玉 響 参十 「もう、起きてもいいでしょう?」 「もう二、三日大人しくしていたらな」 顔すらみようともせず、帰り支度をしながらそれに応える田坂俊介医師の背を、 総司は床の中から恨めしそうに見上げた。 数日前に風邪を引いた。 いつもは隠し通してしまえるものが、 今回ばかりは高い熱に苛まれて動くことができなくなった。 まだ完全には移らないこんな季節の変わり目は、 総司のような病持ちには辛い時期でもある。 「もう五日も寝ている・・」 宙に両の手を伸ばして、その指先を折って数えた。 「指は全部でニ十ある。安心して寝ていていいさ」 そっけない田坂の口ぶりに、諦めの溜息をひとつついた。 「どうしてかな・・・」 「何が」 咎めるように呟いた声音に、ようやく田坂が振り向いた。 「どうしてこんな時に風邪なんか引いてしまったのだろう・・」 見上げた瞳に微かに己への憤りが混じっていた。 先月九月、幕府は征長勅許を朝廷より得、 大目付永井尚志らを長州訊問使として派遣することを決めた。 この征長出動に備えて、新撰組の内部は俄かに慌しくなった。 新たに隊士の募集を行い、総数はニ百を数え、 屯所を置く西本願寺敷地だけではとても足りるものではなく、 壬生寺の境内をも借り受けて、過熟とも言える調練を行っていた。 事実上、隊の内部を取り仕切る副長の土方は いつ眠るのかも分からぬ忙しい日々を送っている。 それを思えば、自分ばかりがこうしてその喧騒から離れ、 安寧として床に伏しているのが酷く情けないものに思える。 そんなやり場の無い焦りがつい愚痴になって出た。 「こんな時だから無理を重ねた結果が出たのだろう。自分で招いたものさ」 甘える隙すら許さない田坂の言葉だが、今の自分には却って心安らぐものがある。 労わられる方がずっと辛い。 「熱も下がったからもう起きてみようかな」 「あと十日寝込む覚悟が出来ていたらな」 否定されるとは重々知りながら、それでも言葉にしてみたのは、 もしかしたらこの田坂の容赦のない応(いら)えこそが、 今の自分の重い心を救ってくれる唯一だったからかもしれない。 不満そうに見上げる総司の視線など無視をして、田坂は薬箱から包みを取り出した。 「一両日中にもう一度来るから、それまでの薬だ。捨てるなよ」 言いながら立ち上がった無愛想な若い医師に、 あからさまに不満の色を浮かべただけで、総司は返事をしなかった。 その患者を高い位置から見下ろして、 「あ、それから、土方さんとも暫らくは駄目だぞ」 あっさりと言葉にされたが、その意味が分かると、 総司はこれ以上無いという程に狼狽して耳朶まで朱く染めた。 「田坂さんっ」 悲鳴のような叫びにも顔色ひとつ変えず、 「土方さんにも釘をさしておかねばな・・・」 独り言のように呟いて病室を出ると、後ろ手で障子をしめた。 間際に総司が何かを叉叫んだが、外気が入らないようにきっちりと閉じると、 漸く端正な顔に小さな笑いを浮かべた。 胸に労咳という宿痾を抱える総司は、風邪一つが命取りになることがある。 常に患者の容態に神経を張り巡らせてはいても、 忍び寄る病魔との戦いは、田坂にとっては決して安易なものではない。 (文句を言う元気が出てくればそれでいい・・) だが想い人が、自分以外の人間に想いを寄せるさまを見せつけられれば、 それはそれで穏やかではいられぬ己がいる。 (・・・まったく、人って奴はどうしようもないものさ) 浮かべていた笑みが、苦い笑いに変わった。 先ほどよりも少しだけ強くなった秋の雨が、 軒だけでは間に合わず、 廊下の内までをも濡らしていた。 田坂がきっちりと閉めていった障子を、また少しだけ開けて、 総司は床の中から外に降る雨を見ている。 無造作に畳の上まで投げ出した左の腕の手のひらを、 先ほどから無意識の内に、握ったり開いたりしている。 こうして寝込むたびに、自分の体から少しずつ力が無くなってゆくような気がする。 今はまだそれが不安で終わる。 けれどすぐに恐怖になり、やがて絶望になる日がやってくる。 いつまで自分の意志のままに、この手を動かすことができるのか・・・ ぼんやりと見る中庭は煙るような雨で霞んでいた。 先の見えないありさまが、自分の行く末に重なった。 「総司」 ふいに障子の影から顔を出したのは永倉新八だった。 「具合はどんなものだ?」 勝って知ったる気安さで、どんどん室の中に足を踏み入れると、 慌てて起き上がろうとした総司を手で制した。 「明日からはもう起きます」 「でも、なさそうだな」 当の本人は屈託無く笑ってはいるが、 たった数日寝込んだ間に血の気の無い頬に落した影は、 そう容易に消えるものとも思えなかった。 普段は意識して思わぬが、こうした姿を見ていると、この目の前の若者は、 違(たが)える事無く胸に業病を抱えて生きているのだと見せ付けられる気がして、 新八の心も、また暗く沈む。 「まぁ、お前ひとりがいなくても新撰組は回ってゆくさ」 その感傷をふっきるように、殊更明るく笑って言い切った。 「それより、さっき面白い客がきたぜ」 「面白い?」 「土方さんにさ。誰だと思う?」 分からない、という顔をして総司は永倉を見ている。 「お前は知っているだろう、上七軒の土方さんの馴染み」 「・・・子楽さんですか」 一瞬揺れた総司の瞳の色を、永倉は気付かない。 「そう、子楽。来たのさ」 「ここに・・?」 「土方さん、最近ご無沙汰だったんだろうよ。 