玉 響 参十参 「お前は一体何を言いたいのだ」 土方の眸の中に訝しさと、それを凌ぐ苛立ちがある。 「子楽さん、ずっと土方さんの後を追ってゆく」 「何を言っているのか分からん」 「分かっているはずです」 いつにない激しい総司の口調に土方が沈黙した。 「子楽さんは土方さんのことを、本気で想っている。きっと会えないのが寂しくて、辛くて、苦しくて・・・。だからあんなにしてまで土方さんに会いに来たのです。それが分からない土方さんでは無い筈です」 途切らせてしまったら、もう二度と告げる事はできない。 自分を奮い立たせるようにしながら、総司は息つく島も無く、一気に言葉を繋げた。 「・・・確かに、お前が言うように、俺が思う以上に子楽は俺に惚れてくれているのかもしれない。 だが、それだからどうだと言うのだ。俺は子楽には惚れてはいない。俺が惚れているのはお前だけだ。 何故こんなことを今更言わせる」 語尾が荒くなった。 目の前の唯一無二の想い人は、捕まえようとすればその身を退かせる。 どんなに強く胸に抱きこんでも、わけも無くすり抜けて行ってしまうのではないかと錯覚させる。 次第に昂ぶって行く感情を土方は止めることができない。 「つまらぬ事を言っていないでもう行け。少し頭を冷やせ」 このままでは暴走してしまいそうな己を鎮めるように、再び文机に向かった。 「つまらない事ではありません。私は真剣な話をしているのです」 その土方の背に悲痛とも聞える総司の声が届いた。 「真剣?」 振り返った土方の射るような視線にあって、総司は瞬きもせず張り裂けんばかりに瞳を見開いている。 それはまるで一度瞼を閉じてしまえば脆く崩れてしまいそうな決意を、必死に支えているかのように土方には思えた。 「では聞く。お前は俺に子楽を引かせて一緒になれと言っているのか。お前は俺から離れると、そう言っているのか」 静かに語りかける声は、だがいつもよりもずっと低く、土方の怒りが直裁に伝わってくる。 それでも瞳を逸らすことは出来ない。 逸らせば負ける。 そして土方の重荷になるだけの結果が待っている。 縋りついて土方の行く手を邪魔する自分になることだけは許せない。 それだけは、何があっても許されない。 だから今は生身を裂くような心の痛みに呻こうが、自らを責苦の修羅に堕しても言わなければならない。 「土方さんがどう思おうと構わない。子楽さんの事もどうしようと何も言わない。けれど・・」 硬く張り詰めた面差しを蒼白にして、総司は何かを呑み込むようにして一瞬息を止めた。 「・・・けれど、私はもう土方さんに付いてゆくことはできない」 土方の面が驚愕して色を失くした。 流れていった刻(とき)はどれ程のものか分からない。 総司は凍りついたように表情を動かさない。 「何があった、何故そんなことを言い始めた」 やがて搾り出すように放った土方の声が、憤怒で震えた。 「何も無い。けれど、もうこんな風に人に隠れて土方さんを追うことが辛くて堪えられなくなっただけです。・・・・自分の意気地の無さに負けたのです」 「隠す必要など微塵も無いと、何度も言った筈だ」 掴みかからんばかりに、問い詰める土方の表情から次第に余裕が消えてゆく。 「そんなことは出来ない。こんな事、他の人が受け入れてくれるわけが無い。土方さんにきっと障りがある」 「出来なくなど無い。お前が一人でそう思っているだけだ。他人が受け入れる事に、何の価値がある。俺はそんなことに拘りはしない」 土方の双眸は信念を湛えて揺ぎ無い。 その力強さに一瞬縋りつきたくなった己の心を、総司は目を瞑り打ち捨てた。 「もう、嫌なのです。もう土方さんを追うことができないのです」 悲鳴のように言い切って、もう一度開いた瞳が、怒りも哀しみも、全ての感情を押し殺すようにして無言で青ざめた土方の端正な顔を映した。 瞬間、身体中の力が抜け、その場に崩れ伏しそうだった。 全身から血の気が引いて行き、宙に浮くような虚脱感に襲われた。 自分は今土方に向かって、もう二度とその名を愛しい者としては呼ばないと言ったのだ。 それでも今だけは、情けないこの自分を支えていなければならない。 先ほど告げた己の嘘を真実にする為に、最後まで演じきらなければならないのだ。 「・・・私が弱い人間だったのです」 笑ったつもりの顔が、きっと強張っている。 もうこれ以上は自分の心を隠せない。 総司は黙ったまま自分を凝視して動かない土方に小さく頭を下げると、よろめきそうな身体を叱咤して立ち上がった。 「総司っ」 室を出る前に、低く唸るような土方の声が背後で聞こえた。 それに耳をかさず、逃げるようにして飛び出した。 隅に重ねられた障子に映る陽射しの色が柔らかい。 秋の日の明るさが、今の土方には鬱陶しかった。 