玉 響 〜たまゆら〜 二十七

 

 

 

三日程前に将軍家茂が大坂から上洛し、この二条城に入ると、

近藤は毎日登城し、幕閣の老中連中と長州征伐についての論議を交わしている。

それを是もなく半ば諦める様にして土方は見ていたが、

今日はその近藤に付き合って、共に黒羽二重の正装で登城した。

つまらぬ論議に加わるつもりは更々無かったが、

この城の北に位置する所司代屋敷に用があった。

今この所司代屋敷が江戸から将軍を警護して来ている

『奥詰』の者達の宿舎になっていた。

そこに伊庭八郎がいるはずである。

 

 

どこに行くのかと不審気に尋ねる近藤と分かれて

そのまま北に数町上り、所司代屋敷の門の前まで来て丁度そこに居た、

やはり奥詰の一人と思われる武士に伊庭の居所を聞くと、

今はこの建物の中にいるはずだという。

呼び出しては貰えないかという土方に、

相手は歯切れの良い江戸言葉で気軽に引き受けてくれた。

 

 

 

初秋といっても陽射しはまだ強い。

門の斜め前にある、一つだけ枝を四方に伸ばして木陰を作っている

楓の木の下に来て土方はひとつ息をついた。

 

 

 

「めずらしい客だね」

人の気配を感じて振り向いた時には声を掛けられていた。

「たまにはいいだろうよ」

土方のそれには応えず、

伊庭八郎は何やら含むものでもあるのか、黙って近づいて来た。

 

足を止めて土方の前に立つと、

「総司のことかい」

この男らしく単刀直入に切り出した。

 

「わかっているのなら話は早い。

総司は江戸にはやらん。おまえにもな」

 

 

向かいあったまま、暫し二人の間に沈黙が流れた。

どちらも譲らぬように目をそらさず、相手を見据えている。

 

諦めた様に、最初に視線を外したのは八郎の方だった。

 

 

 

「総司が言ったのか」

「全部聞いた」

「俺があいつを抱いたこともか」

その心内(こころうち)を試すかのように、八郎の鋭い双眸が土方を射抜いた。

 

「俺はお前を殺してやりたいと思ったよ」

その視線を撥ねかえすようにして、土方が低く言った。

「生憎腕は俺が上だ」

「相打くらいにはもって行けるさ」

 

小さく八郎が溜息を付いた。

「なんだ、結局俺は焚きつけちまったのか」

「そういうことだろうな・・・。

だがお前に言われずとも最初から決まっていたことさ」

「何がだよ」

「総司は俺からどこにも遣らんということがさ」

「ふん、しょってやがる」

 

忌々しげに毒づきながらも八郎の目は怒りのそれではない。

そのまま土方に背を向けると、

たわわに枝をしだらせている楓の木を仰ぎ見た。

葉陰から零れる陽射しがまだ強い。

その眩しさに思わず目の上に手を翳した。

 

 

「あんた、総司を抱いたのか・・」

暫らく黙って落ちる陽を見ていた八郎が、ふいに問いかけた。

「抱いた」

何の躊躇いも無い応(いら)えが返って来た。

「この手で抱いた。俺はあいつが欲しかった。

誰よりも、欲しかった。だから誰にも遣らん」

 

 

 

背後の土方の声が妙に潔く耳朶に響く。

 

多分、こうなることは分かっていた。

それでも自分は足掻いていたかった。

報われずとも、叶わずとも、それでもまだ呻吟の中にいたかった。

そこにいさえすれば、どんなに細い光の糸でも失うことは無かった。

 

一度で思い切るのは無理だ。

人の業はそんなに生易しいものではない。

 

(そう簡単に終われるものならとっくに苦労をしてはいねぇさ・・・)

諦めの悪い己を、胸の内で自嘲して笑った。

 

それでもその思考を断ち切る様に、八郎は土方を振り向いた。

 

 

「江戸っ子って言うのも案外面倒なもんだな」

笑った目に一瞬の翳りがあった。

「俺は恰好付けだからね、野暮は嫌いさ。けどあんたには負けたくなかったね」

ふん、と鼻の先で笑うようにしながら、

 

「総司がいいってんならしょうがねぇだろうな・・」

言いざまに、再び背中を見せてゆっくりと歩き始めた。

土方をそこに置いて振り向きもしない。

 

だがそれが伊庭八郎と言う男の矜持だけではなく、

総司への深い思いの丈と知って、土方は黙ったままその姿を見送った。

 

 

数間も行かない内に、

ふいに八郎が立ち止まって顔だけを回して土方を見た。

 

「あんたの後は俺が貰うから、いっそ心置きなく死んでくれていいぜ」

その顔が笑っていた。

「お前はつくづく嫌な奴だね」

「お互い様だろ」

 

「後で総司が来るだろう」

歩き出そうとした八郎に今度は土方が声を掛けた。

「総司が・・?俺にか」

土方は無言で頷いた。

 

「今日医者の所に行っている。・・・多分、帰りにお前の処に寄るだろう」

「総司がそう言っていたのか」

「いや、俺の勘だ。だがあいつは寄るだろう。

自分の言葉で告げる為にお前に会いに来るだろう。あいつはそういう奴だ」

「・・確かにな。だが土方さん、あんたそれで穏やかでいられるかい?」

 