つれない仕打ちに恨み言のひとつも言いにきたのか、そこまでは俺も知らん。 が、とにかく来た。いじらしい気もしないではないが、あの土方さんではな」 相手も気の毒だ・・・ 本気で同情しているのか、新八が溜息ともつかぬ呟きをもらした。 その新八の声を、総司は遠くで聞いていた。 土方が自分の想いを受け入れてくれたのは、つい最近のことだ。 どれ程の刻(とき)をかけて、土方ひとりを自分は追って来たのか、もう忘れた。 否、思い出すことすらできない。 気がつけば、いつも、いつもその背だけを見ていた。 長い歳月だったのかもしれない。 或いは瞬きをする程の間だったのかもしれない。 想いが通じたとき、これで我が身が終わろうがもう何の悔いも無かった。 土方をこの身に受け入れて一緒になれたとき、 身体を引き裂かれるような衝撃も、 息が止まり、気の遠くなる苦痛すら喜びだった。 あの時、確かにすべてがこの一瞬で消えてしまっても良いと、 それで満足だと、自分はそう思った。 だがどうだろう。 ひとつ願いが叶えば、また次なる欲に溺れる。 もっと土方といたい、少しでも長く傍にいたい。 そう願う己の強欲さが情けない。 そして今また、土方を尋ねて来たという女の話を聞けば、こんなにも胸が騒ぐ。 「子楽さん、わざわざ土方さんに会いにきたのですか?」 「この近くに来たついでに、 茶屋の女将からの付け届けを頼まれたのだと言っていたが、 それも取って付けたような見え透いた言い訳だろうよ。 が、考えようによってちゃぁ悪い男に惚れたと思って諦めた方がいいのかもな」 「・・・どうして?」 「あの人は本当に人に惚れるってことのできない人間さ」 総司の沈黙を、新八は気にも止めずに続ける。 「土方さんにとっては新撰組が一番で、二番目三番目ってのは在り得ないのさ」 「在り得ない?」 「誰よりも近くにいるお前が分からない筈がないだろう」 むしろ心外そうに、新八は総司を見た。 「土方さんが新撰組を一番大事にしているというのは、そう思うけれど・・」 「ほら、やはり分かっているじゃないか。それが悪いとは俺は思わない。 けれど今のあの人を見ていると、眉をひそめたくなる時も無いではない」 自ら江戸っ子を自負する新八にしては、ずいぶんと回りくどい言い方だった。 或いはそれは、ともすれば土方を批判することになりかねない発言を、 新八なりに総司の前で遠慮をしたのかもしれない。 「・・・眉をひそめる?」 「走りすぎているのさ」 「何に?」 「新撰組そのものにさ」 語りながら新八は、総司の瞳の中にある、縋るような真剣な色に漸く気がついた。 この若者は昔から土方に向けられるすべての抗(あらが)いの目を、 常に己が盾になって防ごうとしている節があった。 今の自分の言動が、少なからず総司の憂慮となってしまったことを、新八は後悔した。 「おい、俺はそんなに大真面目な顔をして聞いてもらう話をしていたんじゃないぜ」 苦笑しながら告げたのは、その憂いを少しでも解いてやりたかったからだ。 「すみません」 今度は総司が慌てた。 「ほら、お前はすぐそれだ」 何がそれなのか、新八の言うことが分からず、総司は訝しげにその顔を見た。 「気を遣いすぎるんだよ」 「遣っているつもりなどないのだけれど・・」 「遣っているよ。他人の事はいい。もう少し自分のことだけを考えろよ」 それは土方への総司の接し方をも言外に含めた、新八の偽らざる本心だった。 困ったような笑みを浮かべて自分を見ている総司の、 時折見せる激しいまでをのひたむきさを、新八は危ういと思うときがある。 又それは新八に、言いようのない不安を抱かせるものでもあった。 もしそれがこの若者を、天が早くに欲しがる理由だとしたら・・・ そこまで思って、新八は軽く頭を振った。 こんなことを考える自分はどうかしている。 「雨、やまねぇな」 そんな不吉な思いに一時でも捕らわれた自分を打ち捨てるように、 細く開いた障子の間から覗く、雨に濡れた庭に視線を逸らせた。 新八の出て行った室には、ただ地を叩く雨の音だけが聞える。 すっかり障子を締め切って、その気配だけを感じていれば、 確かに今ここには自分ひとりしかいないのだと、否が応でも思わずにはいられない。 「・・・何も言わなかった」 先ほどから胸にあるしこりを、小さく声にしてみた。 新八が来たと告げた子楽の事を、土方は何も自分に言わなかった。 今日、ここに土方は田坂の来る少し前にやって来た。 とりとめもない話相手になってくれ、またすぐに忙しそうに出て行った。 新八の話によれば、子楽が来たのはその前のことだ。 「何故言わなかったのだろう・・」 それが心の奥に重く残る。 これは嫉妬とういうものなのだろうか。 仰向けにしていた身体をゆっくりと横にして、総司は白い障子を見た。 自分はどんどん業の深い人間になってゆく。 そんな自分を止められない己にも愛想が尽きる。 言い聞かせても、言い聞かせても、 心は自分の望むものとは違う方向に、どんどん走って行ってしまう。 自分であって、自分ではない。 そして、そうであってはならない自分に、もう転がり出している。 そんな今の自分に総司は怯えた。 このままではただ土方の重荷になってしまう。 言うことをきかない身体と、心と・・・ もうどうすれば良いのか分からない。 遣る瀬無い吐息をついて、総司は瞳を閉じた。 裏文庫琥珀 玉響 参十壱 |