玉 響   参十壱







秋雨はそのまま篠突くような勢いになり、夜更けてあたりの空気もそれに湿ったように冷たくなって来た。



「藤堂さん」
二つ先の室に行灯の灯がともり、主が戻って来たことを確かめて、総司はその前で声を掛けた。

返事を待つまでも無く、障子が勢い良く開けられた。

「どうした」
夜間の巡察を終えて戻った籐堂の髪は、笠で凌ぎきれなかった雨にしたたか濡れている。
未だ湯も使っていないのだろう。
手拭で髪から滴る雫(しずく)を拭いながら、籐堂はめずらしい訪問者を怪訝に見た。
いつも他人への配慮を過ぎるほどにする総司が、こんな時刻に尋ねてくることなど、滅多にあることではない。


「すみません。ちょっと聞きたいことがあって」
「入れよ」
「いえ、すぐに終わるからここで」
「四の五の言っていないで早く入れ」

乱暴な口調で言いながらも、雨の降り込む廊下に相手を立たせて置くのを嫌うのは、籐堂平助という男の優しさなのだろう。


促されて室に足を踏み入れたは良いが、四方に脱ぎ散らかした濡れた羽織やら着物で、座るところを見つける方が難しい。
流石に呆れて、総司は藤堂を見た。

「藤堂さん」
「何だ。さっさと座れよ」
「これでは座れない」
「何故」
籐堂は総司の様子に全く気を止める風も無く、先ほどから無造作に髪やら体を拭っている手を休めない。

「いい。ここで話す」
「人が親切に聞いてやろうって言っているのだ。ちゃんと座って相談をするというのが礼儀というものだろう」
「座ったら濡れる」
吐息をつきながら咎めるような口調に、籐堂は初めて総司の言わんとしていることが飲み込めたようだった。


「お前も細かいことを言う奴だな」
「籐堂さんが大雑把すぎる」

同じ歳の気安さで、籐堂には何の遠慮もせずに、思った事をそのまま言うことができた。
幼少と言っていい頃から大人の中で育った総司にとって、籐堂は唯一気の置けない友人と言える存在だった。


「本当に煩(うるさ)い奴だよな。お前ってのは」
文句を言いながらも籐堂は、水を含んで重い羽織を手で払うようにして乱暴に除けると、押入れから薄い座布団を取り出してきた。

「生憎(あいにく)これひとつしか無いからお前に貸してやるよ。その上に座れば濡れないだろう」

濡れたままの畳の上に座布団を置かれても、余計に湿っぽくなるだけだったが、これも籐堂の精一杯の気配りと思えば座わらない訳にもゆかない。
仕方無く総司はそこに端座した。



「で、何だ?聞きたいことって言うのは」
ふいに本題を迫られて、今度は総司の方が躊躇した。
「話があって来たのだろう?」
突然に勢いの無くなった顔を見て、籐堂は苦笑した。

「籐堂さんと話していたら、もうどうにでも良くなってしまった」
本当にそう思っているのか、いつもと変わらぬ笑みを見せる総司の表情からは分からない。
が、きっとそれは嘘なのだろう。
長い付き合いの勘というものは、時に確信になる。



昔からそうだった。
目の前の同い歳の友は、他人の感情の機微を敏感に察して気遣うくせに、いざ自分の事となると本当の心の裡(うち)をいとも簡単に隠してしまう。
それが総司にとって己が望むべく形ならば致し方が無い。
それでも自分と相対する時は、そんな総司であって欲しくは無いと籐堂は思っている。




「お前のそういうところ、悪いところだよ」
「どういうところが?」
「そうやって話をはぐらかせてしまうところさ」
「はぐらかせてなどいない」
「いや、いるよ。せっかく人が聞いてやろうという姿勢をとってやったのだ。それに素直に応えるのは当然の事だろう」

怒ったような口ぶりだが、その実自分が話しやすいように、わざとそう仕向けてくれているのだと言う事は容易に分かった。
それを知ってしまえば、もうここで口を噤んでしまうのも憚(はばか)られる。



「つまらない事なのです」

思い切って切り出しては見たものの、いざ問われてみれば確かにそれは、こんな夜更けに人を尋ねてまで聞くような事ではない。
総司は改めて己の考えの無い行動を思い、恥ずかしさで身が竦む思いだった。


