玉 響 〜たまゆら〜 二十八
庭から差し入る陽射しはまだ強いが、
通る風だけはすっかり秋のものだった。
その風に気持ちよさそうに田坂は目を細めた。
「俺の本当の母親は柳橋の芸者だったと言うことは前に話しただろう?」
まだ視線を遠くに遣ったまま問い掛ける田坂に、総司は黙って頷いた。
「実の父親の家に引き取られた時には、
俺の生まれるまえから養子が迎えられていた。三つ違いの俺の兄だ。
まぁ、どうしたって俺は父親の妾腹の子だったから、
杉浦・・・俺の旧姓だが、その杉浦の母親は面白くなかったろうさ。
悉(ことごと)く俺に辛く当たった。
・・・だが今となってはそれも仕方のないことだと思う。
きっとあの人も苦しんで辛かったのだろう。
そんな家の中で兄だけは俺に優しかった。
兄は病弱だったからか外にもあまり出ない人だったが、
勉学が好きでいつも本の中に埋もれていた。
俺は昔からこんな我侭な人間だったから遊んでくれぬ八つ当たりに
読んでいる本を取り上げて悪戯しても困ったように笑っているだけだった」
その昔の時を思い出したのだろう。
田坂の横顔に郷愁とも付かぬ色が浮かんだ。
しまい忘れたのか故意なのか、軒に吊るされたままの風鈴が
風に揺らされてひとつ音を鳴らした。
「俺は兄の傍にいるのが好きだった。いつも居たいと思っていた。
だが長ずるにしたがって、それはもっと激しいものに変わって行った」
そこまで一気に言って、田坂は初めて総司に顔を向けた。
「君には分かるだろう?その気持ちが・・・」
ふいに問われて、それが自分の土方への気持ちを言っているのだと分かって
総司は今度こそ躊躇わずに頷いた。
「俺はまだ十五だったが、それでも兄への気持ちは
肉親に対するそれとは全く違うことは分かった。
そんな自分の気持ちに気付いた時はもう止めようが無く、
どうすればよいのかも分からず、俺は兄を避ける様になっていた。
・・・兄の傍に居たら俺は暴走してしまいそうだった」
「俺は生涯その兄への想いを口にはしてはならぬと決めた。
だが、兄はその俺の気持ちに気付いていた。
・・・・兄も又、俺と同じ想いを持ってくれていた。
そして俺以上に苦しんでいた。兄はそういう人だった。
そのうち藩の中の若い連中の間で急進的な勤皇を説く者が現れた。
膳所藩というのは根っからの幕府寄りでね、
そんな思想など露ほども許す藩風ではなかった。
兄はその連中の説く思想に急速に心酔していった。
まるで何かを忘れるようにな。
・・・兄が忘れたかったのは
いや、兄が没頭することで打ち捨てたかったのは、
俺へと傾いてゆく禁忌の想いだった」
田坂の声音は乾いてむしろ淡々と語りついでゆく。
総司は先程から言葉も忘れたように田坂の横顔を凝視している。
「歯止めが利かなくなった連中が
ある日藩の中心をなす佐幕派思想の持ち主だった江戸家老を襲った。
・・・・その中に兄がいた」
総司の瞳が大きく瞠られた。
「兄は捕らえられ、即日斬首。
厳格だった父もその日の内に我が子の成したことへの責を追って腹を切った」
田坂を凝視する黒曜の瞳がみるみる翳を落として揺らいだ。
やっと顔を総司にもどした田坂がそれを見とめて顔を和ませた。
「そんな顔をするなよ。もうとおに昔のことだ・・・終わったことさ」
それでも総司は硬く顔を強張らせている。
「終わったことなんだが・・・。
ただ俺はあの時兄に、正直に自分の気持ちを伝えていたら、
また運命(さだめ)は変わっていたかもしれないと思うときがある。
何を言ってもすでに後悔でしか無いが。
兄はきっと俺との事で、地獄の底を垣間見る程に苦しんでいただろうが、
最後まで俺の前ではそれを表には出さなかった。
だが堪え切れなくなった兄は自ら暴走することでそれから逃れようとした。
男をそんな風に表現するのはおかしいが、兄は綺麗な人だった。
いや、それは容姿の事を言っているのではないのだが・・・。
・・・・・俺にとって兄はいつも変わりなく優しい人だった」
そこでふと言葉を切って、田坂は総司を見た。
「本当の心を隠し通して得るものは、そのまま逝く者も叉残された者にも、
共にあの世とこの世で辛い後悔に呻吟することだけだ。
君を見ていて正直苦しかった。
いつか自分と同じ後悔をさせるのではないかと・・・、
こんなことを俺が言うのは思い上がりかもしれないが、
それでも君には同じ俺と後悔をして欲しくなかった」
苦しかったのはつのる総司への想いのせいだとは言わず、
田坂は半分の真実だけを告げた。
何故だか分からぬが、それでいいと思った。
ほろ苦さと胸の内に流れる寂寥感に暫し漂っているのも悪くないかもしれない・・
そんな風に思う自分に安堵するものがあった。
