分が悪ふざけをして沖田さんを怒らせてしまったと笑うだけで、
理由がはっきり分からん。ただ武田の方が悪いのだろう。
大したことではないから公にはしないでくれと言ってきた。
無論するつもりはないが・・、
だが伊東に見られた手前何の咎も無しでは済まされまい」
近藤の顔は苦りきっていた。
「総司は何と言っているのだ」
問われて近藤は首を振った。
「何も言わん」
「何だと」
「何を問いかけても貝のように押し黙ったままだ。・・・あいつも強情だ」
もう幾度と無くその繰り返しだったのだろう、
近藤もほとほと困り果てたと言うように溜息をついた。
近藤は昔から総司に甘いところがある。
普段は素直すぎるくらいな総司だが、一度決めたら頑として譲らぬところがある。
そうなってしまったとなると、誰が何と言おうと総司はその訳を話はしないだろう。
総司がこんな具合になるとどうしたら良いのか、
その扱い方が分からなくなるらしく、近藤は傍で見ていて気の毒な位に狼狽する。
「歳よ、総司に話を聞いてくれんか。お前には話すかもしれん」
「わかっている」
こういう時の近藤は昔変わらぬ、まだ試衛館の主だった頃のままの人物であった。
土方は胸の内でその事に関してはふと安堵するものがあった。
「総司はどこに?」
「今は自分の部屋にいる」
わかった、とその言葉が終わらぬ内に立ち上がり出て行こうとした土方の背に、
「・・・だが、島田君が妙なことを言っていた」
「妙なこと?」
振り返りざま問うと、近藤が頑強そうな顎を引いて頷いた。
「総司は自分に刃を向けようとしていたのでは、と言っていた」
「どういうことだ・・」
「脇差を持つ手が逆手だったと、島田君は言っていたが・・・
とにかく総司は黙っているばかりだし、武田はあの調子でさっぱり分からん」
心底弱ったという風に、軽く頭を振る近藤を見ていたが、
「とにかく総司のところに言ってくる」
言い残して土方は背を向けた。
行灯の灯さえ入れずに総司は部屋に居た。
先程武田に掴まれた左の腕にまだその感触が残っている。
(・・・まさか聞かれているとは思わなかった)
己の油断に血が出る程にきつく唇を噛み締めた。
夜の巡察からもどって副長室に報告に行くとそこに土方は居なかった。
土方付きの見習隊士に聞いたが、どこに行ったのかまでは分からないという。
しかも一人で出かけたという。
最近新撰組は不逞浪士だけでなく、
功をとられて面白くない各藩の血の気の多い者達にも目の敵にされ狙われている。
その新撰組副長が一人ででかけるなど、危険この上ない。
どこに行ったのかは分かる。
土方が何も告げずに出かける先は上七軒と決まっている。
ちくりと胸にさす痛みはあったが、
総司は躊躇い無く戻ってきたその足で土方を迎えに屯所を出ようとした。
表玄関に行こうとして足早に廊下を渡っているとき、
「沖田さん」
ふいに後ろから声を掛けられた。
振り向いた先に五番隊隊長の武田観柳斎がいた。
この人物が総司はどちらかといえば苦手だった。
総司から見た武田は、上の者に取り入るには驚くほど長けている。
だが下の者や立場の弱い者にはあからさまに容赦のない態度を取る。
それが総司にはどうしても合点のならないことだった。
そんなこともあって、武田とは今までなるべく接点を持たぬようにして来た。
その武田から声をかけてくるなど思いもよらないことで、
困惑気味に立ち尽くしていると、そんな総司の思いなど全く斟酌せぬように
武田がのっぺりとした白い顔に笑みを浮かべて近づいてきた。
「少々お話ししたいことがあるのですが・・」
「申し訳ありませんが、今急いでいますので・・」
「いえ、お手間は取らせません」
「でしたら戻ってから・・すぐに戻りますので」