「つまらない事かどうかは聞かれた俺が判断することだ。言ってみろよ」
藤堂の声には、もう有無を言わせない強い響きが篭っていた。


「籐堂さんは・・・」

それでも言葉にするのをためらってはいたが、見据える籐堂の双眸がそれを許さなかった。

「籐堂さんは、女の人の気持と言うものが分かりますか?」

気圧(けお)される形で一気に言い切って、瞳を上げて見れば、思いもよらない成り行きに意表を突かれたのか、籐堂は呆けたように自分を見ている。
瞬きも忘れたような藤堂の視線にあって、総司は遂に下を向いてしまった。




藤堂の沈黙はほんの僅かな間だったのかも知れないが、総司には果ての無い長いものに思えた。
籐堂も困っているのだ。きっと何と応えて良いのか分からないのだ。

やはり馬鹿なことを聞いてしまったと思っても、今更言葉にしたものは取り返しのつく筈も無く、思い出せば羞恥で顔を上げられない。
こんな事を聞きに、わざわざ籐堂を訪ねた己の愚かさを、総司は罵倒したかった。

それでも、何も言わない籐堂が恨めしかった。




「すみません。つまらない事を聞きました」
居たたまれぬ思いに耐え切れずに、先に声を発したのは総司の方だった。


「誰か、好いた女が出来たのか」
ようやく長い沈黙を破って籐堂が呟くように聞いた。
その声音には、いつものような快活さは無い。
むしろ聞いて良いものかと思案気な遠慮がある。


だがそう言葉にしてはみたものの、まさか総司から女の相談を受けようとは、実際のところ籐堂自身もまだ思考が纏まらないでいた。

が、考えてみれば、今目の前で俯いている人間は自分と同じ歳の若い男だ。
好いた女の一人や二人できたとしても、それは至極当然の事で、おかしな事は何ひとつありはしない。
だがどうしたことか昔から、総司と女という結びつきを、一度も考えたことの無かった自分が不思議だった。
それが総司への応えよりも、己の裡に湧いた疑問の方を籐堂に優先させた。




「今更だがな・・、俺はお前が女に惚れるという状況をどうにも想像ができない」
思った事をそのまま言葉に出してみた。
「どうして?」
「どうしてだろうな・・・。俺にも分からない」

真剣に悩んでいるのだろう。
藤堂は腕を組むと眉間に皺を寄せて考えこんでしまった。
その所作が、総司の緊張を緩ませ、笑いを誘った。


「何が可笑しい」
「だって籐堂さん、そんなに考え込む程のことなのかな」
「いや、今までそういうことを考えなかった俺の思考が不思議なのさ」
「それは良いけれど・・・別に女の人を好いたという訳ではないから」
「では何故そんな事を聞く。お前の言っていることは、それこそ分からなすぎるぞ。男に女の気持ちが分かるかなぞ、好いた女ができなければ聞く事でもないだろう」

本当に訳が分からないと言うように、籐堂は総司を見て軽く頭を振った。


そんな籐堂の様子が総司の胸の裡を軽くし、もしかしたらこのまま冗談の内で誤魔化せてしまうことができるかもしれないと、ひとつ心を決めさせた。



「・・・上七軒の土方さんの馴染みの女の人が、今日屯所に来たって聞いて」
自分を奮い立たせるように、切り出した。
「ああ、来ていたようだな」
「それで土方さんは最近その人の所に行かないから・・」
「だから何だ?」

先を促す籐堂の言葉に総司は一度下を向いたが、やがて決心したかのように顔を上げた。


「その女の人は土方さんの事を、本当に好いているから来たのだと思う。それでも土方さんは行かなかったらその人はどうするのだろう。土方さんを恨むだろうけれど、でもきっと諦めることなどできずに、もっと好いてしまうのかな。女の人の気持ちというものは、そういう風なものだと、前に誰かが言っていた」

総司の瞳の色が真剣だった。
だがそれを見返す籐堂は、今度こそ呆れ返ったというように、大きく溜息をついた。



「お前、ばかか」
「何故?」
「どうしてお前が土方さんの女の心配までしなければならない」

藤堂の声音には、いい加減うんざりとした響きが混じって、もうそれを隠そうともしない。


「土方さんがどうのと言うことではない」
「では何だ」
「だから女の人の事だと言っている」
「その女が土方さんの仕打ちをつれないと一度は恨んでも、反対に更に逆上(のぼ)せ上がってしまうかもしれないということか?」
総司は黙って頷いた。