もしかしたら自分はやっと捕らえられていた足枷から離れられたのかもしれない。
やがて聞こえてくる季節外れの風鈴の音が微かに耳に優しかった。
限りなく深い色を湛えて自分を見つめてくる田坂の双眸に、
思わず目の端から零れ落ちそうになるものがあって、総司は慌てて下を向いた。
田坂に何を言って良いのかわからない。
こんな風に見守っていてくれた田坂俊輔というひとりの人間に、
自分は何も返す術を持たない。それが悔しい。
今田坂へのこの気持ちを言葉にしたら、
とんでもなく軽いものになってしまいそうだった。
目の端に溜まったものが零れ落ちそうになるのを隠すように、ただ深く頭を下げた。
キヨが作る昼を一緒に食べてゆかないかとの誘いを丁寧に断って、
総司は田坂の診療所を辞した。
もうひとつ、自分は行かなければならないところがある。
普段は汗をかきにくい総司でも、足早に歩くとまだ額に玉の様な汗が吹き出る。
それを拭いもせずに歩みの速さは緩めない。
五条通りを西に向かって堀川に出たところで、屯所とは逆に北に折れた。
そのまま歩き続け二条城を通り過ぎ、さすがに息が切れてきたところに、
漸く伊庭八郎がいるはずの所司代屋敷が見えてきた。
その門前でどうやって八郎を探したらよいのか思案していたところに、
「総司」
突然に後ろから聞きなれた声を掛けられて振り返った。
丁度総司の方からは逆光になって相手の姿が分かりにくかったが、
門の反対側の大きな楓の木の太い幹に背を預けるようにして、
伊庭八郎が腕を組んで立っていた。
八郎に連れていかれたのは所司代屋敷からそう遠く無い
堀川に向かって座敷を誂(あつら)えた小さな料理屋だった。
「ここのは少しはましだ」
食べるものに関してはとことん譲らない八郎の見立ての店だけに、
確かに味はそこいらの一流の料理屋に引けをとらない。
何より旬の素材を使いきっているのがいい。
「八郎さんはいつこんな店を見つけてくるのです」
将軍家茂警護の為に今大坂と京都を行き来している八郎に、
そんなに時間にゆとりがあるとは思えず、
総司は思った疑問を素直に口にした。
「俺のことを暇だと言ったのはお前だろ」
「そうでしたっけ・・?」
自分の言ったことはさらりと忘れて
可笑しそうに笑う総司を見ていた八郎だったが、
ふいに顔を、開け放ってあった障子から見える堀川に向けた。
そのまま暫らく川に枝垂(しだ)れる柳の枝を見るとも無く見ていたが、
「・・・さっき、土方さんが来たよ」
世間話の続きのように何気なく呟いた。
その言葉に動かしていた箸を止めて一瞬顔を上げた総司だったが、
格子窓の桟に肩肘を付き、
物憂げに外を見ている八郎の表情までは分からない。
「八郎さん・・」
静かに流れるような時の沈黙を破ったのは総司だった。
「・・・八郎さん、今日私が来たのは」
「知っているよ」
総司に全部を言わせず、八郎は向き直った。
「みんな聞いたよ、土方さんから」
言いながら、総司を見る八郎の目が何かを思い出すように和んだ。
「お前、俺に抱かれたことも言っちまったんだってな」
「八郎さんっ・・・」
からかいの目に見つめられて、総司の頬にみるみる朱の色が上った。
「そんなこと・・・」
怨むように見上げる総司に、八郎は声を立てて笑い出した。
それでもやっと笑いを収めると、
「大事なことだろ、お前にとっては・・」
ふと真顔にもどって八郎が問うた。
「何もかもひとつ残らず自分のことを土方さんに
知ってもらいたかったんだろう?」
その問い掛けに総司は微かに顎を引いて頷くだけで応えた。
「だが、もし、もしもそれで土方さんがお前を受け入れなかったら・・・
お前はどうするつもりだった」
「分からない」
それに思案するでもなく、一時の間も与えず総司は応えた。
「分からない?」
「分からないのです。でも全部土方さんに言わなくてはならないと思った。
けれどそれでどうなるなんて考えることもできなかった」
「それは必死だったということか?」
それには総司はゆっくりと首を横に振った。
「必死とか・・・そういうものではなくって・・上手く言えないけれど、
きっと伝えきった後には何の後悔も残らないだろうと・・
あの時土方さんが要らぬ思いだと私を置き去って出て行っても、
それでも何も思い残すことはないと・・そう思った」
総司の顔に広がるひとつ試練を乗り越えた者だけが湛える穏やかな色を、
八郎は黙って見ていたが、やがて小さく溜息を付いた。
「お前、そりゃのろけって言うんだぜ」
乾いた声で言ったあとから低い笑いをもらした。
その八郎を総司は土方のものとは叉別の、
胸に切なくよぎる思いに捉われながら見つめていた。