玉 響  参十弐






昨日まで床についていた身が、今日から隊務に復帰することを流石に土方は許しはしなかったが、田坂の処に行くと言った時、少々不審気な顔をしただけで、殊更深い詮索はしなかった。
それだけ土方も忙しいのだろう。
嘘をついたことに多少の後ろめたさは感じるものの、総司にとってはどうしてもせねばならない決断だった。




京の色街の中でも上七軒の歴史は古い。
室町の御世、天満宮消失の際に七軒の茶室を建てて再建したのが、その始まりと言われている。
そんな花街も昼前の今頃は、まだ静かな眠りの中にある。
ただ家々の前に打たれた水だけが、清々しく朝の気配を漂わせていた。
その閑散とした空気が、総司には返って有難かった。


此処まで来てしまったものの、総司は先ほどから思案を持て余して、両の脇に格子窓の茶屋が軒を連ねる細い小路の入り口あたりで立ち止まっている。
着いてしまってから、尋ねるべき相手に会って、いったい何を告げるつもりだったのか、思えばそれすら分からず途方にくれていた。


子楽という女(ひと)には会ったことがない。
顔すら知らぬ人間に、ましてその子楽にはどこに行けば会えるのか、そんなことも考えずに夢中で来てしまった。
総司は改めて己の浅慮に深い溜息をついた。
かと言って、ひとつ戸を叩いて子楽の所在はどこかと尋ねる勇気もない。


街はまだ静寂(しじま)の中にある。




(会えなくて良かったのかもしれない・・)

意気地の無い自分を胸の裡で自嘲しながらも、そういう思考に落ち着いたことに総司は些かの安堵を覚えた。

屯所に帰ろうと思い切り良く踵を返したとき、

「・・もし、沖田はんやおへんか」
背後から柔らかな声が呼び止めた。


驚いて振りむいた先に、小柄な女が立っていた。
豊かな黒い髪を一筋も乱さず結い上げた化粧気の無い顔は、それでも十分生気を含んだ肌をしていた。
美しさ、艶やかさを競う色街の女にしてはずいぶんと地味な印象を受けるが、明るい日の中で少しも臆さない潔さがある。
退廃した雰囲気を身に纏った女ではなかった。



「やっぱりそうや・・・さっきから似てはるお人やと思うて見てましたんえ」
女は初めて笑った。
笑うと両の頬に浅い笑窪ができる。そうすると妙に人懐こさを与えた。

「どなたでしょうか・・・」
自分は此処に来たことがない。
声をかけられて、総司は戸惑った。

「堪忍どっせ。一度あんたはんをお見かけしたことがありますのや。土方はんとご一緒にいられはったところを。そのあと土方はんからあれは沖田はんやったとお聞きましたんえ」

咄嗟にこの目の前の女が子楽だということを、総司は悟った。

「あなたが、子楽さんですか?」
悪い事をした訳でも無いのに、心の臓は早鐘のように打ち、口の中はからからに渇いた。

「へぇ。子楽どす。お初にお目にかかります。驚かせてしもうて、ほんに堪忍どっせ。
せやけど土方はんから沖田はんのお話はようお聞きしますよって、つい・・」
子楽の顔から笑みは消えていないのに、総司は背中に冷たい汗が滲んだ。
そんな総司を子楽は訝(いぶか)るでもなく見ている。

「沖田はんは、なんぞうちに御用がありましたんと違いますか?」
ふいに図星を突かれて、総司は更に狼狽した。
「・・いえ、この近くに用事があったのですが・・・道に迷ってしまいました」
咄嗟の嘘を上手く言えたのか、それすらも今の自分の思考では定かでない。

「こないに朝早ようから・・」
子楽は不審に思ったのだろうか。
驚いたように呟いた声に視線を合わせられず総司は俯いた。

「ほなあちこち探し回られてお疲れどすやろ。うちのところで少しだけ休んでいかはりまへんか?」

子楽の言葉に邪気は無い。
好いた男の知り合いにただ親切をしたいだけなのだろう。
だが総司は一刻も早くここを離れたかった。
「すみません。有り難いのですが、もう屯所に戻らなくてはなりません。今日はもう探すのを諦めます」
慌しく一礼をすると、居たたまれずに子楽に背を向けた。