「それはそうかもしれないな。大体が本気になって好いてしまったからこそ、わざわざ屯所まで来たのだろう?色町の女がそこまでの行動を起こすということは、そうそうある事じゃない。余程追い詰められてしまったのだろうな。すでにその女にとっては、土方さんは客ではないのだろうよ。そうなれば命がけで惚れた男なのさ。
が、それをお前が案じてどうする。まさか女の元に、土方さんがつれないからと、代わりに詫びに行く訳でもあるまい」


「命がけで惚れている・・」
だが藤堂の言葉に、総司の瞳が微かに揺らいだ。

「土方さんの事を諦めるのならば、死んだ方がいいと思う位に好いているのかな」
「だから、どうしてそこでお前がその女の事を、そこまで気にする。俺にはその方が余程分からない。そんな事は土方さんが自分で始末をつければ良い事だろう?」


次第に苛立ちを隠せない籐堂に、総司はただ黙って曖昧な笑みを浮かべた。
見ている者が、寂しくなるような笑い顔だった。
そしてそれ以上総司の心の奥深くには立ち入れない何かを感じて、籐堂は黙った。








まだ己の中で何か腑に落ちない風を嫌う藤堂から逃れるように、途中で話を切り上げて室に戻って来ると、一度に疲労感が押し寄せてきた。



柱に背を凭れるようにして座り込むと、暫らく夜具には入らずに、そのまま雨の音を聞いていた。
あれから土方の顔は見てはいない。

副長室には灯りが消えていなかった。
きっと今日も深夜までその灯はついたままなのだろう。



仕事に忙殺されながら、土方は昼尋ねて来た子楽のことを思い出さないのだろうか。
激しい想いの丈を密かな行動に移してぶつけた女の事が、ちらりとも脳裏に浮かばないのだろうか。
もしそうならば、その事を知って子楽はどんなに嘆くだろう。
だがそう思う心のもうひとつ別のところで、土方に思い出して欲しくは無いと願う自分がいることを総司は否が応でも認めざるを得なかった。

この上なく残酷な自分が、心の一番奥に居る。


傍らにいられればそれでいいと、ただそれだけを望んでいた自分は、いつのまにか嫉妬の塊のような醜い心の持ち主になってしまった。



「・・・どうしてこんな風になってしまったのだろう」

小さく呟いて天井を仰いだ。
もうこれ以上自分の本当の心と向き合っていることには耐えられなかった。
どんなに見まいと目を瞑っても、どんなに耳を塞ごうと、そうすればそうする程、これが己の本当の姿なのだと闇が迫って来る気がした。

今は誰にも顔を見られたくは無いと思った。




激しくなった雨音を聞きながら、いっそこの雨が全てを流し去ってくれればいいと、そう願った。









十月も半ばを過ぎれば早朝の空気には冷気がこもる。


まだ誰もいない道場に足を踏み入れたとき、床にまで染み込んだその冷めたさは、素足の裏から頭の一番上まで貫いて、一気に総司の全てを覚醒させた。
その震えるような感覚すら心地良く思える、久しぶりの緊張感だった。


いつもの様に壁に掛けてあった竹刀を無造作に手に取った。
が、竹刀を己の手に移た瞬間、愕然として立ち竦んだ。

つい先日まで重さなど感じることが無かった慣れ親しんだ感覚のそれは、今自分の掌の中にあって存在を誇示するかのように重くある。

寝込んでいたのはたったの五日だ。
その短い間に、自分の体力は信じられぬ程に削り取られていたのだ。



池田屋で喀血して寝込んだそのあとも、確かにこんな事があった。
だがあの時は寝付いた日も長かった。
今度はたかだか風邪で五日・・・

それがこれほどまでに身体に負担を強いているとは、自分の想像を遥かに超えて、病は進んでいるらしい。




暗澹たる思いに塞がれてゆく心の裡とは反対に、高い位置の明り取りから夜明けの陽が差し込み始めた。
その陽が身じろぎもせずに立ち尽くしている総司の足元に、一条零れて小さな光の輪を投げかけた。

それをぼんやりと、ただ瞳に映しながら、ふと子楽の事が胸を過(よ)ぎった。




子楽の、己の望む者への躊躇いの無い直截な行動は、健やかな肉体に裏打ちされた、何も恐れるものの無い魂の成せる業なのだろう。
それはこの光に似て、何の憂慮も無く、ただ眩しく力強いものに、総司には思えた。
そしてその微塵の翳りの無いものこそが、土方の行く末を照らすに相応しいものだと、そう思った。




次第に明けの色に染まりつつある周囲にひとり取り残されて、ひどく心もとない自分がいた。












                

              裏文庫琥珀    玉響参十弐