挑発するような八郎の視線を

殊更かわそうともせず受け止めて土方は笑った。

 

「取られたら取り返すまでさ。

俺が売られた喧嘩を買わなかったことが無いのはお前も承知のはずだ」

 

「生きているうちに言っときな」

一瞬片頬だけを歪めるようにして皮肉に笑うと、

今度こそ八郎は二度と振り向かず、遠ざかってゆく。

その少しの構えも無い後姿を、

土方は視界に消え行くまで立ち尽くして見ていた。

 

 

 

 

(・・・想太郎の奴に非番を代わらせなきゃならねぇな・・)

歩きながら八郎は思案する。

せっかくの非番を急に代われと言ったら弟の想太郎はさすがに怒るだろう。

 

(聞きわけがなきゃ心形刀流をくれてやるとでも言うさ・・)

それが満更己の嘘とも思えず呟きながら、

頬を通り過ぎた一瞬の風が、

秋という季節を思わすものらしく妙にもの優しげに思えた。

そんならしくもない感傷を、苦く笑って打ち捨てた。

 

 

 

 

 

 

五条にある田坂の診療所はやはり朝から昼にかけては、

かなりの患者で込み合っている。

その最後で良いと最初に申し伝えて、

総司の順番になった時にはすでに昼も近かった。

 

 

「どうした?具合が悪いのかい?」

いつもは一の付く日に限り、それも漸く夕方近くになってやって来る総司が

その日でも無いのに朝から出向いてくるなどと言うのは珍しいことで、

何か体の不調でもあったのかと、顔を見るなり田坂は聞いた。

 

「いえ、体はすごく調子がいいのです。実は今謹慎中で・・」

それを言いかけたとき、総司が少し悪戯気に笑った。

「謹慎中?」

「ええ、近藤先生や土方さんに叱られて・・・、

罰として昨日から三日間屯所で禁足なのです。

それで土方さんがこの謹慎中にどうしても一度

田坂さんの処に行って来いというものですから・・」

 

 

 

武田との一件を伊東に見られた手前、土方は近藤と思案した上、

総司に咎として三日間の屯所内での謹慎を言い渡した。

土方にしてみれば、最近叉隊務に忙しくなってきた総司に

これを逆手にとって休養をとらせるの為の配慮だった。

禁足とは言え医者に行くことは構わないという

土方の勝手な解釈と半ば強引な副長命令でこうして今総司はここに居る。

 

 

「君が謹慎を受けることをやらかすとは・・・嬉しいね」

「人のことだと思っていますね」

田坂の楽しげな様子に、総司が憂鬱そうに頬を膨らませた。

 

「いや、そのくらいに自分の気持ちを表に出せばいいといつも思っていたからね。

それで一体何をやらかしたんだい?」

「秘密です。何しろ罰則の上謹慎の沙汰ですから」

 

それでも笑いながら自分を見返してくる総司の、

何の曇りも感じさせない明るさに、田坂はふと目を細めた。

 

めったに笑みを絶やしたことの無い総司だが、

その瞳の中に時折どこか不安定を感じさせる危うい翳りを宿すことがあった。

それが今の総司には無い。

その理由が何なのか田坂は暫し心内(こころうち)で思案していたが、

やがて思い当たることに至って一瞬複雑な色が胸をよぎった。

総司の瞳を翳らせるものも、不安定に揺るがせるものも、土方一人をおいてはいない。

・・・・多分、総司は土方によって全ての憂慮を取り除かれたのだろう。

 

それを確かめるのに僅かに躊躇したが、思い切ったように問いかけた。

 

 

「土方さんに君の気持ちが通じたのかい・・?」

 

何の連脈も無く突然問われた言葉に

総司は一瞬その言葉の意味が理解できず呆けたように田坂を見た。

 

「土方さんと気持ちが通じ合えたんだろ?」

驚いて言葉も出ない様子の総司に向かって、それを確信した田坂が苦笑した。

 

 

「そんなに驚かなくてもいいよ。

君の気持ちは傍で見ていて分かっていたからね」

「田坂さん・・・」

辛うじて呼び戻した思考で、どうにかその名だけを呼んだが、

言った途端に頬に血が上るのが分かった。

 

 

ひどく狼狽して俯いてしまった総司を見ながら、

今田坂は、堰を切って流れ出してしまいそうな目の前の人への想いと、

それに必死に箍(たが)を掛けようとする二人の自分の間で

精一杯の均衡を保っていた。

 

それをようように押し隠しながら、

 

 

「きっと君にとっては良いことだったのだろうな。

最初から諦めていては、残るのは結局のところ後悔だけだ」

 

先程より静かに告げた声に、やっと総司が顔を上げた。

その総司を、寂しさと慈しむような二つの瞳の色で田坂は見ていた。

 

 

「俺は一人の人に自分の想いを打ち明けることができずに

結局その人を殺してしまった人間さ」

 

 

ふいに何かを胸の内から吐き出すように零れた言葉は、

田坂自身がこれまで奥深くに重く閉じ込めて

決して見ようとしなかったもう一つの真実だった。

 

 

 

 

                  裏文庫琥珀   玉響二十八