「・・・あの」

歩き始めようとした総司に、子楽が何かを言いかけて口を噤んだ。
その声に引き止められるように、思わず振り返った。

呼び止めて子楽は暫らく考えている風だったが、やがて総司を見つめる切れ長の目に僅かに憂いの色を湛えた。


「土方はんは怒ってはりますやろうなぁ」
「怒っている?」
子楽は小さく笑った。

「うち、昨日土方はんを尋ねて新撰組まで行きましたんえ」
その事は知っているとも言えず、総司は黙ったまま子楽を見ている。

「知っておいやしたんやろ。女子が仕事してはる男はんを尋ねるなんて・・・。えらい恥ずかしい事をしてしもうた」
子楽の声に自嘲の含みがあった。

「いえ、私は何も聞いてはいません」
「沖田はんは優しゅうおすなぁ」
「本当に聞いてはいません」
向きになって否定する総司を見つめる子楽の眸が、艶を含んであでやかだった。

「ええんどす。うちは行った事は、ちぃっとも後悔してまへんよって。けど、土方はんにはえろう迷惑をかけてしもうた」
「土方さんは怒ってなどいません」
「おおきに。せやけど、土方はんに伝えて下さい。すんませんでしたと、そう、子楽が言っていましたと」
言い終えて笑いかけた顔が、切なくなる程寂しげだった。


「・・・伝えます」
「おおきに。ほな、うちはこれで失礼させてもらいます」
もう一度総司にむかって丁寧に頭をさげると鮮やかに笑い掛け、子楽は二つほど先にあった格子戸の家に入っていった。



総司はただ立ち尽くしたまま、その姿が消えるのを見ていた。

素足に履いた下駄の上にあった子楽の小さな踵(かかと)の白さだけが、白昼夢の名残のように瞼の裏に焼きついていた。








秋も半ばのこの頃になると、川を渡る風は水の上を滑って来るだけあって頬に冷たい。
屯所に戻ろうと一旦は足を向けたが、このまま帰る気にもならず、堀川に出てそのまま土手を下って川原に座り込むと、総司はやっと己の身体を戒めていたものから解放されたように、深く息を吐いた。


人を想う気持ちというものはそれが強ければ強い程、我知らず表に現れてしまうものだ。
だが子楽は自分の前で、少しもそれを隠そうとしなかった。

何気ない雑談の途中だったが、かつて一度だけ自分から土方に子楽の事を聞いたことがある。
その時土方は愛想の無い女だと、だから情に流されることも無く気が楽だと言った。
が、土方はそう思っていても子楽は違う。

総司は土方に伝えて欲しいと言った子楽の、縋るような瞳を思い出した。
子楽の表情は必死だった。
子楽は土方に心底惚れているのだ。





今朝道場で図らずも己の身体の限界を間のあたりにしてしまったことが、総司に上七軒まで足を運ばせた原因だった。


手にした竹刀が嘗てこのような感覚を知らない程に重かった。
その現実を打ち捨てるように竹刀を振り続けたが、すぐに息が上がって中途せざるを得なかった。
信じられないことだった。
驚きはすぐに恐怖に変わった。
遠からず自分のこの世の生は終わる。
おぼろげに承知してはいたことを、ひとつの形として喉元に突きつけられた思いだった。
だらしが無い、情けない、といくら自分を叱咤しても身体の震えるのを止められなかった。

それは初めて襲われた感情だった。

やがてこの壊れかけた身体は、己の意志など露ほども聞かぬようになるだろう。
刀を握ることも、歩くことも敵わぬようになり、息をすることすらままなくなる。
そうして自分はいつか土方について行くことができなくなる。

土方を追っている時はその苦しさから、死は時に甘美な安らぎをもたらすものとして自分を誘った。
それがどうだろう。
土方の心を得てその温もりを一度知ってしまった我が身は、これほど死ぬことに怯える。