何故総司が急にあんなことを言い出したのか。 否、或いは一度は己の中で、いつかこういう日が来るのではないかと、覚悟しておいた事だったのかもしれない。 長すぎる歳月を経て互いに想いを通じ合えてから、まだほんの数える程の月日しかたってはいない。 総司への想いに気が付いた時から、その姿を追い始めたのは自分の方だ。 だが総司は逆だった。 暫らくはその幸いに浸っていたが、それも束の間のことで、次第にそれにすら怯(おび)え始めた。 総司は倖せに慣れていない。 それだからこそやっと掴んだ温もりを、今度はそれを無くす日が来ることを恐れる。 縋る腕を差し出しても、それに触れることを怯(ひる)む。 だが与えようとする幸せには臆病なくせに、与える為には何の躊躇もなくその身を投げ出す程に総司の自分への想いは激しい。 そのひたむきさを、土方は時に危惧する。 総司を自分から奪って行くものを許さぬと心に誓いながら、その実それを現実にするものは、あるいは総司自信なのではないかと、土方はただそれを恐れる。 総司が口にしたあの言葉は、自分への切ない想いが言わせしめた、虚り以外の何ものでもない。 これほどまでに心かき乱されて、憤りはすでにその深さを測りようも無い。 自分からお前を奪ってゆくものは、例えそれがお前自信であっても決して許しはしない、胸倉を掴まえてそう恫喝してやりたい衝動をあの時自分は抑えるのがやっとだった。 総司は自分の想いの丈を疑ってはいないだろう。 否、知っているからこそあんな虚言を吐いた。 今総司は己が離れることが為になると、頑なに信じ込んでいる。 何が総司にあったのか。 何が総司をあそこまで追い詰めたのか。 だがそれを決して語ることをしないだろう。 いつか時をかけて心を解きほぐしてやらねば分からぬことだろう。 総司はあの黒曜石の深い色に似た瞳に又も何かを隠し、ひとり苦しんでいる。 愚かな奴だと思う。 何故俺を信じないと、罵倒してやりたい。 だがそれよりも遥かに、そんな総司を哀れと思う。 押さえきれない愛しさに胸が詰まる。 総司への想いを止める術を、自分はもう知らない。 知る必要もなかった。 土方はひとつ遣る瀬無い溜息をついた。 小さな中庭に手入れ良く剪定された潅木の陰が、いつの間にか地に長く伸びていた。 先ほどから総司は室の中央に端座して身じろぎもしない。 どの位の時が過ぎたのだろう。 視線をぼんやりと締め切った白い障子に移してみた。 映る色はもう茜に染まりつつある。 先ほどまで聞こえていた道場からの甲高い掛け声ももう聞こえない。 土方はあれからどうしているのだろう。 そんな事を思った自分を自嘲して小さく笑った。 もう自分は土方のことを考えてはならないのだ。 これからは傍らにあっても、土方への想いをひとつの言葉にもせず、露程も表情を変えず、そこにいなくてはならないのだ。 例え土方が子楽を引かせて娶っても、否、子楽以外の誰かに想いをよせても自分はその事実を眉ひとつ動かさずに受け入れなければならないのだ。 それが決めた事なのだ。 「・・・そんなに長い間じゃない」 つい零れてしまった言い訳は、これから始まる己の心の内の葛藤と辛苦への覚悟だったのかもしれない。 室にひんやりとした空気が入って来た。 いつのまにか日が沈みかけているらしい。 立ち上がり、障子を開けてみた。 秋の日の釣瓶落としそのものに、すでに辺りはほんのり薄い闇に覆われ始めている。 近藤はもう戻ってきているのだろうか。 今は誰と顔を会わせるのも億劫だったが、とりあえず近藤には隊務への復帰の許可を得なければならない。 身体も心も酷く疲れて、まるで水を吸った綿のように重い。 それでも気力の萎える己を励まして、総司は室を出た。 西本願寺の一角を間借りしているとはいえ、最近では幕府筋の来客も多い局長室はそれなりの風格を保ち、二間続きの室の欄間には凝った細工が施されている。 その室の少し前で総司は立ち止まった。 誰か先客がいるらしい。 夕餉の前のこの時刻にいるというのは、外からの客とも思えない。 足を止めたまま、そこから動けなかったのは、中にいる人物が土方であることを懸念したからだ。 中で人が立ち上がる気配がした。 咄嗟に身を隠そうとするより先に、音もなく障子が開かれた。 監察方の山崎烝だった。 廊下の薄暗がりに佇んでいる総司を、山崎は一瞬目を細めて訝しげに見たが、すぐに穏やかな色を浮かべた。 「沖田さん、もしかしたらずっとそこでお待ちでしたか」 「いえ、今来たところです」 山崎の鋭い勘を誤魔化すことはできないだろうと思いながらも、総司は敢えて本当ではないことを言って笑いかけた。 「そうですか。それならばよろしいのですが。