玉 響 〜たまゆら〜 二十四
身じろぎもせず立ち尽くしたまま、総司の放つ気迫に武田が怯んだ。
「・・・沖田さん、お止めなさい。私の闘争は禁じられている。
隊規違反は切腹ですよ」
掴んでいた総司の腕をやっと放した隙に、
総司がすり抜けるように一歩引いて武田との距離を作った。
だが抜き身は未だ己の首筋に当てたままだ。
「隊規違反・・?」
蒼白になっていた顔に薄い笑いを浮かべた。
「私は私に向けて刃をあてているのです。
武田さんに向けているのではありません。
ここで声を立てれば、誰かが気付いてやって来るでしょうね。
その時にこの首を掻っ切って更に腹を切ります」
「馬鹿な・・」
「ええ、馬鹿なことです。ですが貴方の性癖は隊内に知れ渡っています。
駆けつけてくる人間の前で首筋を傷つけて腹を切れば、
沖田は武田観柳斎の無体に刃を己に突きつけて抗ったが敵わず
それを恥じて腹を切ったと思うでしょう。
いえ、もちろんそうするように見せるつもりです。
・・・これで近藤先生や土方さんには迷惑をかけずにすみます」
武田はそこを動けず立ちすくんでいた。
今自分を見据えて動かない総司の瞳の激しさが、
その言葉が嘘や張ったりでは無いことを如実に物語っている。
(・・・正気じゃない)
総司の行動の中にある一種狂気にも似たものに、武田の中に恐怖が走った。
「・・・刀を収めなさい」
「いやです」
「誰かに見られたら・・・」
武田が小心になって、落ち着かないように辺りを気にし出した。
「見られたらどうするのです」
「とにかくその刀をしまいなさい。こんなところを誰かに見られたら私の身が・・」
武田の勝手な言い分に総司が冷たく笑った。
「貴方の身など私には斟酌の余地ではありません」
「どうすれば良いのだ」
「私と伊庭殿との会話・・・、忘れて頂けますね」
武田の視線を逸らせず、総司は念を押すように言い放った。
口調は静かだったが、相手の首筋にある筈の脇差しの鋭い切っ先を、
いきなり自分の喉下に突きつけられたような恐怖に襲われて、
武田の脇の下に冷たい汗が流れた。
「いえ、忘れて頂かなくとも・・・そんな話は最初からなかったのです。
そうですね、武田さん。あなたは最初から何も知らなかったのです」
語り掛けながら総司が刃の先を少し上に上げた。
瞬間、その首筋の皮膚に切っ先が食い込んで血が滲むのが武田の目に映った。
「・・・わかった。そうだ、最初から私は何も知らない・・」
喉がからからに渇いてそれだけを言うのが精一杯だった。
「必ず・・・、約束しましたよ」
更に武田に近づいて確約させようと一歩足を踏み出した時、
「誰だっ」
闇に抜き身の放なつ鈍い色を認めて近づいてくるものがあった。
咄嗟に脇差を鞘に収めようとしたが、一瞬遅れて見られた。
「沖田さん・・・、武田さんも」
やはり廊下から降りて、そのまま素足で駆けつけてきた島田魁が
総司の手にある脇差を見て、息を呑んだ。
が、島田は総司の脇差を握る手が逆手であることを見て訝しげに手元を凝視した。
見取られたと気付いて総司が慌てて鞘に収めた。
「沖田さん、一体どうしたのです」
答えない総司に代わって、
「いや、何でもない。沖田さんが少し聞きたいことがあると言うので
私がご相談にのっていたまで。島田君、心配は無用。もう終わった」
さすがにいくらか堅い声で武田がとりなした。
「ほう、相談に刀に手を掛けるのですか。物騒な相談ですな」
その声にはっとした三人が顔を向けると、
いつの間にか背後に伊東甲子太郎の白皙があった。
伊東の姿に、武田がみっともない程に慌てた。
「いや、私が少々沖田さんを怒らせてしまったようです。実に面目ない」
「どのような経緯(いきさつ)があったと言えど、
刃に手を掛けるとは穏やかならぬ。少しやりすぎではありませんか?