否、死ぬことを恐怖しているのではない。
恐ろしいのは置いてゆかれることだ。
いつか土方が自分の元を去って行くことを思えば、今にも気がふれそうだった。

生きて置き去りにされることは、死ぬことよりも恐ろしかった。




広い道場に身じろぎもせずひとり佇んだまま、唇を血の滲む程にきつく噛み締め暫らくそうしていたが、尽きぬ畏怖の念に翻弄されてやがてその果てに、土方から一刻も早く離れなくてはならない自分を知って愕然とした。


土方の腕の温もりの中で安寧とした時を刻めば刻むほど、自分はいつか去り行く土方の背を黙って見送ることができなくなる。
土方に縋り、置いて行かないでくれと、泣いて懇願するだろう。

否、もっと激しいものが自分の中にある。
自分はきっと土方を行かせはしないだろう。
ひとり残されるくらいなら、いっそ土方を次の世に連れ去ろうと願うだろう。

それは将来(さき)の自分の心裡(こころうち)ではない。
すでに時折垣間見て顔を背けたくなる、己の裡(うち)にある醜い、それでいて紛れもない真実だ。

一時たりとも土方の傍らを離れたくはない。
だが今離れなければ、土方の重荷には必ずなるまいと決めた自分は、ただ足を引っ張るだけの人間になってしまう。



荒い息を繰り返しながら、茫然と立ち尽くしていた心の隙間に忍び込むように、又も子楽のことが思い出された。

子楽は土方を追いつづけることができる。
自分が見送らなければならない背を、子楽は追ってゆくことができる。
それは嫉妬だった。

一瞬過ぎったその思いを、総司は固く瞳を閉じて打ち消した。
顔も知らない人間に、醜穢(しゅうわい)な羨望をぶつける己の浅ましさに吐き気がしそうだった。
だがどれ否定しても、自分の中で子楽という存在はみるみる膨れ上がってゆく。

子楽という人を、自分の目で見て知りたいと思った。
それはまるで嵐のように激しく、総司の胸の裡にふって湧いた感情だった。




身体も思考も感情もありとあらゆるものが、自分の意思とは逆の方向に急速に流れてゆく。
その勢いに呑み込まれて自分が自分で無くなってゆくような錯覚を、両の腕で身体を抱(いだ)くようにして堪えた。

指から離れた竹刀が床に落ちて、広い道場に乾いた音が木霊(こだま)した。


それすらも意識の外の出来事のように、土方から離れなければならないと繰り返す自分と、子楽に妬心(としん)する自分と、相容れない二つの事柄だけが総司の裡を支配していた。








(あの人ならきっとどこまでも土方さんを追ってゆく・・)

川辺の対岸の柳に見るとも無く視線をやりながら、自分を見た先ほどの子楽の強い眼差しを思い出した。

おいてゆかれるのが苦しいからと、死ぬことよりも辛いからと、自ら離れようとしている自分とは何という違いだろう。
自分は己の弱さに負けたのだ。
自分はこれほどまでに情けない人間だったのだ。


土方の元から離れなければならない、それが選んだ決断だと先ほどから幾度も言い聞かせているのに、子楽の事を思い浮かべれば、どうしても言うことを聞かない自分がいる。
こんな己などいっそ斬り捨ててしまいたい衝動に駆られ、視線を上げて前を睨むようにして見据えた。


流れ行く川の水が、昨夜の雨で濁って時折渦を巻く。
その様が己の心に今あるものと酷く似ていると正視するに堪えがたく、まるで自分自身を打ち砕くかのように、総司はひとつ小石を拾って力の限りその中に投げつけた。









川原で長く居過ぎたと気付いて急いで戻ったつもりだったが、屯所に着いたときには昼をとおに過ぎていた。


「総司」

重い足取りで廊下を渡っているときに、背後から声を掛けられて振り向いた。
通り過ぎた室の障子が開いて藤堂が顔を出した。
昨夜は藤堂の八番隊が夜の巡察の当番だったから、今日は非番なのだろう。


「どこにふらふら行っていたのだ」
「ちょっと壬生まで・・」
人間というものは咄嗟の嘘にはついうろたえてしまうものらしい。
だがそのぎこちない返事を、藤堂は殊更気に止めてはいないようだった。