私がつまらぬ話で長居をしてしまった為に、沖田さんが遠慮をなさっていたと思えば申し訳の無いことをしました」 山崎は心底そう思っているのだろう。 総司の嘘に気付いて知らぬふりをしてくれながらも、声に真実申し訳無さそうな含みがあった。 「外で何をしている。早く入って来い」 中から近藤の太い声がした。 それではと、丁寧に頭を下げて去ってゆく山崎の背を暫し見送って、総司はやっと室の中に足を踏み入れた。 「どうした」 迎えてくれたのは近藤の笑い顔だった。顎の張った、どちらかと言えば取っ付き難い、厳(いかめ)しさを感じさせる造りだが、笑うと方頬だけに似つかわしくない笑窪ができる。 そんな時の近藤は人の良い江戸の町道場主だった頃の人柄そのものだ。 その笑い顔に今日初めて総司は、心和むものを覚えた。 「そんな溜息をつくような話なのか」 浮かべた笑みを消さず、それでも近藤はめったに見せない総司の憂い顔に少しばかり眉根を寄せた。 「違います」 「では何だ?」 「明日から隊務に戻ります。その報告をしに来ただけです」 「戻るって、お前。そんなに無理をしなくてもいい」 「もう大丈夫です。六日も休んでしまったから」 「新撰組はそこまで人手不足はしておらんぞ」 「では皆さんの補佐に廻らせて頂きます」 どうしたものかと思案したところで、屈託なく嬉しそうに笑う顔を前にすれば、近藤もそれ以上諌(いさ)める言葉も出てこない。 「歳には言ってあるのか」 「近藤先生に言えばそれでいいでしょう?」 「歳と何かあったのか?」 「何もありません」 不審気に尋ねる近藤に、総司は短く応えただけだった。 そんな総司の様子を、どうにもおかしいと思ってはみたが、それを言葉には出さなかった。 確かに総司は何かを隠している。 一瞬揺らいだ瞳の色を、流石に近藤は見逃さなかった。 だが総司がこういう風に胸の裡を閉ざしてしまうと、それ以上の詮索をすることは海に落ちた砂の一粒を探すよりも難しい。 この若者が稀に見せる頑なさを、まだ幼少の頃から手元において育て承知しているからこそ、近藤は諦めの息をついた。 あとで土方に直接聞いてみる他はなかろう。 その土方の顔を脳裏に浮かばせたとき、ふいに昨日尋ねて来たという女のことが思い出された。 「そういえば、歳に昨日女が尋ねてきたそうだな。何でも歳はその女を引かせるのだと評判になっているが」 それこそ瞬く間に広がった屯所の中での話題を、近藤にしてみればただ世間話のように口にしただけだった。 が、ふいをつかれたように総司の顔から笑みが消えた。 「どうした?」 「何でもありません」 笑ったつもりの顔が途中で強張るのが分かった。 「やはりまだ無理なのではないのか?」 近藤の懸念は子楽の事を聞いた自分の変化よりも、病み上がりの身体にあったようだ。 「大丈夫です」 「それならば良いが。あまり無理をするなよ」 それにはどうにか、いつものように笑って頷くことができた。 「・・・近藤先生」 「何だ?」 遠慮がちに問い掛けた声に、近藤が何の不審も無く応えた。 「どうした。何か言いたいことがあったのだろう」 ふいに寡黙になった総司に、今度は近藤が心配げに声をかけた。 それに促されるように、思い切って顔を上げて近藤を見た。 「土方さんはやはり所帯を持った方がいいのかな・・」 近藤が思わず顔を見てしまった程、酷く寂しそうな声音だった。 が、当の本人は言ってしまってから顔を上げられなくなった。 きっと近藤は驚いて面食らっているに違いない。 父親のような存在の近藤に甘えが出て、つい堪えがたい寂寥感に荒れる心をぶつけてしまった己を恥じた。 「総司は歳が所帯を持つのが寂しいか?」 「・・・そんなこと」 「寂しいと顔に書いてあるぞ」 慰めるとも思えるように、近藤の声が優しかった。 総司は土方のことを、どういう訳だか幼少の頃から他の誰よりも慕っていた。 その土方が嫁を娶れば、置いてけぼりにされるような感覚に陥るのだろう、近藤はその程度の認識しかしていない。 「まあ、こんな仕事を預かっている身だ。嫁を娶って所帯を持ち人並みな生活を送るというのは難しいかもしれん。だが、休息所のひとつふたつ持つということは、歳にとっても息抜きになり、返って良いことかもしれんな」 その言葉に他意はなかった。 ただ多忙を極める新撰組副長としての土方の毎日に、すこしでも安堵の息をつかせてやれる場所を与えてやりたいという、近藤なりの気遣いだった。 それでも休息所を持つという近藤の言葉は、まだ露程もできてはいない己の覚悟を嘲(あざけ)るように、総司にひとつの具象として迫った。 土方が自分から離れて誰かと休息所を持つ。 胸が張り裂けそうだった。 「冗談でも噂でもいいが、その歳を尋ねてきた女、名は何といったかな」 近藤の声がひどく遠くで聞こえた。 裏文庫琥珀 玉響 参十四 |