武田の強引な語調に、総司にしては珍しく迷惑そうな色を顔に出した。
だが武田はそこで引き下がらず、むしろ総司に今少し近づくようにして体を乗り出すと、
「・・・あなたと伊庭さんがされたお約束のことで・・少々」
声を落として、耳元に囁くように告げた。
その言葉に硬直した総司の顔を満足そうに眺めて、武田はもう一度うっすらと笑った。
緊張の色を走らせて顔を堅く強張らせている総司の腕を掴むと
引っ張るようにして素足のままで中庭に降り、
そのままその中央にある、やや大きめな潅木の陰に隠れるようにして武田は止まった。
「先日は伊庭さんと良いお約束をされたようですな・・」
「何のことか・・」
「聞いてしまったのですよ。偶然」
武田を振り仰いだ総司の目が、一瞬にして憤りの色に染められた。
「怖いお顔をしないで下さいよ。本当に偶然だったのですよ。
廊下を通り掛かりました時に、貴方と伊庭さんの声が何かを争っているようで、
つい足を止めてしまいましてね。
いやしかし沖田さん、貴方が土方副長のことでお悩みとは・・・
伊庭さんなどにご相談されずとも初めからこの武田にご相談下されば、
・・・・私は、そう、すでに貴方もご存知かとは思いますが、
こういう形の色恋については結構に経験が豊富でしてね。
少なくとも伊庭さんよりはずっと貴方のお役に立てるというものです」
くすくすと小さく笑う武田の顔が好色そうに緩んだ。
武田が男色家でそれを当人も隠しもせず
むしろ大っぴらに触れ回っているということを思い出して、
総司の顔から更に血の気が失せた。
「大丈夫です、誰にも黙っていて差し上げますよ。もちろん土方副長にもです。
けれど私もそれほどお人よしではありませんのでね。
・・・・・そうですね、黙っていてさしあげる褒美を頂きたい」
「・・・褒美・・」
八郎との会話を聞かれたという衝撃から、暫し茫然としていた総司が緩慢に呟いた。
「そう褒美です・・・例えば・・」
言いながら武田は掴んでいた総司の腕をさらに自分の方へと引き込んだ。
咄嗟に空いている方の手で武田の胸を押し返そうと足掻いたが、
片腕を捉えられている上に、さらに力ではその比ではなかった。
抗う総司を胸の中に引き寄せながら、
「例えば、一度私にも良い思いをさせて頂けませんか」
「何をっ」
全身の血が逆流するような怒りを覚えて、総司は武田を睨んだ。
「怖い顔だ・・・だがね、沖田さん、私はそういう貴方の顔が好きですよ。
いつもの穏やかに笑っている顔よりも、そうやって怒りを露(あらわ)にしている顔や、
・・・ああ、貴方が人を斬る時の表情も好きだ。まるで幽鬼のように冷たくてね」
うっとりと武田は陶酔するような目で総司を見た。
「手を放して下さいっ」
自分を拘束している武田の手を振り解こうと総司は激しく抵抗する。
それを更に強い力で封じ込めながら、
「放す?とんでもない。漸く捕まえたのですよ。放すなど冗談ではない。
あなたが私の言うこと聞いてくれさえすれば手荒なことなど何もしませんよ」
低く笑いながら、武田の手が総司の首筋をすっと撫でた。
瞬間、直接肌に触れられた手の感触に総司の全身が総毛立った。
「大丈夫です。誰にも何も言いません。言いませんとも・・」
武田の囁きと共に、荒く吐き出される息が総司の項(うなじ)にかかる。
ふいに総司の抵抗がやんで、それまで堅くなっていた体から力が抜けた。
それを見逃さず武田の手が大胆に総司の頤(おとがい)を掴んで
上を向かせようとした瞬間、何かが闇に鈍い光を放った。
「これ以上悪ふざけをなさるようならば、私も本気になりますよ」
総司がいつの間にか抜いた脇差を、逆手に持って自分の首筋に当てていた。
その黒曜の瞳に灯の芯にあるような青い炎が揺らいでいた。