「土方さんが探していたぞ」
「土方さんが?」

何だろう、と言う総司の呟きに、
「行けばわかるだろうさ」
大して律儀とも思えない応えを返して、思案気に立ったままの総司を藤堂は促した。




副長室の障子は開け放たれていた。
土方は書き物をしていたらしい。
其処かしこに墨の跡も鮮やかな巻物が散らばっているのが、室に届く手前からも見えた。



「お前どこに行っていた」
立ち止まる前に、気配だけで感じた土方の方から先に声を掛けられた。
「出掛けに田坂さんの処に行くと言いましたが・・」
「田坂さんから使いが来た」
低く言って、まだ廊下に立ったままの総司に、初めて顔を向けた。

「嘘を言ってまで行くところだったのか」
「壬生の八木さんのところの子供達と約束があってそれで・・」
すみませんでしたと小さく詫びると、土方の前に端座して頭を下げた。

瞳を上げて見上げた先に、土方の呆れたような顔があった。


「田坂さんが暫らく来ることができないからと、薬を使いに者に託してくれた」
「田坂さん、どうかしたのですか?」
「良くは分からなかったが、使いの者の話では急に膳所に行くことになったそうだ」
「膳所・・?」
「田坂さんの養父が嘗て膳所藩の御典医をしていたと、その関係だと言っていた」
「どのくらいの間留守にするのかな」
「とりあえず、十日程と言っていたが・・・何だ文句ばかりを言っていた奴が気になるのか」
「いえ、その間は小言を言われずに済みそうだから」
「ばか。くだらない事を言っている暇があったら、さっさと風邪を治せ」
「風邪は治りました。明日から隊務に戻ります」
「誰が許した」
「近藤先生」

それも嘘だったが、総司は苦りきった土方の顔を見て声を立てて笑った。

その笑い声に面白くもなさそうに背を向けて、又書き物を始めた土方を、総司はまだ可笑しそうに見ていたが、やがて静かに笑みを消すと黙ってその後ろ姿を見つめていた。



「何だ?」
突然に物言わなくなった総司を不審に思ったのか、土方が振り向いた。

「土方さん・・・」

そのまま言葉を止めて、瞬きもせずに自分を見ている総司の黒曜石の深い色に似た瞳が、微かに揺れた。



「昨日、子楽さんが来たのでしょう?」
突然に何を言い出すのかと、その真意が分からず、土方は総司を黙って見ている。
「子楽さん、土方さんを尋ねて、ここまで来たのでしょう?」

非難するような口調ではなかった。
むしろどこか哀しげにも聞こえる柔らかい声だった。

「誰に聞いたかは知らないが、隠すつもりも無いから言うが、確かに子楽は俺を尋ねてきた。置屋の女将の用事が近くにあって、そのついでに寄ったと言った。大方顔を見せない客への機嫌とりだろう。ただそれだけだ」

本当にその程度にしか考えていないのだろう。
土方の言葉には、何かを隠している人間の後ろめたさは感じられなかった。


「・・・・けれど」
「何だ」
「けれど女の人の方から尋ねて来るというのは、余程の事がなければ出来ないのではないのでしょうか」
言い切って見上げた総司の瞳が真剣だった。


「お前が言っていることが分からん」
「分からないのは土方さんの方です」
「何が言いたい」
土方の声音に次第に苛立ちの色が混じって来た。

「子楽さん、土方さんの事を本当に好いているのに」
「残念だが俺にはそのつもりは無い。お前が一番分かっているはずだ」


総司が紡ぐ予期せぬ言葉の、その本当の心の裡が分からず土方の焦燥はつのる。
こんなにも激しく思いをぶつけても、目の前の想い人はまだ腕の中からすり抜けようとする。



「子楽さん、昨日尋ねてしまったことを、土方さんに謝っておいて欲しいと、そう言っていました」

少し声が震えたかもしれない。
それでもこれから告げなくてはならない事がある。





凝視する土方の双眸をまっすぐに受け止めて、今心の臓の響きだけが総司を支配した。




     





         裏文庫琥珀    玉響 参十参