この伊東、参謀として局長に報告せねばなりますまいな」
伊東は総司が脇差を収めた瞬間を見たらしい。
それを『手を掛けた』と勘違いしている。総司は内心安堵の息を吐いた。
それは武田にしても同じだったのだろう。
局長室に行くという伊東に何か言い訳をしながら、おもねるように一緒に歩き始めた。
その後ろ姿を見ながら、総司は全身の力が急に抜けるような脱力感に襲われた。
「沖田さんっ」
島田が咄嗟に支えてくれなければ其処に座り込むところだった。
「大丈夫です。すみません・・・。見っとも無いところをお見せしてしまいました」
その腕をやんわりと外すと、
「近藤先生のところに行きます」
総司は島田を安堵させるように小さく笑った。
去ってゆく総司を見送る島田の目に、その薄い背が酷く儚く映った。
武田には脅すように念を押しておいたが、いつまでそれが効くものなのか・・
近藤には何も話さなかった。否、話すことはできなかった。
武田に理不尽を突きつけられたことは確かだが、
その裏で脅された理由(わけ)は口が裂けても言えない。
灯りもない室内で総司は闇の向こうを睨む様にして見た。
「総司・・」
ふいに廊下から掛けられた声に、それが誰のものかを瞬時に悟って
思わず総司は顔を伏せて身を堅くした。
「入るぞ」
無言のままの室内に焦れた様に、すっと障子が開けられた。
白い障子に堰止められていた月明かりが零れて、畳を青白く照らした。
俯いている総司の視界の端に土方の白い足袋だけが入った。
土方はすぐには総司の傍らには来ず、先に灯を入れた。
闇が押しのかれて室内がぼんやりと明るくなった。
やがて土方の影が近づいてきて自分のすぐ前に座った。
それでも総司は顔をあげられない。
「何があった」
問い掛けた土方の声は穏やかだった。
「・・・何も」
「何も無くて刀に手を置くようなことを、お前はしない」
断言するような土方の物言いに、総司はやっと面(おもて)を上げた。
そこに自分を見ている土方の目があった。
何かを探る為ではなく、深く包み込むように見つめる双眸が、
今、確かに自分だけを映していた。
・・・この人には何の心置きも無く望みを叶えて欲しい。
その為に自分はここに居る。
だから土方にだけは何も悟られてはならない。
「本当に、何もなかったのです。武田さんも今夜は酒が過ぎていて・・・
冗談だったのに、私も巡察から帰ったばかりのところを突っかかられて、
少し苛ついていたのです。近藤先生や土方さんにご心配をかけてしまいました」
総司はすべてを振り切る様に土方を見ると、思いきり良く笑った。
その総司を土方は暫らく黙って見ていたが、
「そうか・・・」
やがて諦める様に、深い吐息と共に呟いた。
こう言う風になると総司は決して本当の事は言わない。
これ以上問い掛けても、何も埒は明かないだろう。
(その場に居合わせた島田君に聞くしかないか・・・・)
思案の先を他に向けるように、ふと視線を逸らせた時に、
総司の首筋に滲むような細い朱の線を見た。
咄嗟に手を伸ばしそれに触れた時、総司の体が一瞬びくりと動いた。
「・・・これは、どうした」
つい問い詰めるような声になった。
「どうしたと聞いている、総司」
応えない総司に苛立って思わず声を荒げた。
「何でもないのです・・」
自分から目を逸らして、漸く小さく言う総司のその姿が
土方に怒りにも似た激しいものを呼び起こさせた。
総司の手首を土方は荒々しく取ると、強引にその顔を自分に向かせた。
「何でもない、どうもしない、お前はそればっかりだ。
どうして俺に何も言わない、俺に隠そうとする。どうしてだっ」
自分でも理由(わけ)の付かない憤りを、土方はもう止めることができなかった。
手を掴まれたまま、初めて見る土方の激した感情の迸りに、総司は息を呑んだ。
「武田と何があった・・・いや、違う・・」
言いかけてふいに言葉を切り、一瞬何かを手繰り寄せるように目を細めて遠くを見たが、
ゆっくりと視線を総司にもどした。
「・・違う、総司。俺がお前に聞きたいのは・・・」
総司が夏の初めに上洛した伊庭と会って帰って来た時、その様子がおかしかった。
二人の間に何かがあったと訝しんだ。
それを殊更見ぬ振りをして来たが、いつも自分の心のどこかに消えぬしこりが残った。
それが何であったのか今の今まで自分は気付かなかった。
否、見ようとしなかった。
だがやっと土方は自分の胸の奥に淀んでいて、
重く離れなかったものの正体をはっきりと知った。
それは、嫉妬という感情以外の何ものでも無かった。
「お前に聞きたいのは・・・」
土方は総司の手首を掴んでいた腕に更に力を入れた。
その痛みに一瞬総司が眉根を寄せた。
「伊庭と何があった・・・」
追い詰められたのは己か・・・
搾り出すように問う土方の目に、
最早消されぬ怨慕の火焔に彩られた激しい色があった。